18
翌日──。
陽暈は、新宿の喧騒のただなかにいた。
幾千の光が入り混じる繁華街、そのまばゆさを切り裂くようにして、先頭を歩くのは零士。肩で風を切る彼は、振り向きざまに笑みを浮かべた。
「特執式の飲み会ってのを、陽暈くんに教えてあげようかなあ!」
言葉どおり、今夜は陽暈のための歓迎会だという。月乃、碧、尋芽、そして真壁──特執の面々が顔を揃え、夜の帳が落ちた新宿の街に繰り出していたのだ。
「特執式……なんすかそれ?」
訝しげに眉をひそめた陽暈の問いに、隣を歩く碧が、ずいと身を寄せ、勢いよく肩を組んできた。
「ストレス発散になるぜ~?」
無邪気な笑顔には、期待と悪戯の入り混じった色がある。どこか爆弾の導火線に火を点けるような、そんな予感。
「弱いものいじめ、と言ったところですね」
真壁が低く呟いたその声音が意味深な余韻を残すと、すかさず尋芽がひょいと腕に絡みつき、少女らしい甘えた声音で言った。
「華澄せんぱぁい、今日も手加減しませんよぉ~?」
まだ一滴も酒を口にしていないというのに、その絡みぶりはすでに酔客のよう。だが真壁は嫌悪を見せるでもなく、ただ淡々と歩調を崩さない。
「なんか分かんないっすけど、とにかく楽しそうっすね!」
歓迎会の言葉だけでも胸がいっぱいだった陽暈は、自然と顔をほころばせながら、隊の歩みに身を任せる。
そのとき、不意に聞き慣れぬ声が前方から飛び込んできた。
「ちょっとそこの、お兄さんがた~」
折れそうなほど細い足を、スキニージーンズで際立たせた若い男だった。照明に焼かれたような褐色の肌。無駄に刈り上げられた髪型は、場末の夜に似つかわしく、どこか胡散臭い。
零士はクイッと表情を緩め、わざとらしいほど間の抜けた声色で問い返した。
「え、なに? 居酒屋?」
その言葉に、待ってましたとばかりに男が一歩踏み出す。手際よくポケットから取り出されたメニューには、割引や飲み放題の甘い文句が並び、獲物を仕留めるための撒き餌のようだった。
「そうそう! 居酒屋! うちは安いっすよー!? 飲み放題980円! それだけ!」
零士は唇を尖らせ、大袈裟に驚いてみせた。
「980円で飲みほ!? やっすっ! どこどこ?」
そのあまりに馬鹿正直な反応に、碧と尋芽は肩を寄せ合い、小さな笑いを噛み殺していた。学芸会の即興劇でも見ているような雰囲気である。
そんななか、陽暈は真壁にそっと近づき、声を潜めて耳打ちした。
「真壁さんこれって…………ぼったじゃ……」
真壁は一瞬だけ目を細め、囁くように答えた。
「だと、いいのですが」
「そっすよね……」
と返したものの、会話が噛み合っているようで噛み合っていないことに気づいた陽暈は、眉根を寄せて夜空を仰いだ。
「おーいみんなあ! ついておいでー!」
振り返った零士が、少年のような無邪気さで手を振っていた。その横で、尋芽と碧も楽しげに頬を緩めながら、こちらに向かって手招きしている。
「陽暈くん! いこ!」
無垢な笑顔でそう言った月乃に、陽暈は手を引かれる。
若い男は、終始にこやかな表情を崩さぬまま、一行を賑やかな大通りから、不意に横へと逸れる路地へ導いた。
細く、影が濃く、ひとたび足を踏み入れれば、喧騒の残響すら置き去りにされる。日常という舞台の裏側へ滑り込んだような錯覚だった。
「こちらです~」
男が立ち止まった先には、錆びた鉄製のフレームに掲げられた、色の褪せた木看板がぶら下がっていた。文字はほとんど剥げかけていて、照明もやけに弱々しい。
慣れた手つきで扉を開いた男は、中の空気を引きずり出すようにして手を添えた。
「そんじゃごゆっくり~」
役目を終えた男は、陽暈らがくぐった扉を静かに閉めた。
入店するや否や、重たく、鈍い木の匂いが鼻先をかすめた。
店内は狭く、天井も低い。黄ばんだ照明が空間を鈍く照らし、壁のあちこちには古びたポスターが雑然と貼られている。いずれも色が落ち、紙の端がめくれ、画鋲にしがみついていた。
カウンターの奥には、能面のように無表情な店員が二人。何を考えているのか、目線すら定まっていない。
「こちらへどうぞ」
店員は奥のテーブル席を指し示し、躊躇う隙も与えぬまま、六人を誘導した。
陽暈はどこか引っかかるものを覚えながらも、みなと共に席へと腰を下ろした。椅子の軋む音が、妙に耳に残った。
日本の風営法では、風俗営業を営む者が「当該営業に関して客引きをすること」「当該営業に関し客引きをするため、道路その他公共の場所で人の身辺に立ちふさがり、又はつきまとうこと」を禁止し、違反者には六ヶ月以下の懲役若しくは百万円以下の罰金に処される。
