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 闇に呑まれた天若陽暈の鼓膜を揺らした聞き馴染みのある声。


「陽暈くん……!」


 誰の声なのか、陽暈には分からなかった。柔らかな、女声だった。

 なにも見えない。なにも触れられない。匂いも、味も、なにもない。ただ、唯一聴覚だけが生きていた。


「陽暈くん!」


 相変わらず、声が聞こえる。だがやはり、誰の声か思い出せない。何度も聞いたことがあるのに。


 しばらくすると、視覚が戻ったのか、遠くにうっすら光が見えた。夜空に光る一番星のような、わずかだが、力強い光だった。


 その煌めきは、徐々に近づいてくる。

 不意に手を伸ばしてみるが、もちろん触れることなどできない。


「陽暈くん……!」


 ふたたび聞こえたその声は、震えていた。なにかに怯えているような、そんな声色だった。


 直後──。


 背に温もりを感じた。視覚の次は、触覚が戻ったらしい。

 首を捻り、後ろを見るが、やはり闇。だが温かい。


「お願い。目を覚まして……!」


 その声を機に、陽暈は五感全てを取り戻した。


 ナイフを握り、振り上げた手。目下に横たわる京鹿。自身に巻きつく白く柔らかな腕。

 全てを思い出した。


 しかし──。


「グルゥゥ……」


 意識は戻っているが、体が言うことを聞かない。制御を失っている。


「陽暈くん、覚えてる……?」


 闇のなかで聞こえた声が、耳元で囁かれた。


 ようやく陽暈は思い出した。その声の持ち主が、朝顔月乃であると。

 そして同時に、違和感を覚えた。

 彼女は記憶を失くしてから、陽暈のことを天若(・・)くんとよそよそしく呼んでいた。初めは寂しい気もしたが、自分のせいで彼女が傷ついたことを、ひとときも忘れぬよう、訂正することはなかった。

 しかしいま、月乃は確かに言った。陽暈(・・)くん、と。


「転校初日に、初めて話しかけてくれたのが陽暈くんだったの。嬉しかったなぁ。みんなが腫れ物みたいな目で見てくるなか、あなただけは違った。どんなに嫌なことがあっても、あなたがいてくれるだけで全部帳消しになるの」


「う゛うゥう゛ガあ゛ァ……」


「私が眠っている間、あなたはずっと声をかけてくれた。他愛もない話をしてくれた。謝ってくれた──だから私は生きられたの! ずっと! ずぅっと陽暈くんの声を聞き続けた! だからいまの私があるの!」


 痛いほど響く叫び。魂の剥き出し。

 それに応えられない自分が、歯がゆくて、情けなくて──。


「前にも言ったよね!? 陽暈くんは私のヒーローなの! ヒーローは私情で人を殺したりしない……! 私決めたの! 陽暈くんは、私が守るんだって……!」


「あ゛ア゛アアアッ……!」


 こぼれた声は、相変わらず獣の呻きのようだった。

 息とも嗚咽ともつかぬそれは、想いとはかけ離れた、汚れた音だった。


「だって……! だって! 世界で一番! 陽暈くんが大好きだから! 誰よりも! 宇宙で一番……!」


 月乃の声が、夜空すら突き破るほど強く、激しく響いた。魂の奥底を貫くように、真っ直ぐに、届いてくる。


「あなたがいないと、私は生きられない……! だから目を覚まして! お願い陽暈くん!」


「う゛う゛ぅ゛……ゥゥうううあああ゛あ゛アア!」


 届いている。たしかに、胸をノックされている。

 だが、暴走する肉体が彼女に牙を剥いた。

 ビクリ、と陽暈の左腕が跳ねる──振り上げられた肘が、月乃の側頭部を叩いてしまう。


「あぁぁ゛ッ……!」


 巻き付いていた月乃の腕は解かれ、自由を取り戻した陽暈は、再びナイフを振り上げた。


「グゥァアアアアアア゛ア゛ッ!」


「ダメぇえっ! 陽暈くんんんん゛!」


 月乃の叫喚も、ただ虚空に吸い込まれていく。


 刃は迷いなく突き進み、その切っ先が京鹿の胸を穿たんとした、その瞬間──陽暈の腕が、ぴたりと止まった。


 否。

 止まったのではない。止められたのだ。

 自分の意志ではない。明らかに、別の力が加わった。


 そして、その力の源──陽暈のすぐ傍に立っていたのは、ちょび髭をたくわえ、サングラスをかけた、どこか胡散臭げな男。

 以前、何度か顔を合わせたことがある亡霊。


 だが、今は違った。

 その身に纏われた白いオーラが、彼がただの一般人ではないことを証明していた。


「いい友人を持ったな。少年」


 抑揚のない声が、穏やかに落ちる。


「ちょっと失礼」


 男はひょいとサングラスを額にズラし上げ、陽暈の瞳を真っ直ぐに見つめた。


 深淵だった──。


 視界に映るその黒は、どこまでも深く、どこにも辿り着けない。

 見つめられた刹那、陽暈の内側に広がっていた業火が、嘘のように萎んでいった。思考が、音もなく解けていく。感情の輪郭が霞んでいく。呼吸の仕方すら分からなくなる。


 直後、陽暈の手から力が抜け、刃がカランッと乾いた音を立てて床に落ちた。その音だけが、やけに遠くで鳴ったように思えた。


 男の眼差しが、陽暈の深奥に触れている。

 そこには意志も、怒りも、脊髄反射さえも届かない、底知れぬの沈黙があった。


 意識が、ゆっくりと崩れていく。

 音が消え、色が消え、世界がゆっくりと傾いていく──。

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