13
柳生の命を受け、陽暈は脳の制限解除率を測定するため、局内の一角にある研究室を訪れた。
扉を開けた瞬間、背後から何かが飛びかかる。そして陽暈の体に、しなやかな触手のような女の腕が巻きついていた。
「んんん~! 甘~い! 舐めただけで分かるわ! あなたが陽暈ちゃんね!」
その声と同時に、女の舌が陽暈の頬を這い、電紋の走る顔を容赦なくレロレロと味わい始める。ぞわりと背筋が波打ち、肌という肌に寒気が這い上がった。
「あのー、なんすかこれ……」
力ずくで引き剥がすわけにもいかず、陽暈は零士へと助けを求める。
「あー、えっと、この変態は一応研究チームの責任者で、早乙女華怜。事前に写真を送っておいてこれか……」
眉間を押さえながら首を横に振る零士。
月乃はすでに行動に移っており、女を剥がそうと必死になっていた。
「ああもう! 離れてくださいよ早乙女さん!」
「零士。陽暈ちゃんを連れてきたということは、そういうことじゃないの?」
月乃に引っ張られてもなお、早乙女は離れてくれない。というか、色々と体に当たっている。
「そうだけどそうじゃない。とにかく、早速仕事をしてくれないかな」
零士の言葉に促されるように、ようやく早乙女が陽暈の体から離れた。
腰まで伸びる紫の髪を揺らし、艶やかな唇に真紅のルージュ。眼鏡越しの視線には獣めいた好奇心が宿り、第四ボタンまで外れたシャツの隙間からは、白衣に包まれた豊かな胸元が惜しげもなく覗いていた。
それはまさに、男子高校生が妄想で描く保健室の先生。理性が悲鳴を上げ、陽暈は鼻の奥に広がる危機感を覚え、必死に顔の中心へと力を込める。
「あら、どこ見てるのかしら坊や」
「あ、いやっ……!」
視線を操れずにいた彼に、早乙女がいたずらっぽく微笑みかける。
すかさず月乃に背を叩かれ、姿勢を正した陽暈。
気まずい空気を断ち切るように、測定が始まった。
内容は、学校で行うスポーツテストと酷似していた。ただ、持久力を測る種目は省かれ、握力、立ち幅跳び、ボール投げといった爆発的な瞬発力や筋力に焦点が置かれていた。
そして最後に脳のスキャンが行われ、全工程が終了。
「さて、何から話そうかしらね?」
タブレットの光を顔で浴びながら、早乙女はひとりごちた。
指先でスワイプするたびに流れる測定データは、彼女に何かを語りかけているようだった。その表情は、先ほどまでの饒舌さが嘘のように落ち着き払っており、知性という仮面をしっかりとかぶった研究者の貌だった。
「あーだったら俺から聞いてもいいっすか?」
陽暈がやや身を乗り出しながら尋ねると、早乙女はふと目を上げ、柔らかな笑みを浮かべる。
「もちろんいいわよ」
「いまいちまだ理解できてないんすけど、元々人間が扱える力はもっと膨大で、それを脳が制限してるって認識で合ってる?」
「えぇ、そうね。合っているわ。そのリミッターを解除する方法は聞いたかしら?」
「死に直面するってやつっすね」
「そう。俗に言う臨死体験というものね。ただし、それだけではダメで、死に直面してもなお諦めずに、生きたいという強い意志を保てるかが重要ね」
そのとき、月乃が陽暈に代わって疑問を投げた。
「でも陽暈くんって、臨死体験する前から力が使えたんだよね?」
「あぁ、そうだった。子供を助けようとした時だから、その時は死にそうにはなってない」
あくまでも踏切に入る前に、異常な筋力が扱えた。そうじゃなきゃ人を飛び越えるなんて芸当、できるはずがない。
「そのことなんだけど、幼少期に雷に打たれてその傷ができたのよね?」
「はい。そうです」
タブレットをひとつ置き、早乙女は背を真っすぐに伸ばした。その声音には、仮説と希望と、微かな畏れが混じっていた。
