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陽暈が懐かしさすら覚える教室の扉をくぐった瞬間、佐藤のいつもの勢いが正面から飛んできた。
「おぉ陽暈! 久しぶりだな!」
「佐藤! 相変わらずワッツだなお前!」
「またそれかよ。流行んねえっつの。つかその顔のやつなに!?」
佐藤は、陽暈の顔を指差して目を丸くする。咄嗟に言葉が出ない陽暈は、戸惑いながら問い返した。
「顔? 何が?」
「なんか光ってんぞ!? つかそこでワッツは使わないのかよ」
訳が分からず、陽暈は半信半疑でポケットからスマートフォンを取り出し、インカメラを起動した。画面に映ったのは、青く輝く神秘的な電紋。
「なんこれ!? めちゃくちゃかっけえ!」
ようやく自分の異変に気づいた陽暈は、思わず声を弾ませる。今朝、登校途中で妙に視線を感じた理由が、ようやく腑に落ちた。
「ははっ。よく分からんが元気そうだな」
いつの間にか現れた山本が、鞄を机横のフックに引っかけながら微笑んだ。
「ったりめぇよ! てか悪かったな、あんまり連絡できなくてよ」
「全然いいよ。そもそもお前はいつも連絡返さねえし」
そこへ、教室の空気を切り裂くように高橋が滑り込んできた。
「天若くん! 大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。むしろ十日も休めたんだぜ? ラッキーだったよ」
「よかった~。あたしすっごい心配してたんだあ」
高橋のぶりっ子ぶりは、変わらずだった。しかし、陽暈の心は揺らがない。
「そっかそっか! あんがと!」
その後も他クラスの友人、部活動の先輩や後輩たちが次々に声をかけてきた。
陽暈は、張りつめた笑顔と弾んだ声で応じ続ける。胸の奥に静かに沈む痛みを隠すために、ほんの少し背伸びをしながら。
長く部屋にこもっていたせいか、体力の衰えを実感する。精神も、まだ回復途上にあるらしい。
喧騒から離れようと、校舎裏の人影まばらなベンチに腰を下ろし、深く息を吐いた。
胸の奥にひたひたと忍び寄るのは、母と弟を喪った現実だった。それが心を喰い破ろうとする寸前、先ほど交わした幾つもの笑顔を思い出し、かろうじて気持ちの均衡を保つ。
ほんのわずかでも気を緩めれば、あの夜の光景がまぶたに焼きつき、心の空が曇り始める。
ふと清隆の言葉がよぎる──「お前さんに必要なのは時間じゃ」と。彼の言う通り癒えるには、きっと間が要るのだ。
そんな情緒が渦を巻くなか、思いがけない人物が姿を現した。
「天若くん」
「どぅおわあ! ビックリした!」
眼鏡の奥から伏し目がちに覗く瞳。前髪が頬にかかり、折れ曲がった背は、老婆のような影を描いていた。
「朝顔じゃん。久しぶりだな」
「うん……」
どこか戸惑いを孕んだ仕草で、彼女はそっと隣に腰を下ろした。
自分から話しかけてきたくせに、今はまるで言葉を探すように黙り込んでいる月乃。
気まずくなった陽暈は、必死に引き出しを漁り、話題を掘り出そうと試みたところ、ふと彼女への恩を思い出した。
「あ! そういえば、いつも配布物を届けてくれてたのってお前なんだろ? さっき佐藤に聞いた」
「え……あ、うん。天若くんの引っ越し先が私の家の近くだって先生に言われて……」
斜め上に目を泳がせながら、とぼけたような笑みを浮かべる。だがその表情は、どこか居心地の悪さを隠しきれていない。
「そうなのか。ありがとな。じいちゃん、誰が届けてくれたのか全然教えてくんなくてさ」
「あぁ……それは私が言わないようにお願いしてたから……」
「それはワッツだな。どうしてそんなこと言ったんだ?」
「え、私が家に来るの嫌かなって……」
彼女は膝の上に両手を揃え、小さく身を縮めるように答えた。
