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 仁志尋芽は、とあるビルの地下駐車場へ誘われていた。


「大丈夫ぅ。殺したりしないから安心してぇ」


 低く湿った声が地下に響く。輸送車を追ってきた尋芽の目に飛び込んだのは、手足を縛られ、身動きが取れなくなっていたブラックドッグの構成員。おそらく輸送車を運転していた男だ。

 しかし問題は、輸送車がすでに姿を眩ましていたということ。


「待ってくれ! 俺は脅されてたんだ!」


「そんなことより、輸送車はどこぉ?」


「分からない……! たぶんもうここには……」


 男は尻もちをついたまま、地べたに這いつくばるようにして命乞いを始める。声は震え、目は泳ぎ、無様という言葉を体現していた。


「そっかそっかぁ」


 尋芽は一切の同情も見せず、歌うように返すと、男の首筋にインヒビターを取りつける。その瞬間、彼の身体は抵抗の意思を剥ぎ取られたかのように力を失い、床へと沈んだ。


 だが、安堵が広がるよりも早く、視界の端に不穏な影が走る。瞬間、尋芽の身体は直感に突き動かされるように後方へ大きく退いた。華麗なバク転で空間を斬り、間一髪──迫る巨体を回避した。


 ドシャーンッ──!

 凄まじい衝撃音がコンクリートに炸裂した。破壊音が地下空間に反響し、空気が震える。

 尋芽はそのまま着地しつつ、通り過ぎた物体を振り返る。それは──車。人ひとりを粉砕するには余りある、鉄塊だった。


「なんだ。死んでねぇのか」


 車が飛んできた方角を睨むと、そこには見慣れた異形──犬の仮面をかぶった坊主頭の男が、悠然と立っていた。耳には無数のピアスを嵌めており、光の反射が煩わしい。


「だれぇ?」


「白々しい野郎だな」


 仮面の奥からにじむ不敵な嘲笑。男は首をぐるりと鳴らしながら、尋芽へと歩を進める。

 先ほどの一撃と合わせ、尋芽は即座に理解する。この男がニューク──常人を超えた力を宿す者であることに疑いの余地はない。


「とりあえずなんかムカつくから、お前はここで殺す──バーストリミット・オフ」


 男が宣言すると同時に、全身から黄のオーラが爆ぜるように立ち上る。重さと熱を帯びたその気配が、瞬く間に周囲の空気を侵食していく。


 尋芽もまた、構えを取った。

 次の瞬間、男は地を蹴り、蛇のような軌道で駆け出した。左右に体を揺らしながら、重力を嘲るようなフットワークで迫りくる。


 そして一瞬──その拳が尋芽の頭上へと、鋭く振り下ろされた。


 尋芽は反射的に右手で軌道を逸らし、同時に左のフックを男の脇腹へとねじ込む。完璧なカウンター。だが、拳は空を裂き、虚しく何も捉えない。


「ひぃっはァッ!」


 仮面の奥から狂気じみた笑いが漏れる。直後──尋芽の脇腹に、針のような鋭い衝撃が突き刺さる。


「いっ……!」


 男の膝蹴りだった。尋芽の放ったカウンターの、そのさらに裏をかくように潜り込ませた渾身の打撃。鋭さと重さを兼ね備えた一撃が、彼女の身体を宙へと弾き飛ばした。


 空中で尋芽は無理やり体勢を立て直し、地面へと転がるように着地する。


「まだまだああああ!」


 咆哮と共に、男は再び襲いかかる。息つく暇も与えずに繰り出される連撃。

 尋芽は腕で頭部を庇い、ガードを固めながら必死に反撃の隙を探る。しかしその猛攻は、一つひとつが質量を帯びており、受けるだけでも骨が軋む。


「おらおらどうしたあ!」


 挑発混じりの叫びが、尋芽の耳を打つ。

 先刻の膝蹴りが深く残した痛みが、じわじわと呼吸を阻害していた。肋骨の何本かが折れている。肺の奥で悲鳴を上げるのがはっきりと分かる。

 防御に徹している両腕もまた、激しい衝撃の連続で痺れ始めていた。


 そして──。


 男の右ストレートが、尋芽のあごを貫いた。


 視界が跳ねる。体が宙を舞い、コンクリートの柱へと無防備に叩きつけられる。鈍い音が骨を伝い、頭部を直撃。


「もぉ……いったいなぁ……」


 尋芽の口からこぼれたのは、呻きとも呆れともつかない声。視界がぶれ、周囲の輪郭が曖昧に滲んでいく。顎に走った衝撃と、後頭部への激突──両方の痛みに脳が軋み、思考がぼやけていく。


「せっかく拾ってくれたのに……」


 か細い呟きが、血の滲んだ唇からこぼれる。尋芽の身体は壁際に追い詰められ、もはや自力で立つことすらままならなかった。


「誰に拾われたのか知らねぇが、そんなちっせえ命なら捨ててもいいだろ」


 冷えた鉄の言葉とともに、額にぴたりと突きつけられる銃口。死の予感は、風よりも静かに、皮膚の奥へと染み込んでくる。


「誰かぁ……」


 声はほとんど空気を震わせるだけの儚さだった。助けを乞うにはあまりにも遅く、あまりにも哀れな声だった。


「今さら助けを呼ぶとは無様なもんだな」


 銃口の向こうから、嗤うような吐息とともに、カチリと撃鉄の音が響いた。乾いたその音は、命の灯を吹き消す秒読みのように響き渡る。


 だが、引き金が引かれることはなかった。


 そのかわりに、空気を裂くような一声が地下を震わせた。


「セイヤァアッ!」


 空間を貫くような気迫の叫び。その響きに、薄れゆく意識が思わず引き戻される。尋芽はぼやけた視界に力を込め、前方を見据えた。


 そこにいたのは、先ほどまで立っていた仮面の男ではなかった。


 代わりに──鮮烈な電紋を顔に刻み、闇の中から現れた青年。


「天若陽暈、ドカンと参上!」


 力強く轟いた聞き慣れない決め台詞。

 尋芽の目に映るその姿は、絶望の淵に差し込んだ一条の光。まさに、救済のヒーローそのものだった。


「もう大丈夫。捨てていい命なんてないからな」


 穏やかで、けれど確かな意志を孕んだ言葉が、尋芽の胸にまっすぐ届いた。


「陽暈くぅん……」


 涙がこぼれそうになる視界の端──そちらへ視線を向けると、仮面の男が遠く離れた床に転がっているのが見えた。


 そう──男は、陽暈の蹴り。魂ごと打ち抜かれたかのような、鋭く、重く、正確無比な一撃をその脇腹に喰らったのだ。

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