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 十日間の忌引き休暇を終え、心身ともに静けさを取り戻した陽暈は、久方ぶりに高校へと戻る決意を固めた。


 グレーのスラックスを穿き、白いシャツのボタンをひとつずつ指先で閉じていく。久々に袖を通す制服はどこか新鮮で、ネクタイの結び方も一瞬だけ頭から抜け落ちそうになったが、首元に布を回した瞬間、身体が自然と動いた。

 身体で覚えるとはこういうことかと、陽暈は心の内で呟きつつ、短剣とノットを摘み、キュッと締め上げた。


 家を出る。

 歩き慣れぬ道、見慣れぬ街並み。都内とはいえ、住処が変われば日々の景色もまた、表情を変える。


 カン、カン、カン────。

 甲高い警報音が響き、遮断機がゆっくりと降りて道を塞ぐ。

 車も歩行者も、その場で足を止められた。同様に、線路の向こう側で立ち止まる人々との間には、まるで何かの決戦前夜のような奇妙な緊張感が漂う。こうした空気は万国共通であり、なぜだか心が落ち着いた。


 警報器の矢印が、列車の進行方向を示している。陽暈はそれに導かれるように、遠ざかる車両の先端へと目をやった。


「ショウ……!」


 不意に、遮断機の向こう側で女の悲鳴が弾けた。その瞬間、あらゆる視線が、轟音と共に迫る列車から声の主へと吸い寄せられる。陽暈もまた、その流れに呑まれた。


 鈴なりの背の隙間から、恐るべき光景が見えた。

 線路上に、小学校低学年ほどの男児が、膝と両手を地につけてうずくまっていたのだ。母親の手をすり抜け、遮断機をくぐり、線路の溝に足を取られたといったところだろう。


 その時、陽暈の脳内CPUがアクセルをベタ踏みする。

 あの子が死んだらどうなる。あの母親は泣くだろう。父も、祖父母も、兄弟も、友人も。きっと、自分と同じように、癒えぬ喪失を抱えて生きることになる。


 では、自分に助けられるのか──いや、考えるな。


 思考回路が擦り切れる寸前、陽暈はある一つの結論に至った。いや、正確には、そうした逡巡すら脳裏をかすめる間もないほど、反射的な決断だった。

 そして浮かび上がったのは、清隆から贈られた言葉──。


「俺の役目──逃してたまるか……!」


 無意識のうちに、陽暈はスクールバッグを放り投げていた。

 直後、総身に焦げつくほどの強烈な電流が駆け抜け、額から頬へと奔る電紋に青い光が宿った。当然彼は、電紋が光り始めたことに気づいていない。


 爪先から足首へ、ふくらはぎ、太もも、臀部へと、力が川の流れのように滑らかに伝わり、足が大地を噛む。理解の及ばぬ力が全身を満たし、目の前の人々を容易く跳び越え、陽暈は男児の傍らに着地した。

 迫る列車は白い車体で、先端が突起していることにいまさら気づく。

 普通電車と新幹線の最高速度は三倍近く差があるが、いまとなっては、もはや関係ない。どちらであれ、衝突すれば結果は同じだ。


 遮断機を越えるには斜め上への跳躍が要る。だが最短で抜けるなら、バーの下をくぐるべきだ。

 陽暈には、その計算を冷静に下す余裕があった。まるで時の流れが遅くなったかのように、周囲の動きがスローモーションに見えた。いや、むしろ止まっていた。


 どういうわけか、頭の芯が焼けつくような頭痛が突如として押し寄せた。脳髄が膨張し、今にも破裂しそうな錯覚に襲われる──内側から誰かがドアを蹴破ろうとしているかのように。

 しかし陽暈は、呻き声を飲み込み、かろうじてその痛みに耐えながら、男児の小さな身体を抱き上げる。

 同時に、踏みしめた大地が爆ぜるように、もう一度跳躍した。


 右足首に鈍く鋭い衝撃が走る。見えない鎖に足を引かれたかのような感覚が、彼の動きに影を差したが、それでも勢いは止まらない。


 そして──。


 飛び出した身体は空中でひねりを利かせながら着地し、抱きかかえる少年の後頭部に手を添えたまま転がる。受け身を取るというより、全身を使って衝撃を塗り潰すような動作で、アスファルトを滑った。


 やがて、重力と摩擦の協奏によって動きは次第に鈍り、やっとの思いでその場に静止する。


「っぶねぇええッ……! 大丈夫か!?」


 腕の中の命を覗き込むと、少年は今にも泣き出しそうに唇を噛んでいたが、力強く頷いた。


「ショウ……!」


 先の叫び声の主である女性が駆け寄ってきたため、陽暈は男児をそっと託した。


「ありがとうございます! 本当にありがとうございます! あなたは息子の命の恩人です……!」


 母親は、身を折るように深く頭を下げ、何度も感謝の言葉を繰り返す。その場にいた誰もが拍手を送り、まるで舞台の幕が下りた直後のように、称賛の波が押し寄せた。


「いやいや、大したことじゃないっすよ!」


 陽暈は顔を赤らめ、胸の前で手を振って謙遜した。

 そのとき、母親に抱きついていた男児がそっと歩み出て、陽暈の前に立つ。


「ありがとう! お兄ちゃんは僕のヒーローだよ!」


「俺が……ヒーロー?」


「うん!」


 死の淵を覗いたとは思えぬほどに、無邪気な笑顔がそこにあった。


「かははっ。ありがとうな。こんな俺をヒーローだなんて言ってくれて」


 陽暈は小さな頭に手を置き、笑みを返した。


 その瞬間、胸の奥に、言葉にしがたい感情が満ちていく。ふわりと心が浮かぶような、不思議な高揚感──ただ一つ確かなのは、目の前の命が無事だったこと。そして、自分がそれを救えたという、どこか誇らしい実感だった。


 少年は母親の元に戻り、親子は深く礼をしてその場を後にする。陽暈は手を軽く振って、背中を見送った。


 ふと足元に違和感を覚え、視線を落とすと、右足のスニーカーが脱げており、擦り切れた靴下の親指がひょっこり顔を覗かせていた。

 周囲を見渡せば、ほど近い場所に、片方だけのスニーカーが寂しげに転がっている。まるで事故現場の残骸のように、そこだけが異様な空気を纏っていた。


 再び親子の後ろ姿を確かめ、安堵する。胸に抱いた感情はいまだ名を持たないが、それが決して負のものではないことだけは、はっきりと分かった。


 その後、スーツ姿の中年の男が、陽暈のバッグを拾って手渡してくれた。


「きみ、凄いね。僕の方が近かったのに、なにもできなかった。情けない限りだ」


「いや、体が勝手に動いただけっす」


「大したものだね。なんだか勇気づけられたよ。ありがとう」


 男は陽暈の肩を軽く叩き、歩き去っていった。


「人を助けるって、こんな感覚なのか。なんか、いいな……」


 陽暈は空を仰ぐ。雲ひとつない快晴。曇っていた心が、ほんの少し、晴れたような気がした。


 バッグを背負い、転がっていた靴を拾い上げて履く。何事もなかったかのように、陽暈は日常の風景の中へと、そっと歩みを戻していった。

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