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 京鹿御門は、紫のオーラを纏った化け物と目を合わせ、無意識に肺が大きく呼吸をした。

 空気が重い。殺気ではない。もっと原始的な、捕食者に遭遇した小動物の本能的な怯えが、彼の胸を強く締めつけた。


「血迷ったか……」


 そう呟いた声は、もはや威圧のためのものではなかった。

 自分に言い聞かせている。あれは人間ではない。だから、自分は恐れてなどいない。そう言い聞かせなければ、正気を保てなかった。


 陽暈の体が、ぐらりと傾き、次の瞬間──京鹿の視界から消えた。

 速いとすら思えなかった。ただ、視認できなかった。


「ぐっ……!」


 腹に鈍い衝撃。反射で腕を構える前に、背後から強打。肩口に裂けるような痛みが走る。

 京鹿は思わず地面に転がり、距離を取った。

 視線を正面に戻したとき、陽暈は目と鼻の先に迫っていた。


 視えない。

 驚愕。自身のオーバーアビリティ──未来視が、まったく反応しない。脳波が、読めない。波形が、ない。

 まるで、そこに意思など存在していないかのように。いや、事実そうなのだ。目の前のそれは、自我を持たぬ肉体だけの兵器。

 脳を介さず、脊髄だけで動いている。


 京鹿は戦慄した。

 予測不能、パターンなし、感情も読めない。

 自分が最も得意とする領域──未来を読むという強みが、完全に封じられている。


「化け物か……!」


 陽暈が、動く。蹴りが、膝裏を抉る。肘が顎を裂く。拳が、肋を砕く。


「ッ……ハ、ハハハ……全てを捨てたか……!」


 笑いながら、京鹿は息を乱して後退する。

 これまでの戦いとは、次元が違う。力ではない、技でもない。これは、生き延びるという一点に収束した、原初の暴力だ。

 そしてこの戦いで京鹿が目指すゴールは、勝利ではなく、凌ぎ。

 ランペイジを引き起こしたということは、陽暈は生死の狭間を彷徨っている。ならば彼が息絶えるまで、こちらが粘ればいい。


 これまで、未来視という能力に頼ってきたことは否定しない。さりとて、未来視がなくとも並みの相手には遅れを取ることはなかった。

 だがランペイジ状態となった陽暈は別格。隙を見て反撃を試みたが、どうやら触式も健在のようで、攻撃を当てることすらままならない。

 やはりいまは、防御に全振りするべきなのだ。


 そう結論付けた京鹿は、神経を研ぎ澄ませ、陽暈の荒い動きを注視した。


 だが──。


 陽暈は、その体躯をわずかに沈めたかと思うと、次の瞬間、地を裂くような衝撃音とともに疾風となって間合いを消した。まるでワープしたかのように、その姿は京鹿の眼前にあった。


「──っ、!?」


 やはり、視認すらできなかった。

 視えない。感じるよりも早く、京鹿の顔面が衝撃で歪み、骨が砕ける音が頭蓋に反響した。

 顎が跳ね上がり、首が後方へ限界以上にのけ反る。頸椎が軋む音と同時に、視界の端で世界が二重に揺れた。

 次いで、肩口に地雷の爆発のような痛み。陽暈の肘が突き込まれ、鎖骨が一撃で砕かれた。内側から骨が皮膚を突き破りそうな衝撃に、脳が悲鳴をあげる。白く焼けるような閃光が視界を塗り潰した。


「ッ──が、ああ゛ッ!」


 呻きと共に息が詰まった。陽暈の膝が、寸分の狂いもなく京鹿の腹部を打ち抜いたのだ。肋骨の奥で内臓が潰れた。血混じりの胆汁が喉まで逆流し、口から吹き出る。

 地に倒れる暇もなく、続けざまに陽暈の身体が影のように背後に回る。

 そこから始まったのは、一方的な連撃。


「グッ、……ぐッ、がァッ──!」


 脇腹、背中、腎臓、肋骨。拳が、膝が、肘が、機関銃のような速度で叩き込まれる。一撃一撃が鉄骨を叩くハンマーのような衝撃を持ち、京鹿の身体が地面を滑っていく。玉砂利が舞い、白砂に血が跳ねた。


 腕がぶらりと垂れた。もう曲がってはならない方向に折れている。

 それでも、京鹿は立とうとした。

 膝をつき、歯を食いしばり、まだ手をつく。背筋を伸ばそうとする。だが、陽暈は──それすら許さなかった。


「……愚か者め…………」


 かろうじて漏れたその言葉。

 もちろん陽暈からの返答などない。紫電のようなオーラを身に纏い、その双拳を天に掲げる。瞳孔は開ききり、汗でも血でもないものが肌を滴る。


 打撃。

 打撃。

 また打撃。

 顔面、腹部、胸、膝、喉、肩。すべてを壊す。順番などない。狙いなどいらない。ただ、動く箇所を力任せに粉砕する。それがいまの陽暈だ。


「ッが、っ……うぐッ、うぅうああ……ッ!」


 骨が、十本以上は折れた。肋骨が肺に突き刺さり、呼吸のたびに内側から血泡が弾ける。顎が砕け、眼球が腫れ、指が痙攣して動かない。視界が色彩を失い、耳鳴りが世界を包む。


