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 教室の最後尾──。

 窓の外には、秋の陽を浴びて煌めくグラウンドが一望できる。そこは、生徒にとって密やかな楽園。くじ引きの偶然に恵まれた者だけが辿り着ける、教師の目をやり過ごすための絶好のサボり席である。


 その特等席に腰を落ち着け、ネイビーのブレザーを羽織り、ネクタイを気だるげに緩めているのは──二年B組、天若陽暈(ひがさ)

 彼の額から左目を通り、そして頬まで連なるシダの葉のような傷跡は、幼少期に落雷の被害にあった際に刻まれた、電紋と呼ばれる火傷である。といっても、痛みは一切なく、本人はかっこいいからという理由で気に入っている。


 いま彼が受けている授業は現代文。しかし、机の上に広げた教科書はただのカモフラージュ。その内側で彼の視線をとらえて離さないのは、こっそり持参した一冊の漫画──パイプマン。


 そのページをめくりながら、彼は小声でひとりごちる。


「つーか、悪魔が契約をやぶらないって都合よすぎる設定考えたの誰だよ」


 素朴な疑問を覚えつつも、心はすっかり物語の世界に入り込んでいた。そのとき、不意に頭上から低い声が落ちてくる。


「それ、なにを読んでるんだ?」


 陽暈の肩がビクリと跳ね、勢いよく顔を上げた。

 そこには、数秒前まで教壇にいたはずの現代文の教師が、あきれ顔を引っ提げて立っていた。その移動速度は、もはや瞬間移動の域。


「速い……!」


 没入していた漫画の世界から抜け出せず、陽暈は敵(教師)の動きが目で追えなかったことに焦燥の色を浮かべる。


「また少年漫画で胸を熱くさせているのか」


 ブックカバーの役割を果たす教科書を剥がされ、漫画の表紙が露呈する。

 ヒーロー然としたポーズで立つ男──パイプマン。あらゆる配管を駆使して戦う、常識を軽やかに飛び越える正義の味方だ。


「先生お願い! いまめっちゃいいとこなんっす! 俺、もうすぐヒーローになれるんっすよ! 俺のパイプが、硬くなってんすよ!」


 陽暈はまるで自らが物語の一部であるかのように、懇願する。だが教師は淡々と一言。


「だめだし、あとなんか卑猥だぞ」


 乾いた拒絶と共に、漫画は無情にも取り上げられる。


「ヒーローになりたいのなら敵の攻撃ではなく、まずは赤点を回避することだな」


 閉じられた単行本の角が陽暈の頭をコツンとノックした。


「いでっ」


 短い悲鳴と同時に、クラス全体からくすくすと笑い声が漏れる。叱られる生徒と笑うクラスメイト──何十年も前から繰り返されてきた、どこか懐かしい光景だ。


「よーし、じゃあグループワークするぞー。誰とでも構わん。四人一組に別れろー」


 教師が新たな指示を投げる。陽暈は不貞腐れたように背もたれに体を預け、後ろ脚だけで椅子をグラグラと揺らす。


「ちぇー。いいとこだったのにー。マジでワッツかよー」


 彼が吐いたワッツとは、密かに流行らせようと企んでいる謎の言葉。明確な意味は存在せず、感情が揺さぶられたときに、とりあえず口にしておくという、ある種のエモーショナルな口癖だ。


「陽暈ー組もうぜー」

「俺も!」


 駆け寄ってきたのは、近くの席の男子生徒──石井(いしい)和田(わだ)。声も足取りも軽やかに、気の置けない三人組が即座に形を成す。

 残る一席。陽暈の視線が、無意識のうちに教室の端を探っていた。


 そして、ひときわ静けさの漂う一点にとまる。窓際に座する自分とは正反対の、廊下側の最後尾。そこにぽつんと座っていた少女の名を、彼は躊躇いなく呼んだ。


「おーい、朝顔(あさがお)。こっち入れよ」


 不意の呼びかけに肩をすくめ、彼女はハッとしたように顔を上げる。そしてキョロキョロと教室を見回した後、ようやく陽暈と目を合わせた。


「え? わ、私……?」


 首をかしげ、人差し指をおずおずと自分の顎にあてがう彼女の名は、朝顔月乃(つきの)

