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 なぜ未来を視ることができるはずの京鹿に、反撃を繰り出せたのか。

 それは、触式の真骨頂である脊髄反射の延長──考えるよりも先に、体に叩き込まれた合気道の型を、自分の意思とは関係なく勝手に演じていたからなのだ。

 脳からの運動指令をも必要としないその動きは、脳波を読み取る京鹿のアビリティでは、対処できなかった。ゆえに、見事に技が決まったのである。


「なぜだ……」


 京鹿が床に手をつきながらこちらを睨む。


「なるほどな。やっぱすげぇや。早乙女さんの言ってたとおりだ」


 陽暈は理解した。合気道で体に叩き込んだ型は、意識せずとも行えると。

 自転車の乗り方然り。板前の包丁さばき然り。ピアニストの指運び然り。幾千、幾万、幾億。息をするかのごとく繰り返すことで、体がその動きを覚える。

 陽暈が幼少期から習っていた合気道もまた、同じなのだ。


「来いよ。京鹿」


「実に久しい感覚。天若陽暈、失望させるなよ」


 京鹿が冷ややかに笑いを浮かべ、再び攻撃を仕掛けてきた。陽暈は意識を削ぎ落とし、脊髄反射のまま体を動かす。


 一発目の掌底が伸びてきた瞬間、陽暈の体が流れるように躱し、相手の腕を引き込み、同じく回転投げを放つ。

 二発目は京鹿の蹴りを軸に、半身で受け流し、倒れ込む直前に再び反転。

 三発目は突きの軌道を感知し、体を斜めに滑らせて受け流す。

 四発目、五発目も、全て無意識に技を返し続ける陽暈。

 一切の迷いも逡巡もなく、計算された通りの軌跡を描いて動く様は、生身の人間というより、精巧に設計されたオートマタを思わせた。


 六発目、京鹿が再び鋭く踏み込んできた。

 陽暈は従来どおり、脊髄反射で動こうとした──だが、今度は違った。


「くッ……!」


 京鹿の拳が容赦なく側頭部に命中し、息が漏れる。

 わずかに時の遅延が起きたが、脊髄反射による合気道の型を繰り出したばかりだったせいか、動きをキャンセルできなかった。

 衝撃が脳天まで響き渡り、陽暈の身体は文字通り宙を舞った。

 全身が空中で一瞬翻り、重力に引かれるように激しく畳の上に叩きつけられ、身体中に痛みが走った。

 そのまま転がり、起き上がるまでに数秒を要する。


 京鹿は冷静に言い放つ。


「合気か。悪くない動きだが、型に囚われすぎているな」


「なに……?」


 早くも攻略されてしまった陽暈の合気道の技には弱点があった。それは京鹿の指摘どおり、型に囚われすぎていること。

 かつて合気道の開祖、植芝盛平が伝えていたものは、型でも形でもなかった。技に名があるとは限らず、昨日の動きと今日のそれが違っているのは至極自然。理を語るより、瞬間に応じて姿を変える生きた技こそが、その本質だったのだ。


 時代が進むにつれ、その奔放な流れは整理され、二代目道主の手によって一定の形へと整えられていった。現在広く行われている型稽古は、その集大成であり、習得のための礎。初心者を一定の水準へと導くには、実に合理的であると言える。

 だが──だからこそ、そこには影が差す。繰り返すことで染みついた癖は、やがて意識を蝕み、型そのものが枷となる。流れの中で変化すべき動きが、いつしか固定され、自由な応用を妨げてしまうこともあるのだ。


