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頼もしい背中が食堂の扉の向こうへ消えたとき、天若陽暈のポケットが微かに震えた。
取り出したスマートフォンの画面には、早乙女からの連絡通知。メッセージの内容は簡素だったが、ただならぬ様子が文面から滲み出ていた。──至急、研究室まで。
零士が取ってきてくれたパイ菓子を二枚まとめて口に放り込んだ陽暈は、手早くアイスコーヒーの残りを飲み干す。グラスの底に残った氷がわずかに立てる音を背に、急ぎ研究室へと足を向けた。
「陽暈ちゃん。よく来たわね」
研究室の扉を開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは、いつもながらの刺激的な光景だった。
長く艶やかな紫の髪、ざっくりと開いた胸元。見慣れたはずの姿ではあるが、思春期の男子には今なお視線の置き場に困る。
これまで何度か、解除率の測定のたびにこの部屋を訪れた。陽暈の電紋に執着する早乙女を毎度引き剥がすところから始まるのが常だったが、今日の彼女は妙に静かだ。
「今日はなんすか?」
陽暈は、彼女の正面に置かれた丸椅子に腰を下ろした。軽くからかうような口調で続ける。
「そろそろ電紋も見飽きたんすか?」
だが、タブレットに視線を落としたままの早乙女は、その言葉にも反応を示さなかった。いつもなら過剰なくらい陽暈の傷や瞳に執着する彼女が、火傷の痕さえ素通りする──その違和感に、陽暈はようやく空気を読み取る。
「大事な話でもあるんですか?」
そう問うと、早乙女はゆっくりとタブレットから顔を上げ、じっと陽暈を見つめた。彼女の目は、研究者特有の冷静さの奥に、何かを押し殺すような翳りを宿していた。
タブレットを伏せる音が、室内にひときわ響いた。ため息が一つ、机の上に沈んでいく。
「あなたはもう、任務に出ない方がいいわね」
その一言は、淡々とした口調でありながら、雷鳴のように陽暈の胸を打った。一瞬呆気に取られ、そしてすぐに鼻先で笑った。
「なに言ってんすか。俺はピンピンしてる。せっかくこれからだってのに」
その声には、苛立ちと困惑とが入り混じっていた。だが、早乙女の表情は微動だにしなかった──それが、かえって陽暈の不安を際立たせた。
「これを見て」
モニターに映し出されたのは、脳のMRI画像──灰色の闇に浮かび上がる、無数の複雑な皺。テレビ番組などで見たことがあるものと似てはいるが、今は他人事ではない。
「ここ。脳梁というのだけれど、傷がついてる。おそらく雷に打たれたことが原因ね」
彼女は画像の中央、左右の大脳半球が交わる接続部に、黄色のマーカーで円を描いた。
「脳梁というのはね、左脳と右脳を繋ぐ神経線維の束のこと。陽暈ちゃんは脳が左右で役割が違うという話、聞いたことないかしら?」
「あぁ! ある! どっちか忘れたけど、直感的と論理的みたいな!」
「ざっくり言うとそうね。それぞれ多くの機能を持つわ。左脳は論理的思考や言語能力、右脳が直感や創造性、空間認識なんかを担当してると言われてるわね。脳梁はその二つの半球を繋ぎ、情報のやり取りを行う橋のようなもの」
「な、なるほど。分かる。たぶん分かってる」
陽暈は、言葉の洪水に必死でしがみついていた。早乙女の説明は平坦でありながらも、どこか冷たく感じられる。事実だけが、感情を置き去りにして進んでいく。
「小難しい話はここまで。結論──あなたは今後、思うように体が動かせなくなる可能性があるの」
まるで脈絡のない一撃だった。陽暈は思わず小さく笑ってしまう。苦笑ではなく、どこか現実味のないそれだった。
「動かせないって……さっきも言ったけど俺、ピンピンしてるよ?」
「いまはそうでも、いつどんな症状が出てもおかしくないわ」
「その症状ってのに、左手が勝手に動くことってのは含まれる?」
