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「おなしゃーっす!」


 陽暈は、零士を見据えて溌剌に叫んだ。


「そんじゃ早速、やろうか」


 ウォーミングアップもなしに零士が答える。

 今回使用するのは、一対一専用の訓練室。バスケットボールコート一つ分の広さで、物は何もない簡素な部屋だ。逃げ場もなければ身を隠す物陰もない。サシの勝負には持って来いのシチュエーションである。


「とりあえず、全力でおいで」


「うっす!」


 陽暈が軽く拳を握り、胸の前に添え構えると、零士の表情が変わった。

 直後、空気が波打ち、彼の周囲に赤いオーラが漂い始める。もはや熱を感じそうなほどのオーラから感じる圧力は、ヴェルマがオーバーアビリティを開放した時に似ていた。


「やっぱ違うな」


 これまで、真壁がアビリティを開放するところを幾度となく目の当たりにしてきた。もちろん、彼女が放つ圧も尋常ではないのだが、零士やヴェルマから感じるプレッシャーは別格。そもそも、身に纏うオーラの厚みも違って見える。


「知るんだ。俺の位置を──」


 軽く握っていた拳にグイッと力を込め直し、踏ん張る。


 およそ十メートルほどの距離を詰めるべく、全力で跳躍──零士の眼前まで一瞬にして肉薄した。

 むろん、零士が黙って殴られてくれるとは微塵も思っていなかった。しかし彼は動こうとしない。この距離なら届く。回避してももう遅い。

 カウンターに備え、退くことも視野に入れていた陽暈だったが、拳を押し出すことを決意した。


 次の刹那、陽暈の頬に灼熱の衝撃が走る。零士の拳が、正確無比に、そして容赦なく突き刺さっていた。

 跳躍による推進力すら無力化するほどの一撃。陽暈の身体は、打ち出された鉄球のように後方へと吹き飛び、訓練室の壁へと叩きつけられる。


 幸い、訓練室の壁は弾力性に優れているため、衝突によるダメージはない。


「まだ……!」


 壁でバウンドし、地面に転がり込んだ陽暈は、反撃に転じるべく即座に顔を上げる。だがそんな猶予が与えられるほど、生半可な相手ではなかった。


「──っ!?」


 目の前に広がっていたのは、絶望──零士の掲げた拳が振り下ろされる瞬間だった。回避するという思考すら浮かばなかった。ただひとつ、頭を支配したのは死。


 ドゴォンッ──!


 地の底が唸りを上げたような轟音が空間を揺るがし、重力ごと身体を叩き伏せるほどの衝撃が、怒涛のように全身を駆け抜けた。骨が軋み、臓腑が跳ねる。世界が一瞬、白く、無音に沈んだ。


「はい死んだ」


 尻餅をついていた陽暈に覆いかぶさる形で、零士が言った。いつもの柔和な表情は消え去り、狂気的な表情で。


 まるで殺人鬼そのものだった。

 彼の拳は陽暈のすぐ横、地面へと深々と突き立てられ、硬質な床には蜘蛛の巣状の亀裂が奔っている。その威力は、もはや訓練の域を超えていた。


 そのあまりの凄みに、陽暈は言葉を失う。

 ただ、無意識に喉が動き、ゴクリと唾を飲み込んだ──生存本能が震え、警鐘を鳴らす。


「なんてね」


 突如として、緊張の糸が切れるように零士が微笑んだ。

 二、三歩、軽やかに後ずさり、その身を包んでいた業火のようなオーラも、まるで朝霧のようにすっと散って消えた。


「届かねぇ……」


 戦いの幕が降りるまでの時間は、わずか五秒。


 圧倒的すぎる実力差だった。バーストアビリティの有無で、ここまで差が出てしまうものなのか。

 真壁との訓練では、戦意を喪失するほど追い詰められることはなかった。だが、いま目の前に立つ男に対して、勝てるという未来がまるで見えない。それどころか、その身に指一本触れることすら不可能に思える。