「これはあくまでも仮説なのだけど、あなたが雷に打たれた時にはすでに脳の制限は解除されていて、あとは精神的なトリガーを待っていた状態だったという可能性が考えられるわ」
「うーん。脳と精神ってのは別なんすか?」
陽暈の問いに、早乙女は一拍の沈黙を置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「正直、それもまだ解明には至っていないから断言はできないけれど、別と考えるのが自然だわ。リリースする時の条件として、生きたいという強い意志が必要だと話したわよね。
いままで生に貪欲じゃない人でリリースが確認された事例がないことからそう結論付けられているの。だから臨死体験において脳の制限が解除されても精神面の制限が解除されないという可能性が高いのよ。
でも陽暈ちゃんの話だと、トリガーは生に対する意志に限らないのかもしれないわね……」
「全部聞き取れたのに……」
陽暈が頭を抱え、椅子の背にもたれた。詰め込みすぎた知識が頭の中で渦巻いているらしい。
「とにかく、あなたは子供の頃に脳の制限は解除されていていた。そして今朝、子供を助けたいという強固な目的意識が精神的トリガーとなり、リリースに成功した。そう考えるのが自然ね」
「なんとなくオッケーっす。で、俺の制限解除率とやらは何パーセントだったんすか?」
「43%よ。一般人のほとんどが2%から10%ね。解除率にはいくつか壁があって、41%の壁を突破したから、いまのような筋力が扱えるようになったのよ」
「ちなみに、41%の壁を超えることこそが、リリースと言うのです」
早乙女に次いで、零士の声が加わる。お馴染み、博士キャラで。
「そうね。そしてもう一つ上の壁は67%」
「67%の壁を超えることをバーストと言いまーす!」
今度は月乃が、慌てて眼鏡をかけて嬉しそうに答えた。ちなみに眼鏡、逆だぞ。
「バーストすると、五感に通ずる特殊能力、バーストアビリティを得られるわ」
最も博士に近しい存在である早乙女は、零士と月乃のままごとには付き合うつもりはないらしく、淡々と告げた。
むろん、そんな中二チックな言葉を陽暈が聞き逃すはずもなく。
「と、特殊能力……!? やっぱパラミシア……いや、ロギアか! そうだ! 絶対ロギアがいい!」
「陽暈くん。残念ながらそんなに派手な能力じゃないよ……ひとつなぎの大秘宝を探すわけじゃないからね……」
「あ、そうなんすか……」
気を取り直して、早乙女が特殊能力とやらの説明を再開する。
「視式、聴式、触式、嗅式、味式の計五つに分類されるわね。視式を例に挙げるとすれば、純粋に視力が桁違いになったり、動体視力がよくなったりするわ」
「かっけぇ! 単純に筋力が強くなっていくってわけじゃないんすね!」
「もちろん筋力も解除率に応じて強くなっていくわ。厳密に言うと、元々扱える力を発揮できるようになっていくってことだけど」
陽暈は、しばし唸るように黙り、そして再び質問を投げる。
「なるほど……つか、バースト? ってのは、どうやればできるんすか?」
「同じく臨死体験よ」
「またか」
「ま、幾度となく死線を越えた人間ほど強いと言われるのはそういうことなのでしょうね」
「零士さんや朝顔はバーストしてるの?」
「してるよ。俺は視式。ツッキーは嗅式だね」
零士がサクッと告げた。
すると、早乙女が再び、研究者の顔に戻って語り始める。
「ちなみに、初めてリリースが確認されたのは約六十年前。その頃からスポーツテストが全国で実施されるようになったのは、リリースした人材をいち早く把握するためなの」
陽暈は目を細め、ふと気づく。解除率の測定種目がスポーツテストに似ているのではなく、むしろその逆──スポーツテストそのものが解除率測定種目から派生したものであった。
