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「ひゃっほぉぉおおおい!」
零士は先ほど自身で蹴破った車のドアを拾い上げ、奇声を上げながら崖へと身を投げた。そしてドアを足元にセット──傾斜を捉えた瞬間、重力に引かれるように滑り出す。
スノーボードさながらに地を駆け、舞い上がる土煙の中を一直線に疾走する。転倒した車の余波で道がならされ、障害物はほとんどなかった。
目指す先、ワイラーの姿を視界に捉える。その直後、後ろ脚を大きく踏み込み、ドアを宙へ浮かせる──そして前方に蹴り飛ばした。
鉄板は唸りを上げ、激しく回転しながら標的へと迫る。だが、弾丸のごとき速度で突き進むそれを、ワイラーはあっさりと片手で受け止めた。指先がわずかに沈んだ後、無造作に投げ捨てられる。触式の使い手にとっては、当然の対応か。
しかし、それこそが零士の狙い。
囮のドアが視界を遮った時、零士はすでに地を蹴り、またもやワイラーの懐へと飛び込んでいた。息をつく間も与えず、胸ぐらを掴まんと手を伸ばす──その瞬間、足が払われ、体勢が崩される。
さりとて、零士の動きに焦燥はなかった。振り下ろされる拳を手のひらで受け流し、そのまま倒れ込む勢いを利用して膝を跳ね上げる。狙うはワイラーの顎──無念ながら、その軌跡は虚しく空を切った。
その後、互いに転がりながら距離を取り、また一息。
「ふぅ。ちょっと危なかったかな」
「視式の弱点は死角からの攻撃。近づけば近づくほど死角は増える」
「そりゃそうだけど、上半身をピクリとも動かさずに足払いができる人間なんて、きみが初めてだよ」
視式という絶対的な優位をもってしても、零士が足を払われた理由は、実に単純だった。
視界の外だった。言い換えれば、彼の眼が捉えていなかった。ただそれだけのことだ。
だが本来なら、そんな盲点に陥ることはない。視線は相手の上半身──とりわけ目の動きに注視していれば、次に動く部位がどこかを予測するのは造作もない。だからこそ、足払いのような古典的な技は、彼にとって脅威ではないはずだった。
しかし、ワイラーは違った。
その一挙手一投足には、予兆がない。気配がない。
肉体が発する前触れそのものを、意図的に消し去っているかのようだった。
こうなると、距離を詰めるのが億劫になるというもの。
「ふん。俺がバーストアビリティ頼りの愚者に見えたのなら、お前もまだまだだな」
「こればっかりは謝るよ。ごめん」
「零士さん! 大丈夫っすか!?」
後方から、遅ればせながら陽暈が斜面を下ってきた。
「やっと来たね陽暈くん。ちょっと俺のかっこいいところ、見ててくれるかな?」
「そんなこと言ってる場合っすか!?」
「パソコンとか、ゲーム機とかで、フリーズって言葉聞いたことない?」
「まぁあるけど……」
フリーズ──。
それは時間が氷点下に沈んだかのように、コンピューターの動作が停止する現象を指す。
画面は固まり、入力も反応をやめ、そこにあるはずの動きという概念がごっそりと失われる。世界の呼吸が止まったかのように、沈黙と静止だけが残されるのだ。
「実はこの現実世界でも似たような現象が起こるんだ」
そう言い残し、零士は大きく肺を満たし、静かに瞼を閉じた。そのわずかな間に、何かを感じ取ったのだろう。ワイラーが一歩、こちらへと踏み出す気配があった。
だが、すでに遅い。全神経を視覚へと注ぎ、瞼をぐっと引き上げた瞬間──。
世界が音もなく凍りつく。
目に映るすべてが、まるで時間の糸が断たれたかのように動きを止めた。
同時に、零士の脳髄へは、脳幹を鈍器で殴られたかのような激しい衝撃が突き抜ける。焼けるような痛みと引き換えに、彼の意識は人知を超えた領域へと突入する。
それはまさに、神の視座。
宇宙が静止したような静謐のなか、自分ひとりだけが動くことを許されるという異様な感覚。動きを止めた万物のなかで、唯一の例外として存在する自我。フリーズした画面の上で、なお滑らかに動くマウスカーソル──その比喩が最も近いだろう。
信じがたいことに、そんな現象がこの現実世界でも起こることがある。だが、起こそうと思って起こせる者は、一握り。
「さて」
呟き、零士の手がわずかに動いた次の瞬間、十手の軌跡が空気を裂き、鋭い弧を描きながらワイラーの頸椎めがけて振り下ろされた。世界が止まり、静止した時間のなかで準備された一撃は、正確無比であり、不可避。
そして──クラッカーが弾けたような乾いた破裂音が夜気を震わせた。
その音を合図に、凍てついていた世界が一斉に動き出す。風が揺れ、葉がざわめき、空間に張り詰めていた無音が、ざらついた現実の時間へと戻ってくる。
ワイラーの体がぐにゃりと崩れ、首筋を押さえる間もなく、顔面から地へと叩きつけられた。
「ふぅ……ちょいと加減ミスったかも」
零士は静かに十手を腰へ収め、うつ伏せになったワイラーにインヒビターを装着すべく、膝を折った。
だがその瞬間、カチッという不穏な金属音が鳴り渡った。
続けて、空気を引き裂くような銃声が轟く。
ワイラーは伏せた体勢のまま、ジャケットの下から密かに銃を抜き、反動すら抑えるような正確さで引き金を引いていたのだ。
あまりに沈着で、あまりに無音──視式を持つ零士ですら、その先手に気づくことができなかった。
閃いた火線が、彼の頬を掠め、紙一重で回避。しかし問題は、その先──逸れた弾丸は、なお鋭く進路を保ち、背後に立つ陽暈に向かって突き進んでいた。
「いっ……!」
陽暈の左腕に着弾。即座に後退し、彼の前に立った零士。
「ごめん陽暈くん。これは俺のせいだ」
「大丈夫っす……てかもうなにがどうなってんだか……」
いまさらながら、陽暈はフリーズを始めて体験したのだ。混乱して当然だろう。
「誤算だった……」
いつの間にか、ライムグリーンのウルフカットが揺れる女に、ワイラーは肩を貸されるようにして担がれていた。彼の手には、まだしっかりと銃が握られ、その銃口が零士たちを冷ややかに捉えている。
例に漏れず、女も黒の仮面をつけていた。表情は読めない。だが、纏うオーラは鮮烈な緑。
それはまるで、深い森の底に潜む毒を孕んだ霧のように、不穏で、静かにこちらを侵してくる。
「強制的にフリーズを引き起こせるとはな……」
「ワイラー、これ以上は危険。帰るよ」
女の声は、凍てつくような、感情の起伏を感じられない無機質なものだった。
「待てルージ……」
ワイラーはそう言って、銃をおろした。
「九頭零士。お前と話がしたい……いつかゆっくり」
「んん~、箱にぶち込まれてくれた後ならいくらでも聞いたげるよ」
するとワイラーは、「ふっ」と息を漏らした。笑ったのか、首に受けた痛み悪化したのか、仮面をかぶっているため、その真意は分からない。
その後、ルージとやらと共に、ワイラーは夜の帳に溶けていった。終始、陽暈が追いかけるべきだとわめいていたが、彼が負傷した以上、優先すべきことは考えるまでもない。




