24
北海道は札幌。極寒の地で、朝顔月乃はこの世に生を受けた。
父と母も根っからの道民であり、仲睦まじかった。そんな二人の愛情を注がれ、彼女はすくすくと育っていった。
家計が苦しいということもなく、なにも不自由を感じることはない。強いて言うなら、母親が勉強に関して口うるさいという、ごく普通の家庭だった。
月乃が最も信頼を置いていた友人がいた。
名は撫子水奈。小、中、高、全て同じという生粋の幼馴染だ。
初めての出会いは小学一年の入学式。クラスが同じで、順に自己紹介をした時、二人とも「花の名前が苗字になっている」というプレゼンを披露したことにより意気投合に至った。月乃は撫子という花を知らなかったが、共通点があるというだけで嬉しかった。
その頃から、周りからもニコイチと言われるほど、常に行動を共にしていた。
活発な性格の月乃に反し、水奈は内気で大人しい子だった。それゆえ、別々のクラスになった時、上手く馴染めないという相談をよく受けていたものだ。
そのくせに、月乃には強気なところがあり、喧嘩をすることもしばしば。だが互いに一晩寝れば忘れるような楽天家で、長期間、不仲が続くことはなかった。
高校一年の冬、ある事件が起きた。それは月乃がリリースとバーストを同時に成し遂げるという異例の事態でもある。
いつも通り、水奈と二人で下校していたところ、ニット帽を深くかぶり、不織布マスクで口元を隠したガタイのいい男が佇んでいた。
当然のように雪も降っており、防寒対策としてニット帽をかぶったりするのは一般的。そんな風貌の男はどこにでもいるものだと、なにも気にすることなく、通り過ぎようとしたその時、水奈の腕がゴツゴツした男の手によって掴まれた。
「きゃっ……!」
一歩先を進んでいた月乃は、水奈の悲鳴を聞いて振り返った。もうその時点で、男が水奈に馬乗りになっていた。
人が人を襲う瞬間を目の当たりにする機会など、普通に生活していればそう簡単に遭遇できるものではない。月乃は目の前の光景に絶句し、なにが起こっているのか把握できなかった。
「助けて月乃……!」
そんな水奈の叫喚を聞いた瞬間、月乃は我に返った。大切な親友を助けられるのは自分しかいないことと、自身がすべきことを即座に理解した。
歩道の脇に立てかけられていた雪かきを咄嗟に手に取った月乃は、大きく振りかぶり、男の後頭部に照準を合わせる──力一杯、振り落とした。
ゴーンッという金属音が響き渡り、雪かきの柄を伝って月乃の手の平に衝撃が波打った。
「いってぇな……」
鉄製の雪かきで殴打されたにもかかわらず、男は倒れなかった。それどころか、水奈に覆いかぶさっていたはずの男が、いつの間にか月乃の目の前に迫っていた。
「あの……これは…………」
街灯が男の頭部に遮断され、月乃の顔が陰った。
「このクソガキ」
弁明の猶予はなかった。
月乃の胸ぐらが男の手に掴まれると、足の裏が地面からゆっくりと離れるのを感じた。恐怖のあまり握力が抜け去る──雪かきがコンクリートの地面に衝突する乾いた音が鳴った。
そして、胸ぐらを鷲掴みにする手とは逆の拳が、頬へ叩き込まれる。
「うぐっ……」
一度や二度では済まされなかった。胸ぐらを固定されているせいで、逃げようにも逃げられない。
こめかみ、頬、顎、鼻──顔面のあらゆる箇所に、何度も何度も衝撃が襲う。
四発目のパンチを受けたころから、顔の痛覚は麻痺していた。ただ視界と脳が揺れ、意識が遠のいていくのを感じるだけだった。
やがて抵抗する力さえなくなった頃、ゴンッという聞き覚えのある音が鳴った。今度は水奈が男の頭を雪かきで殴りつけたのだ。
さすがに二度目は効いたらしく、男は項垂れる月乃を投げ捨て、頭を抱えて悶え始めた。
それもそのはず、水奈は角度をつけて雪かきを振り落としたため、男の頭部へのダメージが倍増されていた。本を平面で叩くのと、角で叩くの、どちらの方が痛いかは、言うまでもない。
「お前……いってぇだろうが!」
男は片手で後頭部を押さえながらも、水奈の方へ向き直った。脱ぎ捨てられた衣服のように地べたに寝そべった月乃は全身に力が入らず、動けない。
「来ないで!」
男を寄せ付けぬよう必死に雪かきを振り回す水奈。
「逃げて……水奈…………」
血の味が口いっぱいに広がるなか、月乃は声を絞り出す。しかしすぐに、男は雪かきを受け止め、水奈の手から取り上げた。