「特執は、スポーツテストでリリースしていることが分かった学生を招いたり、あとは特殊部隊や自衛隊でリリースした人材が入局することが多いわね」
「へぇ、そうなんだ。あ、そう言えば、たぶんリリースした時からだと思うんだけど、この顔の傷の光ってなんなんすか?」
その一言が、空気を凍りつかせた。
「うっ……」
早乙女の喉から漏れたのは、息でも声でもない。感情の奥底に触れたときにだけ現れる、ひび割れた音だった。彼女の肩が、小刻みに揺れる。自律神経さえ信号を見失ったかのように。
「その、電紋、雷。分からない。分からないの…………」
掻きむしる手は理性を損ない、細く白い指先が頭皮を裂きかねない。爪が軋み、髪が乱れる。彼女の瞳はどこも見ておらず、それでいて見え過ぎてもいた。
突如、早乙女は立ち上がった。突き動かされるように陽暈へと迫り、狂おしいまでの速さで距離を詰めた。
「その光……どうして……どうして光り続けているの……」
言葉の余韻が耳朶に残る。顔が至近距離まで迫り、震える指が陽暈の頬の傷をなぞる。そこに宿る視線は狂気──否、知に飢えた飽くなき渇望。そしてそれは、奇妙なほどに美しい光を湛えていた。
キスされんばかりの距離感に、陽暈の心臓が強く波打った。血が駆け巡り、頬が熱を帯びる。理性が遠のき、ただただ、彼女の眼差しに飲まれていく。
そのとき、視界の端に膨れっ面の月乃が入り、多少の冷却剤の役目を果たしてくれた。
「お願い、解明できるまで、ひと時も私から離れないで…………」
その声は甘美というより、呪縛に近い。科学者界隈で乱用される口説き文句だろうか。
案の定、零士が冷静に口を挟んだ。
「そんなの許可できるわけないでしょーが。相変わらず好奇心が過ぎるよ」
ため息ひとつ。早乙女はしぶしぶ席へ戻ると、背もたれに身を沈め、視線を天井へ泳がせる。
「人間が最も尊重すべきは好奇心よ。好奇心があったからこそ文明は進歩してきたの。みんなはブームスラングという毒ヘビを知っているかしら?」
三人が無言で顔を見合わせ、首を傾げる。
「ブームスラングに噛まれた人間は、体中の穴という穴から血が吹き出し、死に至ると言われているわ。ある日、そのヘビに噛まれた研究者が、どんな症状が自分に起きるのかを、死ぬまで綴り続けたの。二十四時間──死の直前に医者を呼ぶかと問われた時、彼はなんと言ったと思う?」
彼女の語りに、誰も応えられなかった。講壇に立つ講師のような熱量。だが、その奥に宿る感情はあまりにも私的で、圧倒的だった。
「今の症状を台無しにされてなるものか! そう言って、最終的には手遅れになって死んだのよ! なんて美しい生き様なの!? 彼は自分の好奇心に生き、好奇心に殺されたのよ! 私はそんな生き方をしたいの!」
早乙女は両腕を大きく広げ、天を仰いだ。狂気と情熱が、ないまぜになったようなその振る舞いは、まさにマッドサイエンティスト。
彼女の原動力は、紛れもなく好奇心だ。常人が見過ごす未知にこそ惹かれ、怖れず踏み込む。燃えるような探究心は、ときに常識さえ超えていく。
だが、彼女の語る狂気の中の真理は、決して否定できない。科学を前へと押し進めてきたのは、そうした無垢な好奇に取り憑かれた者たちなのだから。
もっとも、初対面の人間を唾液で濡らす理由にはなり得ないが。
「早乙女、きみの生き様は十分理解したから、話を戻してくれないかな」
零士の言葉が場を引き戻す。
「えぇ、分かったわ。とどのつまり、その光の原因は分かっていないから、回答できないのが現状よ」
「そうっすか。まぁかっけぇからいいっす」
「楽観的なのね。なにか分かったら共有するわ。陽暈ちゃんも、変わったことがあれば教えてちょうだい」
斯くして、制限解除率の測定を終え、陽暈は好奇の権化から逃れたのであった。




