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陽暈は、月乃から向けられた目に、心が壊れそうになっていた。
「あ、あの。放してください……」
目を逸らされ、冷ややかな言葉がぶつけられた。
咄嗟に掴んでいた彼女の腕を放した陽暈は、一歩後ろに退く。
「な、なに言ってんだよ……月乃…………」
「つきの……私のことですか? 私の名前はみさとですよ」
「なにを……」
「ごめんなさい。私、なにも覚えていなくて」
ばつの悪そうな面持ちで、彼女はそう言った。その目に、嘘はない。そもそも彼女は、くだらない嘘をつくような性格ではない。
当然、陽暈は絶句した。
月乃が目を覚ました喜びで天にも昇る思いだった彼は、奈落の底へ突き落とされたのだから。
「あの……あなたと私は、どのような関係だったのでしょうか?」
なにも言わない、いや、言えない陽暈を見かねた月乃が、おずおずと問いかけた。
息苦しさを覚えながらも、陽暈が必死に言葉を紡ぐ。
「俺は……俺は…………」
友達──。
そんな言葉を、軽々しく言えるはずがなかった。資格がなかった。
結局まともに会話ができず、医師を呼んだ。かけつけた看護師は、病衣を纏う陽暈に驚いた後、長い眠りから目覚めた月乃を見てさらに驚愕していた。
至急、診察を行うとのことで、陽暈は自室に戻り、結果を待つ。
「俺のせいだ……」
ベッドに腰掛け、頭を抱える陽暈。
彼女が目覚めることは、心のとこかで予感していた。信じてもいた。
しかし、記憶を失っているとは予想だにしなかった。陽暈のことを覚えておらず、自身の名前も間違えていた。
「これじゃ死んだのと同じだ……」
過去の記憶を失ったということは、過去の月乃が死んだとも言える。そしてその原因が自分にあるという重責。
体の痛みなど忘却の彼方へ消え、絶望している陽暈の背後で、冷たい夜風が吹き流れた。
直後、聞き覚えのある声が響いた。
「車で自転車を追い抜いたんだ」
反射的に振り返ると、ずいぶん前に公園のベンチに突然現れた胡散臭いチョビ髭親父が、平然と腰を据えていた。
「えぇ!? なに!? なんで!? どっから入ってきた!?」
そう言いつつも、侵入経路は窓以外にあり得ない。
「まぁ落ち着きたまえよ。少年」
深くハットをかぶり、サングラスをしているため、前に会った人物である確証はない。ただ、スーツの上からでも分かる鍛え抜かれた体躯は、公園で遭遇した男のそれだ。
「車で自転車を追い越した。その後、信号待ちで停車すると、今度は自転車に越されたんだ」
「あの……出ていってもらえます?」
「信号が変わって、再び自転車を追い越した」
「警察呼びますよ」
「それはやめてもらえる?」
咳払いをした男が仕切り直す。
「とにかく聞くんだ、少年よ」
「はぁ……」
「追い越し追い越され。そんなことを繰り返しているうちに、目的地には自転車とほぼ同時に到着した。人生も同じだ。どれだけ足掻こうが、どれだけ生き急ごうが、結果が変わらないことが往々にしてあり得る。ゆっくり、焦らず気張らず、自分のペースで進めばいい。たまには信号待ちで後ろを振り返るのもいいが、前を向いて走る方が、断然、心地がいいものだよ」
「よく分かんないっすけど、いまそれどころじゃないんっすよ……」
謎の男の話が一段落ついたところで、コンコンという音が扉の方から鳴り渡った。
「天若さん入りますよー」
看護師の声が追いかけ、スライド式の扉が開かれた。
いったい隣に座る不審者をどう説明すべきかと男の方へ視線を戻すと、音もなく彼の姿は消えていた。
ただ、開け放たれた窓から入り込む夜風が、カーテンを揺らしているだけだった。やはり亡霊か──。
気を取り直し、看護師と共に入室した比較的若い医師から、月乃の診察結果を告げられた。
結論から言うと、月乃は逆行性健忘という記憶障害を患っていることが分かった。くわえて、作話と呼ばれる症状も確認されている。
作話とは、本人に騙そうとする意図はなく、記憶の欠落を埋めるため、無意識のうちに事実とは異なることを話してしまう現象を指す。これは、脳の損傷や認知機能の障害によって引き起こされることが多い。