「なんそれ」
「だって私……パッとしないし。天若くんみたいな人気者とは住む世界が違うっていうか……」
「バカか。ヒーローだって一人の人間だろ? つーことは住む世界も同じ。だからそんなこと気にすんな」
「……うん。ありがと」
短い沈黙が、ふたりの間に降りた。ぎこちない沈黙ではない。だがどこか、くすぐったさを伴う間だった。
陽暈は「ふぃー」と場を繋ぐように声を発した。
そうでもしなければ、家族を失った悲しみに沈んでいると気を遣わせてしまう──無意識にそう恐れていたのだ。
励ましの言葉は確かにありがたい。だが、それが空気を曇らせることを、何よりも避けたかった。だからこそ今日一日、心に無理やり火を灯し、朝からずっと、明るさの仮面を振りまいてきたのだ。
「無理してるよね」
不意を突くようなその声に、陽暈の心は軽く軋む。誰にも見抜かれなかった仮面──その薄い硝子を、彼女は指先ひとつで難なく破ってみせた。
「え、そんなことないよ」
散り散りになった硝子の破片を大至急、拾い上げ、咄嗟に口をついて出た否定。
だが、声の裏側でかすかに震えた眉の動きが、彼自身にとっても、その嘘がどれほど稚拙なものかを物語っていた。
「さっき、ヒーローも一人の人間だって、天若くん言ったよね。だったらヒーローが助けを求めることもあっていいんじゃないかな」
柔らかく、けれど一切の迷いなく届いたその言葉は、心の奥底に差し込んでくる陽光のようだった。逃げ場のないところまで照らされるのは、怖くもあり、どこか──ほっとするものでもある。
いつも人の目を見ることすらできない彼女が、今は一歩も視線を逸らさない。それどころか、ずいぶん饒舌に話している。その姿に、陽暈は動揺を隠せなかった。
「人がどうして涙を流すのか分かってないらしいんだけど、私思うの」
返答を探していた陽暈の心に、やさしく、トドメが刺される。
「きっと誰かに助けてほしい時に涙を流すんだよ。だから天若くんも、助けてほしい時は泣けばいいと、思う……」
その眼差し。その声色。その語り口。
その全てが、懐かしくてたまらなかった。幼い頃、母の腕に包まれながら聞いた──忘れようにも忘れられない、大切な言葉だった。
抱擁されたような錯覚。涙を堪える暇すら与えられなかった。
「え、あ、ごめんなさい! 私余計なこと言ったよね!」
彼女は慌ててポケットをまさぐり、ポケットティッシュを差し出してきた。その姿がどこまでも不器用で、どこまでも優しい。
陽暈は、そこでようやく自分が泣いていることに気づいた。ティッシュは受け取らず、慌てて立ち上がり、背を向けて数歩距離を取る。
「ごめんごめん大丈夫ちょっと乾燥しただけまじで大丈夫」
矢継ぎ早に弁明しつつ、両方の手のひらを頬に押しつけ、化粧水を馴染ませるように上下に擦る。そしてブレザーで手を拭き上げ、何事もなかったように、彼女の隣に腰を下ろした。
「ちょっと楽になった」
「そ、そっか。よかった。じゃ、私もう行くね」
「お、おう」
目元を濡らしたまま、それでも口角を上げて陽暈は応えた。たとえ心を読まれていたとしても──いや、読まれているからこそ、せめて笑顔だけは残しておきたかった。
静かに立ち上がった月乃は、自信なさげに猫背のままは去っていった。角を曲がるまで、何度かこちらを振り返る素振りが、いつもの陰キャっぷりで、どういうわけか安心できた。
彼女の姿が見えなくなったあと、視界の端に白が認められた。目線を下ろす。
月乃が浅く腰かけていた場所に、そっとポケットティッシュが置かれていた。
瞬間、涙袋に築かれた堤防が決壊した。
理由は分からない。ただ、涙があふれて止まらなかった。
母と弟を失った悲しみか。仲間たちの温もりか。月乃が持つ、包み込むような優しさか。それとも、その全てか。




