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 天若陽暈は、機関室──すなわちエンジンルームに到着し、重厚な扉をこじ開けた。


「康介ー! いるかー!」


 機関室は想像以上に広く、入り組んでいた。

 中央には巨大なエンジンが身構えており、まさに心臓。空気はどこか冷たく感じ、船の心肺が停止していることを実感させる。室内の温度も安定せず、ひとたび漂う湿気が、冷たい鉄の匂いを引き立てていた。


「んん゛……」


 奥からうめき声が鳴り渡った。声の鳴る方へ駆けると、手足を縛られ、口をガムテープで塞がれて横たわる康介が。


「大丈夫か!?」


 ジャケットの内側からナイフを取り出し、ロープを切断──優しく、ゆっくりとガムテープを剥がす。


「ぶはぁ……はぁ……天若さん……」


「怪我はないか?」


「ありません……ありがとうございます……」


 そう言った康介の頬には、アザが認められるため、殴打されたことは明白だった。しかし彼は怪我はないと言う。強い男だ。


「よし、とりあえず話はあとで聞くから、いまはこの船を出る」


「……僕たち助かるんですか……?」


「大丈夫。すぐ近くに貨物船が止まってるから、それで帰れる……と思う。とりあえず立てるか?」


「はい!」


 康介は、差し出された陽暈の手を握り、立ち上がったその直後──ギギギギーッという鉄が軋む音が鳴ったと思えば、足元が徐々に傾き始めた。


「な、なんだ……!?」


 傾斜は約五度。


「沈没が加速してます!」


「なに!?」


「どこから水が入ってるんですか!?」


「なんでそれを……」


「隔壁が閉じられるアナウンスが鳴ってましたよね。で、どこから浸水してるんですか!?」


「そういうことか。なんつーか、船の腹の部分だな! テンダーゲートの近くで爆発があったんだよ!」


「不味いですよ……! 水が流れ込む量が増えて、いまいる船尾が浮き上がってるんです! だとすれば船首側はもう沈みきってるんじゃ……」


「よく分からんけど、マジでワッツじゃん!」


「えっと……とにかく急ぎましょう!」


 ワッツの意味を知らない康介は、一瞬戸惑いを見せたが、すぐに前を向いた。

 いまや緩やかな下り坂となった通路を、若干重力に逆らいながら駆け、出口を目指した。しかし当然の行き止まりに直面する。


「やっぱり隔壁が閉まってる……」


 息を切らしながら、康介が呟いた。

 先刻、閉じ込められる覚悟をしたうえで陽暈がくぐり抜けた重厚なシャッター。いまとなっては完全に絞まり切っており、もはや壁と言っても過言ではない。


「でも手動で開けることもできるはず!」


 そう言って康介は隔壁の付近を調べ始めた。その後すぐに、壁に取り付けられた隔壁の開閉操作ができるスイッチを発見。


「これだ! 開けるのは……」


 複数ある特徴のないボタンを吟味し、康介が指を添えた時、タイミングを見計らったように警告アラームが途絶え、視界が闇に包まれた。


「停電!?」


 暗闇のなか、陽暈が叫んだ。しばらく鳴り続けていた不快なアラームに耳が慣れつつあったせいか、唐突な無音状態により聴覚の喪失を疑ってしまう。


「予備電力も落ちたんだ……」


 康介の苦い声とともに、無機質なスイッチを叩く音が響く。無力感が漂う中、それでも陽暈はまだ諦めてはいなかった。鼓膜に届く音の明瞭さに、自身の聴覚が正常であることを確認しつつも、状況の逼迫が感情をかき乱す。しかし、迷う暇はない。


