34
輸送車襲撃事件から約九ヶ月もの時が移ろった。
「これください」
天若陽暈は店員を見やり、五枚の青い花弁が星のように見える、ブルースターという花を指差した。
「あら陽暈くん。いつもありがと」
にこやかに応じたのは、この花屋の店主。名は花壇。花と共に生きることを約束されたかのような名前だ。
いつも陽暈はブルースターを選ぶが、特に意味はなく、ただ見た目でビビッときただけ。
「お友達、まだ起きないの?」
「うん。いい夢でも見てんすよきっと」
「そうね。この花を飾ればもっといい夢が見られるわ。はい、どうぞ」
「うっす!」
花を受け取ると、爽やかで優しい香りが鼻腔を通り抜けた。そしてその足で、病院へ向かう。
一命を取り留めた月乃は、九ヶ月もの間、眠ったままだ。とはいえ、すっかりヤマは越え、命に別状はない。
「天若陽暈、ドカンと参上」
朝顔月乃と書かれたネームプレートを尻目に入室するや否や、瞑目したままの彼女に決め台詞を聞かせる。これがいつものルーティン。
窓際へ目をやると、花瓶が夕陽を受けて淡く透けていた。手に取って洗面台へと運び、水を捨てる。茎が萎れかけたブルースターをそっと引き抜き、新しい花に入れ替える。水面がわずかに揺れ、青が光の中でまたたいた。
ベッドへ戻ると、彼女のすぐそばに腰を下ろす。静けさの中で、しばし目を伏せ、月乃の眠る顔を見つめる。その表情には苦悶も焦燥もなく、ただ穏やかな夢の続きがあるだけのように見えた。
「あ! そういや昨日さ、蜂にビビった尋芽が碧に抱き付いたんだよ! そしたら碧が白眼剥いてぶっ倒れたんだ!」
むろん、相づちはない。
「いやいやどんだけ尋芽に弱いんだよって思ったらさ、碧、蜂に刺されてたんだよ! 大急ぎで病院連れてって、大変だったんだよ!」
こうして月乃を見舞うことが、いつの間にか陽暈の日課となっていた。
時折、尋芽や碧を伴ってくることもある。けれど、どれほど明るく振る舞おうと、病院という場所は、心にじんわりと重さを置いてくる。
機械的に脈を刻む心電図モニターの電子音。どこか非日常的な清潔さの奥に潜む、無機質な消毒薬のにおい。
それらがじわじわと心を蝕み、気づけば思考の底へと引きずり込まれている。言葉にできない感情の澱が、静かに胸を満たしていくようだった。
だが月乃にそんなローテンションを見せるわけにはいかない。
「俺、強くなったんだ。もう何十人って人の命を救ってきたんだぜ」
ここここ半年あまり、陽暈は数々の任務に身を投じ、日々の訓練も怠らなかった。その成果は確かに現れ、かつては歯が立たなかった月乃の師匠、真壁にあと一歩まで迫っている。体調さえ万全なら、真壁の頬に一撃を叩き込んだことすらあるのだ。
ふと視界の隅に掛け時計が映る。針は午後四時を告げていた。
「やべ、思ったより時間ないや」
陽暈は三十分後に、真壁との約束を控えていた。到着して間もないが、仕方なく月乃と別れを告げることにする。
「また来るよ」
瞼の閉じたままの月乃に向けてそっと言葉をかけ、扉を静かに閉じた。そして心を急かすように、足早に局への道を駆ける。
これまでの任務は、柳生の判断により危険度の低い事案を任されていた。ヴェルマという危険人物が神出鬼没である以上、迂闊に陽暈たち新人を任務に駆り出すわけにはいかないのだとか。
なにかとブラックドッグの名前は耳にするが、輸送車の一件からヴェルマが姿を現した報告はない。之槌に会う度に、彼は申し訳なさそうに新たな情報が得られていないことを告げてくる。
そんな環境の中、陽暈は数多の任務を通じて、多くの一般市民の命を救い続けてきた。
元々、他者を思う気持ちは強いが、復讐心に蝕まれていたため、彼の正義が揺らいでいたのも事実。とはいえ、任務をこなしながら時間が流れたことにより、陽暈の利他心は以前よりも強固なものとなっていた。
尋芽と碧とは、任務を通してずいぶん仲良くなった。
相変わらず尋芽は、碧の猛烈なアプローチを天然キャラを駆使して華麗に回避し続けている。さりとて、嫌な顔はしないところを鑑みると、本人もまんざらでもないのかもしれない。
ただ、少し厄介なのが、輸送車の一件から、尋芽がやけに距離を詰めてくることだ。碧の前でベタベタされると、彼の反感を買ってしまうのが面倒で、陽暈はいつも彼女との距離を空けるよう心がけている。
三人とも、細々した任務と日々の訓練により、半年前とは比にならないほど強くなった。そのなかでも陽暈は頭一つ飛び抜けている。
そしてついに、もはや新人とは呼べなくなった三人に、危険度の高い任務にあてがわれることとなった。
「まずはこちらをご覧ください」
会議室にて、之槌がとある島の画像をスクリーンに投影させた。
「こちらは長崎にある、浮城島という人工の島です。昔、炭鉱開発のために埋め立てて造られたのですが、いまはすでに閉山されており、観光スポットとして有名ですな」
「その島になにかあったんすか?」
真壁の隣に腰を据える陽暈が問う。
「いえ、この島ではなく」
今度は、島から旅客船の画像に切り替わった。
「この船で、少々事件が起こりましたな。こちらの船は、浮城島ツアーに使用される旅客船。定員は約百名ほど」
「沈没ですか?」
真壁が淡々と投げた質問に対し、之槌は口一文字で首を横に振った。