「だめ……水奈…………」
自分が助けないと誰が水奈を助ける。彼女に迫る脅威を取り払うのは自分の役目だ。これまでもそうだった。
だがどんなに脳から指令を出しても体が動かない。いや、脳が動いておらず、指令が出せていないと言った方が正しい。
雪かきを没収された水奈は、その華奢な腕を振り回すが、容易く掴まれてしまう。
「いやッ……!」
その悲鳴を聞いた時、月乃の中で、なにかが弾ける音が鳴り渡った。さらに、身体中に強烈な電気が流れた。
のちに、その現象が脳の制限が解除されたことの合図だと知るが、この時の月乃は、とにかく目の前の暴漢を無力化すること以外、頭になかった。
それからは、沸きだす強靭な力を、一切の躊躇もなく振るった。雪かきなど使わなかった。一心不乱に己の拳を男の顔面に捩じ込んだ。
脳の制限が解除されて間もないせいか、報復の欲求か、自身でもわけが分からなくなるほど、殴り続けた。
何度も。何度も。
打ち据えるたびに、拳の皮膚は裂け、血が弾け、ついには骨の白が肉の赤から顔を覗かせた。それでも構わなかった。脳内で麻薬のように快楽物質が溢れ返り、痛みの信号はすでに、感情という器からこぼれ落ちていた。
やがて、床に横たわる男の顔は、人間のそれとは思えぬものに変わっていた。鼻梁は潰れ、頬は陥没し、どこが目だったのかさえ判然としない。
そしてようやく、彼女の腕から力が抜けた。指先は震え、血と汗と涙が区別もつかぬまま、静かに滴り落ちた。
ほどなくして、仕事帰りに偶然通りかかった女性が、即座に通報し、凄惨な夜は幕を下ろした。
翌日、無事に月乃は目を覚ました。滝のように涙を流した母親に抱擁されたのを覚えている。しかしそれよりも忘れられないことが、母親の口から告げられた。
「水奈ちゃん。首を絞められて、亡くなったって……」
一度では理解が追いつかなかった。
幼い頃からずっと隣にいて、未来にも当然のように存在するはずだった親友、水奈。その彼女が、もうこの世にいないなどと、どうしてすんなりと受け入れられようか。
そもそも、あのとき自分は──確かに、水奈を助けたはずだ。男を殴り、必死で。
「うぅ……」
あの時の記憶が、凄惨な映像となって脳裏に浮かび上がった。原型を失った男の頭部がまざまざと蘇り、喉の奥に酸っぱいものが逆流しそうになるのを、どうにか飲み込んだ。
「私……人を…………」
「大丈夫よ月乃。あなたが生きてさえくれれば、お母さんはそれでいいの」
その言葉に、どこか理不尽さを覚えた。あまりにも自己中心的な慰めだ、と。
けれど同時に、それ以外の言葉では、この現実を受け止めきれないということも、痛いほど理解できてしまった。
数日後、月乃は水奈の葬儀に参列した。さりとて、心のどこかではまだ信じたくないという感情が燻っていた。
それはあたかも、シュレディンガーの猫実験のように、生と死が曖昧なまま箱に閉じ込められているような感覚だった。
だが、棺の蓋が開いた瞬間、すべては確定した。水奈は、確かにこの世を去ったのだ。無念さと喪失の痛みに胸が締めつけられる。けれど、不思議なことに、涙は出なかった。
代わりに湧き上がったのは、ある誓いだった。
もう二度と、大切な人を失わない。たとえ自分の命と引き換えにしてでも、守り抜く。月乃は、そう心に深く刻みつけた。
人を死なせた行為については、罪に問われなかった。正当防衛が認められたのだ。弁護士からは、過剰防衛の可能性が高いと告げられていたが、裁判は意外にも円滑に進み、すぐに判決が下った。
その背景には、特務執行局の介入があったことが、のちに判明する。
判決が下りて間もないある日、零士が遥々北海道までやって来て、自宅のインターホンを鳴らした。そのとき、月乃は初めて特執という存在を知る。
そして、水奈に捧げた誓いを果たすため、自らもその組織に身を投じる決意を固めた。
入局には、東京への転居が条件だった。だがそれは、むしろ月乃にとって救いだった。
人を殺したという噂が瞬く間に広がり、彼女は元の高校に居場所を失っていたのだ。
法的には正当防衛であったとしても、それは人々の噂の奔流には無力だった。人殺しというレッテルは、糊のように貼り付き、その粘着力は計り知れなかった。
両親に相談した。特執の存在は秘匿とされていたため、建前として「東京でやり直したい」とだけ伝えた。
