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貨物船の安全が確認されたことで、陽暈たちはエイトアイランズ号へと戻り、乗客の移乗作業にあたっていた。
幸いにも、吉村と教員陣が落ち着いて状況を説明してくれたおかげで、大きな混乱は起きなかった。そもそも沈没の危険がないうえ、別の船で安全に寄港できるとあらかじめ知らされていたためか、生徒たちの表情には不安よりも安堵が浮かんでいた。
思いがけない形で修学旅行の幕が下ろされることに、物足りなさを覚える者もいたかもしれない。だが、命あっての物種。再び旅に出る機会はいくらでもある。
もともと班行動が徹底されていたため、移乗は予想以上に円滑に進んだ。中にはこの非日常をどこか面白がっている生徒の姿もあり、それもまた、彼らの記憶に残る一日になるだろう。
乗客を失った船内は、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。耳を澄ませば、穏やかなBGMだけがゆるやかに空間を満たしている。陽暈はそんな静けさのなか、最後の見回りへと足を運んでいた。
廊下の片隅で、ふと目に留まった。あのとき、海へダイブしようとしていたメモ帳が、ぽつんと転がっていたのだ。
「あれ? これ、康介のやつか」
ジャケットの内ポケットへ丁寧にしまい、テンダーゲートへ向かった。
生徒と教員の移乗は完了したらしく、最後の便はエイトアイランズ号の乗組員がボートへ乗り込んでいた。
「天若殿。我々もこの便に乗せてもらいましょう」
すでに巡回を終えた之槌が、陽暈の到着を待っていた。そのまま之槌と共にボートへ乗り移ろうとした時、息を切らした吉村が現れた。
「私も乗ります……!」
「おや、吉村殿は残らなくて良いのですかな?」
「えぇ。クルーもここにいる者で全員です」
「しかしエイトアイランズ号はどうするのですか? このまま放置するわけにもいきますまい」
「もちろんです。さきほど弊社のグループ会社に要請をしたので、数時間後にタグボートが到着します。エイトアイランズ号は彼らが曳航してくれるでしょう」
「そうでしたか。しかし一人もクルーがいないというのは問題ないのですかな?」
「問題ありません。錨でしっかり停船していますから」
「いやはや、差し出がましいことを申しましたな。失敬」
之槌は深々と頭を下げて詫びを入れ、吉村に先を譲らんと船の入り口に向かって手を添えた。すると遠慮気味に吉村がテンダーボートへ乗り込む。続き、陽暈と之槌も乗船し、再び貨物船を目指した。
エンジンの唸りが海面を切り裂く。再び貨物船へ向かうあいだ、風の匂いだけがやけに鮮明だった。
タラップを駆け上がった先、甲板にはすでに生徒たちが整列していた。まるで即席の学年集会のように、規律正しく並んだ制服姿が、波音を背に揺れている。
列を抜けて進み、陽暈たちは船上で待機していた真壁や森田と合流した。ふと視線を上げると、遥か高所に設けられた操舵室の窓から、石川の姿が小さく見えた。
生徒全員を収容できる広さは貨物船にはなく、やむなく空のコンテナを一時的な居場所として使わざるを得なかった。その旨が教員の口から伝えられると、生徒たちの顔には一様に不満と困惑の色が浮かぶ。
おそらく体育教師であろう体格の良い男による諸々の説明が終わったところで、一人の女教師が眉根を寄せながら陽暈たちの元へ駆けよった。
「すみません……山本と申します。生徒が一人見当たらなくて……」
「名前と見た目を教えてください」
真壁が冷静に問い返した。
「えぇっと身長は……」
そう言いながら、山本は陽暈を見やった。
「そちらの方より少し低いくらいで、黒髪で……あ、あと! メモ帳を常に持っていました!」
むろん、陽暈には覚えがあった。拾ったことを忘れていたメモ帳を取り出す。
「メモ帳ってこれっすか?」
「そう! それです!」
「天若さん。どこでそれを?」
「さっきエイトアイランズ号の三階の通路で拾ったんすよ。じゃあ康介が取り残されてるってことか」
「はい……伊達康介くん。私がしっかり数えておけば……」
自責の念に押し潰されそうな山本の前に陽暈が立った。