 銀縁の眼鏡が顔の輪郭に溶け込み、猫背気味の姿勢は自信のなさを如実に物語っていた。声はか細く、風にかき消されるほどの強度しかない。絵に描いたような陰キャだ。


「当たり前だろ。朝顔なんてワッツな名前、お前しかいねんだから」


「は、はい……!」


 月乃は、クラスで孤立していた。休み時間にはそそくさと弁当を平らげ、図書室へと消えていく。その姿を、同じ図書委員である陽暈だけが、密やかに見守っていた。


 教科書やノート、筆記具を抱えるようにまとめ、月乃は小走りに陽暈たちの元へやってきた。


「いつもありがとう。天若くん……」


「ん? 何が? 俺、何かしたっけ?」


「ううん。なんでもない」


 かすかに揺れた前髪の奥、目元にふと浮かんだ皺は、彼女が微笑んだ証だった。

 そのやり取りを見て、石井と和田はニヤけた顔を見合わせている。だが、おおらかで無頓着な陽暈は、何も気づかない。


 やがてチャイムが鳴り、授業は終わりを告げる。

 没収された漫画の存在すら忘れ、陽暈は食堂へと駆け出した。目指すは、揚げたての唐揚げとフライドポテト。


 お目当ての二品を売り切れ寸前で購入し、教室へ凱旋する──しかし、その扉の向こうから、耳障りな声が漏れ出た。


「あんたさ、天若くんとかと一緒にグループ組みたいからわざと浮いたふりしてんでしょ。マジでキモいんだけど」


「いや……そんなことは……」


 教室全体に響き渡るような大きな声。発信源はスクールカースト上位の木下(きのした)だ。声に込められた悪意と計算。それを悟った陽暈は、躊躇なく教室の扉を勢いよく引いた。


「ドカーンと参上!」


 視線が一斉に集まり、空気が一瞬で凍りつく。


「木下~ミヤシャが呼んでたぞ~」


 木下がくるりと振り向く。


「え、ほんと? あたし何かしたっけ……ありがと天若くん!」


 さっきまでの毒気は見る影もなく、満面の笑顔を貼りつけたまま、彼女は急ぎ足で教室を後にする。

 ミヤシャとは、宮下(みやした)というバレー部の顧問。厳しい指導で、ほかの部活にまで口を出し、しゃしゃ(・・)り出てくることから、ミヤシャ()と呼ばれている。木下が焦って職員室へ向かったのは、その名前の威力ゆえである。


 静けさが戻った教室。陽暈が席へ戻ろうとしたとき、月乃がそっと声をかけてきた。


「天若くん。本当に木下さんは呼ばれてるの?」


「いや? 呼ばれてないよ」


 至極当然と言わんばかりに陽暈が答える。


「え、じゃあどうして……」


「だって朝顔、なんか絡まれてたっしょ?」


「そうだけど……どうして陽暈くんはいつも助けてくれるの?」


「そんなの決まってんだろ? 勇者ヒンメ──じゃなくて、パイプマンだったら絶対そうするからだよ」


 手で口元を覆った月乃。彼女の目元に浮かんだわずかな皺は、涙ではなく、笑みの予兆だった。


「なにそれ。面白いね」


「お、珍しく笑った。ご褒美に一本やるよ。ほれ」


 陽暈は意味不明なロジックで、ポテトを一本差し出す。


「いただき……ます……」


 戸惑いながらも、月乃はぺこりと頭を下げて、一番小さい一本を引き抜いた。


 後に、木下が職員室から戻り、詰め寄ってきたものの、怒りの色は薄かった。話す機会が得られた──それだけで彼女にとっては満足だったのだろう。

 しかし陽暈本人だけは気づいていなかった。彼の無頓着さは、ある種の無垢さにも似ていて、その無防備さが時に人の心をかき乱す。けれど彼はそんな自覚もないまま、何気なく笑い、いつもと変わらぬ調子で言葉を返すのだった。


 六限目の授業を終えた陽暈は、陽が傾くなか、合気道部の稽古に汗を流した。少し風変わりな部に所属している彼にとって、部活後の部室で行うトランプの大富豪は、もはや日々のルーティンとなりつつある。

