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 特務執行局(とくむしっこうきょく)────通称特執(とくしつ)

 それは、国家公安委員会が水面下で設立した武力行使部隊である。むろん、世間には公表されていない。


 特執の捜査官である九頭(くず)零士(れいし)は、公安部の之槌(のづち)正宗(まさむね)からの連絡を受け、警視庁の地下駐車場に停められたシルバーのセダンへと足を運ぶ。

 助手席のドアを開け、無言のまま滑り込んだ彼を迎えたのは、煙草の微かな匂いと、懐かしさを滲ませる声音だった。


「ご苦労様でございます九頭殿」


 咄嗟に煙草を携帯灰皿へと捩じ込んだ之槌は、運転席からにこやかに会釈する。白と黒が綺麗に拮抗する髪は、遠目には淡い灰色にも見え、歳月が静かに織りなした自然のグラデーションのようだった。その穏やかな表情には一点の曇りもなく、家族への愛が滲み出ているように見受けられる。


「あれ? とっつぁん禁煙してるって前言ってなかったかな?」


「あいたた。嫁に先立たれたもんで、こいつがないと寂しいんですわな」


 頭の側をぽりぽりと掻きながら、之槌は開け放していた運転席側の窓を、ゆっくりと閉めていく。


「奥さんいても吸ってたじゃん。ま、さっさと逝っちゃいたいってことね」


「ほっほっ。そうなのかもしれませんな」


 いつもながら丁寧な口調を崩さず、年長者らしい柔和な態度を貫く之槌。彼からすれば、零士は明らかに年下。にもかかわらずこの態度。いったい人生何週目なのだろうか。


「存外、死にたいと思えば思うほど、死ねないのかもね」


「ほっほっ。相変わらず達観しとりますな」


 そう言って之槌は、ギアを滑らかにドライブへと切り替えた。目的地はまだ告げられていないが、零士はシートベルトを締め、背もたれに身体を預ける。


「とっつぁんには敵わないよ。んで、今日は何用で?」


「殺人ですな」


「例の犬っころかな?」


 ここ最近、黒い犬の仮面をかぶった犯罪組織が、都内で暴力的な活動を繰り広げている。零士自身も、その影を追って、日々足を駆らせていた。


「まだ確定したわけではありませんが、その可能性が高いですな」


「刑事の勘ってやつ?」


「老いぼれの勘ですから、あてになりませんがね」


 謙遜する口ぶりだが、その裏にある之槌の思考は、決して凡庸なものではない。

 零士が常に彼の仕事を間近で見てきたわけではない。それでも、他の捜査官から頻繁に耳にする名は、彼の実力を雄弁に物語っていた。数々の凶悪テロを未然に防ぎ、時には共犯者とすら思われるほど鋭く犯行の構図を読み取るのだとか。


 車を走らせることしばし、之槌は住宅街に差し掛かったところでウインカーを点滅させ、静かにギアをパーキングに戻した。ハザードランプが淡く脈打ち、零士はそれとほぼ同時にシートベルトを緩める。