「山本先生、安心して。俺たちが探してくるから」
「本当ですか……! お願いします!」
藁にもすがる様子で、山本は陽暈に頭を下げた。
「では、ボートの操縦は私がお教えしますので、之槌さんたちで探してきていただけますか? ただ、こちらも心細いので、一人……天若さんには残っていただきたいですね」
しばらく静かだった吉村からの提案。その時、常に平穏な表情を浮かべる之槌が訝しげに眉間に皺を寄せた。
「吉村殿が操縦するのはどうですかな?」
確かにそれもそうだと、陽暈は思った。わざわざ教わってまで、陽暈たちだけで向かう必要性はない。
そんな之槌の問いに、ピクリと眉を動かしたものの、吉村は首を縦に振らなかった。
「いえ。私はここにいる乗客を見ておきたいのです。船長として」
吉村の主張から、やや間を空けて之槌が頭を下げた。
「これは失礼、また出過ぎた真似を。おっしゃる通りですな。では早速、ボートの操縦方法をご教示願います」
意外にも、彼はすんなりと引き下がった。
吉村の船長としての責任感は妥当だ。陽暈にも異論はなかった。
そうして、陽暈らは吉村からテンダーボートの操縦方法を教わる運びとなった。
この小型船は救命艇としての役割も兼ねており、操作系統は極めてシンプル。陽暈のような初心者でも、少しの慣れで十分扱えそうだった。
船長直々のレクチャーを受け終え、対した距離ではないものの、いよいよ出航か──と身構えたそのとき、背後から之槌の低い声が響いた。
「お待ちを」
その一言で、船上の空気がほんのわずかに緊張を帯びる。
「エイトアイランズ号には天若殿か真壁殿、どちらかお一人で行っていただけますかな?」
「そ、それはあんまりですよ。船内は広い。一人は貨物船に残るとして、少なくとも三人で探した方が効率的です」
なにやら焦りを見せた吉村が割って入った。そんな彼を尻目に、陽暈が疑問を呈す。
「之槌さん。どうして俺か真壁さんだけなんすか?」
「我々一般人の身体能力には限界があります。お二人なら大丈夫でしょう」
「一般人って、あなたも公安の人間なんですよね? だったら手分けして探すべきです。生徒の命がかかっているんですから」
吉村は、陽暈と真壁が公安ではなく、特執の捜査官であることを知らない。ゆえに、之槌が言った一般人とそれ以外の線引きが異なるのである。
「吉村殿。ここからは我々の仕事です。人命の優先は百も承知。お任せください」
少し声を低くして、吉村の反対を跳ねのけた之槌。珍しく強められた目力は、ただの思いつきで陽暈か真壁を指名したわけではないことを物語っている。
「そ、それならせめて、二人で行くべきです。というのも、ボートの操縦はできても、ゲートへの接舷から固定までこなすのは、一人では困難です」
「なるほど。そういうことなら、森田くん、お願いできますか?」
「もちろんです!」
久々に彼の声を聞いたと思ったが、体力は有り余っているようだ。
「では、私が参りましょう」
森田に続き、真壁が名乗りを上げた。しかし陽暈が黙っていられない。
「いや俺が行くよ。真壁さん」
少しとは言え、康介とは話した仲だ。他の生徒だったとしても気持ちは変わらないが、彼を探しに行くのは自分が果たすべき役目だと思ったのだ。
「て、天若さんは──」
「吉村殿」
相変わらず口を挟んでくる吉村を、之槌が大きめの声で遮った。
「我々にお任せください。それとも、なにか不都合でもございますか?」
「い、いえ……ありません…………」
「では天若さん、お願いします」
真壁は陽暈の打診を快諾した。
「まぁ、なにも船が沈むというわけではありませんので、焦る必要もないでしょう。そうですな? 船長殿」
「え、えぇ。おっしゃる通りです……」
どういうわけか、吉村の表情には翳りがあった。船長という肩書きに似つかわしくないほど、首元にはじっとりと汗が滲んでいる。
結局、ボートには陽暈と森田の二人が残されることとなった。
静かに波を切る音を背に、真壁たちに見送られながら、森田はエンジンをかける。ボートはゆっくりと、しかし確かに進み出した。
「よろしくお願いします! 天若さん!」
相変わらず活きの良い森田。自分より年上の彼にへこへこされるのは居心地が悪い。
