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 天若陽暈は、尋芽の唇の端から淡く滲む鮮血を指先で拭いながら、体をそっと地面に横たえた。彼女の瞳にはまだ熱が灯っていたが、その体からは確実に力が抜け落ちていた。


「陽暈くん! 尋芽!」


 風を切る羽音と共に、赤い鳥を伴って月乃が駆けつけると、掠れた声で尋芽が微笑んだ。


「ツキちゃんん……二人ともありがとぉ……」 


「あとは俺らがやるよ」


 陽暈が短く告げると、尋芽は首を左右に振り、言葉を絞り出す。


「だめぇ……あいつ、バーストしてる……」


 警告のように、しかし懇願するように。声は震え、痛みによって途切れがちだった。


「尋芽、私もそうでしょ? だから任せて」


 月乃は胸を張って微笑みながら、頭頂でまとめたお団子を指先でくるりと縛り直す。


「待て。天若……陽暈…………? おい貴様。さきほど、天若と言ったか?」


 低く通る声が、空気を震わせる。唸るように響いたその声音に、一瞬、場の温度が変わった気がした。


 声の主は、脇腹を押さえて悶える男の傍ら──ロングコート、上質なスリーピーススーツ、犬の仮面、全てが黒で仕立て上げられたもう一人の男。

 吸い込まれそうになる高純度の青い眼を光らせる彼の佇まいには、今まで遭遇してきたブラックドッグの構成員とは一線を画す威圧感があった。言葉にできぬ、質の違い。目に見えぬ圧力が空間ごと押し潰そうとしてくるような、そんな異質さ。


 そして、その男の隣──。


 燃え立つ炎が人の形をとったかのように、紅のオーラを纏った女が佇んでいた。

 ブラックドッグの象徴である仮面は、通常の黒ではなく、清冽な白。身に纏うコートも、なかに着るスーツもまた白一色。極めつけは、背中まで伸びる透明感のある長い白髪。

 スラリと引き締まった身体には、力と美しさが同居していた。放たれる気配は、獣のように荒々しく、それでいて神殿に眠る巫女のように神秘的でもあった。


「誰だあんた」


 陽暈が目を細める。不信と警戒をそのまま声に乗せて、吐き捨てるように問い返した。


「天若……妙なことを聞くが、近頃、母親と兄か弟を失っていないか?」


 過去の痛みをなぞるような言葉が、静かに投げられた。


「だったらどうだってんだよ」


 陽暈の声音が低くなる。胸の奥に押し込めていた記憶が、薄氷のようにひび割れていく。


「そうか。二人いたのか……」


 青い眼の男はそう言うと、ゆっくりと視線を落とす。目の先には、地面にうずくまる坊主頭の男。先ほど陽暈が脇腹に蹴りを叩き込んだ、あの仮面の男だ。


「ボス……! 違うんです! あれはファウンド様が──」


 切羽詰まった声が、地を這うように響く。だが青い眼の男は一切の情けも見せぬまま、無言で坊主頭の喉元を掴み上げ、仮面を剥ぐ──脇に捨てられた仮面がコンクリートを跳ねる乾いた音が鳴り渡った。

