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 広島港──。

 修学旅行生を見送るべく、多くの保護者が駆けつけていた。

 陽暈たちは、エイトアイランズ号を所有する八洲商船の内部監査チームという位置づけで同乗する。


 港に残る者と、船で旅立つ者が、様々な色のカラーテープを通じて別れの握手を交わす──次第にテープは千切れていき、やがて埠頭が遠ざかっていく。


「あのテープ、回収が大変っすね」


 手すりに身を寄せながら海面を覗き込む陽暈。


「あれは水に溶ける素材ですから、最悪回収しなくても問題ないですよ」


 博学な真壁から回答が得られた。


「へぇ──いや待てよ。これどっちだ。嘘か、本当か……」


「天若殿。真壁殿のおっしゃる通り、あのテープは水に溶けますぞ」


 横から之槌が真偽を明らかにした。彼は嘘をつかない。之槌が言っていたというだけで、その信憑性は跳ね上がるのだ。


 今回のメンバーは、特執から陽暈と真壁、公安からは之槌と森田(もりた)という男。


「先輩! 早速船内の巡回をしてきます!」


 短く整えられた黒髪。歳は零士と同じくらいだが、肌艶が凄まじく、陽暈と良い勝負だ。


「森田くん。無理しなくていいですぞ。自分のペースで頼みます」


 我が子を見守る親のように微笑んだ之槌が、森田を送り出した。


「彼はいつもああで、たまには休むように言っているのですが、性に合わないようですな」


「やっぱり警察って体育会系が多いんすか?」


「そうですな。そんな時代ではないことくらい、みな分かっておるのですが、なかなか払拭できないようです」


 そう言って之槌は苦笑いした。


 しばらくデッキで他愛もない話をしていると、すっかり陸地が見えなくなり、いよいよ本格的に航海が始まった。そして之槌は森田の様子を見ると言い、船内の巡回に向かった。


「それにしても、乗客が失踪したのに船だけ帰ってきたって、不思議な話っすね」


 潮風を味わいながら、茶髪のポニーテールをなびかせる真壁に問うと、彼女は細長いアタッシュケースを手すりに立てかけた。


「えぇ。天若さんは幽霊を信じますか?」


「いやー信じないっすね。見たことないし」


「実は私、幽霊を見たことがありまして、長崎の失踪事件も幽霊の仕業だと考えているのです」


 真壁は、怪談話の導入のように声のトーンを落とした。むろん、陽暈は鼻で笑う。


「んな馬鹿な。仮に幽霊の仕業だったとして、律儀に船を港まで操縦する意味ないっしょ」


「そうでしょうか? もし、沈没の被害にあった人々の幽霊が船を乗っ取り、生まれ育った長崎に帰りたいという理由で船を操舵していたとしたらどうですか?」


「いや、まぁ、そんなこともあるかもしれないっすね」


「いつもの嘘だと思って聞き流していますね」


 あまりにも核心を突かれ、ドキッとした陽暈は真壁を見やる。多少は苛立ちを見せているのかと思いきや、彼女の面差しはいつもどおりの真顔で安心した。


「一応言っておきますが、私が助ける命の優先順位において、あなたは最下位です」


「なんすか急に。めっちゃ冷たいじゃないっすか」


「これは温度の話ではありませんよ」


「分かってるよ。相変わらず冷めてんなぁ」


「ですから温度の話ではないです」


「分かったって! 頭固いな!」


「硬度の話でもありませんよ」


「はいはい! で、なんなんすか!」


 やや間を空けて、真壁は振り返った。そして手すりに背を寄せて、青空を仰ぐ。


「半年前から、あなたは見違えるほど強くなりました。私が認めます。あなたはもう、守られる側ではなくなりました。それがどういう意味か、分かりますか?」


「よく分からないっすけど、俺の役目は分かってる」


「そうですか。いいでしょう。では、我々も船内の巡回をするとします。不審な動きがあれば無線で知らせてください」


 真壁が何を伝えようとしていたのか、明確には分からなかった。しかし直感的に、感覚的に、何となく理解した。