「大丈夫。俺に任せろ」


 陽暈は目の前の隔壁に両手を押し当てる。すると、康介がスマホのライトを点灯し、頼りない白光が周囲の輪郭を浮かび上がらせた。


「なにをするつもりなんですか……?」


 康介の問いに、陽暈は短く答える。


「力にものを言わせる」


 光に照らされた隔壁を見れば、取っ手も突起もなく、つかむべき場所は皆無。ならば、手のひらの摩擦と膂力で押し上げるしかない。

 足を肩幅より広げ、膝をわずかに曲げる。太ももに力を込め、指先が鉄の表面を捉える感触に集中する。


「くっ……きっ……キキッ……く……」


 声とも息ともつかない音が喉から漏れた。じわりと汗が滲む。神経を研ぎ澄ませ、全身の力を一点に集約する。

 鉄が軋む鈍い音とともに、隔壁はわずかに持ち上がり、床との間に隙間が生まれ始めた。


「えぇぇぇすごぉぉおおお!」


 康介の驚愕の声が響く。しかし、歓声も束の間。開かれた隙間から、待ち構えていたかのように海水が怒涛の勢いで押し寄せた。


「天若さん! 一回下ろしてください!」


 康介の叫びを聞き、陽暈は即座に手を離した。重力に引かれた隔壁は、ギュウゥッというゴムの擦れる音を立てながら、再び閉じる。


「どうした!?」


「不味いです。もうこの先の通路は完全に浸水してます。このまま隔壁を開ければ、僕たち、海水に呑まれるかもしれません……」


「マジか。俺、カナヅチなんだけど」


「僕も得意ではないです……」


 一瞬の沈黙。冷たい水が足元にまで忍び寄る錯覚を覚える。だが、陽暈は即座に決断を下した。


「とにかく時間がない。ここを突っ切るぞ!」


 再び手のひらを隔壁に押しつけ、力を込める。すでに要領は掴んでいる。だが、水の勢いもまた凶暴さを増していた。鋭く波打つ水流が足元を狙い、意志を持った獣のように絡みつく。


 負けじと押し上げ、ついに膝の高さまで隔壁を持ち上げた。ほふく前進すれば、辛うじてくぐり抜けられる──しかし、比例するように水流は強まり、わずかでも足の力を緩めれば、たちまち巻き込まれそうな勢いだ。

 康介はすぐ後ろで配管にしがみつき、スマホの光を頼りに必死で踏みとどまっている。だが、逆流する水の力は無慈悲で、もはや人間の足で抗うのは困難に近い。


 直後、陽暈の足が持っていかれた。


「どぅわぁはっ!」


 間抜けな声をこぼしながら、彼は無様に床へと顔面から倒れ込む。手放した隔壁が再び沈み、鈍い摩擦音を立てながら閉じていった。


「チクショゥ……」


 前面だけをびしょ濡れにした陽暈は、ふと真壁の存在を思い出す。なぜ今まで忘れていたのか──それはご愛嬌。


『真壁さん! 聞こえますか!』


 陽暈の声は、暗闇に吸い込まれるようだった。それに続くのは、無線の沈黙。やはり密閉空間では届かないのか。

 そう思った矢先、不意にジジッというノイズが耳を打った。


『天若さん。どうやらそちらもピンチのようですね』


『そちらもって……貨物船でもなにかあったんすか!?』


『えぇ。少し面倒なことになっています。ですので、どうにかご自身で戻ってきてください』


『マジっすか!? どうにかって──』


『言いましたよね。あなたはもう守られる側ではないと。では』


 周波が乱れ、通信は途絶えた。


「かー! 冷てぇー! 幼女のくせに冷てぇよ! まぁ、そういうのが好きな界隈がいるってのは聞いたことあるけども!」


 ふざけた言葉とは裏腹に、陽暈の心の奥底では、真壁の言葉が燻る炎を炊きつけていた。


「でもそうだよな。それが俺の役目だよな」


 この状況において、森田と康介の命は自分に懸かっているのだと、再認識させられた。


「あぁ!」


「なに!? ビックリさせないで!?」


 突如轟いた康介の叫び声に、心臓がキュッとなった陽暈は、さながらお化け屋敷で怯えるか弱い女子のような言葉遣いを強いられた。


「そういえば! さっきいた機関室に、甲板へ続く非常用出口があるかも!」


「マジかよ!」


「あったとしても開けられるかは分からないけど……」


「俺がどうにかする! とにかく戻るぞ!」


 踵を返し、機関室へ戻ろうとしたその瞬間。


 ガッガッガンッ──!

 船全体が呻き、床が大きく波打つ。ただでさえ傾いていた船体が、さらに傾斜を深める。この時の傾斜はすでに十度を越えていた。

 次いで、トラックに衝突されたかのような衝撃が走った。二人とも体勢を崩し、重力に逆らえず、坂道を転がるように後転しながら隔壁に叩きつけられる。


「うわぁ……!」

「ぐぇ……!」


 頭を打った痛みに呻く。その直後──。

 轟々と川の流れるような音が、静寂を裂いた。


「天若さん! あれ!」


 康介が震える手でライトを向ける。その先──歪んだ壁の隙間から、海水が奔流となって襲いかかってくる。


「なんだってんだよ次から次へと!」


 このままでは、呑み込まれ溺死する。陽暈は迷わず康介を担ぎ上げた。


「ライト頼む!」


「は、はい!」


 いとも簡単に陽暈の右肩に乗せられ、ショルダーキャノンと化した康介は、頭を上げて前方にスマホのライトをかざした。

 すでに水位は、すねの辺りまで迫っている。足場はこのうえなく悪いが、いまは機関室の非常出口にかけるしかない。背後から迫り来る見えざる波に追われながらも、陽暈は全力で足の回転率を上げる。


