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 ブラックドッグ拠点制圧作戦は、多くの犠牲を出しながらも、幕を下ろした。


 朝顔月乃は、病院の待合室の硬い椅子に腰を沈め、手を組んだまま、静かに祈り続けていた。

 耳に届くのは、時計の針の音と、自身の鼓動。どちらも、妙に大きく感じられる。


 陽暈の命は、かろうじて病院まで繋ぎ止められた。

 京鹿が拘束されたのちに駆けつけた、特執の医療チームが迅速に動き、陽暈を命の淵からすくい上げたのだ。

 だが今も彼は、生死の境界線の上で揺れている。

 ちなみに、零士と花染も、同じく危うい命の瀬戸際にある。ほかにも、悪立や凱亜、綱海も燐仁も、みな重傷。今や生きることさえ奇跡に委ねられている。


 月乃は膝の上で指を絡め、目を閉じた。祈りというには拙く、願いというにはあまりに切実な、心の奥底からにじみ出た一念。それは誰に届くのかも分からないまま、彼女の内側で燃え続けていた。


 どうか。

 どうか誰も、死なないで──。


「私のせいだ……」


 月乃は、沈黙のなかでただ、胸を押さえて嘆いた。

 あれほどの無茶を陽暈がする前に、なにか、ほんの少しでも手を伸ばすことができれば、違う未来があったのではないか。そんな思いが、何度も胸を掻き毟る。


「陽暈くんも、こんな気持ちだったのかな……」


 ぽつりと漏れた声が、冷えた空気に溶けて消えた。

 ふと気づく。かつての自分と、彼の立場が、今は完全に反転していることに。

 死の淵に立つことはもちろん恐ろしいが、生還を祈り、待つことの方がよっぽど過酷だった。

 見えない未来に手を伸ばし続けるその行為は、底なしの闇を前に、祈ることしか許されない者の孤独そのものだった。


「陽暈くん…………」


 月乃は両手を重ね、改めて指を組んだ。祈るしかない。いまはそれしかできない。

 目を閉じ、長く、深く息を吐き出し、願いを込める。

 静寂が肌にまとわりつき、時が止まったかのように感じられるほど、空間は冷たく、張りつめていた。


 やがて、待合室の自動ドアが、ひときわ静かな音を立てて開いた。


「お、きみは確か、陽暈の彼女」


 場にそぐわぬ軽やかな声が、静寂を切り裂いた。月乃が顔を上げると、待合室の入り口に陽暈の父──天若阿希が立っていた。

 その表情は穏やかで、気取らぬ口調にはどこか人懐っこい温度があった。


「あなたは……ていうかそんなのじゃないですよ……!」


 羞恥と否定がないまぜになった声。それを聞いた阿希は、肩をすくめ、ひとつ嘲るように笑ってみせた。


「そうなのかい? まぁ若人の恋路に首を突っ込むのは野暮ってものか」


 そのまま、彼はごく自然な仕草で月乃の隣へ腰を下ろした。


「月乃ちゃんと言ったかな」


「はい……」


 小さな声で応じながら、月乃は膝の上で組んだ手に力を込めた。


「きみが責任を感じる必要はない」


「でも、私が拉致されたから、みんな傷つきました……」


 こみ上げる悔いを抑えきれず、彼女は目を伏せる。

 阿希はそれを咎めず、少し間を置いてから答えた。


「特執というのは、常に死と隣り合わせ。それぐらいみんな覚悟しているさ」


「でも…………」


 それでも、月乃は譲れなかった。

 彼らがどんな覚悟を持っていたとしても、自分がきっかけになった現実が、罪悪感としてのしかかる。


「それに、みんな強い。見知らない顔も多いが、目を見れば分かる」


 その言葉に、月乃はようやく彼をしっかりと見つめた。


「あの……阿希さんは元々特執にいたって言ってましたよね?」


 月乃が恐る恐る尋ねると、阿希はすっと目を細め、記憶の奥を手繰るように語った。


「あぁ、そうだよ。そこそこ前の話だから、面識があるのは零士の代までだがな」


「之槌さんが言ってた雨津さんっていうのは……?」


「それは俺の本名だな。特執ではその名で通ってた」


