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「マジかよ……折れてる……」


 本格的に浸水が始まって以来、船尾側にいた陽暈には知り得ないことだが、爆発があった船の中央部分を起点とし、船首と船尾が浮き上がり、V字の形に船体が大きく湾曲していたのだ。

 損傷した船の中央部分に流れ込む水の浸水力と、水没していない船首や船尾の浮力が衝突することで、船体が耐えられず、損傷した部分から真っ二つに分断されようとしている。沈みゆく速度も早まり、傾斜もどんどんきつくなっていた。


 見たところ、船首よりも船尾が先に沈みそうだったため、一旦、船首側への移動を選択。

 本来、最上階である八階は、海面から二十メートル以上ある。しかしいまとなっては、中央は海水に覆われており、エイトアイランズ号は隣接する二つの小島のようだった。


「森田さんごめん。ちょっと我慢して。康介もしっかり掴まってろよ!」


「は、はい……!」


 少しでも傷口が開かぬようと丁重に抱えていた森田を、左手に収め、脇腹でホールドした。不測の事態に備え、右手だけでもフリーにしておきたかったのだ。


 そうして寿命の短い島から島へ、飛び移った。少しでも時間を稼ぐために、急な勾配を駆け上がる。

 あとはどのようにして貨物船に戻るかだ。そんなことを思案しながら、係留ロープや錨を撒き上げ下げするための装置が立ち並ぶ船首に到着し、海を見渡した陽暈は、絶句した。


「えぇ! 貨物船が行っちゃいますよ!?」


 背にしがみつく康介が、陽暈の耳元で声を上げた。


「マジでワッツ過ぎんだろ!」


 これまでは意識的に使っていたワッツ。今回は素で口から出た。ようやく自分には浸透してきているらしい。

 そう──陽暈が言葉を失った所以は、彼らの生命線である貨物船が動き始めていたことだったのだ。


 ここでさらなる絶望が、三人を襲う。


 グググゥッという魔物のような呻き声を上げながら、みるみるうちに船首が浮上し始めた。もはや手放しには立っていられないほどの角度となり、どんどん垂直に近づいていく。

 船首の最も先端に取り付けられた手すりを握り、耐えしのごうと試みるが、これまでとは異なり、傾く勢いが異常。振り返ると、すでに船尾側は海面に浸かっていた。


「船尾側に引っ張られてるんですよ! いっそのこと二つに分裂してくれればいいのに!」


 康介の推察は正しかった。前と後ろが中途半端に繋がったままの船体ゆえ、船尾に引きずり込まれる力と、船首の浮力が大喧嘩をしているのだ。ちなみに船首側が劣勢。


 傾く勢いは止まることを知らず、船首は太陽へ向き、やがて垂直に。重力に逆らえず、森田が羽織るジャケットのポケットからスマホが滑り落ち、ウィンチに衝突して砕け散った。