 そうして彼女の指示通り、陽暈は船内を巡る。


 午前十一時。館内は生徒たちの活気で満ちていた。

 メインダイニングでは、窓際に集まった生徒たちが海を背景に記念撮影を楽しみ、テラスでは潮風に吹かれながら、小島の影を指さしては声を弾ませている。

 廊下には制服姿のグループが行き交い、「プール行こう」「カフェがあるらしい」と口々に言いながら探索を続けていた。

 カフェ近くのラウンジでは、ドリンク片手に談笑する姿があり、陽光がテーブルに柔らかな影を落としている。

 シアター前ではポスターを眺める生徒たちが集まり、「これ観たい」と盛り上がり、隣のホールからは試し弾きされたピアノの音がわずかに漏れていた。

 プールエリアには特に人が集まり、水面の煌めきに目を奪われる者、手を浸してはしゃぐ者の姿も見られる。


 そんな賑わいの中、陽暈は人混みを避けつつ、船内の隅々まで目を配っていた。歩調は落ち着いていて、その視線には警戒と観察の色が滲む。

 一通りの巡回を終え、メインデッキへと戻った陽暈は、ふと視線を泳がせた先で、手すりに寄りかかる一人の男子生徒を見つけた。手にはメモ帳。ペンの動きから、何やら真剣に書き込んでいるようだった。


「それ、なに書いてんだ?」


 陽暈が何気なく声をかけた瞬間、生徒の肩がビクリと跳ねた。驚いた拍子に手元が狂い、メモ帳がふわりと宙に舞う。


「あぁ!」


 風に煽られたそれは、まるで海に恋い焦がれた鳥のように、手すりの隙間から青へと滑り落ちた。


 陽暈の体が、反射よりも早く動いた。考えるより先に脚が跳ね、軽やかに手すりを越える。空中で翻るように身をひねり、メモ帳へと手を伸ばした。


「えぇ! ちょっと……!」


 焦燥する青年の声が聞こえた頃には、陽暈の手がメモ帳に届いた。そこでようやく、自分が平然と自殺行為に及んでいることに気づく。


「あ、やべ、死んだ」


 プールですら溺れかける自分が、こんなところで落ちれば、確実に海の藻屑。顔が引きつった瞬間、彼の視界に小さな可能性が飛び込んできた。

 船体の側面──そこに並んだ、いくつもの丸窓が認められた。

 サブエントランスがある一階や、テンダーゲートがある地下一階には、開閉不可ながら窓が設置されているのだ。


「届けやああ!」


 咄嗟にメモ帳を握る手と逆の手を伸ばし、小窓の縁に指を引っかける──関節が悲鳴を上げるが、腕力を総動員して跳ね上がった。気合というより絶叫に近い声と共に。


「おんどりゃぁぁあああ!」


 途中、窓越しに生徒と目が合ったが、見なかったことにしてもらおう。

 勢いを殺しがてら手すりに指をかけ、方向を修正──ぎりぎりの着地に成功した陽暈は、乱れた呼吸を整えながら、手にしたメモ帳を見下ろし、ひと息。


「ふぅ……危なかった」


「え、えぇぇぇえええええ!?」


 一部始終を目撃した青年は、開いた口が塞がらない。


「悪かったな、急に声かけて。ほら、これ」


 力んだせいで少し折れてしまったメモ帳を、のばして修正しながら差し出す。


「どうしてこんな紙切れのためにそこまで……」


「確かに俺にとっちゃ紙切れだけど、お前にとっては違うだろ? ほら」


 受け取りあぐねている青年に、再度メモ帳を突き出す。


「ありがとうございます」


 ペコリと頭を下げて、律儀に両手でメモ帳を受け取った。


「俺は天若陽暈。お前、名前は?」


「僕は伊達(だて)康介(こうすけ)です」


「康介か。んで、なに書いてんだ? それ」


 陽暈は康介が手に握るメモ帳に視線を滑らせた。


「あぁ、これですか? 僕、将来船長になりたくて、今日見たことを色々と書き留めてるんです!」


「へぇ。立派な夢だな。そんじゃ、あのロープの名前は知ってるか?」


 船首に見える巨大なロープが巻き付いた装置を指差した陽暈が、知識勝負を仕掛けると、康介は嘲笑して回答した。


「そんなの簡単ですよ。係留ロープと言って、港に船を留めておくためのものです。ちなみにあの装置はウインチと言って、レバーを引けばゆっくり回転しながらロープを巻き取るものです」


