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「あぁ……初めまして。天若陽暈です……」
かろうじて名乗り返す。普段ならもっと快活に、胸を張って挨拶するところだが、さすがにそうはいかなかった。
月乃の容態を知って駆けつけたのだろう。その理由まで聞かされているのかは分からないが、陽暈は椿と合わせる顔を持ち合わせていない。
「これ、よかったら飲んで」
目を合わせることすら躊躇っていた陽暈。そんな彼に、椿は赤と黄色のラベルが鮮やかな、小ぶりのエナジードリンク缶を差し出した。
「ありがとうございます……」
せっかく買ってきてくれたのだ、遠慮する方が失礼だと、陽暈は小さく会釈しながら、缶を受け取った。
プルタブをカツッと引き上げると、密閉された炭酸が弾け、短い破裂音が空気を震わせた。途端に、鼻先をくすぐるのは人工的な甘みと、独特のビタミン臭。目が覚めるような香りが、沈殿していた思考をわずかに浮かび上がらせる。
「さっき娘の容態は聞いたわ。お友達が待合室にずっといるって聞いて来てみたんだけど、陽暈くんだったのね!」
普段の椿を知らないため空元気なのか判別がつかないが、彼女は笑顔を絶やさない。そしてその表情や仕草は、月乃とそっくりだった。
「あの……どうして俺のことを。どこかで会いましたっけ?」
「ううん。月乃からずーっと聞いてたのよ。あの子、勉強の話は全然しないくせに、陽暈くんの話は止まらないの!」
「俺の話っすか?」
「ほら、月乃って転校してきたでしょ?」
一年の冬、寒空の下、月乃は陽暈たちの通う高校へ転校してきた。
「陽暈くんも噂、聞いてるでしょ?」
椿の声色が、わずかに落ち着きを帯びる。柔らかな声の中に、ひと匙の重みが加わった。
月乃にまつわる噂──真偽は不明だが、彼女が人を殺したという陰鬱な話が、まことしやかに囁かれていた。
「えぇ、まぁ……」
口にするにはあまりに重いその話題に、陽暈は言葉を慎重に選んだ。沈黙を繋ぐように、手にした缶ジュースのタブを指先で弄ぶ。
「月乃はね、本当に人を殺しちゃったの」
陽暈はこれまで、その件について月乃に問うことをしなかった。その必要はないと思っていたからだ。
「でもね、友達を守るためだったの」
「友達を……?」
「うん。前の高校で仲良しだった子と下校してる時に、大きな男の人に襲われたんだってさ」
椿は口元に手を添えて、冗談交じりに言った。人が命を落とした話とは思えないほど、軽やかな空気だった。
「そんな噂が回ってきたのか、新しい高校で上手く馴染めそうになかったみたいなの」
一度貼られたレッテルは、剥がすことなどできない。濡れた紙のように、剥がそうとするたびに、形を崩してその人自身に染み込んでいく。
痴漢の冤罪を受けたサラリーマンが、身の潔白を証明してもなお、社会的に抹殺されるように。
「そんな中、陽暈くんだけは話しかけてくれたんだって。それが嬉しかったみたいで、毎日陽暈くんの話ばかりするようになったの!」
「そうだったんすか。俺、普通に話しかけただけっすけどね」
「それがよかったのよきっと!」
依然として、椿の活気は絶えない。陽暈の憂いを帯びた表情もまた、解けそうにない。
「朝顔さん。どうぞ」
ふと気づけば、若い看護師が待合室の出入口に立っていた。白衣の袖をたたんだ腕に控えめな仕草で、彼女は椿を促す。
「陽暈くん。月乃の病室、一緒に来ない?」
もちろん、断る理由などあるはずもなかった。陽暈は椿の背に影のように従った。
案内されたのは、集中治療室のすぐ傍にある面会室だった。とはいえ、室内に立ち入れるわけではない。分厚いガラスの向こうから、安静を保つ患者の姿をただ黙って見つめることしかできない場所だった。
病に沈む空間には、無数の管が延び、月乃の身体に結ばれている。医療の知識など何一つ持たぬ陽暈にも、それが異常であることだけは理解できた。機械から漏れる規則正しい電子音が、まるで彼女の命を数えているように静かに鳴っている。
「意識がなくても、耳は聞こえているかもしれません。ぜひ、声をかけてあげてください」
看護師はそう言って、柔らかく一礼すると、扉の向こうへと姿を消した。
