5
十日間の忌引き休暇を終え、心身ともに静けさを取り戻した陽暈は、久方ぶりに高校へと戻る決意を固めた。
グレーのスラックスを穿き、白いシャツのボタンをひとつずつ指先で閉じていく。久々に袖を通す制服はどこか新鮮で、ネクタイの結び方も一瞬だけ頭から抜け落ちそうになったが、首元に布を回した瞬間、身体が自然と動いた。
身体で覚えるとはこういうことかと、陽暈は心の内で呟きつつ、短剣とノットを摘み、キュッと締め上げた。
家を出る。
歩き慣れぬ道、見慣れぬ街並み。都内とはいえ、住処が変われば日々の景色もまた、表情を変える。
カン、カン、カン────。
甲高い警報音が響き、遮断機がゆっくりと降りて道を塞ぐ。
車も歩行者も、その場で足を止められた。同様に、線路の向こう側で立ち止まる人々との間には、まるで何かの決戦前夜のような奇妙な緊張感が漂う。こうした空気は万国共通であり、なぜだか心が落ち着いた。
警報器の矢印が、列車の進行方向を示している。陽暈はそれに導かれるように、遠ざかる車両の先端へと目をやった。
「ショウ……!」
不意に、遮断機の向こう側で女の悲鳴が弾けた。その瞬間、あらゆる視線が、轟音と共に迫る列車から声の主へと吸い寄せられる。陽暈もまた、その流れに呑まれた。
鈴なりの背の隙間から、恐るべき光景が見えた。
線路上に、小学校低学年ほどの男児が、膝と両手を地につけてうずくまっていたのだ。母親の手をすり抜け、遮断機をくぐり、線路の溝に足を取られたといったところだろう。
その時、陽暈の脳内CPUがアクセルをベタ踏みする。
あの子が死んだらどうなる。あの母親は泣くだろう。父も、祖父母も、兄弟も、友人も。きっと、自分と同じように、癒えぬ喪失を抱えて生きることになる。
では、自分に助けられるのか──いや、考えるな。
思考回路が擦り切れる寸前、陽暈はある一つの結論に至った。いや、正確には、そうした逡巡すら脳裏をかすめる間もないほど、反射的な決断だった。
そして浮かび上がったのは、清隆から贈られた言葉──。
「俺の役目──逃してたまるか……!」
無意識のうちに、陽暈はスクールバッグを放り投げていた。
直後、総身に焦げつくほどの強烈な電流が駆け抜け、額から頬へと奔る電紋に青い光が宿った。当然彼は、電紋が光り始めたことに気づいていない。
爪先から足首へ、ふくらはぎ、太もも、臀部へと、力が川の流れのように滑らかに伝わり、足が大地を噛む。理解の及ばぬ力が全身を満たし、目の前の人々を容易く跳び越え、陽暈は男児の傍らに着地した。
迫る列車は白い車体で、先端が突起していることにいまさら気づく。
普通電車と新幹線の最高速度は三倍近く差があるが、いまとなっては、もはや関係ない。どちらであれ、衝突すれば結果は同じだ。
遮断機を越えるには斜め上への跳躍が要る。だが最短で抜けるなら、バーの下をくぐるべきだ。
陽暈には、その計算を冷静に下す余裕があった。まるで時の流れが遅くなったかのように、周囲の動きがスローモーションに見えた。いや、むしろ止まっていた。
どういうわけか、頭の芯が焼けつくような頭痛が突如として押し寄せた。脳髄が膨張し、今にも破裂しそうな錯覚に襲われる──内側から誰かがドアを蹴破ろうとしているかのように。
しかし陽暈は、呻き声を飲み込み、かろうじてその痛みに耐えながら、男児の小さな身体を抱き上げる。
同時に、踏みしめた大地が爆ぜるように、もう一度跳躍した。
右足首に鈍く鋭い衝撃が走る。見えない鎖に足を引かれたかのような感覚が、彼の動きに影を差したが、それでも勢いは止まらない。
そして──。
飛び出した身体は空中でひねりを利かせながら着地し、抱きかかえる少年の後頭部に手を添えたまま転がる。受け身を取るというより、全身を使って衝撃を塗り潰すような動作で、アスファルトを滑った。
やがて、重力と摩擦の協奏によって動きは次第に鈍り、やっとの思いでその場に静止する。
「っぶねぇええッ……! 大丈夫か!?」
腕の中の命を覗き込むと、少年は今にも泣き出しそうに唇を噛んでいたが、力強く頷いた。
「ショウ……!」
先の叫び声の主である女性が駆け寄ってきたため、陽暈は男児をそっと託した。
「ありがとうございます! 本当にありがとうございます! あなたは息子の命の恩人です……!」
母親は、身を折るように深く頭を下げ、何度も感謝の言葉を繰り返す。その場にいた誰もが拍手を送り、まるで舞台の幕が下りた直後のように、称賛の波が押し寄せた。
「いやいや、大したことじゃないっすよ!」
陽暈は顔を赤らめ、胸の前で手を振って謙遜した。
そのとき、母親に抱きついていた男児がそっと歩み出て、陽暈の前に立つ。
「ありがとう! お兄ちゃんは僕のヒーローだよ!」
「俺が……ヒーロー?」
「うん!」
死の淵を覗いたとは思えぬほどに、無邪気な笑顔がそこにあった。
「かははっ。ありがとうな。こんな俺をヒーローだなんて言ってくれて」
陽暈は小さな頭に手を置き、笑みを返した。
その瞬間、胸の奥に、言葉にしがたい感情が満ちていく。ふわりと心が浮かぶような、不思議な高揚感──ただ一つ確かなのは、目の前の命が無事だったこと。そして、自分がそれを救えたという、どこか誇らしい実感だった。
少年は母親の元に戻り、親子は深く礼をしてその場を後にする。陽暈は手を軽く振って、背中を見送った。
ふと足元に違和感を覚え、視線を落とすと、右足のスニーカーが脱げており、擦り切れた靴下の親指がひょっこり顔を覗かせていた。
周囲を見渡せば、ほど近い場所に、片方だけのスニーカーが寂しげに転がっている。まるで事故現場の残骸のように、そこだけが異様な空気を纏っていた。
再び親子の後ろ姿を確かめ、安堵する。胸に抱いた感情はいまだ名を持たないが、それが決して負のものではないことだけは、はっきりと分かった。
その後、スーツ姿の中年の男が、陽暈のバッグを拾って手渡してくれた。
「きみ、凄いね。僕の方が近かったのに、なにもできなかった。情けない限りだ」
「いや、体が勝手に動いただけっす」
「大したものだね。なんだか勇気づけられたよ。ありがとう」
男は陽暈の肩を軽く叩き、歩き去っていった。
「人を助けるって、こんな感覚なのか。なんか、いいな……」
陽暈は空を仰ぐ。雲ひとつない快晴。曇っていた心が、ほんの少し、晴れたような気がした。
バッグを背負い、転がっていた靴を拾い上げて履く。何事もなかったかのように、陽暈は日常の風景の中へと、そっと歩みを戻していった。