「うぉぉおおおおお!」


 水流に追い越されは追い越す。命懸けの徒競走。


「くそ……! 走りづれぇな!」


 水の密度は空気の八百倍。水中における動作の抵抗力は十五倍にも及ぶ。


「どうりでおばさんがプールで歩くわけだ!」


 めげずに、筋トレを兼ねてひたすら駆け抜けた。徐々に水位が下がっていき、足の前に押し出す際の抵抗も減少──ついに執拗にストーキングしてくる水を振り切ることに成功した。


「よし! 抜けた!」


 無事に機関室へ到着。担いでいた康介をそっと降ろす。


「す、凄いですね天若さん。人とは思えない走力でした」


 陽暈の圧巻のパフォーマンスを、康介は引き気味に称賛した。リリースしている陽暈からすれば当然だが、康介は一般人だ。人間離れした身体能力を目の当たりにして、そうなるのも仕方ない話。


「そんなことより、甲板へ続く出口ってどこだ?」


「分かりませんが、どちらかというと船尾側だと思います!」


 陽暈もスマホを取り出し、ライトを点灯させた。二人で手分けして出口を探す。


「天若さん! ありました!」


 予想に反して、出口はあっさりと見つかった。


 康介の元へ駆け寄ると、すでに重厚な鉄扉は開かれており、その奥には上階へと続く狭い通路が口を開けていた。


 息を整える間もなく、陽暈は康介に続いて階段を駆け上がる。ほどなくして、頭上に蓋のような扉が見えた。

 康介はその扉に両手をかけ、力を込めて押し上げようとしている。だが、びくともしない。閉ざされた出口に苛立つように、彼の手がわずかに震えていた。


「ダメですね……」


「よし、俺に任せろ」


 狭い階段で康介とすれ違い、今度は陽暈が挑む。

 ここでまたもや、遠くの方で鉄がぶつかるような低い音が鳴り、船体が大きく揺れた。


「うっ……!」


 あまりの振動に、康介が階段から足を滑らせてしまったが、瞬時に陽暈が彼の腕を掴む。


「あ、ありがとうございます。助かりました」


 体勢を立て直し、冷や汗をかいた康介を引き寄せた。


「そろそろこの船も限界っぽいな」


 もはや船は大きく傾いており、ついに傾斜は約三十度に達している。幸い、甲板へ続く階段は横向きに設計されているため、左の壁に吸い寄せられるだけで、上ることに不便はそれほど感じない。


 陽暈は頭上に視線を滑らせた。扉をコンコンとノックすると、密度が低いことが分かった。さきほどの隔壁に比べれば、厚みは大したことはなさそうだ。


「うっし。俺の一撃、ドカンと行くぜ」


 脇を締め、拳を握り込み、腰を落とす。


「我が生涯には──」


 脚力と腕力をフル稼働させ、拳を天高く振り上げる。


「一片どころかまだまだ悔いがあんだよぉぉおおお!」


 激しい衝撃と轟音を伴い、扉は弾け飛んだ。同時に日光が射し込み、視界が白一色に染め上げられる。暗闇に慣れていたせいか、視覚の明順応に時間がかかってしまう。


 やがて瞳孔が小さくなり、ボヤけた視界が定まっていく。甲板へ飛び出た陽暈は、後ろに続く康介に手を差しのべた。


「ありがとうございます!」


 康介は陽暈の手を支えにしながらグイッと這い出た。

 周辺には、鉄の箱と、その中に収納されていたであろう工具が散乱していた。どうやら扉が開かないように乗せられていたらしい。


「とりあえず乗れ! 康介!」


 しゃがみこんだ陽暈は、自分の背を親指で差して促した。すると康介は、リュックサックのように、陽暈の背中に張り付いた。


「しっかり掴まってろよ!」


「はい!」


 軽く甲板を蹴り、宙を舞う──器用に七階へ着地。落下の恐怖に怯える後ろの青年の叫び声は無視し、プール横のカフェへ走り込んだ。


「森田さん!」


 ソファに寝かせていた森田は、一応、無事だった。ただ、息はあれど顔色が優れない。頬に触れると、著しく体温も下がっているのが分かった。


「急がねえと」


 今一度、森田を姫抱きし、急勾配を駆け戻る。外へ出て、船全体の状況を見渡そうと、最上階へ飛んだ。

 目の前に広がったのは、無惨な姿になったエイトアイランズ号だった。

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