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空気抵抗を最小限に抑え、身を低く伏せると、輸送車はレインボーブリッジへ差しかかる。眼下には東京湾の穏やかな水面。
車線変更が続き、輸送車のたび重なる蛇行に、陽暈の体は激しく揺さぶられた。
そして──橋の中腹を過ぎたころだった。
一台のタクシーが、急な進路変更で車列を妨げるように右車線から割り込んできた。
輸送車は咄嗟に左へ切り込むが、積荷の重みがそれに耐えられず、車体後部が滑り出す。
「うぉあっ!」
陽暈の叫びが風に溶ける。
車体の制御を取り戻そうと、運転手は必死にハンドルを左右に切り返している。だがそれは、もはや奏功とは程遠い悪手だった。
重心を失った車体は、氷上を滑るフィギュアスケーターのごとく、意図を逸した軌道を描いて蛇行を始める。車輪は路面を噛まず、暴れる鋼鉄の獣は、次第に橋の欄干へと進路を定めていく。
足場の不安定さは極限に達し、陽暈の身体はぐらりと傾いた。膝が折れ、爪先が滑り、抗う間もなく後方へとずり落ちる。
しかし、落下寸前、その指先がかろうじて積み荷用の後扉に備えられた細いポールを掴んだ。金属の冷たさが掌に食い込む。
その直後、暴れ馬のような失制御の輸送車は、無機質な咆哮を上げながら防護柵へと突進──鋼の枷を食い破る猛牛さながら、柵をへし折った。
前のめりになった車体は、海風を孕んで空中に身を投げ出し、東京湾へダイブする──はずだった。
ギリギリのところで、その動きが止まった。重力に引かれながらも、なお堕ちきらぬそれを支えていたのは、陽暈の両腕だった。
車体の右後部、尾にあたるポールをガッシリと掴み、彼は幾トンもの財貨を詰め込んだ車両の重量を相手に、渾身の力で踏み止まっていた。
「ふんぬぅぅぉぉおおおおあああああ……!」
叫びは腹の底から絞り出すように響き渡り、全身の筋肉が悲鳴を上げる。リリースによって解放された筋力と、彼の気合いが噛み合った荒業だった。
「これが金の重みかぁああ利根川さんんんん゛ッ!」
背筋に稲妻のような力を集め、車体を引き戻そうとする。だが、数トンもの鋼鉄は容易に応じてはくれず、現状維持すらも奇跡。
「たとえ悪党でも、死ねば悲しむ人がいる……!」
その言葉と共に、足元がぬるりと滑った。鉄と汗が混じる感触。一瞬で状況は悪化し、輸送車との綱引き──陽暈が劣勢。しかも、相手は容赦のない重力が味方をしている。卑怯にもほどがある。
「諦めねえぞおお! 俺はああ! 俺の役目があああ!」
魂を震わせる咆哮に応じるかのように、車体がわずかに、ほんの数センチだけ浮き上がった。火事場の馬鹿力というやつだ。筋肉の限界を超える瞬間、人は常識を超える。
「あ、無理かも」
右腕の内側に、肉が裂けるような鈍い衝撃が走る。ブチッという生々しい音が、骨伝導のように体内で響いた。二の腕の筋が何本か断たれた感触。
そして──汽笛が鳴る。
鉄の悲鳴にも似た音が、東京湾の水面を震わせた。目下には、運命の皮肉のように、一隻の旅客船が悠々と進んでいた。最悪の位置に。
「なんつータイミングだよ……」
気を取られた瞬間、重みは再び陽暈の身体を圧迫する。ポールを握る指がひしゃげそうになり、腕は悲鳴を超えて、もう声すらあげられない。
「これ落したら洒落んなんねえええ……!」
叫びは、自分を鼓舞するというより、もう神に縋るようなものだった。もはや孤軍奮闘もいいところ。汗と血が混ざった掌は、容赦なく滑り始めていた。
そのとき、運転席から、仮面の男がひょっこり顔を覗かせた。
「おいお前! もう出てこい! そんで手伝え!」
敵味方の区別すら曖昧になるような極限状態。陽暈の叫びは、心からの願いだった。
だが返ってきたのは──銃声。
「くっ……!」
銃口から吐き出された火花が、空気を裂く。陽暈は肩をすぼめ、咄嗟に身をよじって弾丸を避けた。その一瞬の回避が、重力にさらなる隙を与える。
「マジかお前っ……!? 状況分かってねえのかよ!」
銃火の中で揺れる車体。もう限界が見えてきた。下では旅客船がのろのろと、嫌がらせとも受け取れるほどにゆっくりと進んでいる。
そうしてついに、陽暈の筋力に限界が訪れた。
「あ無理だ。うん、これもう無理なやつだわ、ごめん」
その言葉には、諦念だけではなく、どこか滑稽な現実味が滲んでいた。極限の中で、陽暈は己の限界と、運命の気まぐれさに苦笑すら浮かべそうだった──だが、まだ希望の光は絶えていなかった。
そのとき、耳に風を切る声が届く。
「陽暈くん! 耐えて!」
振り向けば、月乃が柵を飛び越え、目前に迫っていた。
レインボーブリッジは、二階層の構造になっている。上階は高速道路で下は一般道。月乃は一般道に降りたのだ。
次の瞬間──激しい衝撃を伴い、車体がふわりと持ち上がった。月乃が輸送車を下から蹴り上げたのだ。
すかさず陽暈が吠える。
「うぉぉぉおおらぁあああ!」
残りわずかの筋力を使い切るつもりで、重量が軽くなった輸送車を引き寄せる。
二人の力が交錯し、鉄の塊がついに──路面へ叩きつけられる形で静止した。轟音と震動が橋を伝い、やがて静寂が訪れた。
「陽暈くん!」
柵を飛び越えた月乃が、陽暈の元へ駆け寄る。
「月乃! 神……! マジで神!」
「ううん! ごめんね遅れて!」
互いに言葉を交わしつつ、車両の運転席側は路面で塞がれているため、助手席をこじ開ける。
「待ってください! 俺、雇われただけなんっす!」
平然と仮面を外した青年は、青ざめた顔で必死に弁明を始める。
「ネットで募集されてたバイトに応募しただけなんっす……!」
金色の髪、ピアスをいくつもつけた軽薄な若者。歳も、陽暈たちと大して変わらない。
「はいはい話はあとでね」
軽くあしらい、月乃はニュークの可能性を考慮し、首にインヒビターを装着させたのち、中原へ引き渡した。
「ツキノ! ヒガサ! ヒロメガ! ピンチカモ!」
いつの間にか空に姿を現したアキラが、渦を描くように旋回しながら、焦りに満ちた声を張り上げていた。
「アキラどうしたの?」
月乃が見上げながら問いかけると、アキラは羽ばたきを強め、羽根ごと声を震わせるように叫んだ。
「ワシモワカラヘン! チカヘ、イッテモウタ! ワシハ、チカヘハ、イカレヘン!」
その言葉に、月乃はふっと表情を和らげる。
「そっか、アキラは私がいないと、閉塞的なところに行けないもんね」
そのやり取りに、陽暈が思わず肩をすくめて笑う。
「んだそれ、意外と可愛いとこあんのな」
「ダマレ!」
刹那、アキラの巨大な嘴が陽暈に襲いかかった。
「だはっ! やめろバカ……!」
陽暈が慌てて身をよじる。
「二人とも、いいから早く行くよ!」
月乃の叱責により、空気が引き締められた。
その後、アキラに先導してもらい、陽暈は月乃と共に尋芽の元へ急行する。