「へ、へぇ……どうして特執を辞めたんですか?」


 月乃の問いに、阿希は少しばかり間を置いてから答えた。


「辞めてはいない。殉職したことになってる」


「じゅ、殉職……?」


 思いもよらぬ答えに、月乃は目を瞬いた。そんな彼女のリアクションを受け、阿希はクスリと笑った。


「いろいろと訳アリでね。月乃ちゃんも、俺のことは亡霊とでも思っていてくれると助かる」


「亡霊って……」


 冗談めかしたその言葉に、一瞬だけ肩の力が抜けかけた。けれど、次の瞬間には空気が張りつめる。


「月乃ちゃん。よく聞くんだ」


 その声色は静かにして、重い。阿希はわずかに身を乗り出し、真っ直ぐ彼女を見つめた。


「おそらく、これから本当の戦争が始まる」


「せ、戦争ですか?」


 突飛な言葉に、思わず訝しげに問い返してしまう。


「あぁ。世界を賭けた戦争だ。そこで、ひとつだけきみに問いたい」


「なんでしょうか……」


「どんなことがあっても、俺の息子のことを信じてくれるか?」


 問われた瞬間、月乃は迷いなく答えていた。


「当然です。陽暈くんは私のヒーローですから」


 まるで用意されていたかのような即答だった。その言葉に阿希の表情が、ふっと和らいだ。


「それが聞けてよかった。じゃあ俺は帰るよ」


「え……? 陽暈くんはいいんですか?」


「あいつなら大丈夫だ」


 確信に満ちた口調だった。まるで未来を見通しているかのように。

 その背を見送りながら、月乃はほんのわずか、胸に安堵を宿す──ほんのわずかに。


 しかし、それも束の間のことだった。

 自動ドアの開閉音とともに、白衣の救急医が待合室へと足を踏み入れる。


「なんとか繋ぎとめましたが、正直、厳しいと思います……」


「そんな……」


 頭の奥で、音が止んだ。周囲の空気が、急激に冷えた気がした。


「心臓まで届くほどの深い傷ですし、骨折や内臓の損傷も多数見られます。いま息があること自体、奇跡なんです」


「そう……ですか…………」


「とにかく経過を見るしかないです」


 それだけを伝えると、医師は足早に部屋を後にした。


 気づけば、月乃は立ち上がっていた。だが、膝から力が抜け、ソファへと腰を落とす。


「陽暈くん……」


 阿希の自信に満ちた言葉が、どこか遠くに感じられた。強くあろうとしても、不安は簡単に心の隙間へ忍び込んでくる。


 結局その日、陽暈の顔を見ることも叶わなかった。その横顔に声をかけることもできないまま──。

 月乃は、重たい足取りで病院を後にし、静かに局へと戻った。

 その後、柳生に呼ばれ、静まり返った司令室へと足を運んだ。セキュリティゲートを抜けた先、静寂が支配する空間には、重厚な空気が漂っていた。


「朝顔。無事でなによりだ。記憶も戻ったらしいな」


「はい、ご迷惑をおかけしました……」


 柳生の問いかけに、月乃は小さく頭を下げ、気まずそうに視線を逸らしながらソファへ腰を下ろす。

 対面には、書類を束ねたままの柳生。そして、その隣には、実方がゆったりと腰かけていた。


 ほどなくして、之槌が静かに入室する。風のように足音ひとつ立てずに。


「お待たせしました」


 その一言とともに、月乃の隣に腰を落とした之槌。彼の気配は相変わらず淡々としているが、どこか鋭さを孕んでいる。


「ご苦労じゃったのぅ、二人とも」


 実方の老成した口調が、年齢に見合わぬ若い外見との乖離を生んでいる。


「今回の作戦は完遂したと聞いている。しかしほとんどの捜査官が重傷で、話を聞くことは難しい。よって、取り急ぎ二人から分かっていることを聞かせてもらう」


 柳生の指示を受け、月乃は、一つひとつ慎重に言葉を紡ぎながら、全てを語った。京鹿が自分を拉致した理由──未来予知という能力を手中におさめるため。FRCが完成間近であったという、世界規模の脅威。そして、ランペイジ状態となった陽暈が、その京鹿を打ち破ったこと。