 それほどの相手の忠告を無視し、ヴェルマに一矢報いようと無鉄砲に突き進んだ自分がどれほど愚かだったのか。己の愚行が、今になって胸を鋭く締めつける。


「陽暈くん。ヴェルマは俺レベルが最低ラインかな。それなのに、きみはハンディキャップを背負って戦わなければならない。それがどういうことか分かるかな?」


「ハンディキャップ? あぁ……なるほど。そういうことっすか」


 なぜ、唐突に零士が稽古をつけてくれると言い出したのか、陽暈は理解した。


「任務に出るなって言うんっすか」


「おぉ、珍しく察しがよいことで。どう? 気持ちは変わった?」


「まさか。俺には果たさなきゃならない役目がある。任務には出るよ」


「ほら、言ったでしょ? 陽暈くんはこの程度じゃ折れないって」


 零士は訓練室の出入口へ向かってそう言った。

 つられるように陽暈が振り返ると、そこには白衣をまとった妖艶な女が立っていた。


「早乙女さん? どういうことっすか?」


「私が零士に頼んだのよ。圧倒的な実力差を見せれば、もう任務に出るのは諦めてくれるんじゃないかと思って」


 コツコツとヒールで地面を叩きながら、早乙女が陽暈の元へ歩み寄る。


「前にも言いましたよね、早乙女さん」


「でも……」


 陽暈の脳梁に異常があると判明してから、ずいぶん早乙女は大人しくなった。母を失った少年に対し、母性がくすぐられているのだろうか。


「ヴェルマのことが忘れられないんだ。人は人の心で生き続けるなんて言うけど、大切な人より、憎い人間の方が長生きしやがる。皮肉なもんっすよね」


 ついていた尻を持ち上げ、陽暈は立ち上がった。


「二人とも、気持ちはありがたいっすけど、俺は止まるつもりはないっすよ。だから、引き続き誰にも言わないでほしいっす」


 陽暈の固い意思を前に、早乙女は深く息をついた。


「分かったわ。もう言わない。でも正直に感じた症状は全て報告してちょうだい。改善できそうなことがあるかもしれないわ」


「大丈夫。自分のことは──」


「私の仕事は!」


 珍しく早乙女が取り乱した。いや、好奇心に身を任せることは多々あるのだが、今回は様子が違う。


「私の仕事は、捜査官のみんなの生存確率を底上げすること。いまもずっと、脳の制限解除のメカニズムの探求と並行して、脳梁の修復技術を模索してる。陽暈ちゃんは人を頼らなさすぎるところがあるわ。それがあなたの悪い癖。私だけじゃない。もっとみんなを頼りなさい。いいわね?」


 初めて彼女と会った時は、好奇の鬼、とでも言うべきか、とにかく変な人だと思っていた。しかしどうやら、存外、熱い性格なのかもしれない。


 思い返せば、いままであまり人を頼ろうとしてこなかった。唯一、頼りたいと思えたのは月乃くらい。もっとわがままになってもいいのかもしれない。

 もっとも、清隆には世話になりっぱなしだが。


 そうして自身でもよく分からない感情に包まれた陽暈は、思わず吹き出してしまう。


「かはは。本当にいい人ばっかだな、ここは。いや、運がいいんだろうな、俺って」


 両掌を広げ、眺める。


「俺にはなんにも持てやしない。でもみんながいるならそうでもないのかもな」


 グッと手のひらを握り、力を込める。


「あざっす早乙女さん! 俺、もっと大人に甘えてみるよ」


「あなたはまだまだ子供なんだから、そうでなくっちゃ」


「なんだか丸く収まったみたいだけど、まだまだ俺の強さを褒めるフェーズだと思わない?」


 両手の親指を自分に向けて欲しがる零士の元へ早乙女が歩み寄る。


「あなたはさっさと私と子供を作りなさい」


「だから、きみみたいな子供が生まれたらどうするのって言ってんでしょーが」


「えぇ!? ちょ、なに!? 二人ってそういう関係だったの!?」


「ほら、思春期の陽暈くんが本気にしちゃったじゃん」


「うるさい」


 顔を赤らめた早乙女は、零士のみぞおちに拳を捻じ込んだ。その速度と威力たるや、いち科学者とは思えないものであった。


「ぐえっ……」


 怯んだ零士を一瞥し、早乙女は紫の長い髪をなびかせながら颯爽と去って行った。


「陽暈くん……俺、強かったよね……?」


「いや、そんなことより、早乙女さんと付き合ってんすか!?」


 年頃の青年は、とにかくそこが知りたいのである。学生の頃、生徒から人気の教員がデキているのではないかという話題は、どの中学、高校でも絶えないもの。陽暈からすれば零士や早乙女は先生のようなものだ。興味深々になるのも至極当然。


「もういい……俺帰る……」


「付き合ってんすね!? 付き合ってるってことでいいんすね!?」


 腹を押さえたまま去っていく零士の背に、陽暈が問い続ける。まるで週刊誌の記者のごとく。


「子供ってどうやって作るんすかー!?」


 馬鹿馬鹿しい問いにも答えないまま、やがて零士の背は見えなくなった。

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