「な、なかなか詳しいな」


「さっき作業してるのを見ましたからね。ならあれはどうですか?」


 康介のターン──指差したのは、そのロープの付近に並べられている丸い何か。


「なんだあれ。黒猫ヤマ……いや、ただの猫か」


 無造作に積まれた直径一メートルほどの円盤。それらは、どれも中央に十センチほどの穴が開いており、子供が描いたような愛くるしい猫の絵が。


「あれの名前と、使い方を知っていますか?」


「あれは……そう! ただの賑やかしだろ?」


 むろん、知らない。だが、陽暈の浅い知識では、それ以外に考えられなかった。とはいえ、自信がないこともなかった。

 しかし──。


「ブブ―。残念不正解。あれはラットガードと言って、鼠が船に侵入するのを防ぐものでしたー。僕の方が船に詳しいですねー」


 口を尖らせた康介は、腹立たしい面持で陽暈を煽った。


「はー? ならお前、パンケーキのパンは何の略か知ってるのかよ!」


 陽暈が繰り出す苦し紛れの反撃。船もクソもない。


「フライパンの略でしょ?」


 康介の繰り出す即答。陽暈のヒットポイントはゼロに達した。自分から喧嘩を売っておいて完封されるという恥。ネットなら顔真っ赤で草と言われてオーバーキルされる案件だ。


「くっ……やるな。引き分けで勘弁してやんよ……」


「ははっ。お兄さん八洲商船の監査チームなんですよね? 若いし船の知識もないみたいだけど、大丈夫なんですか?」


「ば、馬鹿言え! 安全管理の監査だから、船の知識とか別にいらねんだよ!」


「そんなものなのかなー」


「そういうもんなの! そんなことより、どうしてまた船長になろうって思ったんだよ」


 地雷を踏んでしまったらしく、康介は眉根を寄せ、面差しに影を落とした。そして静かに、囁くように唇を震わせる。


「……父に憧れたんです」


「康介の親父さん、船長なのか?」


「はい。今はいなくなりましたが……」


「いなくなった? まさか長崎の……?」


 不意に陽暈が口から滑らせた機密情報を聞き、康介は目を丸くした。


「え? どうしてそれを? 警察の人はまだ公表しないから誰にも言わないでって言ってたのに」


「え? あ!? いや、なんか噂で聞いただけだ。辛いこと聞いて悪かったな」


「いえ……」


 意外にも康介はすんなりと納得した。もしかすると警察の関係者であることは、もう感づいているのかもしれない。


「息子に憧れてもらえる父親ってことは、きっとかっけぇんだろうな」


 気を取り直して、それほど深く考えずに陽暈は言った。しかしその時、父親という存在が、少し羨ましいと感じる自分に気づかされた。が、表には出さない。


「はは。まぁたまに怖い時もあるけど、かっこいいです」


「そっかそっか。いい父親を持ったんだな」


 空気がしっとりとしたところで、陽暈の耳に捻じ込んだワイヤレスイヤホンから、真壁の声が響いた。


『総員、至急操舵室に来てください』


 いつものことだが、彼女は言葉では急いでいても、声のトーンや口調が落ち着き過ぎており、混乱させられる。


「わりぃ、行かねぇと。康介、頑張って船長なれよ」


「はい!」


 そうして、ギュッとメモ帳を握りしめて頷いた康介と別れ、陽暈は操舵室へ向かった。


 廊下では、乗組員たちが慌ただしく行き交い、空気に張り詰めた緊張が漂っていた。どこか異常が起きているのは、足音の速さや、交わされる声の色で十分に察せられた。


 やがて辿り着いた操舵室には、すでに之槌と森田の姿があった。ふたりとも無言のまま、状況を見守るように正面の窓へ目を向けている。


「天若さん」


 アタッシュケースを手に持った真壁が、陽暈を迎え入れる。


「なにかあったんすか?」


「少々、問題が起きましたな」


 神妙な面持ちの之槌。その隣には、船長の吉村(よしむら)と乗組員が数名。

 吉村とは出向前に軽く顔合わせをした。この巨大な船の長と言うだけあって、責任感のあるしっかり者だという印象だ。


「実は……エンジントラブルが起きました。本来であれば予備エンジンが作動し、最低限の航行はできます。しかしどういうわけか予備の方も動かず、漂流状態にありますので、現在は錨を降ろして停船しています」


 苦い顔の吉村からそう告げられると、すかさず陽暈が問うた。


「そのトラブルってのはいつ解消されるんすか?」


「いまのところ、見込みがありません……」


 ばつの悪そうな表情で吉村が俯いた。しかし、「ただ」と前置きながら、すぐに顔を上げる。


「運行管理センターに連絡を取ったところ、沿岸警備隊の指示により、近隣の船舶と連携して乗客の安全確保を優先するようにと言われています。すでに、最も近い場所を航行する貨物船と連絡が取れましたので、乗客を移乗する手はずを進めています」


