102
「──っ!?」
陽暈は息を漏らした。
突如、時の遅延が起きたのだ。要因は、陽暈の額に触れた弾丸。
咄嗟に首を捻り、回避する。自ずと横を向いた陽暈の視界に飛び込んだのは、胸部を撃ち抜かれ、後方に倒れるさなかの零士だった。
そのとき、抜け落ちていた数秒間の記憶が、脳内に雪崩れ込む。
凍結した時間の記憶──京鹿は悠々と銃口を水源林へ向けて一発。零士に向けて一発。陽暈に向けて一発。計三発の弾丸を、滞りなく撃ち放っていた。
間一髪のところでフリーズが溶け、運良く陽暈は回避できたのだ。
とどのつまり──零士の奥義とも言える強制フリーズという神業を、京鹿も成し遂げたのである。
「零士さん……!」
仰向けに倒れた零士へ駆け寄り、陽暈は必死にその名を呼んだ。
「これは想定外だね…………」
真紅のオーラを失くした零士は、唇をわずかにひきつらせ、静かに呟く。彼の左脇辺りには弾丸の痕──幸いにも心臓には届かなかったらしいが、その表情は重傷の苦痛に染まっていた。
「ダメだ零士さん! 零士さん……!」
炭酸が弾けるように、零士の口から血が噴き出す。陽暈は焦燥に駆られながら、彼の意識を引き留めるように叫び続けた。
すると、零士はかすかに体を起こし、震える指先で陽暈の腕をしっかりと掴んだ。
「陽暈」
その低い声に、陽暈の鼓動が一瞬止まる。
零士は苦痛を押し殺すように顔をゆがめながらも、瞳に揺るがぬ強い意志を宿していた。
「頼む」
握り返された手から伝わる、その短い言葉の重さ。陽暈は息を呑み、零士の手をもう一度強く握りしめた。そして、深く頷く。
零士の表情に、わずかな安らぎが戻る。
ゆっくりと瞳を閉じ、握っていた手の力が静かに抜けていった。陽暈の掌から、冷たい重みがするりと消え去る。
胸の奥で、何かが燃え上がった。激情と悲嘆が混じる烈火の業火が、全身を覆い尽くす。
『花染さん』
陽暈は手のひらを耳に添える。
『…………』
返ってくるのは、静寂。予想していたとはいえ、その事実に胸がえぐられる。
京鹿が林向こうへ撃った弾丸は、花染を狙ったものに違いない──そう確信し、陽暈は立ち上がる。冷え切った夜風が、血の匂いを頬に運んだ。
「京鹿……」
目の前にいる宿敵を、一瞬も目を逸らすことなく見据えた。憎悪ただ一色。陽暈の心を染め上げていたのは、それだけだった。
「来い。天若陽暈」
その言葉が落ちた瞬間、陽暈は地を蹴っていた。血で濡れた足音が地面を打ち、獣のような雄叫びと共に拳を突き出す。
「京鹿ァァアアッ……!」
だが──京鹿は微動だにしない。
拳が届く刹那、彼の手が陽暈の右手首を掴んでいた。
「またそれか」
次の瞬間、京鹿の膝が陽暈の腹にめり込んだ。
「がはッ……!」
胃液が喉を逆流する。陽暈の体が弓なりにのけぞり、後方へ吹き飛ぶ。背中から地面に叩きつけられ、地面を数メートル転がる。だが、止まらない。止まれない。
「まだ……ッ!」
血を啜りながら立ち上がり、再び駆ける。
今度こそ殴り抜いてやる。そう信じて飛び込む陽暈の肩を、京鹿が掴んだ。
「もっとだ。もっと見せてみろ」
京鹿の回し蹴りが、陽暈の左脇腹をえぐるように炸裂する。
「ぐあッ──ッ!」
肋骨が折れたか──そう確信するほどの衝撃。呼吸ができない。肺が縮み、酸素が欠乏する。
膝をつき、吐血しながら、それでも立ち上がる。
「テメェだけは……絶対に……!」
陽暈の目は狂気にも似た怒気に染まりきっていた。壊れた体に鞭を打ち、三度目の突撃。
京鹿はため息を一つつくと、今度は陽暈の前襟をつまみ上げた。
「一辺倒なやつだ」
言葉と同時に拳が閃く。陽暈の顔面にクリーンヒット。
首が折れるほどの衝撃で、体が後方に吹っ飛び、壁に叩きつけられる。ガコン、と乾いた音と共にコンクリートがひび割れ、陽暈が地面に崩れ落ちる。
世界が揺れる。耳が聞こえない。目が見えない。
それでも──。
「……ぐ……っ、まだ……っ……!」
立ち上がる。脚が震えている。血が目に入り、片目しか開かない。それでも拳を握る。