 眉が剃られ、目つきの悪い男の素顔が露呈。そして身体が空中で縮こまり、吊るされた人形のように足をばたつかせている。


「私は皆殺しにしろと言ったはずだ。指示に背いた貴様に残された道は二つ。私に殺されるか自死するか、だ」


 声に籠められた怒気は低温だったが、その分だけ質量を持って空気を圧迫する。そんな死の宣告を前に、坊主頭の男が縋るように叫んだ。


「ま、待ってください! ボス! あべがばっ──」


 悲鳴じみた叫びは、次の瞬間、金属の異物によって押し潰された。口内にねじ込まれたのは、冷えた銃口。坊主の男の体がわずかに仰け反る。


「ぼふ! ばっへぶばは──」


 パァンッ──。


 突発的な破裂音が、地下の空気を一瞬で切り裂いた。

 次いで、坊主頭の後頭部から緋色の霧が噴き上がる。飛沫のように舞った血潮は、柱を紅く染め、空間そのものに殺気の痕跡を刻みつけた。


 もがいていた手足は、その瞬間ふっと力を失い、糸の切れた操り人形のようにぶら下がる。

 そして──彼の全身を包んでいた黄色のオーラもまた、燻る線香の煙のように、静かにかき消えていった。


「はぁ……もう何も思わなくなったな」


 男は深く吐息をこぼしながら、手に提げていた坊主頭の首を、無造作に手放した。首を失った人形のように、その体は地面に崩れ落ちる。途端、首元から滲み出た鮮血がアスファルトを濡らし、ゆっくりと黒赤い水溜まりを広げていった。


「なんてやつだ。仲間を殺したのか……?」


 陽暈が眉根をひそめる。鼻腔を満たす鉄の匂いが、吐き気にも似た不快感を呼び起こす。咽喉の奥がざらついた。


「陽暈、と言ったか。貴様、父親の居場所を知っているか?」


 問いを投げかける声は、異様なまでに静かだった。その静寂さが、かえって耳に鋭く刺さる。


「待てよ。そんなことより、俺の母さんと弟を殺したのはあんたらなのか?」


 あの夜、突然すべてを奪われた。理由もなく、容赦もなく。犯人も動機も掴めず、ただ焼き付いた光景と叫びだけが胸に残ったまま、時間だけが過ぎていった。

 之槌からは、会う度に進展がないことを謝罪されていた。とはいえ、彼は彼なりに全力を尽くしているのは分かっている。


 もし、目の前の男が犯人なのであれば──。


「そうだ。私が指示を出し、部下に殺させた」


 まるで天気の話でもするかのように、男は平然と言い放った。動かず、表情も変えず、悪びれる様子など欠片もない。むしろ、当然の帰結を述べるような語り口だった。


 その返答が耳に届いた瞬間、陽暈の鼓動が跳ね上がった。胸の奥にひそんでいた感情が一気に噴き出す。怒りが、痛みが、熱となって血管を駆け巡り、体温を狂ったように引き上げていく。


