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「月乃! 頼む死ぬな! 頼む……!」
天若陽暈の喉は焼けるようにひりつき、叫ぶ声さえ震えていた。胸を締めつけるような焦燥と絶望が、怒涛のように押し寄せる。
鉄の臭いが濃く鼻腔を刺し、胃の奥を抉るような吐き気が込み上げる。生温かい鮮血が、地獄の入り口のように足元に広がっていた。
そんな切迫した空気を、突然の笑い声が裂いた。
「ぶはっはっはっ!」
その嗤いは狂気の鐘の音のように響き渡り、場にそぐわぬほど朗々としていた。腹を押さえて肩を震わせながら笑うヴェルマは、喜劇でも観劇していたかのようだった。
「痛快! 痛快極まれり! 決めたぞ! 私が奪われたように、私も奪う! 貴様も! 貴様の仲間も! 全員殺す!」
これまで氷のように冷静沈着だったヴェルマが、別人のように陶酔しきっている。その高揚ぶりは、かえって不気味で、異様だった。
「許さねぇ……絶対に許さねぇ!」
陽暈の胸に渦巻くのは、理屈や論理をはるかに超えた激憤だった。言いたいことは山ほどある。だが、言葉など意味をなさなかった。ただ──怒りの奔流が、彼の心を呑み込むばかりだった。
「私もだ! 私も許さない! お互い最後まで血生臭く舞おうじゃないか!」
狂気の舞台で、怒りと怒りが火花を散らす。その一角に、レイニーが静かに歩み寄り、ヴェルマの耳元で短く囁いた。
「ヴェルマ様。恐れながら」
一瞬で熱のこもった表情を引き剥がされるようにして、ヴェルマはふっと肩を落とした。
「そうだな。退くとするか」
その声音には、まだ火種のように残る余熱があったが、理性の冷気が表面を覆っているように見えた。レイニーはその言葉に応じ、無駄のない所作でレイピアを鞘に納める。
そして二人は、振り返ることもなく、その場をあとにした。逃走の影など一片も見せぬまま、悠然と、戦場を離れていった。
「変わってくれるかな」
傷口を押さえることしかできずにいた陽暈のもとに、零士が風のように駆け寄る。その手際と眼差しに、陽暈はわずかの躊躇もなく、月乃の頭をそっと託した。
「お願いです……! 零士さん! 月乃を……!」
「大丈夫。下がってて」
言葉に押されるように、陽暈は数歩後ずさる。もはや自分にできることは何もない。あとは願うしかなかった。どうか、どうかこの命だけは──助かってくれと。
気付けば彼は、膝を折り、額を地面に擦りつけていた。それはもはや祈りとも懺悔ともつかぬ、無意識の行為だった。自責の念が骨の奥から噴き出し、自らの軽率が引き起こした悲劇に、ただひたすらに頭を垂れるしかなかった。
零士は落ち着き払っていた。焦りの色など一片も見せず、儀式のように静かに、しかし確かな手つきで処置を進めていく。ジャケットを脱ぎ捨て、シャツの袖を素早く引き裂き、それを傷口へ押し当てる。
「頼む……月乃……死なないでくれ…………」
陽暈は正座したまま、額を地に擦りつけ、嗚咽ともつかぬ声を絞り出す。地面は熱を持ち、頬には冷たい汗が伝っていた。
やがて、真壁と碧が現着した。それからすぐ、救急車も走り込んできた。
尋芽が乗せられた救急車には碧が、月乃には陽暈が付きそうことを許された。零士と真壁は現場に残り、あとの処理を一手に引き受けてくれたのだ。
救急車の中での記憶は、陽暈の中からすっぽりと抜け落ちていた。混濁した意識のなかで、ただただ月乃の呼吸が続いていることを信じ、祈り、そして気がつけば──病院の待合室にいた。
何分、何時間、或いはもっと。それすら分からぬまま、ソファに腰を沈めたまま、彼はひたすらに月乃の無事を願い続けた。
そして──。
白衣に身を包んだ老医師が、神妙な面持ちで扉の向こうから現れた。
やけに冷たく感じるソファに身を沈めていた陽暈は、白衣の影を見た瞬間、反射的に立ち上がった。そして医師の言葉を受け止める準備を整える。
「一命は取り留めました」
その一言が耳に届いた途端、緊張の糸がぷつりと切れた。糸の切れた操り人形のように、陽暈は再びソファへと腰を落とした。
けれど、安堵の灯がともったのも束の間だった。医師は一呼吸置き、苦い言葉を継ぎ足す。
「ただ──」
そのひと言で、室内の温度が一段、冷え込んだような気がした。
「意識は取り戻しておらず、決して油断できない状況です」
ようやく、医師の神妙な面持ちの意味が理解された。期待という名の薄氷が、あっけなく割れる音がした。
「いつ……! 月乃はいつ起きるんすか……?」
縋るような問いに、医師は言葉で応えなかった。眉をひそめ、ゆっくりと首を横に振る。その仕草が、かえって無慈悲な宣告に思えた。
「そんな……」
「とにかく、いまは経過を見るしかありません」
そう言い残して、医師は静かに退室していった。その背中に、冷たさはなかった。彼は彼なりの限界まで、職務を全うしてくれたのだ。
頭では分かっている。だが、心が納得してくれなかった。
母を失い、弟を奪われたことは、確かに自分のせいではない。もし寄り道せずに帰宅していれば、或いは──そんな、たられば、は浮かぶが原因は自分以外にある。
だが、今回は違う。
月乃が、いまこの瞬間にも生死の境を彷徨っているのは、自分の過ちが引き起こした結果だった。言い訳の余地など一切ない。
ヒーロー気取りが笑わせる。人を救うはずの存在が、守るどころか、最も大切な人を危険にさらし、傷を負わせた。
撃たれるべきは、自分だったのに。
ぐるぐると、負の思考が渦を巻き、脳内を際限なく駆け巡る。その波は言葉すら呑み込んでしまい、陽暈はソファの上で、ただ呆然と、空を見つめていた。
それから、どれほどの時が流れただろうか。一時間──或いはもっと長く。壁の時計を見ても、時間は心の中では止まったままだった。
待合室には、自販機のモーターが唸るような音だけが響き渡っていた。その単調な響きが、静けさをいっそう際立たせ、まるで世界から自分だけが取り残されたかのようだった。
「あら? もしかしてあなたが天若陽暈くん?」
唐突に耳朶を打った女の声には、どこか懐かしさを孕んだ響きがあった。遠のいていた意識が、その呼びかけによって現実へと引き戻される。陽暈は鈍い動きで顔を上げ、声の主に視線を向けた。
「そうっすけど……あんたは……」
その顔に見覚えはない。けれど、どこか見慣れた面影が宿っている。記憶の水面に揺れる誰かの姿と、薄く重なった。
「わー! やっと会えた!」
声の調子も、表情も、あまりにも無防備なほどに明るかった。ネイビーのロングコートに、ぴたりと脚に沿うスキニージーンズ。年の頃は四十前後か。艶やかな黒髪が肩口で軽やかに揺れている。
彼女は陽暈の隣に遠慮なく腰を下ろすと、柔らかく微笑んだ。
「初めまして、私は朝顔椿。月乃の母親です」
場の空気をまるで読んでいない──そう思わせるほど屈託のない笑顔だった。けれど、嫌悪感は微塵も湧かなかった。むしろ、その明るさは、重苦しい空気の中に差し込んだ陽光のようでもあった。




