16
陽暈の戦闘訓練は、局内に併設された訓練施設で行われた。地下にあるためか天井は低く、空間そのものもどこか閉塞的だった。
設備は至って簡素で、三階建ての家屋を模したような四角い構造物がいくつか、等間隔に並んでいるだけ。
そこで行われる訓練内容は、月乃との模擬戦。
真壁は、月乃の教育係でもあるという。だからこそ、一年ぶりにその成長を見たいと申し出た。
当然、訓練の主役は陽暈だが、あえて月乃と模擬戦をさせることで、双方の実力を測る──そんな一石二鳥の意図があるのだとか。
開始の合図とともに、月乃が小さく「バーストリミット・オフ」と呟いた。その瞬間、彼女の全身から橙に染まった光の粒が浮かび上がり、体温が可視化されたかのようにふわりと宙を舞い始めた。数日前、廃倉庫で見たものと同じだ。
陽暈は、しばし拳を固めることを躊躇った。女の子に手を出すのは、これが生まれて初めてだからだ。たとえリリースしているとは言え、月乃に拳を向けることには、相応の覚悟が要った。
だが、戦いが始まってみれば、そんな葛藤に心を割く余裕など微塵もなかった。本気で挑んでも、触れることすら叶わなかったのだ。
右のストレートが駄目なら、左のフック。それでも届かなければ、回し蹴りも織り交ぜる。陽暈は本能のままに攻撃を繰り出した。格闘技の経験こそないが、合気道の心得はある。間合いの取り方も、呼吸の合わせ方も、それなりに自信はあった。くわえて、リリースして手に入れた驚異的な筋力を合わせれば、そう簡単にやられはしない。
だが、そのどれもが通じなかった。
舞うように、踊るように。彼女の動きは実体を持たない影のように滑らかで、陽暈の拳はただ虚空を切るだけだった。
むろん、月乃はただ回避しているだけではない。その拳は的確に陽暈の顎を、胸を、腹を捉え、躊躇いなく打ち抜いていた。
着用しているスーツの防護性能か、それとも加減されているのか、打撃そのものに重さはなかった。だが、繰り返される衝撃は、次第に確実なダメージとして陽暈の身体を蝕んでいった。
「そこまでです」
しばらく、陽暈が一方的に打ち込まれる様子を黙して見守っていた真壁が、ようやく制止の声を上げた。
「ぶはぁっ……はぁ……はぁ……」
陽暈は背中から床に倒れ込み、仰向けのまま、灰色の天井を見上げる。肺が損なわれた酸素を必死に吸い戻し、ようやく意識が脳へと戻りはじめる。どれほど集中していたのか、いつの間にか呼吸さえ忘れていたらしい。
「陽暈くん。大丈夫?」
頭上から声が降ってきた。
逆さになった月乃の顔が、天井の光を背に受けて影を落としている。彼女の息は、まったく乱れていなかった。
「だい……じょぶ。つかお前、強すぎな……」
「そりゃバーストしてるからね」
「あぁ、さっきバーストリミットがなんとかって言ってたっけ?」
上体を引き起こし、問う。
「そう。制限解除率に応じて筋力は常に限界値まで解放されてるけど、バーストアビリティを使うにはスイッチングが必要。それがバーストリミット・オフって呟くことなの。器用な人は頭の中で呟けばアビリティを解放できるらしいけど、私にはまだ無理そう」
「へぇ。さっきから見えるオレンジ色のオーラみたいなやつは?」
「これはバーストアビリティを解放した時に出るの。最低限、リリースしてる人にしか見えないけどね。アビリティの種類によって色は違うよ。視式は赤、嗅式は橙、味式は黄、聴式は緑、触式は青。見ての通り、私は嗅式だから橙色だよ。こうすれば──」
そう言うと、月乃はそっと瞳を閉じ、大きく息を吸い込んだ。深呼吸と同時に、彼女の周囲に漂っていたオーラは、ゆっくりと霧が晴れるように消えていく。
「アビリティに制限がかけられるよ。ま、これも慣れれば呼吸関係なく脳内でサクッと切り替えられるらしいけど」
「すげぇ……あれ? でもアビリティが使えるならずっと解放しとけばよくね?」
「もちろんそれがベストだけど、バーストアビリティは脳のエネルギー消費が尋常じゃないの」
脳は、体重のわずか2%ほどの質量しか持たない。それにもかかわらず、全身が生み出すエネルギーの実に20%を独占する──この小さな器官が、いかに大食らいか。
「だから無制限にアビリティを解放し続けると、長くは持たないの」
「とはいえ、朝顔さんの強さはバーストアビリティに頼ったものではありません」
いつの間にか傍らに立っていた真壁が、静かにそう告げた。
「嗅式はその名の通り、嗅覚が鋭くなるだけですから、戦闘に向いていないとされるアビリティです。彼女の強みは並外れた筋力と、洗練された格闘スキルなのです」
事実を淡々と述べながらも、そこには敬意が溢れ出していた。
「えへへ~。なんだか照れちゃうな~」
月乃は後頭部をぽりぽりと掻き、頬を緩めた。無邪気な少女の笑み。
しかし彼女と一戦交えた陽暈にとって、真壁の言葉が社交辞令ではないことが、用意に察せた。
「誰もが局内で最強と認める九頭さんでさえ、筋力勝負なら朝顔さんにも勝てません」
「うんうん。私、腕相撲で零士さんに勝ったんだ~」
どこか誇らしげに言って、月乃は小さく胸を張った。
「え、マ?」