「そうかよ。じゃあ殺す」


 その言葉が唇から滑り出すよりも早く、陽暈の身体は独りでに動いていた。思考が追いつく前に、拳が心を代弁する。


 地面を蹴り、疾風のように男へと迫る。拳に込めたのは、悔恨と怒りと、そして誓い。

 だが──。


「退け」


 雪のように白く、透けるような髪が宙に舞った。翼のように広がるそれをなびかせ、女が陽暈の前に立ちはだかる。切り裂くような眼差し。冷酷な静寂を纏った殺気。


 構わない。家族の仇に連なる存在なら、すべて蹴散らすだけ。

 陽暈は迷わず拳を突き出した。正拳一閃、全身全霊を込めて、白い仮面を砕かんと押し出す。


 だが、怒りに任せた直線的なその一撃は、いとも簡単に躱される。直後、みぞおちに鈍痛が突き刺さった。

 女の肘──それは刃のように鋭く、打撃のはずなのに切り裂かれるような痛みを伴う。


 激痛が脳を揺らすよりも早く、陽暈の身体は爆風に呑まれたように宙を舞い、地面を滑るように転がった。

 それでも、彼はすぐに立ち上がる。思考など介在していない。ただ、仇を討つという一点だけが彼の全てを支配していた。


 再び駆け出す。だが、またも女に迎撃される。力と力が激しくぶつかり合い、その攻防はまるで相撲のぶつかり稽古のようだった。


 耳の奥に月乃の声が響いた。しかし、陽暈にはそれが聞こえた気がする程度だった。

 今、彼の世界は極限まで狭まっている。視界も、意識も、ただひとつ──復讐。その文字に塗り潰されていた。


 そうして、幾度ものぶつがり稽古を経て、陽暈の肉体が限界を訴える。


「かはァッ……」


 呼吸が浅くなる。顔、胸、腹、腕──全身が殴打されたような鈍痛に苛まれ、ついに膝をついた。


「陽暈くん!」


 駆け寄ってきた月乃の手が伸びてきた。

 しかし──。


「大丈夫」


 その手を振り払い、陽暈は地面を睨みつけながら呟いた。


「陽暈くん……」


「許さねぇ。あいつだけは許しちゃなんねぇ」


 言葉は低く、重く、そして熱を帯びていた。粘度のある怒りと、澱のような憎悪が言霊に染み込んでいた。


 月乃の表情には哀しみの色が浮かぶ。だが、陽暈は彼女に一瞥もくれず、鉛のように重くなった身体に鞭を打ち、再び立ち上がる。地を踏みしめるその足には、怨念にも似た執念が宿っていた。


「愚策。死をもって悟るがいい」


 白きコートの隙間から、女が刃を覗かせる。細身の剣身がわずかに蛍光灯の光を受け、煌めいた。


 レイピア──。

 十七世紀、ヨーロッパで護身と決闘に用いられた片手剣。刺突に特化したその形状は、まさに殺意を具現化した道具である。

 音もなく、刃が鞘から抜かれた。女の動きは水のように滑らかで、無駄が一切ない。

 そして、懲りずに疾走する陽暈の心臓を狙って、その剣先が突き出される。


 だが、陽暈は止まらない。刺されることなど恐れていない。いや、もはやそれをどうでもいいとすら思っていた。

 いまだ、彼の心を支配しているのは、仇を討つという復讐心だったのだ。


 目と鼻の先に、鋭利な切っ先が迫ったその瞬間──横合いから凄まじい衝撃が襲った。

 トラックに跳ね飛ばされたような爆発的な力に、陽暈の身体が浮き上がり、次いで壁へと叩きつけられた。骨が軋み、空気が一気に肺から逃げ出す。


「ってぇ……」


 陽暈は呻きながら、こめかみを伝う熱い液体の感触に顔をしかめた。

 濡れた指先に視線を落とせば、そこには自分の血──赤黒く染まったぬめりがべっとりと残っていた。世界は赤く滲み、視界は霞み、思考の輪郭がぼやけていく。そのなかで彼は、懸命に焦点を定めた。


 目の前に立っていたのは、見覚えのある長身の男。背筋はすらりと伸び、洗練された佇まいの中に、研ぎ澄まされた刃のような気配を宿している。

 その右手には、短剣のような武具が握られており、剣舞を操るかのようにしなやかに振るわれたそれが、女のレイピアを鋭く弾き返していた。


「ちょいと手荒で失敬。どういうわけか分からないけど、来て正解だったかな」


「零士……さん……」


 いつも余裕を漂わせる彼の瞳に、今は焦燥の色が差していた。静けさの裏に、張り詰めた気配。


「下がれ、レイニー」


「ヴェルマ様、お手を煩わせるわけには参りません」


「ほんの気まぐれだ。下がれ」


「はっ」


 白衣の幻影のような女──レイニーが、宙に舞うような動きで八の字を描き、レイピアを滑らかに納めて一歩引いた。

 その空間にすっと差し込むように、黒いロングコートの男──ヴェルマが、静かに歩み出る。


 そして、天井を仰ぎ見て、深く息を吐いた直後、空気が一変した。重苦しいまでの圧が、地下駐車場全体を覆い尽くす。

 いつしかヴェルマの口元からは白く薄い霧のようなものが立ちのぼり、体全体を包む煙のようなオーラが。バーストアビリティでは聞いたことのない色──純白の輝きを放っていた。


「九頭……」


「おや? どこかで会ったことがあるのかな?」


「いや。お前の名前は嫌でも耳に入る」


 静かなやり取りの中にも、殺気が充満していた。


「待ってくれ……! そいつは俺が──」


 陽暈が血の滲む唇を食いしばりながら駆け寄ろうとしたそのとき──。


「来るな!」


 零士の怒声が響いた。陽暈の進行を制すように、彼は圧を込めた手のひらを向ける。


「きみが太刀打ちできる相手じゃないかな」


 その声には、温度がなかった。

 陽暈は、蛙が蛇に睨まれたかのように、動けなくなった。


 時が数秒だけ凍結したかのような静寂──その均衡を破ったのは、ヴェルマが構えた銃だった。刹那、零士の身体から炎のような真紅のオーラが噴き上がる。


 パァンッ──!