 もちろん今日も、例に漏れず白熱した攻防が繰り広げられた。時計の針はすでに夜の十時半を回っている。


 重たく軋む身体を引きずりながら帰宅し、玄関の扉を開ける。


「ただいまー」


 いつもならすぐに返ってくる、母や弟の「おかえり」が、今日はない。廊下からリビングにかけての灯りは落とされ、家全体がしんと静まり返っていた。


 ふたりとも既に眠ってしまったのだろう。今夜は少し帰りが遅くなった。そんなことも、これまで何度かあった。夕食は食卓にラップをかけて置いてあるはずだ。胃袋はすでに空腹を訴えており、レンジで温める手間すら惜しく、すぐにでも箸をつけたい。

 そんな思考をめぐらせながら、靴を脱ぎかけた瞬間──鼻腔をつく異臭に気づいた。


「なんか臭う……」


 金属を擦ったような濃い匂いが、空気の奥から微かに滲み出てくる。


 訝しげに廊下のスイッチを押す。パチ、と乾いた音がして灯りが点くと同時に、視界に飛び込んできたのは、リビングの入り口に広がる──赤。


「──っ!?」


 鮮烈な緋色が床に滲み、そこに浮かぶのは、あまりにも見慣れたシルエットだった。心臓が打ち据えられたように跳ね上がる。


「幻陽……!」


 膝をつき、強張った表情のまま動かぬ弟に手を伸ばす。肩を揺さぶるが、ぬるりとした肌からは、生の感触がすでに遠ざかっていた。


「おい! 幻陽! 起きろ!」


 叫ぶ声とは裏腹に、頭ではもう理解していた。脈はない。唇からは血の気が引き、全身は鉄のように冷たい。辺りに広がる鮮血が、彼をもう人間ではなく、物のような存在へと変えてしまっていた。

 呼吸の波も見えない。鼓動の気配すら、耳に届かない。

 言いようのない喪失感が、胸の奥でゆっくりと形を成す。


 その視線が、ふとリビングの奥へと滑る。廊下の灯りがわずかに差し込み、部屋の中は薄闇に沈んでいる。だがその中に、もう一つの影があることに気づいた。


「母さん?」


 幻陽と同じく、仰向けに倒れている波留の頭部が目に入る。足が震え、うまく立ち上がれない。ふらつく身体を扉の縁にあずけ、指先でスイッチを押した。

 天井のライトが冷たく煌めき、リビングの全容が白々と浮かび上がる。


「嘘だろ……」


 そこにあったのは、見知った母の姿ではなかった。靴下だけを履いたまま、股を開いて倒れた波留の目は、どこかを虚ろに見つめたまま開き切っている。その首には、絞められた痕がくっきりと刻まれ、付近には無残に裂かれた衣服が散乱していた。


「母さんッ!」


 駆け寄って肩を揺らすが、母もまた──応答がない。


 部屋自体は、意外なほど乱れていない。マグカップが一つ、ローテーブルから床に落ちているだけ。


「なんだよこれ……」


 強盗にしては不自然すぎる。金目のものが狙われた形跡は皆無で、家具も手つかずのままだ。ならば、目的は殺害そのものだったのか。だとすれば──なぜ。


 波留は社交的で、他人の悪意から最も遠い場所にいる人間だった。何かに巻き込まれる理由も、恨みを買うような言動も、思い当たる節はない。


「ふざけんなよ……」


 物心がつく前に、父親は家を出ていったと聞いている。顔も名前も覚えていない。雷に打たれたせいで、脳の記憶領域にも影響が出てしまったのが原因だとか。

 それでも、父の代わりに家族を守るという責任は、最近ようやく芽生え始めたばかりだった。


 その矢先に、この惨劇が。


「誰だ……誰がこんなこと」


 立ち尽くす陽暈の胸に、静かな怒りがゆっくりと灯る。それは、犯人に対するものだけではない。呑気にトランプに興じていた自分自身への怒り──それが、燃え上がるような熱を帯びていく。


「許さねぇ……殺す。絶対殺す」


 波留と幻陽の瞳を見つめながら、陽暈は心の奥底でそう誓った。犯人の正体も動機も、いまはわからない。だが、必ず突き止める。そして、己の手で裁きを下す。

 少年の目に宿ったのは、正義ではない。希望でもない。むしろ、そのいずれとも無縁な、ひどく生々しい決意だった。


 数秒の沈黙の後、陽暈は深く息を吸い込み、落ち着いた動作で携帯を取り出し、警察へ通報した。

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