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 京鹿御門は死を覚悟したが、いまだ意識が残っていることに疑問を持ち、ゆっくりと目を押し開いた。

 ついさきほどまで、おぞましいオーラを纏った陽暈がいたはずの場所に、見慣れないサングラスをかけた男が膝をついていた。

 黒いスーツに黒く細いネクタイ。一瞬、ワイラーこと鬼咫太文かと見紛ったが、シャツが黒くないため、別人であると分かる。マジシャンのような出で立ちだが、その屈強な体格と、総身から放たれる白いオーラを見れば、只者ではないことは明らかだった。


「きみが、京鹿くんか」


 男はそう言って、サングラスを取り、ハットを脱ぎ捨てた。そして鼻の下につけていた髭をビリリと剥がす。

 その素顔を見て、京鹿の鼓動が跳ねた。


「貴様……なぜいまさら…………」


 京鹿は、朦朧とする意識をかろうじて保ち、掠れた声を絞り出す。


「やっぱり俺のこと、知ってるんだな」


 男は、陽暈の父、天若阿希であった。


「ふざけるな。貴様が父上を殺した…………」


「京鹿くん。きみは大きな誤解をしている」


「とぼ……けるな。あの日……父上と会っていた…………」


 緋鐘守道、そして隼斗が殺されたあの日、屋敷に現れた人物は、目の前の男で間違いない。監視カメラの映像と、ワイラーによる徹底的な調査により、判明している。


「確かに会った。いや、厳密に言えば、守道には会えなかった」


「どういう……ことだ…………」


「俺があの場に言ったときにはもう、彼は死んでいた。いや、殺されていた」


 確かに、守道と隼斗の遺体が発見された現場には、カメラがなく、決定的な証拠はない。だがあの日、あの場所に現れたのは阿希以外にいない。考えられないのだ。


「貴様の言うことなど……信じるに値せん。仮に殺されたとして……誰にだと言うのだ。父上は……並みの人間に殺せるような……弱者ではない…………」


「確かに、並みの人間なら歯が立たないだろうな」


「侮辱しているのか……? だから貴様なら……父上を殺せるのではないかと問うている」


「まさか。俺は守道に一度も勝ったことがない。負けたこともないけどな」


「どういうことだ……」


「彼は隼斗くんに殺されたんだよ。俺が行ったとき、丁度、隼斗くんが自死するところだった。残念ながら止められなかったが」


「そんな馬鹿な話……誰が信じる…………」


「これなら、どうだい」


 阿希はそう言いながら、ポケットから一発の空薬莢を取り出した。その鉄に彫られた文字は数字の『1』だった。


「なぜ貴様が……?」


 京鹿はその薬莢が示す数字の意味を知っていた。

 なぜなら彼も同じものを持っているからだ。しかし京鹿が持つ空薬莢に刻まれた数字は『2』である。


「やっぱりきみも、知っているんだな。守道が言ってたよ。息子に渡したって」


 かつて、京鹿が仕えた主──守道。

 彼は仲間のことをなによりも大切に思う男だった。ゆえに、組織で最も重罪だとしていたのは『裏切り』だった。逆に言うと、仲間を裏切ることさえしなければ、どれだけ大きなミスを犯しても、許されることがほとんど。

 しかし組織である以上、なかにはその禁忌を犯す者がいた。そしてそのせいで、仲間を死なせる者もいた。そうなってしまっては、もはや守道も黙っていられない。もし咎められなければ、規律が破綻する。


 組織の長である守道が、過去に二回だけ、自分の手で裏切り者を処刑することがあったという。落とし前をつけるというやつだ。

 だが実際にその現場に京鹿が居合わせたわけではない。組織に入る前の出来事だからだ。

 その際に使用した弾丸の薬莢を、守道は大事に保管していたのである。


 彼は京鹿に薬莢を渡し、こう言った。


「仲間がいるから、この組織は成り立ってんだ。そう簡単に殺しちゃいけねえ。でもよ、組織が弛んじまうと、いざというときに仲間を守れやしねえんだ。お前さんも、できれば仲間は殺すな。だが殺さなくっちゃ、おさまらないこともある。そんときは潔く殺して、一生背負え」


