表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/129

25

「月乃! 頼む死ぬな! 頼む……!」


 天若陽暈の喉は焼けるようにひりつき、叫ぶ声さえ震えていた。胸を締めつけるような焦燥と絶望が、怒涛のように押し寄せる。

 鉄の臭いが濃く鼻腔を刺し、胃の奥を抉るような吐き気が込み上げる。生温かい鮮血が、地獄の入り口のように足元に広がっていた。


 そんな切迫した空気を、突然の笑い声が裂いた。


「ぶはっはっはっ!」


 その嗤いは狂気の鐘の音のように響き渡り、場にそぐわぬほど朗々としていた。腹を押さえて肩を震わせながら笑うヴェルマは、喜劇でも観劇していたかのようだった。


「痛快! 痛快極まれり! 決めたぞ! 私が奪われたように、私も奪う! 貴様も! 貴様の仲間も! 全員殺す!」


 これまで氷のように冷静沈着だったヴェルマが、別人のように陶酔しきっている。その高揚ぶりは、かえって不気味で、異様だった。


「許さねぇ……絶対に許さねぇ!」


 陽暈の胸に渦巻くのは、理屈や論理をはるかに超えた激憤だった。言いたいことは山ほどある。だが、言葉など意味をなさなかった。ただ──怒りの奔流が、彼の心を呑み込むばかりだった。


「私もだ! 私も許さない! お互い最後まで血生臭く舞おうじゃないか!」


 狂気の舞台で、怒りと怒りが火花を散らす。その一角に、レイニーが静かに歩み寄り、ヴェルマの耳元で短く囁いた。


「ヴェルマ様。恐れながら」


 一瞬で熱のこもった表情を引き剥がされるようにして、ヴェルマはふっと肩を落とした。


「そうだな。退くとするか」


 その声音には、まだ火種のように残る余熱があったが、理性の冷気が表面を覆っているように見えた。レイニーはその言葉に応じ、無駄のない所作でレイピアを鞘に納める。


 そして二人は、振り返ることもなく、その場をあとにした。逃走の影など一片も見せぬまま、悠然と、戦場を離れていった。


「変わってくれるかな」


 傷口を押さえることしかできずにいた陽暈のもとに、零士が風のように駆け寄る。その手際と眼差しに、陽暈はわずかの躊躇もなく、月乃の頭をそっと託した。


「お願いです……! 零士さん! 月乃を……!」


「大丈夫。下がってて」


 言葉に押されるように、陽暈は数歩後ずさる。もはや自分にできることは何もない。あとは願うしかなかった。どうか、どうかこの命だけは──助かってくれと。


 気付けば彼は、膝を折り、額を地面に擦りつけていた。それはもはや祈りとも懺悔ともつかぬ、無意識の行為だった。自責の念が骨の奥から噴き出し、自らの軽率が引き起こした悲劇に、ただひたすらに頭を垂れるしかなかった。


 零士は落ち着き払っていた。焦りの色など一片も見せず、儀式のように静かに、しかし確かな手つきで処置を進めていく。ジャケットを脱ぎ捨て、シャツの袖を素早く引き裂き、それを傷口へ押し当てる。


「頼む……月乃……死なないでくれ…………」


 陽暈は正座したまま、額を地に擦りつけ、嗚咽ともつかぬ声を絞り出す。地面は熱を持ち、頬には冷たい汗が伝っていた。


 やがて、真壁と碧が現着した。それからすぐ、救急車も走り込んできた。

 尋芽が乗せられた救急車には碧が、月乃には陽暈が付きそうことを許された。零士と真壁は現場に残り、あとの処理を一手に引き受けてくれたのだ。


 救急車の中での記憶は、陽暈の中からすっぽりと抜け落ちていた。混濁した意識のなかで、ただただ月乃の呼吸が続いていることを信じ、祈り、そして気がつけば──病院の待合室にいた。


 何分、何時間、或いはもっと。それすら分からぬまま、ソファに腰を沈めたまま、彼はひたすらに月乃の無事を願い続けた。


 そして──。


 白衣に身を包んだ老医師が、神妙な面持ちで扉の向こうから現れた。


 やけに冷たく感じるソファに身を沈めていた陽暈は、白衣の影を見た瞬間、反射的に立ち上がった。そして医師の言葉を受け止める準備を整える。


「一命は取り留めました」


 その一言が耳に届いた途端、緊張の糸がぷつりと切れた。糸の切れた操り人形のように、陽暈は再びソファへと腰を落とした。


 けれど、安堵の灯がともったのも束の間だった。医師は一呼吸置き、苦い言葉を継ぎ足す。


「ただ──」


 そのひと言で、室内の温度が一段、冷え込んだような気がした。


「意識は取り戻しておらず、決して油断できない状況です」


 ようやく、医師の神妙な面持ちの意味が理解された。期待という名の薄氷が、あっけなく割れる音がした。


「いつ……! 月乃はいつ起きるんすか……?」


 縋るような問いに、医師は言葉で応えなかった。眉をひそめ、ゆっくりと首を横に振る。その仕草が、かえって無慈悲な宣告に思えた。


「そんな……」


「とにかく、いまは経過を見るしかありません」


 そう言い残して、医師は静かに退室していった。その背中に、冷たさはなかった。彼は彼なりの限界まで、職務を全うしてくれたのだ。

 頭では分かっている。だが、心が納得してくれなかった。

 母を失い、弟を奪われたことは、確かに自分のせいではない。もし寄り道せずに帰宅していれば、或いは──そんな、たられば、は浮かぶが原因は自分以外にある。


 だが、今回は違う。

 月乃が、いまこの瞬間にも生死の境を彷徨っているのは、自分の過ちが引き起こした結果だった。言い訳の余地など一切ない。

 ヒーロー気取りが笑わせる。人を救うはずの存在が、守るどころか、最も大切な人を危険にさらし、傷を負わせた。

 撃たれるべきは、自分だったのに。


 ぐるぐると、負の思考が渦を巻き、脳内を際限なく駆け巡る。その波は言葉すら呑み込んでしまい、陽暈はソファの上で、ただ呆然と、空を見つめていた。


 それから、どれほどの時が流れただろうか。一時間──或いはもっと長く。壁の時計を見ても、時間は心の中では止まったままだった。


 待合室には、自販機のモーターが唸るような音だけが響き渡っていた。その単調な響きが、静けさをいっそう際立たせ、まるで世界から自分だけが取り残されたかのようだった。


「あら? もしかしてあなたが天若陽暈くん?」


 唐突に耳朶を打った女の声には、どこか懐かしさを孕んだ響きがあった。遠のいていた意識が、その呼びかけによって現実へと引き戻される。陽暈は鈍い動きで顔を上げ、声の主に視線を向けた。


「そうっすけど……あんたは……」


 その顔に見覚えはない。けれど、どこか見慣れた面影が宿っている。記憶の水面に揺れる誰かの姿と、薄く重なった。


「わー! やっと会えた!」


 声の調子も、表情も、あまりにも無防備なほどに明るかった。ネイビーのロングコートに、ぴたりと脚に沿うスキニージーンズ。年の頃は四十前後か。艶やかな黒髪が肩口で軽やかに揺れている。

 彼女は陽暈の隣に遠慮なく腰を下ろすと、柔らかく微笑んだ。


「初めまして、私は朝顔椿(つばき)。月乃の母親です」


 場の空気をまるで読んでいない──そう思わせるほど屈託のない笑顔だった。けれど、嫌悪感は微塵も湧かなかった。むしろ、その明るさは、重苦しい空気の中に差し込んだ陽光のようでもあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