所謂、キャッチというは、ネットの普及により、誰もが知る違法行為だ。それを平気でやってのけるこの居酒屋はやはり──。
「ぼったくりじゃないんっすかここ……大丈夫っすか……?」
陽暈はみなの耳をテーブルの中央に集めて、小声で再確認する。そんな彼の心配など意に介さず、零士が椅子の背に体重を戻して笑い飛ばした。
ほかの全員も、まったく不安げな者はおらず、みな意気揚々とメニューを開いていた。
結局──。
たくさん飲んで、たくさん食べた。
もっとも、酒を口にしたのは零士と真壁の二人だけで、未成年の陽暈や月乃、そして碧と尋芽の四人はそのぶん、箸の勢いで場を賑わせた。遠慮という文字が辞書から消えたかのように、つまみを競うようにして胃袋へと放り込む姿は、実に頼もしくも微笑ましかった。
味について言えば、特筆すべき点はない。むしろ平凡で、下手をすれば冷凍かと疑いたくなるような品ばかりだった。
だが、肩を並べ、笑い合いながら囲む食卓には、それ以上の価値があった。味覚ではなく、空気が旨い──そんな夜だった。
その時までは──。
ふと、店内の空気が変わった。
きっかけは、少し離れたカウンターに立つ店員の、妙におさえた笑い声だった。
顔を伏せたまま肩を揺らしながら、チラチラとこちらを窺ってくる。目が合えば、慌てる様子もなく、ただニヤリと笑う。
気がつけば、他の客の姿が一人残らず消えていた。店内に残されているのは、陽暈たち六人と、静まり返った空気だけ。
場に染み込むような沈黙のなか、一人の店員が伝票とマネートレーを手に近づいてきた。その足取りは音もなく、笑みは貼りつけたようにぎこちない。
「お会計ですかー?」
低く、湿り気を帯びた声だった。
零士はそれに応えるように静かに頷き、無造作に伝票を受け取った。
「おやおやー? いったい何の冗談かなー? ヒロメン、これ見てくれるかなー?」
白々しいセリフをこぼした零士から、尋芽に伝票が滑る。受け取った尋芽もまた、猿芝居を披露。
「あれれぇ? 零士さぁん。これってもしかして、ぼったくり、なのではぁ?」
可愛らしい見た目とは裏腹に、尋芽は伝票をテーブルに投げ捨てた。
不意に陽暈の視界に飛び込んできた伝票に記載されていた金額はなんと──150万円。
一連の態度に腹を立てた店員が、かなりの喧嘩腰で睨みを利かせ、六人を見下ろした。
「なんだお前ら。冷やかしか? あれか? ヨーチューバ―か?」
「やだなー。そんな一般人と一緒にされちゃ困るかなー」
ほんのり顔を赤らめている零士が、依然として口角を緩めながら答える。
「はぁ? とにかく金、払えよ」
語気を荒げる店員に、零士が伝票をひらひらと仰ぎながら、飄々と言い返す。
「これはさすがに高すぎるかなー」
「あっそう」
店員は短く言い捨てると、カウンターに視線を送って無言の合図を送った。次の瞬間、奥の扉が軋んだ音を立てて開き、異様な気配が店内を満たしていく。
現れたのは、大柄でスキンヘッドの男三人。それぞれ腕まくりをし、いかにも堅気ではないと分かるような威圧感を全身に纏っていた。
笑顔も冗談もなく、ただ無言でテーブルへと近づいてくる。
モノホン来たぁ──。
と、陽暈は胸中怯えていた。しかし脳の制限が解除されている面々が揃っているいま、恐れることなど微塵もないことに、ふと気づいてしまう。
「バカにつける薬はないってな。お前ら、ちょっと痛い目見ないとダメだわ」
もはや客ではなく獲物として見る目で、伝票を持ってきた店員が吐き捨てると、そのまま裏手へと姿を消した。入れ替わるように、三人の兵隊がぬるりとテーブルを囲む。
そんななか、零士はというと──空気を読まない酔っぱらいの演技を始めた。
「きみたち何? みんなで髪型揃えようっつって剃ってるのかな? 仲いいんだね~。可愛いねぇ~」
その軽口に、ハゲ頭の一人の額に太い血管が浮かぶ。不意に顔を寄せ、ドスの利いた声で言葉を刺す。
「おいテメェ。舐めてるとマジで殺すぞ」
だが、それは──蛇に舌を出す蛙のようなものだった。
零士の目つきが変わる。酔いなど最初からなかった。冷たい輝きを宿した瞳が、一瞬で場の空気を凍らせる。
「殺してみろよ」
低く、唸るような声音。その一言には、刃のような鋭さが滲んでいた。
さすがに怯みかけた三人組だったが、こうなっては引ける道など残されていない。
「やってやろうじゃねぇかぁああ!」
怒声が空間を裂き、椅子が弾け飛ぶ音とともに、乱闘が幕を開けた。
五分後──。
「はーい次、ハゲカズ!」