 もし自分が落下したら、ああなるのではないかと不安になりながらも、いまや公園にある雲梯さながらの手すりを手繰り寄せ、よじ登る。


「さすがにこの距離は飛んでも届かないか……」


 屈みながら、ふと船首の裏側に視線を落とす。


「あの鎖は……?」


「アンカーです! いわゆる錨ってやつですよ!」


 康介が答えた。


「あれしかねぇ!」


「ちょ、天若さん! どうするんですか!」


「康介! ここでこの人を落とさないように掴んでてくれ!」


「そ、そんな! 僕には無理ですよ!」


「お前! 船長になるんだろ! こんなとこで諦められんのかよ!」


「船長たって、海賊じゃないんですよ!」


「お前しかいねぇし! お前ならできる! 俺を信じろ!」


「……分かりました!」


「よし!」


 おずおずと、陽暈の背から降りた康介は、手すりを掴んで体勢を整えた。その後陽暈は、森田を康介に託す。


「絶体俺が助ける! 待ってろ!」


「は、はい……!」


 身軽になった陽暈は、船首のてっぺんから、滑らかに湾曲した船体を滑り降り──海底に伸びる鎖に指を引っかけた。

 よく考えてみれば、鎖にてが届かなければ今頃海に落ちている。それなのに、アドレナリンが出ているせいか、あまり恐怖はない。


 そして鎖が通るホースパイプに足をかけ、鎖を握り締める。とんでもない重量が腕にのしかかった。

 だが──。


「ぐぅぅぉぉぉおおおああああああ!」


 咆哮しながら、鎖を手繰り寄せる。

 船の規模が大きくなれば、錨や鎖のサイズもそれに比例する。エイトアイランズ号を停戦するための鎖は、極太、激重。


「重ぇぇえええ!」


 鉄がぶつかり合う音が耳を打つ。


「俺がぁぁああ! 俺の役目はぁあああ゛!」


 東京湾に落とすまいと手繰り寄せた現金輸送車とは桁違いの重みだった。

 それでも──。


「ここだぁぁあああ!」


 何十、いや、百メートル近く引き揚げた。むろん、本来であれば人の手で行う作業ではない。ウィンドラスという自動の巻き取り装置を用いて、時間をかけて抜錨するのが常識。だがいまはそんな時間もなく、電力がダウンしている以上、人力に頼らざるを得ない。


「見えた……!」


 海面がこんもり盛り上がり、巨大なアンカーが顔を覗かせた。そしてついに、泥にまみれた錨に手が届く。


「ドカンと一発ぅゥウウ!」


 まだゴールではない。ここからが始まり。

 可能な限り振りかぶり、全身の力を腕力に集約させる。


「飛んでケェェえええああああああアアア゛ア゛!」


 テニス、砲丸投げ、ウエイトリフティング──。

 瞬間に全身の力を爆発させる競技において、選手たちは、しばしば雄叫びを上げる。それは単なる気合ではない。叫ぶことで抑制が外れ、一時的に筋力のリミッターを解除できるという、いわゆるシャウト効果と呼ばれる現象だ。


 知ってか知らずか──陽暈は咆哮した。鼓膜をつんざくような、野性の咆え。

 そこへ、リリースによって得た異常なまでの筋出力が重なった。人の身には到底収まりきらぬほどの暴力的な力が、全身の腱と骨を唸らせる。


 泥をまき散らしながら、錨は天高く舞い上がり、貨物船の船尾を目掛けて投げ放たれた。

 そして見事──甲板にまで届き、轟音を伴って錨爪が突き刺さった。鎖の長さも絶妙だったらしく、エイトアイランズ号から貨物船へ繋がる鎖の橋が竣工。


「っしゃぁあああゴラァァアアアあッ!」


 投擲種目で世界新記録でも出したかのように歓喜する陽暈。もはや海面は目と鼻の先。てっぺんを見上げ、康介と森田の元へ跳躍する。


「凄いですよ天若さん! いったいあなたの体はどうなってるんですか!」


「お前こそよくやった! ありがとう! 森田さんを守ってくれて! とりあえず乗れ!」


 再び背に親指を立てて促した陽暈は、康介が抱える森田を引き継ぐ。


「はい!」


 康介の腕が首に巻き付いたことを確認し、森田を脇におさめた。そして鎖の架け橋へ飛び降りる。

 エイトアイランズ号が沈むにつれ、貨物船に続く橋も沈んでいく。すでにホースパイプは海に呑まれており、微塵の猶予も残されていない。


 さりとて、希望は繋がれた。あとは全力で駆け抜けるのみ。


「おらおらおらおらぁぁあああああ!」


 不安定な足場。泥や海水のせいで滑りやすさマックス。

 それでも陽暈は二人の命を文字通り背負い、ひたすら走った。十メートル、二十メートル、三十メートル。どんどん速度を上げ、貨物船との距離を縮めていく。


 しかし現実は残酷──残り五十メートルを切ったところで、ゴールに位置する錨が軋み、動き始めた。


「おい待て待て! 耐えてくれ! 頼む!」


 貨物船がなおも前進を続けている──そのせいで、突き刺さった錨が甲板を裂くようにズズズッと音を立てて滑りはじめたのだ。刃のような爪が鋼の床を引っ掻き、火花を散らしながら、じりじりと後退する。


