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陽暈は、零士をはじめとする捜査官たちと共に、リング頭上の天井裏へ退避していた。
「さて、どうするかな……」
零士が腕を組み、珍しく難しい顔をしている。彼が思案を巡らせている所以は、言うまでもない。眼下に押し寄せた子供たちを、殺さずにどう切り抜けるか。それだけだ。
リングに雪崩れ込んだ子供たちは、飢えた鯉のように天井を見上げ、口々に叫んでいる。哀鳴ともつかぬ声が空気を震わせ、こちらの躊躇を刺すように響く。
タイマーは冷ややかに、淡々と数字を削り続けている。悠長に構えていられる時間など、もうどこにもなかった。
「あの……どうして、こんなことを……?」
おずおずとした桃子の声が響いた。
陽暈がここまで抱えて連れてきた少女──だが、高所恐怖症なのか、それとも先ほどまでの殺し合いの余韻か、肩をすくめ、声も体も小刻みに震えている。ちなみに陽暈も、同じく高所が苦手で、内心は心臓が暴れるように脈打っていた。
「きみ、成瀬桃子ちゃんだね?」
怯えていないふりをして、陽暈はそっと桃子の肩に手を置く。できるだけ穏やかな目で、真っすぐに彼女の視線を受け止めた。
桃子は驚いたように眉をひそめる。
「どうして、わたしの名前を……」
「さっき外で、きみのお母さんを見たんだ。今もきみを探してる。俺たちが助け出すから、大丈夫。心配いらない」
その言葉に、桃子の瞳が揺れた。母の存在が、彼女の中で張りつめていたものをほぐしたのだろう。目元にじわりと滴が滲んでいく。
「……お母さんが……」
かすかに震える声。その一言が、いま彼女を現実へと引き戻しつつあった。
「そんなの無理だ……!」
碧が背負ってきたスハイルが、突如として立ち上がった。不安定な柱の上にもかかわらず、その足取りに怯えはない。どうやら高所の恐怖とは無縁らしい。羨ましい。
隣にしゃがんでいた碧が、そっとスハイルの背に手を添える。いつもだらしないが、彼は意外にも気遣いのできる男である。
「まぁまぁ。お前、名前は何て言うんだ?」
「……智史」
碧の問いに、不服そうに答えた少年。
「智史、どうして無理だと思う?」
「ここから出る方法なんてないからだ!」
言い放つような声に、碧は一拍置いて言葉を返す。
「それは探してみないと──」
「ないよ!」
鋭く声を重ねて、智史は言葉を叩きつけた。だがすぐに、自分でも強く出すぎたと感じたのか、声を潜めながら言葉を継ぐ。
「あんたたちは多分すげぇ強いんだと思う。こんな高いとこまでジャンプできるなんて、人とは思えないし。でも本当に出入り口はあの鉄の扉しかない。俺たちがいた地下にはもうガスが充満してるし……」
智史は、擦り切れた服の裾を両手でギュッと握り締める。彼の言葉には、希望を拒むための悲観ではなく、すでに現実を見てしまった者の重みがあった。
「二人はどうしてここに?」
陽暈は、何気なく事の経緯を尋ねた。
「私は学校の帰りに無理やり連れてこられたの……」
「俺は……親に売られたんだ……」
二人ともうなだれ、深く息を吐いた。拉致と人身売買。少年少女の様相を見れば、あまり思い出したくない記憶だということが容易く想像できる。
自分で聞いておいてなんだが、陽暈はそれに極力触れず、次のクエスチョンを投げかける。
「そうなんだ……レフテリアで十連勝したら自由になれるって本当なのか?」
桃子と智史は目を見交わし、双方首を傾けた。
「わたしには分かんない……」
「俺も。実際に十連勝してここから出たやつを知ってるけど、自由になれたのかまでは知らない」
「それなら、どうしてきみたちは闘うんだ?」
陽暈が深く考えずに投じたその問いに、二人の表情は極度に強張った。そして今にも涙が溢れ返りそうな桃子が眉を寄せながらも打ち明ける。
「ちゃんと闘わないと、紐みたいなので叩かれたり、体に熱い熱いハンコを押されたり、いろいろお仕置きされちゃうの……」
陽暈には、彼女の言いたいことが否が応でも理解できた。そして同時に、やるせない気持ちで一杯になった。
年端も行かない少年少女たちが、人と殺し合うだけでも十分なストレス。しかしそれにくわえて、拷問まで受けているという。
そのようなことが現実で起きているという事実を、陽暈には信じられなかった。いや、信じたくなかった。
だが目の前の二人から漏れ出す悲痛の声を聞いて、陽暈は確信した。全員ここから解放することこそ、いまの自分に与えられた役目なのだと。
場が静まり返ったその矢先、下に群れる子供の中の一人が声を上げた。
「桃子ぉお! 智史ぃいい!」
声の主は、体格がひときわ大きいリーダー格の少年だった。顔や体の至るところに傷があるが、他の子供たちに比べれば明らかに強そうだ。
「そいつらを突き落とせ!」
陽暈は再び、胸が締めつけられるような痛みを感じていた。
少年の言葉には、微塵の迷いも見えない。それはつまり、殺すことに抵抗がないということだ。自分が生きるために人を殺してきた結果、殺人というおぞましい行為に順化してしまっているのだ。そのような価値観をこの子たちに持たせた連中に対し、陽暈は無性に腹が立った。
「……もうわたしたちをみんなころ──」
「よぉーっし! 決めた!」
なにかを決断した様子の零士は、桃子の言葉をかき消した。誰もが彼女の言わんとしたことを察していたが、それ以上は聞かないし、聞きたくない。
零士は柱を一つ飛び越えて、桃子の隣に着地。
「ももちゃん。手を貸してくれないかな?」
「え……?」
「きみに説得してほしいんだ。下にいる子たちを」
「説得…………?」
「俺らは一切手を出さない。代わりに、脱出する方法を探すのに協力してほしいってね」
「でも……みんなあなたたちを殺す気だよ……」
「そうだ。みんな誰もあんたらのことなんか信用しない!」
智史も、桃子に同調した。しかし零士の意思は揺るがない様子。
「そうかな? 少なくともきみたちは信用してくれてるのでは?」
零士の優しい声に、二人とも異議を唱える気配はない。
当然だ。もし信用していないのであれば、今すぐにでも突き落としているはずだ。今もなお、対話をしている時点で答えは出ているのだ。
「でも……どうやって説得するの……?」
「それはね、ももちゃんの涙の演説にかかってるかな」
「そんなの私には──」
「できるよ」
陽暈は食い気味に桃子の弱気を振り払った。そして言葉を紡ぐ。
「桃子ちゃん。さっきリングで死にたくないって言いながら、抵抗しなかったよな。自分の命を捨てて智史くんを生かそうとしたんだろ? それができるのは、心の底から優しくて強い人間だけだ。そんなきみだからこそ、みんなに言葉が届く。絶対」
なにも無抵抗の桃子を殺そうとした、智史が悪いと言いたいわけではない。陽暈はただ、人のために自分の命を捨てる覚悟ができる彼女に敬意を払いたかっただけなのだ。
智史が持つ、生への貪欲さは、動物としての生存本能そのもの。人間に限らず、全生物共通の意志だ。それをねじ曲げられる桃子の言葉には重みが感じられるというもの。
「分かった……わたしやってみる!」
桃子は、いまにもこぼれおちそうな涙を手で拭き払い、決心した。




