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 陽暈のがら空きの胸部に、容赦のない拳がめり込んだ。その瞬間、全身の力がストンッと抜け去ったのを感じた。

 ほんの少しだけ浮遊し、なにかにぶち当たった。もはやなにに衝突したのかすら分からない。


 ただ痛みが総身を蝕み、吐き気を催す。

 気分が悪い。もう疲れた。そんな弱音がよぎった時、奇妙な幻覚が広がった。


 薄暗い部屋──。

 壁にかけられた時計は十時半を差したまま止まっている。そして目の前には、母親である波留と弟の幻陽がいた。ずいぶん懐かしく感じる。


 二人のさらに奥には、人影が見えるが、シルエットだけで誰なのかまでは判別できそうにない。


 思わず声をあげようとしたが、喉から洩れたのは掠れた吐息のみ。

 それでも身体を前へと動かし、家族の元へ駆け寄ろうと一歩踏み出した瞬間、何かに足を引かれて倒れ込んだ。


 足首に絡みつく異物に視線を落とす。重く冷たい鉄の枷が取り付けられ、その先に続く鎖は、部屋の隅でこちらをじっと見つめる男へと繋がっていた。

 黒い犬の仮面をつけた男。双眸だけが青く爛々と輝き、不気味な存在感を放っている。


 気味が悪く、再び正面へと視線を戻した陽暈は息を詰めた。

 先ほどまで微笑んでいた母と弟が、変わり果てた姿でそこに立っていたのだ。

 波留の首元には赤い痕が滲み、白目を剥いたまま苦しげに喘ぎ、幻陽は喉元から血を流しながら、なお陽暈に手を伸ばしていた。


「兄ちゃん……痛い……痛いよ。助けて……」


 水に沈んだような、どこか遠くから響く声。幻陽の懇願が空気を震わせる。


「陽暈……」


 掠れた吐息のような母の声も、次いで彼の鼓膜を打った。


 現実か幻かの境目が曖昧になり、胸を締めつけられるような痛みと共に涙が滲んだ。だがその涙が頬を濡らす前に、感情の波は急転する。

 心の奥底に沈めていた激しい怒りが、焰のように立ち上がったのだ。

 深く、激しく、黒々とした復讐の情念が、濁流のように陽暈の全身を呑み込んでいく。


 あの日、誓ったはずだ。

 波留と幻陽の仇を討つ。それが自分の生の意味であり、役目なのだと。


 その決意が胸に再び刻まれた瞬間、幻の世界が割れた。

 風船が弾けるような音が耳を打ち、景色が白く閃いたかと思えば、現実の色彩が洪水のように押し寄せてきた。

 倒れ伏す之槌と、それを見下ろすファウンドの姿が、遠くに認められる。


 刹那、雷撃にも似た電流が陽暈の四肢を駆け巡った。

 過去にリリースを体験したときよりも遥かに強く、苛烈なエネルギーが、神経の一本一本に点火していく。

 だが奇妙なことに、痛みはなかった。

 さっきまで悲鳴を上げていたはずの節々が、嘘のように軽くなっている。


 気づけば、体中から青いオーラが出ている。電紋の光と全く同じ色。


「この感覚……そうか……」


 もちろん始めての経験だったが、陽暈は直感した。


「かははっ」


 自然と笑みがこぼれた。

 青いオーラ──それは触式を得た者に現れる。ずいぶん前に、零士が退けたワイラーとやらと同じアビリティだ。


 零士は言っていた。

 触式の真骨頂は脊髄反射だと。それにくわえて、ほかにもなにか説明された気がするが、もはや記憶の彼方。いまの陽暈は、なにも覚えていない。

 ただ、得も知れぬ自信に満ち溢れていた。


「テメェ……まさか……!?」


 陽暈がこぼした不気味な笑い声を聞き、振り返ったファウンドは、苦い顔をするや否や、一瞬にして距離を詰め──正拳を押し出してきた。相変わらず凄まじい速さであり、目で追うことすらできなかった。


 豪速の拳が眼前に迫った瞬間、時の流れが極端に遅くなる。思考すら必要とせず、陽暈は余裕を持って回避──すれ違いざまにファウンドの腕を掴み、ねじり千切った。


「くっ……うぉぉおああ……!」


 悲鳴が轟いた。


「テメェ……! クソがァ! 痛ぇ! 痛ぇぇええええ!」


 腕を失った右肩を押さえながら、ファウンドは跪いた。


「クソが……最悪だ……」


「かっはは! なんだこの感覚! 分かんねぇ! 分かんねぇけど、負ける気がしねぇ!」


 喉の奥から突き上げるような笑いが、止めようもなく溢れ出る。理性の手綱を放り投げ、昂ぶる衝動に身を委ねる感覚。脳内では快楽物質が洪水のように分泌され、心拍は跳ね上がり、視界がまばゆく冴えていた。


