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 九頭零士は、自信なさげな青年──陽暈の背中を見届けたのち、閑散とした会議室に残っていた。両手を結い、手のひらを天井に向けて腕の筋肉を伸ばす。


「ふぅ。ちょっと手厳しいんじゃないかな。姉さん」


 その言葉に、資料をまとめていた柳生が手を止めた。


「つくづく思うよ。私が人の上に立てるわけがないとな」


 伏し目がちにこぼれた言葉に、零士が肩をすくめる。


「お、珍しく弱ってるかな。どしたん。話聞くで」


「相変わらず能天気な阿呆だなお前は。舐めた口を利くな」


 柳生が冷たい視線を向けると、空気が一瞬だけ張り詰めた。だがすぐに肩の力を抜き、浅く息を吐いた。


「頼む。彼はまだ十七歳だ。様子を見てやってくれ」


「それは上官命令ってやつかな?」


「当たり前だ」


「承知つかまつりましてございます!」


 零士はテーブルのスマホを手に取り、ジャケットの内ポケットへ滑らせる。


「では早速、行ってまいります」


 背筋を伸ばして柳生に敬礼し、軽い足取りで会議室を後にした。


 間もなく、零士の目は目的の背中を捉えた。足早に廊下を進むその背には、どこか影が差している。

 迷わず駆け寄り、声を張る。


「陽暈くーん!」


 呼び止められた青年は、不安定な歩みを止め、ゆっくりとこちらを振り返った。


「零士さん。どうかしたんすか?」


「ちょっと付き合ってくれるかな?」


 唐突な申し出に、陽暈はぽかんとした表情を浮かべる。だが零士は構わず、その手を軽やかに取り、引いた。

 導く先は、局員たちが利用する食堂。


「もうご飯食べた?」


「いや、俺はまだ食ってないっす。でも家に帰ればじいちゃんが作ってくれてるから」


「そっか。ならコーヒーでも一杯飲もうか。先に座ってて」


 言葉を交わすたびに見えてくる、陽暈の沈んだ眼差し。かすかに漂う疲労と自責の気配。

 気にせず、零士はドリンクサーバーへ向かう。


「あ、好み聞くの忘れてた。とりあえず冷たくて甘いのが好きってことで」


 軽く笑いながら、アイスコーヒーにたっぷりのミルクとガムシロップを用意する。自分には、ホット。

 近くに設置されたお菓子コーナーから、ハート型のパイ菓子をいくつか拾い集める。甘さは、心を緩めるための道具だ。


 青年のもとへと歩を進めると、席で陽暈が小さく会釈する。


「お待たせ。アイスで良かったかな?」


「大丈夫っす」


 受け取ったコーヒーを前に、陽暈はガムシロップとミルクをまじまじと見つめていた。手に取っては戻し、また手に取る。その不慣れな動作に、零士は密かに微笑を浮かべる。どうやら、コーヒーはあまり飲まないらしい。


 互いに初めの一口に辿り着いたところで、陽暈がふと視線を逸らしながら、ぽつりと口を開いた。


「ごめん零士さん。気にかけてくれたんすよね」


 その一言に、零士の動きがかすかに止まった。

 ついさきほど、捜査官としての自覚を問われ、厳しく咎められたばかりの彼に、そんな余裕があるとは思っていなかったからだ。


「なんだ。存外、たくましいね。きみは」


 パイ菓子の袋を静かに破り、二枚のうちの一枚を指先でつまむと、ひらりと口に放った。バターの香りがふわりと広がる。


「まぁ、それだけが取り柄みたいなもんっすからね」


 陽暈は照れ隠しのような笑みを浮かべ、アイスコーヒーを少し多めに口へ含んだ。


「姉さん、ああ見えてきみと似た過去があるんだ」


「姉さん?」


「柳生司令のこと」


「あぁね。俺と似た過去って?」


 グラスを揺らしながら陽暈が呟く。表情の奥に、かすかな驚きが混ざっていた。


「姉さんの旦那さんも特執にいたんだけど、ある任務で殺されたんだ。それから彼女は躍起になって犯人を捜し続け、追いつめた。でも最後の最後で可愛がってた後輩が巻き込まれて殉職した。復讐は叶ったけど、仲間が死んだんじゃ意味がないって嘆いてたのを覚えてるかな」