事件以来、無気力になっていた月乃が自ら動いたことに、両親は驚きつつも、心からその申し出を受け入れてくれた。
心機一転、引っ越して新たな友人を作り、新たな人生を歩もう。もちろん人を殺した重責を心に刻み、水奈を助けられなかった懺悔を背負うことを忘れるつもりはない。そう考えていた。
だが、現実という名の神は、情にほだされることのない冷徹な審判者だった。
いったいどこから漏れたのか、その経路は霧の中だ。それでも噂は、風より早く、影よりも静かに、転校先の高校に行き届いていた。正当防衛という文脈は、都合よく切り落とされて。
月乃に与えられたのは、人を殺した女という呪いのレッテル。それは、どんな言葉を尽くしても剥がせない、透明で粘着質な烙印だった。
新しい環境ならやり直せる──そんな淡い期待は、教室の空気に触れた瞬間、音もなく崩れ去った。
背を向けられる視線。囁く声。張りついた笑顔と、張り詰めた沈黙。
誰も彼女に触れようとしなかった。彼女がまるで、有害物質でも纏っているかのように。
人を殺すというのは、こういうことなのだ。
月乃は、拒絶される痛みを噛みしめながら、静かにその事実を受け入れようとした。
やがて教師が、ひととおりの紹介を終え、教室の後方を指差す。それに従い、月乃は無言で歩を進め、指定された席に腰を下ろした。
そこで、ようやく隣の席に目を向けた。
彼がいた──。
額から首元まで、皮膚を裂くように伸びる傷跡が印象的な少年だった。机には教科書や筆記用具の代わりに、『パイプマン』なる、どこか垢抜けないタイトルの漫画が散らかっていた。
周囲の生徒たちが明らかに距離を置いていた中で、彼だけは、まるで何事もなかったかのように話しかけてきた。
「お前……ちょっと待てよ!」
彼は突然声を上げると、机に山積みになっていた漫画をひっくり返すように漁り始めた。そして目的の巻を見つけると、ページをパラパラとめくりながら、目を輝かせた。
「これ! ほら!」
青年は勢いよく、とあるページを月乃の眼前に差し出した。
だが、そこに何を示したいのか──彼の意図は月乃にはまるで掴めなかった。ただページを見つめたまま、無意識に首を傾ける。
「だから! こいつ!」
どうして分からないんだ、と言わんばかりの語調で、彼はページの左側を勢いよく指差した。
指の先には、眼鏡をかけ、重たげな前髪で表情の大半を隠した地味な少女キャラが。背景の陰に溶け込むような存在感の薄さが印象的だった。
しかし、それでもなお、月乃の中で何かが繋がる気配はなかった。ますます困惑した面持ちで、傾げた首の角度をさらに深めた。
「こいつ! パイプマンが助けたモブキャラ! お前にめっちゃ似てね!?」
月乃は水奈を失うまで、髪をまとめ上げてお団子ヘアーにしていた。水奈からプレゼントされた水色のヘアゴムで。
しかし、人殺しという噂が地元で流れ始めてから、気付けば顔を隠すように髪を降ろし、コンタクトから眼鏡をかけるようになっていた。
その漫画に描かれていたモブキャラとやらは、いまの月乃にそっくりだったのだ。しかし、いつの間にか自分がそう見られているとは気付いていなかった月乃には、理解するのに時間を要したのだ。
「モブって……確かに似てるかも……」
「だろ!?」
いや、そもそも主要キャラならまだしも、モブキャラの見た目と、どのページにあったかを覚えてるって、どれだけその漫画が好きなんだ。
そう心でツッコミを入れながらも、月乃は嬉しく感じていた。
漫画に描かれたモブキャラのように、自分が平凡でありきたりな人間だという風に、彼の目に映っているのだと思うと、とにかく嬉しかった。
いま、自分が最も欲していたのは、誰よりもフラットに、普通に接してもらうことだったと、その時に気付かされたのだ。
モノクロになっていた世界に、花が咲き乱れるように色が戻った気がした。憂鬱な日々を送っていた月乃からすると、そんな些細なことでも、救いになった。正に彼は、ヒーローだった。
それからの日々は、少しずつ光を取り戻していった。
彼とは決して密接な関係ではなかったが、月乃が困っているとき、必ずさりげなく手を差し伸べてくれた。
その優しさが欲しくて、わざと暗い雰囲気を纏ってみたりもした。
やがて、月乃は気づいた。
彼のことが、大好きなのだと。
その想いに気付いた瞬間、彼女は心に新たな誓いを立てた。
天若陽暈──この人だけは、自分の命を懸けてでも、絶対に守る。