京鹿は静かに歩を進め、今度は陽暈の左足首を掴んだ。
「もう、やめておけ」
そう言い放ち──。
地面から持ち上げるようにして陽暈の体を振り回し、そのまま放り投げられ、容赦なく地に激突。石畳が砕ける音。骨が軋む音。内臓が潰れる感覚。
「──ッッ!」
叫びすら出ない。だが、まだ終わらない。
血まみれの体を再び起こす。朦朧とする意識の中、最後の力を振り絞って一歩を踏み出す。
「……おおオオオオ゛ッ!」
拳を振り上げる。
しかし、京鹿の手が陽暈の首元を掴んでいた。
「くだらんな。やはり貴様は」
最短距離で繰り出された拳が、陽暈のこめかみを撃ち抜いた。
視界が白黒に弾け飛び──陽暈の体が空を舞う。
地面に落ちる、その瞬間。
世界が溶け出した。
空が滲み、月が割れ、京鹿の顔が見えなくなる。色も、音も、温度も、何もかもが崩れ去り──意識がスッと落ちた。
瞼の裏に投影されたのは、闇に包まれた部屋だった。十時半を差したまま止まっている掛け時計が、どこか懐かしく感じる。
目の前には、二人の影──波留と幻陽がいた。
さらにその奥にも人影が。シルエットだけで、誰なのかは分からない。ただ、既視感のある影であった。
「母さん……幻陽…………」
座り込んでいた陽暈は立ち上がり、二人の元へ駆け寄ろうとした。一歩踏み出したとの時、鉄の擦れる音が足元で鳴り響いた。
見下ろすと、自身の足に枷が取り付けられていた。
陽暈は思い出した。
そう──これは幻覚。以前、ファウンドとの激戦のさなか、同じ幻を見た。
前回と同じく、足枷には鎖が繋がっていた。背後に延びる鎖を伝い、振り返ると、犬の仮面をかぶった青い目の男がこちらをジッと見ていた。
「京鹿…………」
是が非でも復讐すべき相手が、すぐそこにいた。
直後、どさりと音が鳴った。反射的に向き直ると、蒼白になった波留と、血に塗れた幻陽が這いつくばってこちらを睨んでいた。
「殺せ」
「殺せ」
二人とも、本人の声とは明らかに異なる、低く、粘り気のある声で訴えかけてくる。
そんな二人を見て、陽暈は再認識した。自分の役目を。
京鹿御門は家族の仇。殺さねばならない。死を持って償わせなければならない。そしてそれを強制することこそ、生き残った自分の使命。
殺す。
殺す──。
絶対に殺す──。
陽暈の心がどす黒い感情に飲み込まれた直後、風船が弾けるような破裂音と共に、幻覚は消滅した。
咄嗟にた瞼を上げると、満月が見え、我に返る──上体を起こすと、違和感に気づいた。
全身の感覚がおかしい。蓄積された痛みは感じず、終始、身に纏っていた青いオーラにくわえ、白いオーラが混じっていた。
「この状況でオーバーするとは、凄まじい豪運。面白い。面白いではないか天若陽暈!」
ずいぶんと高揚している京鹿を見やると、陽暈は自分の使命を思い出す。
「そうだ。そうだよな」
軽々と立ち上がり、京鹿を見据えた。
浮遊感というべきか、自分でもよく分からない感覚だったが、陽暈はまだ戦えるということだけは理解した。
オーバーアビリティがなんなのか、見当もつかない。だがどうでもいい。
とにかくいまは、京鹿御門を殺すこと。それだけを考えればいい。
「殺す。殺す……殺す、殺す! 殺す殺す殺す……!」
呪文のように唱えながら、陽暈は駆け出した。
これまで、憎悪に蝕まれていた彼の心──今度は殺意一色に染まっていた。
京鹿もまた、陽暈の殺意に呼応するように走り出す。
互いに手が届くほどの距離まで詰まった時、陽暈の脳内に、奇妙な声が聞こえた。いや、声ではない──思考。
そして体が勝手に動き出す。
京鹿が右拳を振るうと、真似るように陽暈も右の拳を振るった。
互いの拳が、互いの左頬に衝突する直前で、目を丸くした京鹿は後方へ飛んだ。その動きさえも真似し、陽暈も一歩後退。自分の意思ではなく、体が勝手にそうした。
「なんだそれは……」
京鹿は気味悪がっていた。呼吸も、鼓動も、まばたきも、なにもかもが一致する陽暈に。
むろん、それは陽暈が会得したオーバーアビリティが所以。