 バースト──。

 制限解除率67%の壁の突破がもたらした恩恵は明白だった。

 全身に満ちる力の奔流──筋力の天井が、果てしなく遠くなっている。

 触式というアビリティの仕組みこそ依然として謎に包まれているが、それがどうした。今の彼には、細かい理屈など不要だった。


 ただひとつ、確かに言える。

 いま、この瞬間の彼は、純粋に強い。

 しかも、まだ伸びしろすら感じさせる底知れなさを伴って。


 己の中に眠っていた本能の獣が目を覚まし、牙を剥き始めていた。


「舐めやがって……やってやろうじゃねぇか!」


 再びファウンドが迫る。だがその速度は、明らかに落ちていた。

 陽暈はもぎ取った腕を正面に投げ飛ばす──だが身を捻ったファウンドには当たらなかった。

 直後、側面からの蹴りが陽暈の視界に飛び込む──が、またもや時間の流れが遅くなる。


 陽暈は迫りくる脚を易々と掴み取り、そのまま振り子のように振り抜いた。人間の身体など紙屑に等しいと言わんばかりに、ファウンドの巨躯を旋回させる。

 その軌道は正確無比、ハンマー投げの如く大きな弧を描き、標的たるクレーンの鉄塔へ。


「うぉぉぉらぁぁぁぁあああ!」


 陽暈の怒声が甲板を震わせた瞬間、ファウンドの身体は風を裂きながら宙を舞った。右肩から放たれた鮮血が弧を描き、空に赤い軌跡を残す。

 直後、巨体が鉄骨に叩きつけられ、重金属が悲鳴を上げた。クレーンの骨組みが音を立てて歪み、鈍く軋んだ鉄が、ついに自重に耐えかねて折れ曲がる。


 崩壊は瞬く間だった。

 支柱が砕け、鋼鉄の骸が重力に引きずられるように崩れ落ちる。その直下には、すでに落下していたファウンドの姿があった。降り注ぐ鉄骨が彼の上に次々と襲いかかり、金属音が弾けるように連続して響いた。


 なおも収まりきらぬ衝動を抱えたまま、陽暈は再び跳躍。湧き上がる力に導かれるように、崩れゆく鉄の瓦礫へと飛び込み、轟音と粉塵に包まれたそのただ中──押し潰されかけたファウンドのすぐ傍へ、音もなく着地した。


