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 天若陽暈は、木の軋む音とともに、年季の入ったダイニングテーブルの椅子へと腰を下ろした。

 目の前に座っていた祖父、清隆(きよたか)が、時代の波に取り残されたような紙の新聞を静かに畳み、重たげな息をひとつ吐いた。


「仇討ちか」


 その声は、まるで鋼を包んだ布のようだった。柔らかいが、芯に硬質なものがある。

 無造作に後ろで束ねられた白髪、顎からもみあげにかけて伸びた白い髭──齢を重ねたその容貌に衰えはあったが、清隆の身体にはまだ太さがあった。柱のようにどっしりとした体軸は、昔、軍人だと言われれば納得してしまう。陽暈は、そんな祖父の姿をぼんやりと見つめながら、言葉を出せずにいた。


「復讐は悪し、耐えるが良しと皆は言うじゃろ」


 清隆の声が、陽暈の思考の隙間に染み入ってくる。だが、その言葉が、自分に向けられているものだという実感は、すぐには湧かなかった。


「じゃがそれは当事者でない者が外から宣う綺麗事に過ぎん。家族や親しい者の命を奪った悪党を殺したいと思う方が人間味があると言えるじゃろう」


 ゆっくりと刻み煙草を煙管に詰めながら、清隆は続ける。

 陽暈はただ、それを黙って見ていた。身体はここにあるのに、心だけがまだ事件の渦中に囚われているようだった。母と弟の最後の姿──それだけが、今も目の裏に焼きついて離れない。


「実際に復讐を果たし、止まっておった時が動き始めることじゃってある。じゃから、復讐が善か悪かなんざ答えのないことは考えんで良い」


 火を灯したマッチの淡い光が、祖父の顔を一瞬照らす。そして、煙管の先を吸い込み、くすんだ灰色の煙を天井へと吐き上げた清隆。


「じゃがな、これだけは覚えちょれ。人の命を奪うことは、いかなる理由があろうと悪じゃ」


 低く、決して大きくはないその言葉が、陽暈の心臓の奥で弾けた。

 心の中にあった、ねっとりと絡みつくような憎しみ──形にならない黒い泥のような感情が、まさに見透かされたような気がした。

 頭の奥がじんじんと疼く。祖父の言葉は、優しさでもなければ説教でもなかった。ただ静かに、だが鋭く、核心に触れてきた。


「死んだ者の痛みは、生きとるわしらには分からん。じゃが残された遺族の痛みは知ったじゃろ。殺されて良い人間なぞこの世にはおらんのじゃ」


 殺されていい人間なんて──いない。

 分かっている。頭では。だが、心が納得しない。心が、叫び続けている。許すなと。


 清隆は老眼鏡を外し、静かにテーブルに置いた。その仕草に派手さはないが、妙に儀式的で、言葉に重みを与えるようだった。

 もう一度、煙管に口をつける祖父を見つめながら、陽暈の拳は膝の上でじわりと強張る。


「お前さんは人の命を奪うのではなく、掬い上げられる人間になれ。誰かのよりどころになるだけでも構わん。人は誰しもお役があるんじゃ。お前さんにもきっと、お前さんにしかできん役目が用意されちょる。絶対に逃すでないぞ」


「俺の……役目…………」


 口にしてみたものの、言葉は空虚に響いた。

 役目なんて、今の自分には見えない。ただ、仇を討つこと。それしかない。それ以外のことは、何一つ考えられない。


 母と弟を殺した奴らを許す気はない。

 誰かの命を守る? そんな余裕はない。

 誰かの拠り所になる? 今の自分が?


 だが──。


「いまはまだ分からんで良い。お前さんに必要なのは時間じゃ。色々と思うことはあるじゃろ。ゆっくり考えい」


 清隆の言葉は、不思議なほど陽暈の胸に沁みた。

 分かっていなくても、迷っていても、いまはそれでいいのだと、肯定してくれているようで。


「ありがとう、じいちゃん。なんとなく分かった気がするよ」


 本当は、何も分かってなどいない。

 ただ、清隆が自分を心配してくれている。それだけは確か。ゆえに、少しでも安心させたかった。

 陽暈にできたのは、その程度の、つまらない背伸びだったのだ。


 後日、陽暈は清隆の住まいへと引っ越すことになった。かつて暮らしていた家から、隣町へ。学校が変わらないのは幸いだった。だが、それすらも、今の陽暈には意味をなさない慰めに思えた。