 陽暈は止まらない。もはや人間ではない。

 風が斬れる音が、すべての攻撃に混ざる。拳、肘、膝、それぞれが技術ではなく、殺意を持って京鹿の肉体を破壊していく。人間の構造を熟知した者だけが成し得る、非効率な効率。


「ガ゛ァアアアアアアッ!」


 咆哮と共に、庭園が震えたように錯覚する。黒松がざわめき、空が軋む。地鳴りのような振動が足元から這い上がり、京鹿の体内で共鳴した。

 立っているのか、倒れているのか、それすらわからない。

 自分の腕が、脚が、まだあるのか。脳がそれを把握できない。


 それでも──生きていることだけは分かる。

 まだだ。まだ負けていない。


 陽暈には限界がある。いまはランペイジ状態。だがこの異常な暴走は長くは続かない。耐えきれば、崩れる。自壊する。

 そう信じて、京鹿は残った意識を手のひらに集めた。歯を食いしばる。肺が潰れ、肋骨が刺さる痛みに呻きながらも、睨み返した。


 そして──陽暈が再び吠えた。


「グルァァアアアアアア゛ッ!」


 咆哮が空間を裂いた。その声に混じって、わずかに、軋みがあった。

 限界の兆し。狂気の奥で崩壊が始まっている。あと少し。三十秒、いや十秒でいい。凌ぎ切れば。

 京鹿の口元がわずかに吊り上がる。血に濡れ、腫れ上がったその顔に、ほんのわずかな勝利の影が宿った。


 そう思った矢先だった。

 数歩、距離が空いていたにもかかわらず、まばたきをした次の瞬間──陽暈の膝が、迷いなく振り抜かれる。

 左腿。鈍い音とともに、筋肉が千切れるほどの激痛が走る。神経が悲鳴を上げ、京鹿の身体は再び崩れた。

 その瞬間、視界の端で拳が振り上げられる。

 避けられない。鈍い音が鳴り渡り、頬骨が粉砕された。片目が潰れ、世界が光と闇に引き裂かれる。


 もう、立てない。立たせてもらえない。陽暈の暴力は完全なる拘束であり、動きを封じ、心を折り、戦意を奪うための絶対的な力だった。


 喉から血が噴き上がる。玉砂利に赤黒い染みが広がる。月は冷たく明るく、その光が惨状のすべてを照らしていた。

 もう少し。あと少し耐えれば──。


「否っ……!」


 それは違う。


「私は!」


 戦え。

 防御すら意味を成さないのなら、攻撃。


「私なら……!」


 力はわずかしか残っていないが、それらを全て振り絞り──。


 京鹿は折れていない左手で地面を叩き、飛び起きた。

 そしてオーバーアビリティ──未来視に全ての意識を注ぐ。

 零士の強制フリーズを体感し、体現したあの極限を。

 周囲に飛び交う脳波を全て読み取り、脳の処理速度を急速に上げる。


 彼が読み取れる脳波は、人だけではない。

 集中さえできれば、地中を蠢くミミズだろうが、地を這う蟻だろうが、空を舞う梟だろうが。

 生きとし生けるもの、脳という器官を持つ存在すべての思考の火花を、京鹿は濾過することなく掬い取れるのだ。


「もう一度……!」


 そうして脳の処理速度が限界を超える──。


 かと思われた。

 だが彼にはもう、フリーズを引き起こせるほどの余力は残されていなかった。


 次、目を開けると、京鹿の視界に飛び込んできたのは、満天の星空だった。

 もう、立つことすらできない。

 いや、身動ぎ一つ、取れそうにない。

 意識が吹き飛びそうになった時、すぐ隣に人影が見えた。

 むろん、紫のオーラを纏った野獣。


「天若……陽暈…………」


 当然、京鹿のその声は、陽暈には届かない。

 ふと視線を落とした陽暈は、いまだ自身の胸に刺さったままのナイフに手を伸ばした。

 そしてなんの躊躇いもなく、引き抜いた。


 反動で噴き出した血が、京鹿に降り注ぐ。

 しかし陽暈には、痛みに耐える様子はなかった。ランペイジ状態の彼には、そもそも痛覚すらないのだろうか。

 そんな素朴な疑問が京鹿の脳に浮かんだ頃にはもう、陽暈はナイフを握った手を振り上げていた──。

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