彼が得たアビリティは──ミラーリング。
京鹿と同じく、相手の脳波を読み取り、そっくりそのまま同じ行動を取るという、怪奇な能力だったのである。
陽暈は、そのメカニズムを理解してはいなかったものの、能力そのものは把握した。
その後、再び二人は拳を交えたが、互いの攻撃が当たることはなかった。
「概ね、貴様のオーバーアビリティは理解したが、くだらぬ能力だ。それでは未来視の下位互換ではないか」
攻撃を中断し、京鹿が残念そうに言った。
「かっ。怖ぇのかよ。俺に殴られるのが」
陽暈の唇が歪んだ。嗤うように、挑発するように。
京鹿が陽暈に攻撃を与えるためには、自身も同じ攻撃を食らうというリスクを背負わなければならない。逆も然り。
だが陽暈には覚悟ができていた。自分が殴られても京鹿を殴れるのなら。自分が蹴られても京鹿を蹴れるのならと。
そうなれば、あとは気合の勝負。未来視や触式という反則級の力を互いに捨て、打ち合う。
俗に言う、ベタ足インファイトというやつだ。
「そうか。そうだな。たまには泥臭い殺し合いも悪くないか」
京鹿はわずかに口角を上げ、羽織っていた黒いコートとジャケットを脱ぎ捨てた。陽暈もそれに倣い、ボロボロのジャケットを脱ぎ、脇に投げる。
双方、ベスト姿となり、袖を捲った。
そして拳の届く位置まで近づき、右足を前に押し出す。
直後、京鹿が先に動いた。彼には未来視があるため、陽暈に先行を譲れば攻撃を避けることは容易い。しかしその利を捨て、先手を打ってきた。
たとえ未来視で回避しても、決着がつかないことは分かっているのだろう。ある意味、潔い男である。
むろん、陽暈は京鹿の振りかぶった拳をトレースし、自身も同じ動作に移った。
双方の拳が、双方の頬にめり込む。その衝撃で脳が揺れた。
咄嗟に次の拳が飛んでくる。陽暈も同じ角度で打ち返す。今度は京鹿が下段に来た。右膝を振り上げてきたので、陽暈も即座にトレースして膝を叩き込む。
骨と骨がぶつかり、火花が散るような痛みが走った。
次いで、拳が腹に沈む。自分の拳と、相手の拳が同時に──ひとつの波が打ち寄せては返るように。
殴る。殴られる。
蹴る。蹴られる。
振り上げた肘が顎に入り、蹴り上げた膝が腹を抉る。
意識が薄れていくたびに、体が勝手に動いていた。
京鹿が右ストレートを構えれば、自分の右肩も自然に動く。京鹿が軸足を切り替えれば、自分の足も同じように動く。
何発目だ。もうわからない。
顔面、鳩尾、脇腹、こめかみ、顎。あらゆる部位が交互に、対になって破壊されていく。
二人はひとつの振り子のようだった。一方が揺れれば、他方も揺れる。まったく同じ軌道、まったく同じ速さで──それがミラーリング。
攻撃の応酬は、次第に殴り合いから殺し合いの色を濃くしてゆく。
吐きそうだ。
視界が歪む。
呼吸ができない。
手足の感覚が、濁った水のなかで探るように曖昧になる。
京鹿の肘打ちが陽暈の頬を掠める。陽暈も当然のように、京鹿の頬に肘を叩き込んだ。
その瞬間、視界がぐらついた。
意識が落ちかけている。
自分が京鹿の攻撃を食らう限り、自分も京鹿を殴れる。だが、こちらが先に倒れればすべて終わる。
そうして意識が霞み消えそうになっていた陽暈は、掴んだ──ミラーリングの扱い方を。
「どうしたああ! 天若陽暈ぁ! そんなものか!」
京鹿が自分を鼓舞するように叫び声を上げる。もはや初めて会った時のような冷めた落ち着きはない。
漢と漢の殺し合いだった。
「うぅぉラァァァアアアアアアッ……!」
京鹿の圧に応え、陽暈も咆哮──トレースした動きで拳を振るう。その一瞬。ほんの一瞬だけ、陽暈はミラーリングを意図的に解いた。
首を捻りながらも、拳を押し出す。
漢の殺し合いにしては姑息かもしれないが、陽暈は京鹿の拳を避け、自分の右拳だけを当てたのだ。
意表を突かれ、苦い顔を見せた京鹿の頬に、陽暈の拳がめり込み、大きく体がぐらついた。
「ぶっふぅッ……!」
血を飛び散らせながら、京鹿は一歩下がった。しかしすぐに踏ん張り、陽暈を睨む。
「貴様……」