 最後に──彼女自身もいまだに信じがたい事実を口にした。陽暈の父を名乗る男、天若阿希の登場。そして彼が、混乱の収束に重要な役割を果たしたことを。


 その言葉を受けて、之槌がすぐに口を開いた。


「天若阿希殿は、殉職したはずの雨津殿でありました」


「なんだと……!?」


 柳生が声を荒げ、組んでいた脚を崩した。眉を吊り上げ、驚きと困惑が混ざった瞳が之槌を射抜く。


「どういうことか、説明願えますかな」


 之槌の問いかけは冷静そのもの。

 だが柳生は一瞬だけ言葉に詰まり、次いで、すんっと息を吸い、背もたれに身をあずける。


「雨津が天若の父……それは事実なのか?」


「本人もそう仰っていましたな。柳生殿、雨津殿のこと、詳しくお聞かせいただけますかな」


「之槌。彼の件はトップシークレットだ。前にも言っただろう」


 その口調に、わずかな苛立ちが混じる。だが之槌は怯まず、むしろ一歩踏み込んだ。


「では質問を変えましょう。彼はなぜ、生きていてなお、特執に戻らないのですかな」


「言っているだろう。トップシークレットだ」


 柳生の声は次第に強まり、語気を荒げる寸前で止まった。


「では最後にもうひとつ」


「しつこいぞ」


 低く、静かに放たれた柳生の声。しかし之槌は止まらない。


「雨津殿は、敵か味方、どちらですかな」


 その一言で、司令室の空気が一層、緊張を孕んだ。

 やり取りを横で聞いていた月乃は、ひそかに胸の内を騒がせる。


 普段は温厚で一歩引いた態度を崩さない彼が、これほど食い下がるのは異例だった。それだけ、背後にある何かが、尋常ならざるものだと察せられる。


「柳生殿、答えられませんか。では実方殿は、どうですかな」


 もはや柳生の反応を待つまでもなく、之槌の視線が実方へと滑っていく──。


「わしは──」


 実方が口を開きかけたその瞬間、司令室の扉がノックの合図もなく乱暴に開かれた。

 息を切らせた捜査官が駆け込む。空気が一変し、全員の視線が彼に注がれる。


「天若捜査官! 日下部受刑者! 両名が失踪……! 現在、日下部受刑者のGPSを元に捜索を開始しております!」


「なに……!?」


 怒号にも似た柳生の声とともに、彼女は勢いよく立ち上がる。その様子に引き寄せられるように、月乃も思わず立ち上がっていた。


「陽暈くんが……!」


 声は震えていた。ついさっきまで回復を信じようとしていた矢先の出来事だった。


「どうやら、厄介なことになっているようじゃな。之槌よ、話はまた今度じゃ。二人とも、苦労をかけるが捜索に参加してくれ」


 飛庄はあくまで静かに、しかし確かな重みを持って命じた。その落ち着きが、かえって事態の深刻さを際立たせる。

 月乃は、胸の中に冷たい不安を抱えながら、之槌と共に指示された場所へ向かった。


 オペレーティングルーム。壁一面に並ぶ多数のモニターが、全国各地の情報を映し出している。

 その中央で指揮を執っていたのは、凱亜と真壁だった。


「二人とも、傷は大丈夫なんですか!?」


 月乃は顔を見るなり、心配を隠さずに口を開いた。


「わしはピンピンしとる!」


「私も問題ありません」


「よかった……」


 ほっと息を吐く。だがすぐに、心配の矛先は他の仲間へと向かった。


「そんなことより朝顔よ。お前も無事やったんやなあ!」


「はい、私は大丈夫です。ほかのみんなは……」


「みんな生きてるってよ!」


 凱亜の言葉が、月乃の胸にあたたかく染み込んだ。


「九頭さんと花染さんはまだ目を覚ましていないようですが、二人なら大丈夫でしょう。きっと」


「ですよね。うん。そうだよ。零士さんも、梨紗さんも、陽暈くんも、みんな死なない!」


 その言葉に、月乃自身の声がようやく力を取り戻す。

 その時だった。柳生が早足で入室する。声には一切の余白がなかった。


「状況は」


「現在、日下部のGPSを元に位置を追跡中──」


「ロストしました……!」


「なんだと?」


 一瞬にして空気が凍りつく。


「神奈川方面へ南下途中で、GPSの反応が途絶えました!」


「現地には向かわせているのか」


「それが……」


「なんだ! ハッキリ喋れ!」


 口ごもった捜査官が、柳生の覇気に気圧される。


「はい……! 五名の捜査官が尾行していたのですが、全員応答がありません!」


「さすがは雨津だな」


「雨津!?」


 不意に漏れた柳生の独り言に、凱亜の反応が鋭く跳ねた。


「姉御! 雨津って言うたんかいま!」


「あぁそうだ。おそらく今回、天若と日下部を拐ったのは雨津だ」


