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 天若陽暈の心は揺らいでいた。視界に広がる凄惨な事態を前にしてもなお。


 零士から下された非情な指令──ランペイジ状態の受刑者の掃討。

 視認できるだけでも百人以上いる。いくらランペイジ状態にあるとはいえ、彼ら全員の息の根を止めるというのは、あまりにも惨い。

 そんなこと、許されていいはずがない。それが正義というなら、もはや正義がなんなのか分からなくなるというもの。


 以前、ランペイジは脳の制限解除率が限りなく100%に近づくと零士から聞いた。仮に筋力がそれほど扱えたとしても、触式を持つ陽暈にとって脅威にはなり得ない。

 つまり殺すことは難しいことではない。理性を失って暴れるとなると、触式のカラクリを理解して対策されることもないだろう。

 だがしかし、殺せるからと言って、そう簡単に実行できる話でもないのだ。


 清隆は言っていた。如何なる理由があれど人を殺めることは悪であると。

 もしここで多くの受刑者の命を奪った自分に、正義を掲げる権利などあるのだろうか。ヴェルマとやらと同じなのではなかろうか。


 様々な葛藤が脳内で駆け巡る中、ついに決断の時来る──。


「ぐううぅぅ……」


 紫のオーラを纏い、真っ赤に充血させた目から血の涙を流す男が前に立ちはだかった。そして運が良いのか悪いのか、その顔に見覚えがあった。


「嘘だろ……」


 痛んだ金髪と無数のピアス。三日ほど前に運動場で再会した、現金輸送車を強奪し、逮捕された男だったのだ。


「おいあんた! 俺のこと、分かるか!?」


「ぐぅぉぉおおおおああああ!」


 まるで獣のように、雄叫びを上げながら男が迫り来る──時の遅延が起き、難なく両腕を掴み上げた。


「くっそ! おい落ち着け!」


「ぐわぁぁああうう!」


 男は剥き出した歯で、ガチガチと陽暈を食い千切ろうとする仕草を見せた。

 獣でもない。もはやゾンビ。映画でよく見る、人肉を食らおうと必死なゾンビだ。


「やめてくれよ……! 社会復帰すんだろお! 目覚ませよ! なあ……!」


 陽暈の呼びかけも虚しく、強靭な力で押し飛ばされてしまった。


「くっ……!」


 後転しながら受け身を取り、男との間合いを空けた。やはり力比べでは敵いそうにない。さすがランペイジ、恐るべし。


「だ……だずげ…………」


 いつしか跪いていた男は、頭を掻きむしりながら呻き声をこぼした。


「なに!? なんつった!?」


「だず…………たすけ……て…………」


 助けて──確かにそう言った。

 そんな男の目には、桃色の滴が溢れ出していた。緋色の血液が、透き通った涙で薄まっているのだと、陽暈はすぐに理解した。

 涙を流している人がいれば、必ず手を差しのべる。それが天若家の家訓。


「助ける! 絶対助ける! だから負けるな! 頼む!」


 運動場で会った時の男との会話が頭をよぎった。


 ──俺、本当に人生やり直します。

 彼はそう言っていた。


 刑務所の存在意義とは、罪を犯した者が法の下でその報いを受けると同時に、社会復帰を見据えた更生期間を担うことにある。

 人間誰しも、過ちを犯す。罪を償い、悔い改めることもまた、人間だからこそできる。

 彼は自分の犯した罪を受け止め、しっかりと償おうとしていた。そして心を入れ替え、社会復帰を目指していた。


 しかしこのままでは社会復帰どころか、人を殺めてしまうかもしれない。そうなればもう、後戻りはできなくなる。


「ぐぅぅ…………」


 男は再び立ち上がり、陽暈に対して睨みを利かせた。


「待て! 落ち着け!」


 陽暈の声は、またもや届かない。両手を前に突き出した男が迫る。

 時の遅延を経て、今度は片腕を掴み、地面に伏せさせた。男の背に膝をつき、固定。


「頼む……! やめてくれ! 目を覚ましてくれよ!」


「うらぁぁあああうううううぐうううぅ゛!」


 やはり意思疎通は困難。

 どうすればいい。殺すのか。

 受刑者がランペイジ状態になっている原因すら判明していないまま、殺してしまっていいものなのか。彼の言葉を聞くこともなく、殺すのか。