一撃与えたと言えど、明らかに限界が近づいていた陽暈もまた、息を切らしながら京鹿を睨み返した。
「はぁ……はぁ……どうしたよ京鹿。下位互換じゃなかったのか? 俺のアビリティは」
口に溜まった血を石畳に吐き捨てた京鹿は、また笑った。
「あぁ。下位互換だ」
そう言いながら、定位置に戻ってきた京鹿は、拳を構えた。
「ぶっ飛ばす」
陽暈もまた、拳を構え、ミラーリングの準備をする。
再び、二人の捨て身の殴り合いは再開された。
なにか策があるのだと察していた陽暈は、攻撃を受ける覚悟でミラーリングを解かずに様子を見ることにした。
打ち、打たれる。
だが京鹿に動きはない。
それならばと、京鹿の拳が迫った直後、再びミラーリングを解いた。そして体勢を沈めて拳を回避しつつ、自分の攻撃を当てようとしたその時、京鹿が血の滲む歯を見せた。
「──っ!?」
気がつくと、陽暈の押し出した拳は避けられ、代わりに髪を掴まれていた。
瞬間、右の頬に強烈な衝撃──京鹿の膝蹴りだった。
脳髄が揺れ、視界が一瞬ホワイトアウトする。重心を保つこともできず、陽暈の身体は吹き飛ぶようにして後方へ転がった。
石畳に背中を強く打ちつけ、肺から一気に空気が抜ける。咳き込みながらも、反射的に腕で顔を庇い、地面を転がりながら距離を取る。
頬からは熱いものが流れていた。血か、それともただの火傷のような熱か。いずれにせよ、受けた衝撃がただごとでないことは理解していた。
それでも、立たなければならなかった。
歯を食いしばり、よろめきながらも膝を突き、拳を地面について起き上がる。
「……くそ、なんで……」
視界の向こうで、京鹿が一歩、また一歩と歩を進めてくる。
その口元には、再びあの、静かな嗤い。
「なに、簡単な話。貴様より私の能力が優れているというだけだ」
これまで、ミラーリング中の陽暈の動きに、京鹿が対応できたことは一度もない。仮に陽暈がミラーリングによるトレースをした未来を視て、攻撃をキャンセルしたとしても、両者その場に立ち尽くすだけで、何も始まらない。
だからこそ、京鹿は未来が視えていてもそれを無視し、殴り合うしかなかった。
しかし陽暈が見出した、攻撃の直前でミラーリングを解くという戦法は、京鹿の未来視に対応されるというリスクが伴う。
京鹿は、いち早くそれに気づいたがゆえに、さきほどのような余裕が見えたのだ。
とはいえ、それで決着がつくという話でもない。
「だからなんだよ。それなら殴り合うまでだっつんだよ!」
陽暈はミラーリングを徹底すれば、少なくとも相打ちにはできる。
「そうだな。我慢比べと行くしかあるまい」
問題はどちらが先に息絶えるか。それだけだ。それだけだと、思っていた。
しかし陽暈には、重大な疾患があった──。
またもや始まった殴り殴られ合い。
両者、あらゆる箇所から血を拭き出しながらも、攻撃を当て続けた。
だが最悪のタイミングで、陽暈の左腕が、沈黙した。
「くっ……!?」
失行──。
早乙女が懸念し続けていた、脳梁の損傷による突発的な症状の発現。
脳機能の障害であることから、症状は多岐にわたるが、この状況で最も起きてはならない、起こしてはならない症状が出てしまった。
「限界だな」
冷ややかにそう告げた京鹿の左拳が、陽暈の腹に叩きこまれた。しかし、陽暈の左拳は、動かない。
これまでの衝撃とは比べ物にならないほどの威力で、陽暈は軽々と宙を舞った。
ミラーリングにより、打った拳は必ず帰ってくることから、どうやら京鹿は少し手加減をしていたらしい。
「かッはァッ……!」
空気を漏らしながら、地面に叩きつけられた陽暈。その衝撃で、集中の糸が途切れたせいか、青いオーラも、白いオーラも、霞み消えていた。
すぐに立ち上がろうと試みるが、起き上がることすらできない。それは殴られたことによる一時的な硬直ではなく、理由ははっきりと分かった。
いま、失行しているのは左手だけではない。左半身、全てが沈黙していたのだ。
「くそが……! くそックソッ! どうしてこんな時に……!」