 地下空間に響く轟音。その瞬間、全ての動きが止まる。反響が消えるまでの間、誰もが身じろぎ一つしなかった。


「ふぅ。危ないね」


 零士の姿に傷はない。いや、そもそもその銃弾は彼に向けられていなかった。当たる気配すらなく、的外れな方向へ撃ち放たれたため、零士はその場で動かなかった。


「大したオーラの量だな」


 ヴェルマは銃口を天へ向け、争う意志がないことを示す。


「そういうきみは、未来でも視えるのかな?」


 額に汗を滲ませながら、零士が静かに息を吐く。


「察しがいいな。あれは使わないのか?」


「さぁ、なんのことやら」


 言葉の応酬すら陽暈には理解できなかった。だが、直感だけは告げていた。いま、ここには常人が到底踏み入れられぬ領域の攻防が存在している、と。


「ふん。厄介な男だ。予定通り輸送車は一台こちらの手中。お互い、この辺りで手打ちにしないか?」


「ずいぶん潔いね。こっちも人死にがでてないし、それだと助かるかな」


「ダメだ……! そいつは俺の家族を殺した!」


 陽暈の叫びに、零士は目を見開いたが、すぐに表情を戻した。


「そうなのかい。でもいまは我慢してくれないかな。圧倒的に劣勢だよ、俺たち」


「いや、こっちの方が数が多い……!」


「ニュークとの戦いに数は関係ないかな」


「それでも……! いま、やるべきだ!」


「いいやダメだ」


「天若陽暈。貴様は復讐の連鎖を断ち切る術を思案したことはあるか?」


 零士と陽暈の意向が定まらない時間に鬱屈としたのか、ヴェルマが割って入った。


「私は貴様を見て確信した。やはり復讐の連鎖を断つ方法はただ一つ。どちらか一方の完全な根絶だ。それ以外にない」


「勝手なことを言ってんじゃねえ!」


 陽暈が吠えると、痛みによる痙攣が全身を貫いた。


「お前が一方的に俺の大事なものを奪ったんだろ! なに勝手に連鎖させてんだよ!」


「私が始めた惨劇ではないと言えば、少しは自分の早計さが分かるか?」


「ふざけんな!」


「話にならん。貴様はただの死に損ないだ。いずれ私がその命を葬ってやろう」


「だったらいま……!」


 傷は悲鳴を上げ、理性は遠ざかる。それでも、彼の心にあるのはただひとつ。


 復讐──。


「いますぐにでも殺してみやがれえええ゛!」


 陽暈は絶叫し、空を切り裂くように跳躍した。彼の進行を阻むように、再びレイニーが立ちはだかる。白い仮面に冷たい視線、剣先は鋭く陽暈の心臓を狙っている。


 それでも構わない。たとえ命を落とそうと、この拳を──ヴェルマに叩き込むことができるなら。


 だがその瞬間──銃声が轟き、またもや側面から衝撃が陽暈を襲った。今度は零士ではなく、月乃による渾身のタックルだった。


「……っ!」


 思いがけない衝撃に陽暈はバランスを崩し、月乃と共に地面を何回転も転がった。硬いコンクリートに叩きつけられ、体中に痛みが走るが、陽暈が目を見開いたのはその痛みのためではなかった。


「熱い……」


 耳元で、吹き消される蝋燭のような声が囁かれた。


「月乃……?」


 覆いかぶさる彼女は、動かない。震える手で月乃の身体を支えながら、上体を起こす。


「嘘だろ……」


 月乃の側頭部。そこから溢れる血が、紅蓮の滝のように絶え間なく流れ続けていた。


「ダメだ……つき…………」


 震える手で傷口を覆っても、血液は指の隙間から逃げるように漏れ出す。沸騰したお湯のごとく、やけに熱を帯びていた──。

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