尋芽が高らかにトランプを掲げた。
現在、陽暈たちはハゲ三人組と同じテーブルを囲んでいる。
すでに戦意など雲散霧消。パンツ一丁という屈辱の姿で並ばされた三人のハゲ頭の顔面は、腫れに腫れて別人のようになっていた。唇はふるえ、声はかすれ、もはや言語として成立していない。
さきほどまで、睨みを利かせていたはずのハゲ三兄弟が、どうしてここまで滑稽な存在へと変貌を遂げたのか。
それは、零士という災厄に喧嘩を売ってしまった報いだった。くわえて、尋芽と碧も加勢。
加減も遠慮も知らぬ彼らは、軽やかに、そして無慈悲に──圧倒した。
そして、スキンヘッドで誰が誰だか分からないことに苛立った尋芽は、油性マジックを片手に、それぞれの額に『一』『二』『三』と丁寧に漢数字を記入。以降、彼らは「ハゲ一」「ハゲ二」「ハゲ三」の名で呼ばれている。
気がつけば、先ほどまで客を見下していた店員たちは、予想外の展開に背筋を正し、今やホテルのコンシェルジュ顔負けの笑顔で給仕を続けている。
もはや、どちらがヤクザか分からない状況である。
ひとしきりハゲ三兄弟というおもちゃで遊び尽くしたあと、零士は財布を取り出し、店員に5880円──事前に聞いていた通りの料金を差し出した。
これまた予想外だったようで、店員の目が丸くなる。しかしその反応も一瞬、すぐさま丁寧過ぎるほどの礼が飛び出した。
「ま、誠にありがとうございまーす! またのお越しをお待ちしておりまーす!」
その滑稽なまでの低姿勢に、零士はにっこりと笑い返し、ひらひらと手を振った。
外へ出ると、夜風が顔を撫でた。
「これが特執式飲み会か……いやカオス過ぎね?」
「アハハ! 世直しの一環だよ、陽暈くん!」
陽暈の呟きに、零士は肩をすくめ、爽やかな笑みを湛えたまま応じた。
「因果応報だよぉ。それより……酔っちゃったなぁ」
尋芽もまた、隣から陽暈の肩に手を置き、いたずらっぽく目を細める。とろんとした眼差しのまま、陽暈の腕にぴとりと頬を寄せ、絡みつくように抱きついてきた。
その瞬間──。
「んんん゛……!」
碧が鼻の穴をふくらませながら、ハンカチを口元に当て、ぶちぶちと噛みしめていた。目はカッと見開かれ、陽暈の腕と尋芽の顔を交互に睨みつけている。
いや、それ現実でやるやついるのかよ──と内心でツッコミを入れつつも、陽暈の背にはじっとりと冷たい汗が滲む。
尋芽との距離感を誤れば、確実に碧の反感を買う──それくらいのことは、陽暈にも分かっていた。
すぐにでも身体を引こうとしたものの、予想外に強靭な力で腕に巻きつかれていて、引き剥がそうにもまったく外れる気配がない。
「……いや、力強すぎだろ、お前……!」
「陽暈くぅんん……」
甘ったるい声で囁きながら、尋芽は相変わらずスリスリと頬を擦りつけてくる。そうこうしていると、碧のすぐ隣で、月乃までハンカチを咥え、声にならない低い唸りを漏らし始めた。
「うぐぐぐ……っ」
表情は笑っているように見えるが、目は完全に据わっている。碧が妬むのは分かるが、どうして月乃まで──。
陽暈は決意した。このまま尋芽の体温に包まれていては、命がいくつあっても足りない。何より、碧の視線が、もう友人に向けるものではなくなっていた。
「マジで一回離れっろって……!」
そう言って、陽暈は尋芽の腕をぐっと引き剥がした。尋芽はしばらく腕を伸ばしたまま呆けていたが、すぐにぽすんと肩を落とし、表情に分かりやすい落胆を浮かべた。
「えぇ……ひどい……」
そんな空気をパッと明るく裂くように、零士が笑顔で手を叩いた。
「よーし! じゃあ、そろそろ行きますかー! カラオケ!」
「カラオケ! 行く行く! うち今日めっちゃ歌いたい気分~!」
落ち込んだばかりの尋芽が、食いつくように跳ねる。情緒の切り替えが早すぎる。
「カラオケ賛成ぇ!」
ようやく陽暈から尋芽が離れたからか、機嫌を直した碧も勢いよく手を挙げて賛同した。その笑顔の裏に何が渦巻いているかまでは読めないが──とりあえず、陽暈はホッと息をついた。
すると、すぐ横からすっと月乃の手が伸びてきて、陽暈の腕をそっと掴む。
「……バカ。早く行くよ」
やけに鋭い目をした月乃からの罵倒。その一言が妙に胸に響いて、陽暈は頷く以外の選択肢を失っていた。
「お、おう」
満場一致で、次の目的地が定まる。ネオンに照らされた夜の街を、彼らの笑い声が跳ねながら進んでいく。
斯くして、陽暈一行はまたひとつ、夜の深みへと足を踏み入れていった。予測不能で、ちょっぴり危うい。でも、それがたまらなく楽しい夜だった。