 それと呼応するように、架けられた鎖の橋もたわみはじめた。金属の重みが容赦なく引きずり下ろし、陽暈の足元が緩やかに傾いていく。


 全力で足を回す──。

 だが、重力の執拗な引力は止まらない。視界の端で海面が、静かに迫ってくる。


「こんなとこで……!」


 やがて錨爪は甲板から抜け、錨が海面に落下──激しい水柱を上げた。


「マジかよおい……!」


 このまま着水すれば、カナヅチの自分と、負傷している森田は溺死不可避。康介が多少泳げたとしても、救援がなければ寒さにやられる。

 そんな今日、何度目か分からない絶体絶命の窮地に、救いの手が舞い降りる。


「天若さん! あれ!」


 陽暈の右肩から伸びた康介の腕。彼が指差したのは、貨物船に備えつけられた巨大なクレーン。キリンの首のようなクレーンは、横に回転──先端から伸びるワイヤーが遠心力で振られ、まるで陽暈に手を差し伸べるかのごとくフックが迫っていた。


「いける! あの距離なら飛べる……!」


 鎖を全力で蹴る。いや、鎖ではなくもはや海面を蹴った。


「やべっ……!」


 不運──これまで器用に駆け抜けてきたが、跳躍のタイミングで泥が足を引っ張り、フルパワーのジャンプには達せなかった。


「二人には夢がある……! 諦めさせてたまるかあ゛!」


 またもや陽暈は咆哮した。


 しかし今回の叫びは、虚しくも意味を成さなかった。

 眼前──腕一本分、クレーンのフックに届かなかった。もちろん、貨物船の船尾も程遠い。さすがに手立てがない。


「くっ……!」


 月乃の笑顔が頭をよぎった。妙な感覚だった。見たことはないが、走馬灯とは違う気がする。


 時間の流れが遅くなった気がした。死に直面しているからだろうか。もしそうなのであれば、バーストするのではなかろうか。いや、いまさらバーストしてどうなる。

 そんな卑屈な思考が脳内を支配しかけたその瞬間だった。


 クレーンのフックを掴もうと伸ばした右手が、鋭いなにかに掴まれた痛みにより、意識が引き戻される。


「──ナニヲ、アキラメテンネン」


 どこか安心感のあるキツイ関西弁。真っ赤な翼。違和感のあるノースリーブのスーツ。立派な嘴。


「ア、アキ……アキラァァァアアアアアアア!」


 救世主、月乃の相棒が陽暈に翼を与えたのだ。


「ズットマエカラ、ツキノニ、イワレテタンヤ。ジブンニ、ナンカアッタトキハ、オマエヲ、タスケロッテナ」


「そうだったのか……マジで助かった……ありがとうアキラ」


「カンチガイスンナ。オレハ、オマエヲ、ユルシテヘン」


「あぁ……許さなくていい。でもありがとう」


 月乃が長い眠りについたのは自分の責任。それを咎めてくれる数少ない仲間だ。あの過ちを心に刻み続けるためにも、アキラに許されるわけにはいかない。


 その後、喋る鳥を目の当たりにし、驚愕する康介をいなしながら、クレーンの操縦席へ──アキラは、陽暈と康介、そして森田の三人を引っ張りながら飛ぶのはかなり苦戦していたが、なんとか辿り着いた。


 操縦席に腰を下ろし、レバーを握っていたのは、之槌だった。


「之槌さんだったんすね!」


「天若殿。この老いぼれ、役に立てずに申し訳ない」


「いや、俺の実力不足っすよ。そんなことより、森田さんが結構やばいっす!」


「二人の保護は私にお任せを。大変、心苦しいのですが、船首近くで真壁殿が交戦中ですので、早急に向かっていただけますかな」


「了解っす!」


「天若さん!」


 すぐさま真壁の元へ向かおうとした時、康介が陽暈を呼び止めた。


「どうした?」


「本当にありがとうございました! 僕、頑張ります!」


「礼を言うのはこっちだ。お前がいなけりゃ今頃、船と一緒に沈んでた」


「天若さんがいなくてもそうでしたよ!」


「かはは。つーことは俺たち二人で、森田さんを救ったってことだな。俺もお前も、ヒーローだな」


「僕が……ヒーロー……」


 陽暈は康介の背中をポンと叩き、急ぎ操縦席を出た。

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