「おなしゃーっす! てか、そんなに硬くならなくていいっすよ。俺の方が年下だし。敬語とか使われると困るっつーか」
「あ、そう? じゃあ遠慮なく!」
ハンドルを握りながら、森田は張っていた肩を落とした。
「正直、今回の仕事は詳しく聞かされていなくてさ。行き当たりばったりでここに立ってるんだよね、僕」
ずいぶん人間らしくなった森田は、声のトーンを落として呟いた。
「そうなんすか?」
「うん。きみとあの真壁って人は、いったい何者なんだい? 之槌さんがあんなにへりくだって話すってことは、相当偉いんだよね?」
陽暈はてっきり、森田は之槌と同じく特執の存在を知っているのだと思っていたが、どうやら違ったらしい。
「いや、俺なんかなんにも偉くないっすよ。俺のことより、森田さんはどうして公安に?」
「そうなのかい? 僕は元々、神奈川の交番で勤務してたんだけど、つい最近、之槌さんに声をかけてもらったんだ」
「へぇ、之槌さんと知り合いだったんすか?」
「いいや全く」
森田は少し笑いながら否定した。
「二ヶ月ほど前に、近くの住宅で火事が起きてね。家に取り残された子供がいるんだって両親が騒いでた。だけど僕は警察官であって、消防官じゃないから、子供を救える自信がなかった。でもその時思ったんだ。子供一人の命すら救う覚悟もなかったのかって」
「まさか、火の中に飛び込んだんすか?」
「うん。凄い熱かったけどね。でも助けることができた。その子の家族にお礼を言われた時は、めちゃくちゃ嬉しくてさ。なぜか僕が泣きそうになったよ。長らく交番でのんびり暮らすうちに、自分が目指してた夢を見失いかけてたんだろうね」
「夢……」
陽暈は噛み締めるように復唱した。自分には、目的はあれど、夢と呼べるほど大層なものがなかったからだ。
「全身の火傷で入院してたんだけど、どこから聞きつけたのか之槌さんがいきなり病室に入ってきてこう聞いてきたんだ。きみはどうして警察官になろうと思ったのって」
「それで、なんて答えたんすか?」
「丁度自問自答してたのもあって即答した。一人でもいいから、人の命を救いたいと思ったからですってね。どうやら不正解じゃなかったみたいで、公安へ来いって言われたんだ」
「なるほど。そんな経緯があったんすね。あれ? じゃあ公安にきてそんなに時間経ってないってことっすか?」
クスリと笑みをこぼした森田は、後頭部をおさえながら答えた。
「警視庁から出たのは今日が初めてなんだ。はは。頼りなくてごめんね」
「そんなことないっすよ。火に飛び込む強さがある森田さんなら、一人とは言わずにたくさんの人の命を救えるはずっすよ」
「ありがとう。頑張るよ」
キリの良いところで、エイトアイランズ号のテンダーゲート付近への接舷に成功した。残る作業は、ボートが潮に流されぬよう、船首と船尾の両方に係留ロープをしっかりと固定するだけ。
これまで操縦は森田に一任していたが、ここからは陽暈の出番だ。
乗り場との間にはやや距離があったが、陽暈は躊躇いもなく跳躍──テンダーゲートのポールへ軽やかに着地。そこに結ばれていた係留ロープをつかみ取ると、今度は身をひねってボートの屋根へと飛び移る。
船首側の取っ掛かりにロープを引っ掛け、手早く締め上げる。続けて船尾側でも同様に固定。潮の干満や揺れを読んだ絶妙な張力で縛り上げ、ボートの位置を安定させた。
「確かにこれを一人でやるのは厳しかったかもな」
ゲートへの飛び移りは陽暈にとって造作もなかったが、ロープを取って戻るあいだにボートが流れてしまう可能性は高い。だからこそ、操舵を担うもう一人の存在──つまり森田が必要だった。今になって、吉村の助言の真意が腑に落ちる。
「とんでもない身体能力だね」
身を乗り出した森田が、思わず感嘆の声を漏らした。
「運動神経には自信があるけど、僕にはできないな」
「それほどでもあるっすけど、俺は反則してるようなもんっすよ」
「反則?」
「いつか分かるっす。とにかくいまは急ぎましょ! 俺は上階から行くっす!」
「分かった! じゃあ僕はこのまま下から!」
森田と別れた陽暈は、迷いなくエレベーターに乗り込んだ。揺れる海の静寂を切り裂くように、機械仕掛けの箱は音もなく上昇を始める。
目指すは最上階──八階。