「どうした。立てよファウンド」


「テメェ……」


 やけに毛量の多い金髪を鷲掴みにし、鉄骨の布団から引っ張りだす。


「お前が言ったんだろ。弱肉強食って」


「バカが……勘違いすんじゃねぇ。テメェも弱者だ。いつか強者に食われる」


 血にまみれ、陽暈の手に吊るされたファウンドの言葉が、無性に腹立たしかった。その怒りを発散すべく、ファウンドを振り回し、今度は容赦なくコンテナへと投げつける。

 鈍く激しい衝撃を伴い、鉄板がベコッと凹み、巨体が貼りつき、しばし沈黙する。やがて、剥がれるように甲板へ崩れ落ちたファウンドは、もはや虫の息に。


 その時だった──。


「天若殿、インヒビターを……」


 気づけば、腹部を押さえ、腰を曲げた之槌の姿があった。その声音は沈静と理性に満ち、暴走する陽暈の前に楔のように打ち込まれる。

 だが、陽暈はその言葉に苛立ちを覚えた。


「いや、ダメだ」


 短く、はっきりと。

 目の前に倒れているのは、母と弟を殺めた仇。その呼吸ひとつすら赦せぬ存在。

 この手で息の根を止める。ヴェルマとやらも同じだ。皆殺しにする。


 あの時、眼の光を失ったふたりの亡骸に誓った。自分はそのために生きている。

 報いを与えること、それだけが──陽暈の、唯一の使命なのだ。


「天若殿! それをしてしまえば、後戻りはできませんぞ!」


 いつになく語気を荒らげた之槌の声が、甲板に響いた。その抑えの効かない熱が、普段の冷静沈着な彼からは想像もつかず、陽暈の胸にわずかな波紋を走らせる。

 だが、それすらも、いまの彼にとっては些末な事だった。


 目の前にいるのは、愛する者を奪った張本人。血の報いを受けるべき悪鬼。

 今ここで、けじめをつけなければならない。これは断罪だ──慈悲をかける必要など、微塵もない。


「やっと……! やっと追い詰めたんだ! 生温い罰で済ませるわけにいかねぇ!」


 喉を震わせるその叫びには、激情だけでなく、長い哀しみが積もっていた。

 だが、之槌は首を振らず、静かに言葉を紡ぐ。


「止めはしません。ただ──悲しむ者は、大勢おりますな」


 そのひと言が、氷の針のように陽暈の胸を貫いた。

 脳裏に、ふと月乃の面影が浮かび上がる。あの穏やかな瞳が、もしこれを見たなら──きっと、悲しむ。怒りや失望ではなく、ただ静かに、深く哀しむだろう。


 特執の捜査官としての使命。それは制裁ではなく、あくまで裁きの場へ引きずり出すこと──それが正義であると、彼女なら迷いなく断言するに違いない。

 もちろん、ときには一般市民を守るために、武力を行使し、人を殺めざるを得ない状況もあるだろう。だが少なくとも、いまはそれほど逼迫していない。

 もはや立ち上がることすらままならないファウンドには、インヒビターを装着すれば全ておさまる。


 熱く滾っていた感情が、急速に冷却されていく。握りしめた拳の力が、少しずつ抜けていった。


「……ごめん。之槌さん」


 伏し目がちにそう囁いた陽暈は、ポケットからインヒビターを取り出そうとした。その時、ファウンドに異変が起きる。


 バーストアビリティのオーラどころか、生気すら消えかかっていたはずのファウンドの全身から、異様なオーラが立ち上っていた。

 紫──不気味なまでに濁った、瘴気のような色。炎ではない。霧でもない。

 むしろ、それは死の淵から立ち上る怨念のようで、陽暈の肌を撫でる風すら一瞬にして冷たく変えた。


「なんだ……? 紫のオーラなんかあったっけ……」


 陽暈は、形容しがたい恐怖を感じた。


「天若殿、いまなんと……?」


 額に汗をにじませた之槌に聞き返された。


「な、なんか、ファウンドから紫のオーラが出てるんっすよ……」


「私はリリースしておりませんゆえ、オーラとやらを見たことがありませんが、紫色のオーラの話は聞いたことがありますな。おそらく、ランペイジ」


「なんすかそれ?」


「生命の危機に極限まで近づいた人間は、理性を失い、生存本能の赴くまま暴走し、手当たり次第に生物を殺す殺戮兵器と化す。それがランペイジ。そしてその状態になったことを意味するのが、紫色のオーラなのだとか……」


「マ、マジか」


「しかし私もその詳細を存じ上げません。どのような力が発揮されるのか未知です。とにかくご注意を。私は邪魔になってはなりませんので、避難します。無責任で申し訳ない」


「大丈夫。俺がなんとかする!」


 焦燥に駆られた之槌が、ばつの悪そうな表情を浮かべつつ戦線を離脱しようとしたその瞬間、漆黒の影が空から舞い降りた。

 凄まじい速度で落下したにもかかわらず、その着地は驚くほど静かで、地を踏みしめた音さえほとんど響かない。

 陽暈が思わず空を仰ぐと、遥か彼方にホバリングするヘリの影があった。


「天若陽暈。また会ったな」


 低く響く声とともに、黒のスーツに身を包んだ男が姿を現す。頭の側面を刈り上げた黒髪。仮面に隠された顔からは感情の窺い知れない冷徹な気配が滲む。

 シャツもネクタイも、全てが闇に溶け込むかのような黒。そして、彼の周囲に揺らめく青いオーラは、陽暈のそれと同じで、触式の使い手であることを示していた。


「お前は……!」


 そう、以前に零士が撃退した強敵──ワイラーだったのだ。


「グルルルル……」


 突如、獣の呻き声が低く響いた。

 紫のオーラをまとったファウンドが、倒れた状態からゆっくりと起き上がる。そして、殺意を込めた視線をワイラーに据えた瞬間──背後から襲いかかった。その牙が喉元を狙う。


 しかし、ワイラーは動じることなく、体を半回転させて回避。すれ違いざまに腕を掴み、ファウンドを甲板に叩きつけて伏せさせた。

 そして即座に首の後ろ、脛椎に手刀を叩き込むと、ファウンドは痙攣した後、沈黙した。紫のオーラも、霞み消えた。

 ワイラーは腰に携えていたロープで、ファウンドの片腕と両足を縛り上げ、動きを封じる。三肢を後ろで縛られ、背骨が折れそうなほど反り返るファウンドは、痛々しいものであった。


「我々の負けだ。また会おう、天若陽暈」


 淡々とした声とともに、ワイラーはファウンドを巾着袋のように軽々と担ぎ上げる──両足を開き、膝をわずかに沈めた。


「待て……!」


 陽暈が声を張った瞬間、ワイラーは甲板を蹴った。爆発的な推進力が生まれ、その姿が空の高みへと消えていた。

 追わなければ。そう思い、空を見上げた瞬間、視界が歪む。世界がぐらりと傾いた。

 立っていられない。膝が砕けるように崩れ落ちた。


「くっ……」


 枯渇した脳内麻薬。抑え込まれていた全身の痛みが、一気に襲いかかる。


「やべ……限界かも…………」


 体が言うことを聞かない。ついに支えを失い、甲板に倒れ込んだ。


「天若殿……!」


 遠くで、之槌の声が聞こえた。意識が、深い闇の奥へと沈んでいく──そして、心地よい眠りが訪れた。

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