 段ボールを開け、引越しの荷造りを進めるなかで、ふと手に取ったのは、写真立てにおさめられた一枚のスナップ。

 そこには、弟と自分が波留を挟むかたちで写っている。三人とも、揃いも揃って満面の笑みを浮かべていた──幸福の頂点を切り取ったような瞬間。

 だが、脳裏をかすめたのは、あの夜に見た、生気を失った二人の顔だった。冷たく、硬くなった顔。それでも、目尻には、微かに涙の痕があったような気がする。

 死の恐怖に怯えて流したのか、それとも愛する家族との別れを嘆いてのものだったのか。


 陽暈は、静かに瞼を閉じた。

 幼い日の記憶が、遠くで手を振るように浮かび上がる。


 あれは、幻陽が一人で泣いていた日のこと。陽暈はゲームに夢中で、弟の嗚咽を気にも留めなかった。そんな無責任な兄に対し、波留が優しく、しかし確固とした声で告げた。


「人が涙を流すのは、助けを求めるため。だから涙を流している人を見かけたら、問答無用で手を差し伸べなさい」


 それは、わがままで未熟な陽暈に向けた、静かな叱責だった。

 あとになって分かったのは、大切にしていた玩具を幻陽自身が壊してしまい、その悲しみで涙をこぼしていたということだった。


 波留と幻陽は涙を流していた──。

 ということはきっと、あの瞬間、助けを求めていたのだ。


「俺が手を差し伸べるべきだったんだ……」


 呟いた言葉は、呪いのように胸を締めつけた。

 もちろん、あの夜、自分は家にいなかった。二人が涙を浮かべていたかどうかも、結局は想像に過ぎない。

 それでも──それでも、あの時間、無関係なトランプゲームの駆け引きに思考を費やしていた自分の姿を思うと、怒りにも似た悔しさがせり上がってくる。


 写真立てのガラス越しに、あの笑顔が揺らいだ気がした。陽暈はそれを丁寧に梱包材で包み、箱の中へとそっとおさめた。

 他に持って行くものはないかと部屋を見回したとき、視線が吸い寄せられたのは、幻陽と共有していたゲーム機だった。


 幻陽には、よく格闘ゲームを誘われた。

 元より陽暈が買い求めた一本。友人たちと競い合い、指先の応酬に一喜一憂した日々があった。自分が勝つことは当然のように続き、弟を相手にしても、初めのうちは、勝利は取るに足らぬ日常の一部だった。


 だが、ある時を境に、風向きが変わった。

 幻陽は、目に見えて強くなっていった。最初は偶然と思った敗北も、次第に敗け癖となり、やがて陽暈は、弟の眼前で為す術もなく打ち倒されるようになった。

 認めざるを得なかった。自分は、もはや勝てないのだと。

 情けない話だが、それ以降、陽暈は誘いを断るようになった。

 勝ち目のない勝負に挑むのは、どこかでプライドを削られる。戦いとは、勝つからこそ楽しい。負けが確定したゲームは、もはや娯楽ではない。


 そして──あの日、最後に幻陽と交わした会話も、格闘ゲームの誘いだった。

 日常の延長としてのひとこと。それを、何の気なしに、ただ「また今度」と流してしまった。まさかそれが、人生最後の誘いになるとは、思いもよらなかった。


 あの時、応じていれば何かが変わったのだろうか──そんな問いは、答えのない迷路のように胸の内を彷徨う。いまさら考えても何の意味もない。失ったものは帰ってこないだから。


 家族との思い出というものは、不意に現れる──日常のなかに沈殿した埃のように、ありふれた物たちの間にそっと紛れ込んでいる。

 箸の一本に、食卓で交わした何気ない会話が宿り、使い古したバスタオルの模様には、風呂上がりに笑い合った温もりが滲んでいる。壁に刻まれた薄い傷跡ですら、かつてのじゃれ合いの名残として、ひっそりと語りかけてくる。


 そう──こんなときに限って、いや、こんなときだからこそ、取りこぼした記憶が輪郭を取り戻し、頭の中を無遠慮に駆け回る。

 それらは何の役にも立たない、ただの断片。

 にもかかわらず、その一つひとつが、胸の内でじわりと波紋を広げていく。深海に沈んでいた想いが、突如として浮かび上がるかのように。


 大切なものは、失って初めてその重みを知る──そんな使い古された言葉を、これほど痛切に実感したことはない。

 気を抜けば、涙の奔流が堤防を越えてあふれ出しそうになる。


 津波警報を発令しながらも、陽暈は黙々と引っ越しの荷をまとめ続けた。

 溺れてなるものかと、押し寄せる感情の波に耐えながら──ひとつ、またひとつと、思い出の欠片をしまった。

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