 ランペイジの条件は、瀕死状態であることだと聞いたが、男に目立った傷はない。ブラックドッグないし、ヴェルマが、なんらかの形で仕組んだことなのは間違いない。

 そう考えると、腸が煮えくり返るほど怒りが溢れ出してきた。やはりあの男だけは、許してはならないのだと、再認識させられた。


 思案していると、またもや振りほどかれ、男が陽暈の手からするりと抜けだした。そして敵わないと理解したのか、男は陽暈に背を向け、塀の外へ足を向けた。


「あ……! 待てお前!」


 やはり力が強い。いや、心のどこかで彼を逃がしてやろうと、押さえる力が緩んだのかもしれない。

 追うべきか。追って、息の根を止めるべきか。


 もう分からない。

 自分がどうすべきなのか、分からない。


 そんな葛藤の渦中、駆ける男の進行方向に、ランドセルを背負った少女が認められた。近くの小学校に通う生徒なのだろう。


「ダメだ…………やめろ……」


 いまさらながら、柳生の忠告が脳裏にちらついた。

 ──父母のように寛大な心で慈しみを持って殺し、それ以上過ちを繰り返させないこと。


 まさにいま、この瞬間だ。彼に過ちを繰り返させないためにも、自分が慈しみを持って殺すしかない。そうすべきなのだ。


 目眩がするほどの頭痛に襲われながらも、陽暈は立ち上がって駆け出した。しかし男の走力は常軌を逸しており、間に合いそうにない。

 いや、これも中途半端な覚悟からくるものなのかもしれない。このまま追いかけて殺すべきか、もう目を瞑るべきか、決断できていないため、無意識下で体にブレーキがかかっているやもしれぬ。


 やがて、走り去る男が女児の目と鼻の先まで迫った。


「やめてくれ……」


 切なる思いをこぼした直後──男の頭部が、まるで風船のように破裂し、中の具を斜め左下にまき散らした。

 勢いがついていた体は機能停止し、慣性の法則に従って前のめりにスライディングした後、ピクリとも動かなくなった。

 幸い、ほどよく進行方向が左にズレたため、少女に衝突することはなかった。だか霧散した血を浴び、恐怖に苛まれた彼女は、悲鳴を上げながら走り去っていった。


 陽暈は徐々に足の回転を緩め、間もなくその場で膝をついた。


「あぁ……あぁ……あぁァァアアアア゛……!」


 地面に伏せ、拳を叩きつけた。


「結局俺はあァ゛ッ! いったいなにがしてぇんだよ!」


 乾いた音が幾度も響いた。己を打ちのめすように、繰り返し拳を振り下ろす。


「クソッ! 半端モンが! くそッ! クズッ!」


 そうでもしなければ、心臓が破裂しそうだった。

 見知らぬ少女の命さえ、放棄しようしてしまった自分には、もはや存在意義はない。

 こうなってしまっては、陽暈にはもう軸がない。なにをすれば良いのかすら思い至らない。


「はぁ……もう疲れた…………」


 拳は赤く濡れ、皮膚は裂けて血が滴っていたが、陽暈は構わずぐったりと横たわった。全身が鉛のように重く、何もかもがどうでもよくなっていた。


「俺には…………」


 ヒーローに憧れていた。

 漫画の中のパイプマンに、あの理不尽に抗う姿に。

 けれど現実は違った。あれは絵空事だ。虚構の偶像だ。現実の闇は、正義の名など容易く食い潰してしまう。


 力があると勘違いしていた。自分は特別な存在だと。だが──そんなものはどこにもなかった。

 自分はただの人間だった。何ひとつ抜きん出たものなどない、哀れな凡人だった。


 ひとしきり、うずくまっていると、すぐ傍で誰かの足音が聞こえた。おそらく受刑者の一人だろう。

 殺すなら殺せばいい。痛みも、恐怖も、もう残っていなかった。ただ、終わりが来ることに、どこか安堵すら感じていた。

 そんな無責任な思いが胸をよぎった瞬間──聞き馴染みのある声が聞こえた。


「どうしたのかな? 陽暈くん」


 倒れ込んだまま、首だけをぎこちなく回す──視界の端に立っていたのは、零士だった。


 彼の顔や衣服には、あちこちに赤が飛び散っていた。まるで派手な絵具を無邪気に塗りたくった子供のように。そんな錯覚すら覚えるほど、どこか非現実的で、滑稽なまでに色彩が浮いていた。