右手で左胸、左肩、左腿を叩く──動く気配すらない。
「動けよバカが……! いま動かなくてどうすんだよ!」
さすがにこうなってしまっては手立てがなかった。
全ての力を使っても食らいつくことがやっとの相手を、半身だけで打ち破れるわけがない。
「誓ったんだろうが! 仇を討つって……!」
依然として起き上がることすらできず、まるで玩具を買ってもらえずにごねる幼児のようにジタバタする。
「いま! いましかねぇんだよ……! いまやらなきゃ!」
右腕で地面を押し、うつ伏せになって京鹿を睨む。
「クソ……! まだ、俺はまだ!」
こちらを見下ろす京鹿の、冷たい目と合う。
「滑稽だな。天若陽暈。母と弟の仇を前に、這いつくばることしかできぬ軟弱さ。見るに堪えん」
「てめぇ……!」
「そこで溺れ死ぬがいい」
ずいぶんと熱が冷めていた京鹿は、地面に落ちていたコートを拾い上げた。
「待て……待てよ京鹿…………俺は……俺はお前を…………」
京鹿は陽暈のさえずりに耳を傾けることはなく、背を向けた。
霞む視界の先、憎き人間の背が遠のいていく。
陽暈は悔しさで涙が止まらなかった。
「京鹿ぁぁああ……!」
無念。
家族の恨みを晴らさねばならないのに、このザマ。
いっそのこと殺された方が幾分かマシかもしれない。
零士も、花染も、助けるどころか助けられてばかりのまま。なんの恩返しもできぬまま、ただ生き長らえるなど耐えられない。
そのとき、脈が波打った。
「違う……」
閃き──。
「諦めねぇ……」
再び右手で地面を押し、仰向けの体勢に戻った。
「誓ったんだ。俺が……」
ポケットに手を滑らせ、折り畳みナイフを取り出す。
「母さん……幻陽…………」
刃を歯で噛んで固定し、右手で柄を引き、ナイフを開く。
「待ってろ……もうすぐ行く……………」
逆手に持ち、刃を胸部に添える。
助走をつけるため、右手をまっすぐ天に向けて押す──そして勢いよく、引き込む。
「ぐゥッ……ぅぅ゛…………」
ズブリと沈む──切っ先が心臓に到達。胸をバーナーで炙られているかのごとく熱い。
「ゴッ……俺ガぁッ…………クハぁっ……!」
とにかく歯を食いしばり、痛みに耐えることしかできなかった。数秒に満たないその瞬間は、永遠にも思えるほどだった。
しかしその激痛に耐えた先に広がっていたのは、無であった。
もはや意識を失いかけていた陽暈の全身から、徐々にオーラが放たれ始める。
紫色のオーラが──。
そして呻き声を上げながら、のっそりと立ち上がった。
その異様な気配に気づいたらしく、振り向いた京鹿と目が合う。
「貴様…………」
その言葉は、陽暈の鼓膜を揺らしたが、なんの意味もない。陽暈にはもう、意識などないに等しい。ただ体に全てを委ねているだけだった。
ランペイジ──それは、死の淵に追い込まれた人間が、理性を焼き捨て、むき出しの生存本能だけを糧に暴れ狂う状態を指す。
そこに意志は存在しない。ただただ、生き延びるという本能の命ずるまま、眼前の脅威を徹底的に排除する。
この状態に達した者にとって、脳からの指令などもはや不要だった。
動くのは、脊髄。考えるより先に、打つ。感じるより前に、殺す。指令は最短で伝達され、四肢はもはや兵器として独立する。自我を失った肉体は、静かに、確実に、凶暴なる殺戮兵器と化す。
そして、陽暈がこの狂気の領域へと足を踏み入れたことで、得られる利点は二つある。
一つは、脳梁の損傷により生じていた左半身の運動失行の回復。脳ではなく脊髄が司令塔となった今、たとえ脳梁が損傷していようとも関係はないのである。
二つ目は、京鹿が持つ未来視の完全無効化。
彼の能力は、相手の脳波を読み取り、数秒先の未来を視るというもの。だが、脊髄反射には脳波が介在しないため、その未来を視ることはできないと判明している。
すなわち、ランペイジを引き起こし、動きの始点が脊髄となった今の陽暈の未来は、全てが不明瞭となったのだ。
これ以上ない対抗策が、ここに誕生。
そして、意志なき殺戮兵器は、動き出す──。