「大丈夫。月乃はお母さんの子だから、そう簡単には死なないわ」
包帯に巻かれ、眠るように瞳を閉じた娘の姿を見つめながらも、椿の口元に浮かんだ笑みは、ひと筋も崩れていなかった。
「月乃……」
陽暈は、絞り出すように名を呼んだ。大切な友人の無残な姿を目の当たりにし、やるせない気持ちで一杯だった。彼女がこうなったのは、全て自分のせいだからだ。
「ありがとう、陽暈くん」
不意にかけられた椿の言葉に、陽暈は反射的に目を逸らしかけた。それを制するように、彼女の声音が続いた。
「月乃のために、こんなにも心を痛めてくれて」
その声には、不思議な温度があった。凛とした温もり。娘の命の灯が揺らいでいるこの状況で、なぜ彼女は、これほど穏やかでいられるのだろう──その疑問は、陽暈の中で膨らむばかりだった。
「ところで陽暈くんは、月乃のこと好きなの?」
あまりに唐突な問いに、陽暈は眉をひそめ、少しだけ視線を泳がせた。
「うーん……俺、昔から好きって感覚がよく分からないんっすよ」
「そう……それはなんだか、少し寂しいわね」
椿の声がふと翳った。まるで、自分の中の何かに問いかけるような、内省的な響きだった。
「でも月乃のことは、他の友達より守りたいって思う気持ちが強いっす。俺、どちらかというと自分の悩みは自分で解決してきたつもりだったんすけど、母さんと弟を失った時は自分じゃどうにもできなくて。でもみんなに心配かけないように元気な自分を演じたりしてたんす。そんな時に、月乃が助けてくれた。助けてくれたっていうより、肯定してくれたっていうのかな。俺もよく分からないんすけど、とにかく気が楽になったんすよ──あれ、なんの話だっけ。なんか長々とすみません」
言葉を吐き出すたび、胸の奥に溜まっていたものが少しずつほどけていく感覚があった。
「いいの。月乃が誰かのためになったのなら、それでいい。やっぱりこんなところで死ぬわけがないわね。きっと神様は見てる」
「そうっすね……俺も信じたい」
そのとき、ポケットの中でスマホが小さく震えた。
取り出すと、柳生からの通知が届いていた。輸送車襲撃事件の報告会議を行うとの通達だった。
「椿さん。俺、ちょっと行かないと」
「本当にありがとうね。また、時間があるときに会いに来てあげて」
「もちろんっす。じゃあ……」
月乃にひと目だけ視線を落とし、陽暈はそっと出入口へと向かった。扉を静かにスライドさせ、振り返った先──室内に残る椿が、穏やかな笑みを浮かべながら手を振っていた。陽暈もまた、控えめな会釈で応える。
戸を閉める指先に力をこめ、音ひとつ立てぬよう、ゆっくりと引き寄せた。
最後の瞬間まで、椿の笑顔は崩れなかった。
それがいっそう、胸に重くのしかかる。
娘の命が、今まさに天秤にかけられているというのに、彼女はなぜ、あれほど冷静でいられるのか。
それを問えるほど、陽暈は大人ではなかった。
答えなど、まだ遠い。
受付を通り過ぎ、正面玄関へ向かう途中で、あることを思い出した。椿からもらったエナジードリンクの空き缶を、あの面会室のテーブルに置き忘れてきたのだ。
ご馳走になっておいて、ゴミを任せるなど、無礼千万。
陽暈は舌打ちしそうになるのを飲み込み、踵を返した。再び、あの部屋へ──。
つい先ほど閉じたばかりの扉の前に立ち、取っ手に指をかけた。その瞬間だった。
「どうしてよぉぉお……! 月乃ぉぉおお゛!」
むせび泣く声が、扉越しに漏れてきた。扉を開けようとしていた陽暈の手が、咄嗟に空中で凍りついたように止まる。
「お願い……月乃…………」
間違いなく椿の声だった。しかし、その声音は先ほどまでの穏やかな母のものとはまるで異なっていた。むき出しの叫び。
ドンッドンッと何かを叩く音が響く。テーブルか、壁か、床か──その激しさに、椿の取り繕っていた感情の堰が決壊したことを知る。
やはり、彼女は演じていたのだ。
陽暈の前では、母親としての威厳を、笑顔という仮面で保ち続けていたのだ。
それが大人なのか。
それが、母親という存在なのか。
そう思えば思うほど、陽暈の胸が締めつけられた。自分の行いの重責が、脳天を貫いたようだった。
空き缶を回収することなど到底できるはずもなく、陽暈は扉の取っ手からそっと指を引いた。