月乃が「みさと」と名乗っていたのも、それに該当するのだとか。検査の中では他にも「はるき」という名の男と婚姻関係にある話や、営業事務として勤務している話などもあったという。
結局、現段階では記憶が戻るか否か、判別することはできないため、経過を見るしかないらしい。
リハビリ後は、彼女が知る場所を巡ったり、知人と会うことが、記憶を取り戻すきっかけになるかもしれないとも助言された。
医師からは、去り際に「まずは自分の体を労りなさい」と軽く説教を受けた。
「やっぱり俺が月乃を殺したんだ……」
看護師や医師が退室した病室。呼吸すら忘れ、静寂に押し潰されそうになりながら、ネガティブな思考が脳内に染み渡っていく。
記憶が戻る可能性がある──そんなものは記憶喪失のほとんどに言える気休めだ。戻る保証などどこにもない。
復讐に囚われ、身勝手な行動で彼女を殺した。罪なき人の過去を奪ってしまった。この責は、生涯を捧げても償えるものではない。
「クソッ……!」
怒りを抑えきれず、壁に拳を叩きつけた。
乾いた衝撃音が病室の静寂を破り、白い壁面がわずかに凹む。思いのほか力が入りすぎていた。
拳に鈍い痛みが走ったが、それすらも感情の濁流にかき消された。
「ナニシテンネン」
いつしか赤い翼を広げた怪鳥が、窓の縁に鋭い爪をかけ、音もなく佇んでいた。
「アキラ……なんでもねぇよ……」
陽暈は赤らんだ拳を逆手で覆い隠した。壁に八つ当たりした滑稽な自分が、幼児の癇癪のようで情けなかった。
「ツキノ、キオクナインカ」
「いまはな。俺のことも覚えてなかった」
「ソウカ。ジャアオレガ、キュウニ、アイニイッタラ、ビックリサセルカ」
「そうかもな……」
「キオク、トリモドサセロヨ」
「あぁ。分かってる」
アキラは飛び降りるように姿を消したと思いきや、フワリと浮上し、月夜に飛び去っていった。
しばらくベッドで横になっていると、プライベートのスマホに着信が入った。画面には『じいちゃん』という文字。
特執の話をしていない彼に、どう説明するべきか思案しながらも、応答ボタンをスライド──スマホを耳にあてた。
『じいちゃん』
『無事なようじゃな』
いまさらだが、最近、清隆とあまり話していない気がする。それゆえ、彼の声はどこか懐かしく思えた。
訓練や任務で帰りが遅くなったり、休日も家にいることが少ない。しかし彼は、いい意味で放任主義だからか、あまり干渉してこない。
もし──万が一、あの時、バーストできずに殺されていたら、こうして清隆と話すこともなかった。ふとよぎったもしもの話に、目頭が熱くなる。
『うん。俺は大丈夫。心配かけてごめん』
『そうか』
一見、清隆は冷たいように思える時があるが、毎日欠かさず弁当が用意されており、帰れば晩御飯が置いてある。当たり前のように思えるそれらにも、改めて感謝すべきだと、陽暈は申し訳ない気分で一杯になった。
そして、やや間を空けて、清隆が言った。
『陽暈よ。焦らんでもええんじゃぞ。しっかり自分を持って前へ進めええ。じゃが無茶をしすぎるなよ。おぬしの役目が来るまではな』
まるですべてを見通しているかのような声音だった。
特執に関わっていることを、もしかするとすでに知られているのでは──そんな一抹の不安が胸をよぎる。だが、それ以上に、確かに届いた温かな励ましが心を満たした。
『──分かった。ありがとう、じいちゃん』
そう告げた刹那、電話越しに清隆の咳払いがひとつ聞こえた。その直後、通話はプツリと切れた。
多くを語らぬ彼の胸の内は、いまだ測りかねる。しかし──ただ一つ、信じてくれているということだけは、確かに伝わっていた。
それだけで、胸の奥にほのかな熱が灯る。
照れくさい想いが喉元にこみ上げる。だがいつか、波留に果たせなかった親孝行を、清隆にこそ捧げたい。
その想いだけは、心の奥にそっとしまっておく。
月乃の過去を消し去ったという、取り返しのつかない重責が、なお肩にのしかかっていた。
けれどその夜、陽暈は静かに布団に潜り込み、目をきつく閉じた。
眠れなくてもいい。ただ、目を閉じて、この感情を胸の中に閉じ込めておきたかった。
ふと、清隆と、ついさっき侵入してきた不審者の助言が重なった。が、気のせいだと自分に言い聞かせた陽暈は布団に潜り込み、その夜は強く目を閉じ続けたのであった。