「貨物船を運営している会社はどちらですかな?」


 低い声で、之槌が鋭く切り込んだ。


「東洋エターナルと聞いています」


「ほう。なかなかの大手ですな」


 人差し指と親指を顎に添えながら、之槌が唸った。

 当然、陽暈はその会社名に聞き覚えはない。どんな会社なのか、之槌に視線で問うと、すんなりと回答を得られた。


「主に自動車やその部品の輸出入を行っている会社ですな。おおかた、アジアの方から帰ってくる途中といったところでしょう」


「私も聞いたことがあります。しかし信用してよいのでしょうか?」


 凶器を収納したアタッシュケースを壁に立てかけながら、訝しんだ。


「確かに、少々臭いますな。ただ、いまは他に手立てがない以上、致し方ありません。先に我々が貨物船を調べ、安全を確認したうえで乗客のみなさんに移っていただきましょう」


 終始、不穏な空気が流れるなか方針は決まった。


 船と直通する通路を確保するのは困難なため、テンダーボートと呼ばれる小型の船に乗り換えて貨物船を目指すとのこと。ボートは二台あるうえ、一台に百人以上乗れる。スーツケースなどの荷物を加味しても三往復もすれば全ての乗客を移せる見込みだ。


 吉村の案内により、船の地下一階に位置するテンダーゲートから、陽暈はボートへ乗り込んだ。

 内部は整然と座席が並び、鉄と樹脂の匂いが漂っていた。内装だけに目を向ければ、電車や飛行機などとさして変わらなかった。

 ふと窓の外に目を向けると、貨物船がすでに五十メートルほど先まで迫っていた。鈍重な巨体は、エイトアイランズ号にも劣らぬ威容を誇っており、まるで海に浮かぶ要塞のようだった。


 カナヅチである陽暈にとって、すぐそこにある海面は底知れぬ恐怖の象徴だったが、予想以上にボートの構造は堅牢で、振動も小さく、かろうじて冷静さを保つことができた。


 しばらく海上を走ると、貨物船の傍まで到着。貨物船に取りつけらたタラップと呼ばれる可動式の階段から乗り移った。

 貨物船の乗組員は協力的で、生徒たちも安心できそうだった。その後、乗組員に連れられ、貨物船の操舵室へ。


「こんにちは。あなたが吉村さんですね」


 他の乗組員に比べると、ずいぶん若々しい男が陽暈たちを迎え入れた。


「自分はここの船長を任されている、石川(いしかわ)と申します」


「吉村です。この度は急な要請に応じていただき、感謝いたします」


「とんでもない。同業なんですから、お互い助け合いですよ。ところでそちらの方々は?」


 石川は、見た目だけで言うと最も場違いな、小柄な美少女──真壁を見やった。だが彼女は、顔色一つ変えない。


「名乗るほどの者ではありませんが、私は之槌と申します」


 真壁の前に一歩踏み出て、軽く会釈をしながらジャケットの内に手を滑らせた之槌は、警察手帳を提示した。


「ご苦労様です。どうしてまた刑事さんが──」


「少し長くなりますゆえ」


 手帳をポケットにしまった之槌は、当然の疑問を抱いた石川に手の平を見せて遮った。


「船内を少し調べさせていただいてもよろしいですかな?」


「え、えぇ。もちろんです」


 温厚な面差しの之槌に押されたのか、石川は言葉を挟む間もなく、静かに首を縦に振った。


 とはいえ、エイトアイランズ号が沈没の危機に瀕しているわけではない。状況はあくまで慎重な調査が求められる段階であり、緊急性は低い。よって、四人は手分けして船内を徹底的に確認することとなった。

 ちなみに、吉村には一足先に旅客船へ戻ってもらい、教員側との対応や説明を引き受けてもらった。


 陽暈と真壁は船首側から。之槌と森田は船尾側から。虱潰しに設備や積み荷に不審なものがないかを確認し続けた。之槌が言っていた通り、積み荷のほとんどが自動車の部品であり、完成された外国車も多く積まれていた。うん千万という価値があるような高級車もざらにあったが、車に興味がない陽暈にとってはガラクタ同然だった。


 結果的に、貨物船に異常は見られなかったため、早急に乗客の移乗作業へ移る。

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