 その言葉の重みは計り知れなかった。そして愛が滲み出ていた。むろん、その愛が自分にも向けられていることを再確認し、京鹿は嬉しくて仕方なかった。


 そのときに守道はこうも言っていた。数字の『1』を彫った薬莢は、戦友に託したと。


「元々、守道と俺は刑務官だったんだ。いろいろあって、二人とも特執の捜査官になったけどな」


「なにっ……!?」


「きみは知ってるか? 日本の再犯率の高さを。ざっくり、刑務所を出た人間は二人に一人が再犯に及ぶ。これは世界的に見ても高い数値だ。いや、きみに聞くのは愚問だったか」


「なにが……言いたい……」


「前科のある人間は、社会から拒絶される。それをきみは体験してるんだろ? だから守道に拾われた」


「だからなにが──」


「守道はずっと嘆いていた」


 阿希は、わずかに声を張り、京鹿の声に重ねた。


「どうにかできないかって。彼は行動力のある男だった。だから、きみのように社会からあぶれた者を受け入れてやれる器を作るために、正義を捨てたんだよ」


「正義を……捨てた…………?」


 京鹿の脳裏に、府上刑務所の受刑者らがよぎった。


「私は……父上が守ろうとしていたものを…………」


 なにもかも間違っていたのか。知らぬ間に、守道の意志を踏みにじっていたのか。


「ならば……貴様が父上を殺していないというのも、事実なのか…………?」


「俺が彼を殺す理由がどこにある」


「貴様の妻と子に矛先を向けたのも、お門違いだったと……?」


「そうなるな」


 京鹿の心が、激しい音を立てて瓦解し始めた。

 あれだけ守道から説かれていたのに、仲間を大勢殺し、見捨てた。堅気である天若家を襲い、血に染めた。

 自分のように罪を犯し、それでもなお社会復帰を目指していた受刑者らを、FRCの実験に使い、三千人もの命を無下にした。


 天若阿希が守道を殺したあの日から、全て狂った。

 しかしそれは──誤解だった。


「なんということを……したんだ…………私は……」


「ようやく、信じてもらえたか」


「父上…………私は…………」


 なにもかも間違っていた。もう、守道に合わせる顔などない。これまで傷つけた多くの人たちに対し、償う。いや、もうそんな次元ではない。


「京鹿くん。もしきみに悔いがあるのなら、償うんだ」


 阿希は、自分の妻と子を殺した相手だというのに、ずいぶんと慈悲深かった。どこか守道と似ており、京鹿の目尻から滴がこぼれ落ちた。


「おーい! 急いでくれー! 重症患者がわんさかいるぞー!」


 その後、阿希は京鹿の元から離れ、なにやら指揮を執り始めた。マスクを着用し、白いジャンパーを羽織った者たちが大勢走り込んできた。

 あろうことか京鹿の元にも数人駆けつけ、応急処置を始める。


 その直後、金切り声が響き渡った。


「全員動くなァアアアア゛ッ……!」


 京鹿は濡れた目を押し開き、声の鳴る方を見やった。

 そこには、傷だらけになった尋芽が、なにかの装置を握った手を掲げていた。


「尋芽…………」


 京鹿はすぐに察した。彼女が持っているのは、起爆スイッチ。


「このボタンを押せば! 上のダムが決壊するよ……! いいの!?」


 尋芽の手が、わずかに震えていた。起爆スイッチはまだ押されていない。それでも京鹿の脳裏には、最悪の未来が一瞬で描かれていた。


 標高五百メートル以上の山間に抱かれた巨大な貯水池が、その壁を失えば、想像を絶する質量の水が一気に解き放たれる。約一億八千万立方メートルの水が、なにもかもを巻き込み、谷を突き進むのだ。

