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 高校生の頃、真壁は両親の友人が勤める保育園でアルバイトをしていた。むろん、保育士の資格を有していなかったため、保育補助としてのポジションだった。

 純粋無垢な子供たちは、とにかく愛くるしかった。仕事を重ねるうちに、自分は子供の世話をするのが好きなのだと思い始めた。それが保育士を目指すきっかけだった。


 高校卒業後、四年制の保育士養成校を修学し、晴れて保育士として働くに至る。アルバイトの経験を見込まれ、一年目からクラスの担任を任され、日々奮闘していた。


 ある日、園児たちとともに散歩へ出た。雲一つない快晴。絶好の散歩日和で、子供たちもみな、外の空気を味わい、気持ち良さそうだった。

 縦列を組み、歩道を歩いていると、法定速度を遥かに越える車が走ってきた。忘れもしない。紺のワゴン車だった。その運転手の男が、妻に離婚を申し出られた翌日にリストラされ、精神が不安定だったことは、のちに知ることとなる。

 速度違反といっても、車道を走っているため、歩行者に危険が及ぶことは、まずない。しかし真壁は、奇妙な悪寒を感じていた。


 後方から迫ったその車は、最後尾の園児を追い抜いた直後、急ハンドルを切り、歩道に乗り上げたのだ。

 虫の知らせとやらなのか、いち早く察知した真壁は、生徒を守らんとワゴン車の前に飛び込んだ。いま思えば、それになんの意味があったのかは分からない。ただ、子供たちの命を預かっている責任が、体を突き動かしたのだと思う。


 自身の体の何倍もの大きさの鉄が眼前に迫った時、死にたくないと思った。子供たちを死なせたくないとも思った。

 同時に、全身に強烈な電流が走り渡った。むろん、その頃はまだ、リリースをしたことなど知る由もなく、ただただワゴン車にはね飛ばされた。

 頭部を強打し、右腕を骨折した。幸い、命に別状はなかった。


 数時間後に意識を取り戻した彼女は、ことの顛末を聞き、絶望した。

 事故に巻き込まれた園児のうち、一人が死亡、四人が重軽傷を負ったのである。


 無責任だが、聞きたくはなかった。いっそのこと、一緒に息絶えてしまえばよかったとさえ思ってしまう自分がいた。


 ある程度、傷が癒えた頃、刑事と名乗るスーツの男が二人、聴取のために病室を訪ねてきた。零士と之槌だ。

 零士は開口一番「きみの勇敢な行動がなければ、被害はもっと大きかった」と言った。全く理解できなかった。

 おそらく車速は八十キロを越えていた。そんな脅威に、自分一人の力が及ぶはずがないと思ったからだ。


 信じられないのも仕方がない。

 今度は之槌がそう言って、ノートパソコンを目の前で開き、事故現場を捉えた防犯カメラの映像を再生し始めた。

 突如、画面外から姿を現したワゴン車と、無謀に飛び込む自分。決定的瞬間を目の当たりにし、自身の目を疑った。

 ワゴン車は、真壁をはね飛ばす直前で、進路が大きく変わっていたのだ。運転手がハンドルを切ったわけでも、縁石による影響でもない。咄嗟に押し出した真壁の手によって、わずかに車の勢いが落ち、進行方向が大きく逸れたのである。


 腕を骨折した原因がハッキリしていなかったこともあり、すんなりと腑に落ちた。

 しかし同時に、激しく後悔した。もし、逆側に車を跳ね退けていれば、全員を助けられたかもしれない。むしろ自分が左側に逸らしたせいで、一人の園児を死なせてしまったのだと。

 そんな嘆きを、零士は受け止めてくれた。そして、前に進む糧にしろと言ってくれた。それが、下を向いていた真壁が、少しだけ顔を上げようと思えたきっかけである。


 その後、脳の制限など、諸々の話を聞き、守れなかった園児への償いも兼ねて特執へ入局することを決断。

 それが、果たして正しかったのかは、いまだ分からない。


 本当に正義を貫いているのか、それとも、贖罪の名を借りた自己満足にすぎないのか。保育士として、もう一度子供たちの笑顔を守るべきだったのではないか。

 その問いは、今も彼女の胸の底で、静かに燻り続けている。


「結局私は……なにがしたかったのでしょう……」


 視界はぼやけ、意識が朦朧とするなか、聴覚だけは研ぎ澄まされたままだった。いつの間にか潮風が落ち着いており、様々な音が聞こえる。


「いるんだよなぁ。ちょっとばかし力を持っただけで調子に乗るやつが」


 重量感のある靴音が迫り来る。どうやら、さきほど手放したはずハンマーアックスを担いでいるらしい。


「でも好きなんだよなぁ。やる気満々だったやつが叩きのめされて絶望する顔が。チビだから殴り甲斐がなかったがな」


 虚ろな光景が薄暗くなった。ファウンドの体躯に陽光が遮られたのだ。


「とりあえずお前はもう楽にしてやるよ」


 その冷徹な言葉は、意外にも真壁の心に響いた。求めていた救いは、ここにあったのだと思えた。


「やっとですか……」


 楽になれる。そう思った瞬間、なぜか涙が溢れ出した。ボロボロと、大粒の涙が。

 死にたくないのか、未練があるのか、悔しいのか、いま抱いている感情が分からないが、ここまで号泣するのは初めてだった。


「涙はなんの力にもならねぇよ」


 おぼろげに見えたファウンドは、鎌を振り上げた死神のようだった。濃褐の斑点が滲んだ鉄の刃が、ためらいなく振り下ろされようとしている。


 その瞬間、真壁は思った──。

 ああ、これが死ぬということなのかと。

 諦念は静かで、残酷なほど澄みきっていた。


 そうして、刃が目と鼻の先に迫ったその時──。


 耳をつんざくような轟音が戦場に轟いた。爆風にでも吹き飛ばされたように、死神の巨体が吹っ飛ぶ。


 何が起きたのか理解できず、重くなった瞼をこじ開ける。

 そこには、ずぶ濡れの青年が立っていた。頬に刻まれた蒼の電紋──いまや見慣れた印。だがその表情には、以前とは比べものにならない覚悟が宿っていた。


「真壁さんも、泣くんっすね」


 いつもの調子で、陽暈が笑う。だがその声は、命を繋ぎとめてくれた救いの灯にさえ思えた。


「……天若さん……助かりました」


 安心感が胸を満たすと同時に、真壁は自分に激しい怒りを覚えた。ようやく死ねるかもしれない──そんな甘えを一瞬でも抱いた自分が、心底許せなかった。


「当然。もう俺、守られる側じゃないんで」


 陽暈はそう言って背を向け、遠くで呻くファウンドを見据えた。


「あとは俺がなんとかするよ」


 どうやら、彼を見誤っていたらしい。目の前の青年は、もはや危うさを感じさせず、堂々と立ち尽くしていた。

 復讐の相手を前にしてなお、激情に飲まれることなく、自らを律する強さ。荒波に抗い、しなやかに浮かぶ船のようだった。


 彼は、強くなったのだ。心が。魂が。


 彼が立つ限り、この戦いに敗北はない。そんな確信が、真壁の胸を静かに温めていった。


 大丈夫だ。

 もう、委ねていい。

 そう思ったとき、ふっと身体から力が抜けた。


 まどろみのような安堵に包まれながら、真壁の意識は、音もなく深い闇へ沈んでいった。

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