「乗客、乗組員、総勢百三名が、丸ごと失踪したのです」
「マジすか!?」
「失踪したのに、沈没はしていないと?」
声を荒げた陽暈とは異なり、依然として冷静な真壁。
「ええ。当事件の肝はそこですな。沈没していないどころか、船は無事に長崎港に帰港しましたな」
「ど、どういうこと!? 船が勝手に帰ってきたってこと!?」
「天若さん。落ち着いてください。首、刎ねますよ」
「う、うっす」
真壁が時折、まるで呼吸のように繰り出す突拍子もない嘘にも、今の陽暈はもう動じない。それどころか、聞き流す術すら備わっていた。
「天若殿、お気持ちは分かりますぞ。ちなみにこの一件は現在も捜査を進めていますが、船内には何の情報も見つからず、手詰まりですな。そして今回、お二人にお願いしたいのが」
次いで映し出されたのは、さきほどの旅客船とは比にならないほど大きい、俗に言う豪華客船というやつだった。
「八洲商船が運営するエイトアイランズ号。定員は約五百名。とある高校が、修学旅行でこの客船をチャーターする予定ですな」
「なるほど。この船に乗るのですね」
顎に手を添えた真壁が推察を述べると、之槌は深く頷いた。
「そうなりますな。他にも客船は多く存在しますゆえ、局の捜査官の皆さんには別々の船に乗っていただきます。もちろん、公安からも派遣します。お二人に同行するのがこの老いぼれで心苦しいですが、なにとぞよろしくお願い申し上げます」
いつになく腰を低くした之槌が、頭を掻きながら一礼した。
「とはいえ、エイトアイランズ号でなにかが起きるという情報はいまのところありません。ただの旅行で終わる可能性も往々にしてありますな」
「あぁ!」
唐突に叫んだ陽暈は、立ち上がった。
「俺、カナヅチなんすけど……」
かなり運動神経がいい陽暈だが、唯一の弱点は水泳。
物心つく前に、母親が自宅の庭に広げた簡易的なプールで溺れ死にそうになったことがトラウマで、めっきり泳げないのである。
プールの授業では、挑戦はするものの、少しでも体内の酸素が枯渇し始めると、冷静さを失い、溺れてしまうというオチばかり。他のみなが飛び込みを練習するなか、縁に両手をつけてバタ足の練習を反復していたことが記憶に新しい。
「海に落ちなければ大丈夫です」
それが当たり前だと言わんばかりに、どこか引き気味に真壁がそう言い放った。
「いや、そんな単純な話じゃなくね!?」
「いえ、そういう話です。最悪、リリースしてるのですから、水面を本気で蹴れば走れますよ」
「マジ!? いつもの嘘じゃなくて!?」
「嘘です」
「はぁ……」
あり得ない話でもないと考えた陽暈は、まんまと真壁のくだらない嘘に乗せられてしまった。どうやら最近スルーし続けていたため、あちらも工夫してきているらしい。
「まぁまぁ天若殿。今回は不審な動きがないかの調査が主ですので、そう身構えなくてもいいですぞ」
「輸送車の護衛任務の時もそんなこと言ってた気がするんだけど……」
その後も、陽暈がカナヅチであることは考慮されぬまま、会議は進んだ。出航予定日は丁度一週間後。場所は広島港。午前中には港を発つとのこと。
いつメンである尋芽と碧は、大阪港から出港する船に乗るのだとか。きっと碧は有頂天になっていることだろう。
人員の采配は柳生によるもので、陽暈は真壁という強力なバディをゲットしたということになる。逆に言うと、自分が一番頼りないのでは──とマイナスな思考がよぎったが、忘れることにした。
会議を終え、局を出ようと中央階段を上ると、壁に寄りかかってスマホを眺める零士がいた。
「零士さん! 久しぶり!」
「お、待ってたよ陽暈くん」
どこか慌てた様子でスマホをポケットにしまった零士は、お馴染みの柔らかな笑みをこぼした。ここ数日、零士と会う機会がなかったが、彼はいつも通りだった。
「待ってた? 俺を?」
「そうだよ。ちょっと稽古をつけてあげようと思ってね」
「稽古っすか? そりゃ光栄だけど、急にどうしたの?」
「気まぐれってやつかな? とにかくついておいで」
そう言って、零士は颯爽と訓練室へ足を向けた。
「稽古って、俺と一対一で戦ってくれるんすか?」
「そうそう。前からお願いされてたからね」
輸送車襲撃事件で、陽暈は自身の弱さを思い知った。戦闘力はもちろん、メンタルの脆弱さもだ。それから彼は、とにかく強くなることを念頭に置き、訓練と任務に励んできた。
訓練で相手にする面々は、いつもおおよそ決まっている。そしてそのなかで、最も手強いのが真壁だった。勝ち筋はうっすらと輪郭を帯びてきているものの、まだその背中には手が届かない。
だが、そんな真壁ですら、「九頭さんには歯が立ちません」と、平然と口にするのだ。
くわえて、陽暈はワイラーと零士の一戦を忘れていなかった。常人の域を遥かに逸脱したその立ち回りは、陽暈の闘志を深く刺激した。
一度でいい。拳を交えてみたい。
それはただの憧れではない。強者とぶつかり合うことでしか見えないものがあると、陽暈は知っていた。
ヴェルマ──これから対峙すべき強大な敵と渡り合うためにも、今、自分がどの地点に立っているのかを測る指針が欲しかったのだ。
そうして訓練のために相手をしてくれと、以前から何度も頼んでいたが、多忙な零士にはその時間を取ることができなかったのである。
そんな念願がついに叶う。