「生きてたんか兄貴! って、兄貴が!? なんでや!?」


 問いかける凱亜の声に、柳生は視線を投げただけで応じず、すぐに全体へ向けて声を張った。


「詳しいことは分からん。総員、聞け!」


 その一声で、部屋の空気が一変する。

 オペレーターたちの手が止まり、モニターから目を離し、全員の視線が柳生へと集中した。


「この騒動の首謀者は、元特執捜査官であった雨津駿である可能性が高い! とにかく位置の特定を最優先とし、他の任務に出ている捜査官も召集しろ!」


 緊迫した指示が飛び交う中、凱亜が怒りを噛み殺すように声を荒げた。


「いやいや、どういうことや姉御! 兄貴は死んだんとちゃうんかいな!?」


「あとで話す。千劉と真壁、お前たちは貴重な戦力だ。じきに出られるよう、体を休めておけ」


 柳生の冷静な言葉に、凱亜は不満げなまま大きく息を吐いて去っていった。真壁は静かに柳生に一礼し、無言でその後を追って退室する。


 場に残された月乃の胸中は、嵐のようだった。

 陽暈と日下部がなぜ、忽然と姿を消したのか。阿希が二人を連れ去ったとして、そこにどんな意図があるのか。

 なにより、阿希が生きていたにもかかわらず、なぜその身を隠し続けていたのか。殉職したことになっているのはなぜ。


 次々と浮かぶ疑問が、雪崩のように思考を押し潰していく。頭の中が膨張し、今にも破裂しそうだった。


「之槌。お前も手伝ってくれ」


 呼ばれた之槌は、わずかな沈黙を置いて答えた。


「承知しました。情報が得られれば、共有いたしましょう。では、私は公安へ戻ります」


「あぁ、頼んだ。朝顔、動けるか」


 之槌が軽やかに背を向けるのと入れ替わるように、柳生の視線が月乃に注がれる。


「は、はい!」


 思考に溺れかけていた月乃は慌てて姿勢を正し、返事をする。


「お前は一旦家に帰れ」


「え!?」


 思わず大きな声が出る。それでも柳生の表情は変わらなかった。


「母親が心配している。無事を知らせて来い」


 言われてみれば、月乃は母に心配をかけてばかりだということに気づかされた。

 重苦しい空気の中で、家族のことまで気遣う柳生の言葉が、ひどく温かかった。


 こんな状況でも家族を気遣ってくれる柳生に感謝し、月乃は家に帰ることにした。陽暈の行方が分かり次第、連絡をくれるとのこと。 


 帰る前に、月乃は局内の病室に足を運んだ。


「アキラ……!」


 包帯でぐるぐる巻きにされた真っ赤な怪鳥が、ベッドに横たわっていた。


「ツキノ…………」


「アキラ! ごめん! 全部思い出したよ……!」


 その瞬間、月乃は迷いなく翼に身を預けた。羽の温もりに頬を埋め、抱きしめる腕に力を込める。


「ヨカッタ……」


「うん……! 私のせいでこんなになって……ごめんアキラ」


「エエンヤ。ワシノ、イノチハ、ツキノニ、タスケラレタ。ダカラ、ワシモ、ツキノヲ、タスケル。ソレダケヤ」


「ありがと。アキラ……」


「ヒガサハ、ブジナンカ」


「分かんない……でもきっと大丈夫! 陽暈くんなら!」


「ソウヤナ。アイツハ、シブトイカラナ」


「私が記憶を失くしてる間、陽暈くんのこと、アキラが守ってくれてたんでしょ」


「ワシハ、ナンモ、シテヘン。アイツハ、ツヨナッタ」


「ははッ。嘘ばっかり」


 羽の柔らかさに心を撫でられるような安らぎを得ていた月乃だったが、急に思い立ったように立ち上がった。


「ごめんアキラ! 私一旦帰る! お母さんに会ってくる!」


「オウ。キィツケテ、カエリヤ」


 その声色は、普段の彼からは想像もつかないほど、元気がなかった。でも生きているなら、それでいい。

 どのみち、心配の声をかけても、アキラは強がるだけ。

 ここはグッと堪えて、笑顔を見せる方がいい。彼もそれを望んでいるはずだ。


 月乃は局を飛び出し、夜の街を駆けた。もはや夜が明ける寸前だった。

 にもかかわらず、自宅のダイニングには明かりが灯っていた。そっと扉を開けると、テーブルに突っ伏する椿の姿が見えた。


「お母さん……」


 月乃が小さく声をかけると、まるで夢から覚めたかのように椿が顔を上げた。


「月乃……」


 その目尻は赤く滲み、長い時間の不安を物語っていた。月乃は駆け寄り、母の胸に飛び込んだ。


「お帰りなさい……」


「ただいま。お母さん……」


 いまだ椿には特執のことを話していない。だが、彼女はおそらく、薄々察している。

 東京に引っ越してきてから、帰りが遅かったり、休みの日でも早朝からでかけたりと、不振な行動が散見されたためか、一度だけ聞かれたことがある。