 むろん、いまいる水源林も呑まれる。むしろそのため。拠点がバレたとき、全てを洗い流すために爆弾を設置したのだ。

 最初の犠牲は、奥戸摩湖に接する集落。時間にして数分。家々は押し流され、山の傾斜を伝って加速した水は市街へ。鉄道も道路も、逃げ場にはならない。被害はおさまることなく、戸摩川を下る形で都市部を直撃する。

 交通網は寸断され、浄水場は機能を停止し、都市は麻痺する。東京都西部の一帯が水に沈む。

 たとえ、まだ起きていない未来でも。その破壊と喪失の映像が、京鹿の瞼の裏に投影された。


 それは、彼の中に残されたわずかな理性を、鋭く締めつけた。


「お嬢さん。落ち着くんだ」


 阿希が忠告しながら、尋芽に歩み寄る。


「誰よあんた! それ以上近づかないで! 御門様……!」


 ようやく目が合い、尋芽が叫んだ。


「尋芽……もういいんだ。私が間違っていた……」


「違う……! 間違ってたのはあたし! 御門様はなにも間違ってない! 私の大好きな御門様は、私が助ける!」


「俺はお前を利用したんだ。その好意を、分かっていながら……」


「それでもいい……! レイニー様には敵わないことだって分かってる……でもいいの! お願いだから立って!」


「尋芽……もう終わったんだ……」


「……嫌だ」


 尋芽は掲げていた腕を下ろし、俯いた。


「御門様が諦めるなら、殺す。全員」


「お嬢さん! 待つんだ! ダムが決壊すれば被害はここだけでは済まない!」


「うっさい! 全員ここで死ぬの……!」


 叫ぶと同時に、尋芽は起爆スイッチを押した。


 数秒間──世界が凍りついたような静寂に包まれる。

 風すら止まり、虫の声すらない。


 だが爆発の衝撃も、地響きも、どこにも起こらなかった。


「あれ……なんで……!」


 尋芽は何度もスイッチを押す。焦りと戸惑いが交錯し、表情がひきつる。


 そのとき、林の向こうから草を掻き分ける音が響く。


「どうやら、間に合ったようですな」


 白髪まじりの中年の男が、ゆっくりと姿を現した。


「マサ!」


 阿希がその姿に安堵と喜びを混じえた声を上げた。


「は……え、あ、え? はぁ……!? う、雨津殿!?」


「なに慌ててんだよ。俺の顔も忘れちまったのか?」


「ぼ、亡霊……ではなさそうですな……」


「とりあえず話は後だ。お前らが止めてくれたのか」


「え、えぇ。ダムの下に拠点があるというのは引っ掛かっていましてね。念のため調べておいたのですが、たまたま爆弾を見つけたんですな」


「そんな…………」


 尋芽はその場に崩れ落ちた。膝をつき、震えながら、静かに嗚咽する。


 京鹿は、安堵の吐息を漏らす。

 これでいい。これ以上、彼女の手を血で汚すわけにはいかない。


「貴様は……」


 血の気の失せた唇から、掠れた声がこぼれる。京鹿が、阿希の隣に立つ男へと視線を向けた。

 応じた男は、どこか品のある所作で、胸元に手を当てると、柔らかく頭を下げた。


「初めまして、之槌と申します」


 敵であるはずの立場ながら、その礼節には一片の侮りもなく、むしろ清々しいほどに澄んでいた。敵意も驕りもない。だからこそ、京鹿は逆に戸惑う。

 混濁する意識のなかで、それでも彼は、その名を胸に刻むように呟いた。


「之槌……さん。おりがとう……」


 その言葉を最後に、京鹿の瞼が静かに降りていく。

 世界との接点を手放すように、呼吸が穏やかに薄れ──彼は深い闇に身を委ねた。

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