 だがそれは、限界を超えた陽暈の脳が創り出した、甘くて安っぽい幻想にすぎなかった。

 現実はもっと冷たく、もっと重く、そして──遥かに凄惨だった。


「零士さん……俺は──」


 吹き消えそうな声で弁明しようとしたその時、胸ぐらが掴まれ、グワンッと視界が揺れる──零士に軽々と体が持ち上げられた。

 視界下部に認められた零士は、首を傾げていた。

 その表情に戸惑う暇もなく、次の瞬間──信じがたい加速で陽暈の体は放り投げられた。

 重力も質量も無視するかのような速度で、宙を裂く。

 思考が追いつくより先に、背中が収容棟の壁に激突した。


 鈍い衝撃音。石壁に骨がぶつかる嫌な手応え。肺が空になり、呼吸が一瞬、止まった。


「うぐっはっ……」


 ボロ雑巾のように地面に転がり込み、うつ伏せになった陽暈。しかし間髪いれずに、今度は髪を鷲掴みにされ、首がもげるほど引き上げられた。


「零士さん……なんなんすか…………」


 打ちつけた後頭部の痛みに耐えながらも、瞼を押し開くと、パチンッという音が鳴り、右頬に鋭い痛みが走った。

 いつのまにか青いオーラが消えており、時の遅延が起きなかったせいか、零士にぶたれたのだと気づくのに時間がかかった。


「戦わないなら死ね。いますぐ。受刑者に殺されたってことで処理してやるよ」


 そう言った零士の目は、狂気じみていた。いつもの彼からは想像もできない様相と語気だった。


 陽暈の喉がひくつく。声を出そうとしても、何ひとつ言葉にならなかった。


「いま、受刑者を殺すことが正解か不正解かは否が応でも後で分かる。ただ、現実から目を背けるお前の回答用紙は白紙同然。だったらいますぐ自害しろ。目障りなんだよ」


 零士はそう言い放つと、陽暈の頭を乱暴に放り捨てた。そして軽蔑と嫌悪の色を浮かべた目で見下ろしながら続ける。


「司令から忠告されたらしいな。人を殺す覚悟を持てってよ。いつまでも子供扱いしてもらえると思うなよ。どうせお前が逃がしても、うちには優秀な狙撃手がいるから無駄だしな。とにかくすぐに決めろ。殺したくないなら死ね。死にたくないなら殺せ」


 冷たい眼差しと共に、零士は踵を返し、そのまま振り向くことなく去っていった。


 その背を見送りながら、陽暈は呻くように呟いた。


「なんなんだよ……」


 これまで犯罪者を殺そうと思い及んだことはある。ヴェルマを前にした時は、それ以外頭になかった。

 しかしその時は、慈しむことはできそうになかった。圧倒的に憎しみの念が強すぎたからだ。


 だがいま、目の前の受刑者に対してはどうだろう。慈しみどころか、助けてやれないか思案しているほどだ。

 それは愛を持っていると言える

 それなら、あとは──。


「殺すだけ……か」


 零士から受けた脅迫の刺激により、陽暈の脳を覆っていた雲が吹き飛び、空が澄み渡ってゆく。


「分かったよ。俺の役目ってことだろ。殺ってやるよ……」


 全身に力が戻る。それどころか、身体の芯から何かが湧き出すように、力が満ちていく。


 陽暈は、遠くにいるはずの祖父へと、小さく謝った。


「じいちゃん……ごめん」


 迷いを捨てた。甘えも、祈りも、未練も。淡い希望ごと、心に棲んでいた全てを切り捨てて──ただ、前だけを見据えた。

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