 いったいなにをしているのかと。

 もちろん、国家機密である特執に関することはなにも言えないため、明確に答えることはできなかった。

 ただ、その時は、ひとつだけ告げた。人の役に立つことなのだと。それ以降、心配することはあれど、椿が詮索してくることはなくなった。


「お母さん。全部思い出したの」


「そうなのね。よかった」


 母の腕が、またそっと娘を抱き締める。椿の温もりが、月乃の心を静かにほどいていく。


「とにかくあなたが無事で、よかった……」


「うん……」


 しばらくして、椿は腕をほどいた。


「お腹、減ってるでしょ?」


「うん!」


「ご飯、温めるから待ってて!」


 母は立ち上がり、キッチンへと向かう。ほどなくして、月乃の大好物であるクリームシチューの香りが、家中にふわりと広がっていった。

 数時間前まで、ブラックドッグという凶悪な犯罪シンジケートの拠点に拉致されていたことを忘れるほど、温もりと安らぎが、そこにはあった。

 だが、それに甘えてばかりはいられない。

 阿希が敵か味方か、いまだ不明。油断すれば、次に何が起こるか分からない。


「ご馳走さま」


 営業マンのように勢いよくシチューを平らげた月乃は、椅子を引いて立ち上がる。


「また、どこかに行くの……?」


 椿が寂しげな声で問いかけてくる。


「うん。告白の返事、貰ってないの」


 冗談めかして笑った月乃に、椿も小さく笑みを返した。


「あらま。それは大事ね。気をつけていってらっしゃい」


「うん!」


 心配を残してしまうことは、もちろん分かっていた。

 だが今は、それ以上に──陽暈のことで頭がいっぱいだった。胸の奥で何かが叫び続けている。立ち止まってなんていられない。じっとしてなどいられなかった。


 ──局へ戻るなり、月乃は真っ直ぐにオペレーティング室へ向かった。そして、柳生の前に立ち、力強く頭を下げる。


「柳生司令! ありがとうございました! もう大丈夫です!」


 その姿勢に、柳生は頷いた。


「うむ。朝顔、お前は日下部のGPSが途絶えた現場へ行き、連絡が取れなくなった捜査官の安否確認を頼む」


 任務を託す言葉に、月乃の表情がきりりと引き締まる。


「了解です!」


 月乃はすぐさま任務に就いた。

 目的の場所まではそう遠くないため、街灯のまばらな夜道を疾走する。

 夜明け前の、最も静かな時間帯。車の往来も少ない。

 建造物の屋上を飛び渡る度、思考の隙間に阿希の言葉がこだまする。


 ──本当の戦争が始まる。


 ようやくブラックドッグとの戦いが終わったというのに、これからなにが始まろうとしているのか。阿希の言葉の意味は、まだ彼女には分からなかった。


 現場に到着すると、特執の車両を発見。慎重に接近し、車内を確認すると、うなだれた五人の捜査官の姿があった。


「大丈夫ですか……!」


 緊張を滲ませて呼びかける。

 が──。


「もう食べられない……」

「綺麗なお花畑だぁ……」

「むにゃむにゃ……」


 それぞれが、極めて平和的な夢の中にいた。


「なんだ……寝てるだけか…………よかった……」


 安堵の吐息と共に、局に連絡を取る。


『朝顔です。現着して、捜査官を発見。全員眠らされているようです』


『ご苦労。叩き起こして帰還させろ。朝顔も、周囲に不審な車両や人物がいないか確認次第、戻れ』


『了解』


 月乃は、車内で眠りこけていた捜査官の肩を一人ひとり揺すり起こした。柳生から帰還命令が下りていると伝えると、彼らは青ざめた顔で頷き、まるで何かから逃げるかのように車を発進させていった。


 その様子を見届けたあと、月乃は背後のマンションへと視線を移し、静かに跳躍する。屋上に降り立つと、夜風が髪を撫でた。

 見下ろす街は、闇に沈み、息をひそめている。だが異変の兆しは──見当たらない。

 夜明け前ということもあり、視界は決して良好とは言えなかったが、それでも周囲をくまなく見渡した。怪しい気配も、気配を隠すような存在も、今はなかった。


 息を吐き、月乃は屋上から飛び降りる。

 これ以上ここに留まる意味はない──そう判断し、致し方なく局へと帰還することにした。


 局に戻ったあとも、追跡班の捜索は続けられていた。陽暈と日下部の行方は、依然として不明。時間だけが、静かに、無情に過ぎていく。

 月乃は胸の奥に広がる不安を押し殺しながら、ただ、彼の無事を願い続けた。

第五章完結です。次が最終章です。


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