さすがに陽暈は信じられなかった。
腕の太さで言えば、自分の方が明らかに太い。もちろん体格も。
確かに零士はゴリマッチョというわけではない。だが女子である月乃が勝るほど、か細いとは到底言えない。
「マ」
月乃が腕を上げ、力こぶを見せつけてくる。が、深い紅のスーツのせいか、隆起は認められない。いや、そもそも筋肉量は関係ないのか。
「つか、そんな強いなら真壁さんにも勝てんじゃねえの? そもそも真壁さんって強いの?」
興味だけでなく挑発にも似た響きに、真壁がわずかに唇の端を吊り上げ、視線に鋭さを宿した。
「いい質問ですね。では久々に、一戦交えましょうか。かなり強くなっているようですし」
「分かりました……」
気圧されたように、月乃は小さく頷いた。やや腰を引き気味に一歩退き、渋々といった様子で間合いを測る。
一方の真壁もまた、無駄のない動作でほどよく距離を取り、足元に置いていたアタッシュケースに手をかけた。だが、開ける様子はない。右手でしっかりと取っ手を握り、左手は角に添えた。
陽暈は気配を察して、無言のまま後退した。二人の間合いよりさらに後ろ、ぶつかり合う気の圧から外れた場所へと身を引く。
「先に一撃を入れた方の勝ちです」
「はい……!」
真壁の宣言に、月乃が肩を揺らしながら応じた。そして呼吸を整え、「バーストリミット・オフ」と囁く。
その言葉とともに、彼女の全身が橙のオーラに包まれる。柔らかく、しかし確かに熱を帯びた光が揺らぎ、空気を染め上げた。
ほぼ同時に、真壁の周囲に緑のオーラが発せられる。彼女は言葉を発さずとも、容易くスイッチングできるらしい。
数秒の沈黙。世界が息をひそめる。陽暈の喉がごくりと鳴る音すら、耳障り。
直後、真壁が凄まじい速度で月乃に肉薄──目まぐるしくアタッシュケースを振るう。小さき少女から放たれているとは思えぬほどの速さだった。
緑の残光が鮮烈な軌跡を描き、橙色の光と交錯。その光景は一種の美術──対極の光が織りなす、瞬間のアート。
しかし、月乃の動きはそれを上回っている。風をすり抜けるように、全ての攻撃を躱す。その身のこなしは、宙を滑る羽のように軽やかで、狙いすました一撃の全てを無力化していく。
陽暈の目には、二人の動きがもはや映像ではなく閃光としてしか捉えられない。もし自分が月乃の立場だったら──銀のアタッシュケースの角に叩かれ、いまごろ地面でもがき苦しんでいるに違いない。
技の数では真壁が圧倒していたが、その攻防は均衡を保っていた。どちらが先に一撃を通すか──その一点に、緊迫の糸が張り詰める。
だが、均衡は一瞬にして崩れた。
斜め上から振り下ろされるアタッシュケース。月乃はその軌道を読み、一歩退こうとした──その刹那、真壁の手のひらが彼女の視界を遮るように滑り込んだ。
一瞬の暗闇。
視界を奪われた次の瞬間、鈍い衝撃音とともに、アタッシュケースが月乃の腹部にめり込む。鋭い一撃に、彼女の身体はくの字に折れ、そのまま後方へと吹き飛ばされた。
地面に一度バウンドしたのち、月乃は空中で体勢を整え、腹を押さえながらも見事な着地を見せる。
「痛い……」
「やはり手強いですね」
真壁は静かに呟き、アタッシュケースを軽々と肩へ担ぎ上げた。中の刀は使わなくとも、月乃程度なら負けない、とでも言いたいのだろうか。
「大丈夫か月乃!?」
陽暈が駆け寄り、憂いた声を投げる。差し出した手を、彼女は小さく微笑みながら取った。
「ありがと……」
手のひらに触れたその感触。力強く戦ったとは思えぬほど、月乃の手は小さく、柔らかく、温かかった。彼女がか弱い女子であるという当たり前の事実を痛感する。
「申し訳ございません。少し加減を誤りました」
「いいえ……嬉しいです…………」
腹部をおさえながらも、月乃がドMっぽいリアクションを見せた。
「真壁さんに加減されなくなったということは、成長してるってことですもんね……」
ドMではなかった。
「いや~人は見かけで判断しちゃいけないもんっすね。やっぱ小っちゃくても──」
その言葉の途中、真壁の眉がぴくりと動いたかと思うと──。
ゴンッ。
アタッシュケースが陽暈の頭頂に振り下ろされていた。鈍い音とともに視界がぐらつき、脳内に星が散る。
「ってええええエエッ……!」
「次は本当に首を刎ねますよ。一昨日きてください」
両手で頭を押さえ、まるでカツラを吹き飛ばされた間抜けな男のような姿で、陽暈はひたすらに小刻みに頷くしかなかった。
その後、真壁の冷ややかな憤りがおさまったところで、ふと陽暈が疑問を投げた。
「……ところで真壁さん。オーラが緑ってことは聴式なんすか?」
「おっしゃる通りです。少々、耳がいいだけですが」
そこで、やや呆れたように月乃がため息を漏らす。
「少々って……陽暈くん。この人、どこからでも話盗み聞きできるから、気をつけた方がいいよ」
「地獄耳ってやつか……恐ろしいな」
その瞬間、陽暈の真後ろから、鈴の音のように可愛らしい声が弾けた。
「こんにちわあ!」
振り返った先には、声のイメージそのままの、桃色髪のツインテールの女が、溌剌な笑みを浮かべて走り寄ってきていた。