「えぇ。意図に反して勝手に動くことがあるわね。反対に、失行と言って動かなくなったりもするわ」
「見たものを言葉で表現できないことも?」
「左視野で視認したものは言葉で表現できない可能性があるわね」
人間の脳は、視覚情報を処理する際、左右で情報を交叉させる構造になっている。左の視野から得られた像は右脳へ、右の視野からは左脳へ。
もし、言語化を要する情報を左視野で捉えたとすれば、その処理はまず右脳でなされ、そこから左脳へと情報が引き渡される必要がある。その際、両者の橋渡し役を担うのが──脳梁。
だが、陽暈の場合、この神経の架け橋が落雷によって損傷を受けている。そのため、右脳で得た情報が左脳へと適切に送られず、「見たものを言葉にできない」という事態が生じるのだ。
早乙女が先ほど、「左視野で視認したものは言葉にできないかもしれない」と告げたのは、まさにこのメカニズムに基づいていた。
「心当たりがあるのね……」
早乙女の静かな声に、陽暈は息を詰めた。
言い逃れを試みる選択肢も浮かばなかった。どんな言葉を綴っても、彼女の目を欺けるとは思えない。
──実のところ、自分でも気づいていたのだ。
雷に打たれて以降、体の半分が急に重くなったり、口を開こうとしても言葉が出てこなかったり、日常に混じる異常の兆しは、確かに存在していた。ただ、それがごく稀だったせいで、深く考えるのを避けてきたに過ぎない。
「やっぱり。もうあなたは任務に──」
「早乙女さん……!」
その続きが聞きたくなくて、陽暈は語気を強めて立ち上がった。椅子の脚が床をかすめて音を立てる。
普段なら意識を引かれがちな彼女の装いも、この瞬間の彼にはまるで意味をなさなかった。
膝を折り、両の手を床につく。そのとき、視界の端で、左手の人差し指がわずかに痙攣した。
それが果たして、脳梁の異常による症状なのかは分からない。ただ、早乙女の憂いが、いまはひしひしと胸に響いていた。
だが、それでもなお、引き下がるわけにはいかなかった。
「お願いします」
額を、両手の間にそっと落とし、床にピタリと密着させる。
「このことは誰にも言わないでください」
「誰にもって、あなたね。まだ状況が分かってないみたいね。厳しいかもしれないけれど、あなたのせいで誰かが死ぬかもしれないのよ?」
早乙女の声に、鋭さが混じった。だがそれは、怒りではない。
過去に失われた命、これから救えるはずの命、それらすべてを背負ってきた者だけが発せられる響きだった。
陽暈の脳裏には、月乃の顔が浮かんだ。前回の任務で、彼女が負った傷。痛みに歪んだ彼女の表情が、記憶の中でいつまでも焼きついて離れない。
「俺は……足踏みしてる場合じゃないんです」
その声はかすかに震えていたが、意志は濁っていなかった。
「陽暈ちゃん。これはあなただ──」
早乙女の声が、途中でかき消えた。
顔を上げた陽暈と視線が重なった瞬間、彼女の唇はわずかに震えたまま閉ざされたのだ。
「……分かったわ。でも一つだけ、条件があるわ」
椅子を離れた早乙女は、陽暈の目線に合わせてしゃがみ、粗めの網タイツを太ももに食い込ませた。
「零士だけには報告させてもらうわよ。私だけで判断するには、重すぎる」
「分かりました。それでいいです」
陽暈は立ち上がりながら、膝についた埃を軽く払った。
「早乙女さんって、案外まともっすね」
表情筋を緩めた陽暈は、ついさきほどの忠告を忘れたかのように振る舞った。
「なに馬鹿なこと言ってるのよ。子供が無茶するのを、黙って見逃す大人がどこにいるの」
「かはは。ただのエロ枠だと思ってたけど、見直したよ。またね、先生」
「ほんと、調子がいいんだから」
皮肉とも愛情ともつかぬ一言を背に受けながら、陽暈は研究室の扉を開けた。
そのまま局の外に出ると、夕日の赤が視界いっぱいに広がっていた。橙色の光が、彼の心をわずかに温める。