 数台のパトカーがすでに現場に駆けつけており、赤色灯が無言の警告のように宙を照らしていた。

 歩みを進めると、玄関が開け放たれた一軒家が見えてくる。そのすぐ傍らには、高校生ほどの年齢の少年が、警官たちに囲まれて事情聴取を受けていた。


「之槌さん。お久しぶりです」


 日が落ち、夜の静けさが街を包み込んでいるにもかかわらず、崩れる気配のない整ったオールバックの男が、落ち着いた動作でビニール手袋に指を通しながら声をかけてきた。


「おやおや、鈴木(すずき)さんじゃありませんか。無事、東京に帰ってこれたんですな」


 之槌は懐かしむような表情で応じる。元は刑事部の捜査一課に籍を置いていた彼は、現場を問わず顔の広い人物らしい。


「へへ。おかげさまで。もう香川のうどんは食べ飽きましたよ」


「ほっほっ。それは贅沢な悩みですな」


「そっちの若いのは?」


 鈴木は顎をしゃくり、零士へと視線を向ける。


「彼はうちの新米ですな」


「ども! 九頭と申します!」


 新米と紹介されたからには、役を演じねばなるまい。

 零士は意図的に若々しさを演出しつつ、深く頭を垂れる。その動きの中には、どこか抑えられた野心、あるいは芯の強さが一閃していた。

 特執の存在は、刑事部の人間にすら明かされていない。公安部の一員として振る舞うことがしばしばあるのだ。


 その後、バインダーを抱えた警官に囲まれる少年を一瞥しつつ、二人は静かに家屋の中へと足を踏み入れる。

 そこに広がっていたのは、言葉を失わせるほどの惨状だった。


「息子は首からの失血死。母親の方は絞殺されたようですな」


 眉間に深い皺を寄せながら、之槌が呟いた。

 一方の零士は、母親の首元を舐めるように視線で辿りながら、静かに口を開く。


「吉川線だっけ? 見当たらないね」


「さすが九頭殿。おっしゃる通りですな。抵抗しなかったのか。あるいはできなかったのか」


 吉川線──それは、被害者が首を絞められた際、加害者の手や凶器を引き剥がそうとして残る引っかき傷を指す。自殺か他殺かの鑑別において、時に決定的な証左となるのだが今回、その痕跡は見当たらない。

 絞殺に用いられた物さえ残されておらず、さらに母親の下半身が露出していたことから、これは強姦殺人の可能性が極めて高い。


 その後も、家中を丹念に調べたが、黒い犬の仮面にまつわる組織の痕跡は見つからず、二人は撤収することとなった。


 家の敷居をまたいだ瞬間、零士は振り返ることなく歩みを速めた。足早に向かった先は、玄関脇の小さな花壇。その縁に腰掛ける少年の姿が、仄暗い街灯の光の中で、まるで時間に取り残された彫像のように佇んでいた。


「きみ、名前は?」


 零士の問いかけにも、少年は微動だにしない。風に揺れる前髪がわずかに頬にかかる。

 短い沈黙ののち、地を擦るような低く乾いた声が空気を震わせた。


「天若陽暈です」


 顔を上げる素振りすら見せず、ただ視線だけが、静かに零士を射抜いた。

 その目は、荒れた水面の下に潜む怒りの焰。眉間には刻まれたような皺が、深く走っている。幾度も奥歯を噛み締めてきたらしく、頬の筋が微かに震え、言葉にはならない激情が皮膚の奥でうねっていた。


 前髪の隙間から覗く双眸は赤く血走り、獲物を捉える猛禽のように鋭い。そこに宿っていたのは、哀しみでも恐怖でもない。明確な意思を持つ、純粋な憎悪だった。破壊へと突き動かす、冷ややかで暴力的なエネルギー。心の奥底で何かがすでに決壊しているようにさえ見えた。


「陽暈くんか」


 零士は少年が発する圧のような気配にも、眉一つ動かさずに近づいた。そして両肩にそっと手を置き、ぐっと顔を近づける。

 唐突な接近に、陽暈はわずかに面食らったのか、零士の右目と左目を交互に見やり、ほんの少しだけ上体を引いた。


「そうか」


 ──大変だったね。辛かったね。頑張ってね。

 そうした常套句を投げたところで、この少年が受け取るとは思えない。言葉では到底届かない感情の深淵を前にして、零士は言葉を手放した。


 代わりに、彼は陽暈の小さな身体をぐっと引き寄せた。

 何の前触れもなく、それでも一切の躊躇もなく、胸の奥に抱きしめた。


「ちょっ……」


 陽暈がようやく人間らしい声音を漏らしたその瞬間、零士の腕はすでに彼を包み込んでいた。

 ぎこちなくも、確かな強さで。心の裂け目を手のひらで覆い隠すかのように。


 ──ベータエンドルフィン、オキシトシン。

 抱擁によって分泌される脳内物質は、確かに人の心を鎮める効果があると言う。それが男同士でも同様なのかは知らない。が、今は関係なかった。


 零士の手が、静かに少年の背を撫でる。初めはブルブルと細かく震えていた身体も、やがて少しずつ呼吸を整えはじめる。その震えは、寒さではない。怒りでも、哀しみでもない。すべてを失った者だけが感じる、魂の空洞が呼び起こす身震いだ。

 およそ十秒という沈黙。その中に、あらゆる感情が渦巻いていた。


 やがて零士は、そっと腕を解き、再び陽暈の両肩に手を置いて、まっすぐにその目を覗き込む。

 その瞳の奥に凍りついた氷は、まだ溶けてはいない。だが、わずかに柔らいだ表情の輪郭に、ほんのかすかな変化が宿っていた。


「大丈夫」


 零士はそう言い放つと、肩をポンと叩き、少年の反応を待たぬまま背を向けた。


 ──大切なものを奪われた者には、二つの道しかない。

 心を切り替えて前に進む者と、復讐を糧にしてその場に立ち尽くす者と。

 陽暈には、前者の道を歩んでほしいと願う。しかし、会ったばかりの他人に、何を言われても響くはずがない。

 だからこそ、「大丈夫」と言い切ること。それだけが、零士にできる最大限の誠意だった。

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