「そんなことがあったのか……」


「姉さんからするといまのきみは、昔の自分を見てるようで放っておけないんだろうね。きっと」


 零士はカップを持ち上げ、湯気の立ちのぼる縁へ口を寄せた。ズズ、と短く啜ると、向かいの陽暈もつられるように手を伸ばす。


「俺、なにがしたいんすかね……」


 深くため息を吐いた陽暈は、グラスのなかの氷を見やりながら言った。


「おぉ! 厨二乙!」


「はぁ。そういう感じか……」


 またもや溜め息をついた陽暈。いつもなら軽く流すはずの零士の冗談に、陽暈の肩はひときわ重たく沈んでいた。


「ごめん」


 素直に詫びた零士に、陽暈は目を伏せたまま続ける。


「今回の件で分かったっす。俺の力の限界が。ヴェルマどころか、レイニーの足元にも及ばなかった。所詮、俺はこの程度なんすよ」


「限界ねぇ」


 零士はカップを掲げ、ふわりと立ちのぼる湯気をじっと見つめた。その揺らぎの向こうに、青年の迷いと焦燥がかすかに重なるようだった。


「陽暈くんにとって限界ってなにかな?」


 問いかけは、ふとした間に紛れ込んだ。だが、陽暈はすぐに答える。


「なにってそりゃ、それ以上になにもできないラインってことっすよ」


「なるほど」


 零士はそっとカップを受け皿へ戻す。その音は、一つの考えに句点を打つようだった。


「限界というのはね。何かを諦める時の言い訳でしかないんだよ。本当に強い人間は、限界の意味を理解しても、存在は認めない。とはいえ、限界じゃなかったって言うと手を抜いてるとも捉えられるよね」


 陽暈がこくりと頷いたのを横目で確認すると、零士は視線を遠くに投げるような口調で続けた。


「一つの指標として俺が考えたのは、微塵の悔いも残らないか否か。自分がどう足掻いても救えなかったって開き直れるくらいじゃないとダメ。もし、誰かを死なせてしまったとしても、やりきったと思えるならそれでいい──でももし」


 言葉に重みを帯びさせるように、わざと一拍置く。その空白の先に、零士は意図的に刺すような一言を滑り込ませた。


「少しでも後悔が残るようなら、その場で心臓にナイフでもぶっ刺して詫びる。それくらいの覚悟が必要かな」


「心臓を……」


 陽暈が、噛みしめるように繰り返した。


「俺、ぶっ刺すよ。もし今度、自分のせいで仲間に怪我を負わせるようなことがあれば」


 陽暈は視線を逸らさず、薄くなったアイスコーヒーを一気に呷った。氷の溶けた水気が彼の喉を過ぎても、言葉の熱はまだ残っている。


 冗談のつもりだった。だが、あまりに真剣なその眼差しを前に、零士の心にひやりとしたものが走る。

 さすがに自害は言い過ぎたか。

 そんな思いが舌の裏に苦く残り、コーヒーの後味さえ霞ませる。


「零士さん、前に言ってましたよね。過去を忘れないことも大事だけど、いまを生きることはもっと大切だって」


 不意に投げかけられた言葉に、零士は片眉を上げた。記憶を辿る。


「そんなこと言ったかな?」


「え、覚えてないんっすか!?」


 陽暈が、グラスをテーブルに音を立てて置いた。わざとらしいほどの反応に、眉間の皺と共に小さな苛立ちが浮かぶ──が、零士は笑ってやり過ごす。


「いいからいいから。それがどうしたのかな?」


 もちろん覚えていた。けれど、言葉を掘り返されるのはいつだって照れくさい。


「いや……やっと意味が分かったっつーか。いつか俺がこうなるって、零士さんは分かってたんすか?」


「アハッ。まさか」


 零士は欧米人のように、両手両肩をクイッと上げて嘲笑した。しかし本当は──ほんの少しだけ、予感していたのかもしれない。


「ただ、初めて会った時のきみの目を思い出したんだ」


「俺の目、ですか?」


「家族を失ったあの夜、きみの目は酷いものだった。昔の姉さんのようにね。でも、次に会った時は、ずいぶん見違えたのを覚えてる。必死だったんだね。心を鎮めることで精一杯だったんでしょ?」


「確かに大変でした。でも月乃のおかげで、俺は俺のままでいれた気がする」


 その名を聞いて、零士は小さく頷く。


「そっかそっか。それならより一層、いまを大切にしないとね」


 今この瞬間を重ねることでしか、人は過去と折り合いをつけられない。零士はそれを知っていた。


 陽暈は、言葉ではなく、強く頷いた。拳を握るような動きに、かすかに決意が見える。


「まぁ焦らず行こうよ。ヴェルマを一発ぶん殴る機会なんてそのうち来るよ」


「っすね。ありがとう零士さん。こんな俺を気遣ってくれて」


 その言葉に、零士はわずかに目を細めた。

 陽暈の表情にはまだ翳りが残っている。だが、それでも最初よりはましだ。少しずつ、彼は自分で問いを掘り下げ、歩いていくのだろう。

 家族を失ってからも、きっとそうだった。そして、これからもそうなのだろう。


「俺は先輩だからね。後輩のマインドケアも仕事のうちなのさ」


 洒落っ気混じりにそう言い放ち、テーブルに残ったパイ菓子を一つ、口に放り込んだ。


 背を向け、食堂の扉を押したとき、ふと振り返ろうかという衝動が胸をよぎる。だが、あえて振り返らなかった。言葉も背中も、ああいう時は余韻で残すのがちょうどいい。

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