「次の技が分かっていれば、未来が視えるのと同義」


 犬の仮面の奥に見える青い目が細まる。


 一時は勝利の糸口を見つけたかと思ったが、振り出しに戻ってしまった。といっても、そもそも合気道の型には殺傷能力がないため、決め手に欠けるというのも本音。

 どのみち、新たな打開策を見出だすことを強いられていただろう。


「そりゃそんな簡単に倒せる相手じゃないよな」


 呟きながら、陽暈は立ち上がった。

 そう。未来を視る能力という反則級の力を持つ相手と命を獲り合っているのだ。当然、易々と勝利できるはずはない。


「絶対負けねぇ」


 強い意志を示し、再び息を整え、集中する。


 直後、時の遅延が発生。数メートル先にいたはずの京鹿が眼前に迫っており、彼の足の甲が横腹に触れていた。

 脊髄反射で回避──そのまま流れに身を任せれば、合気の型を読まれ、反撃を食らうと考えた陽暈は、必死に動きを抑制し、回避に徹した。


 京鹿の恐ろしいほどの速度には目が慣れつつあったが、やはり避けることが精一杯。反撃を繰り出したところで脳波を読まれ、しっぺ返しを食らうに違いない。


 身を捻り、応酬を躱しながらも、陽暈は必死に思考を巡らせていた。

 なにか打開策はないか。この状況を翻す、策は。このままではジリ貧。いま、いくら触式で回避できていても、いずれ破られる。

 焦る陽暈に反し、京鹿の息は乱れておらず、攻撃の手数も増える一方。

 そうして焦燥感に駆られる陽暈の体が、軋み始める。


「いっ……!」


 尋芽と京鹿、二人の強敵に負わされたダメージが、蓄積され過ぎていた。

 もはやどの骨が折れているのかも、どの内臓が損傷しているのかも、数えきれないほどの傷が、ここにきて悲鳴を上げ始めたのだ。


「もう限界か」


 陽暈の引きつった表情を見て、京鹿が察したらしく、煽りながら拳を振るわれる。体が鈍り、京鹿の拳が目と鼻の先まで迫ったそのとき──。


「っ……!?」


 時の遅延が起きた。しかし京鹿の拳はまだ触れていない。

 陽暈の皮膚が捉えたのは、背に迫る危機だった。


 反射的に身を半回転させる──直後、目の前に迫っていた京鹿の顔面に、棒状の何かが衝突し、彼を後方へ吹き飛ばした。同時に、犬の仮面が砕け散り、その破片が宙に飛散。

 陽暈の後方から飛んできた物体は、反動で空中をグルグルと回転し、やがて畳に突き刺さった。


 なにが起きたのか分からなかった陽暈の目が捉えたのは、見覚えのある時代遅れな武器。いや、捕具。


「十手……!?」


 背後で靴音がした。振り返った陽暈の視界に、一人の男の影がゆっくりと歩み寄ってくる。


「いやぁ~、これぞ不意打ちというやつですなぁ~」


「零士さん……!」


 九頭零士、見参──。


「陽暈くん。待たせたね」


「助かったっす……」


 すぐ傍まで歩み寄ってきた零士が、そっと陽暈の肩に手を置いた。その掌から伝わる体温に、胸の奥がじんと熱くなる。


「よく、頑張ったね」


 優しい目の零士の背後──月見台と、無数の遺体が見える。陽暈は深く頷いた。

 すると零士は、ニカッと笑う、


「あともうひと踏ん張り、行こうか!」


「うっす!」


 零士は畳に突き刺さった十手を抜き取り、ゆっくりと立ち上がる京鹿へと視線を向ける。


「御門~。やっぱり生物限定かつ、距離の制限があるんだね?」


「零士……」


 額から血を流しながらも、京鹿は苦悶に満ちた顔で呟いた。


 陽暈は昂揚していた。

 これまでの苦闘が嘘のように、京鹿の額を割った一撃──それがたとえ零士の手によるものだったとしても、あの男に血を流させた事実に、胸が高鳴った。


「生物限定……?」


 ふと疑問が浮かび、陽暈は隣の零士に問いかける。


「あぁ。彼の未来視の定義、話したよね」


「相手の脳波を読むってやつ?」


「そうそう。きみがいまも生きてるってことは、触式は通用してるんだよね。だとすれば脳波を読んでることはほぼ確。ならあとは、どの距離まで読めるのか。そして、物質の未来は視えるのか。ぶっちゃけ、後者は脳波もクソもないから確認する必要はないけど、前者は超重要」


「距離……なるほど」


「遠くから俺が投げた十手を避けられなかったってことは、脳波が読み取れる距離に限界がある。そして物質の動く未来は当然、視えないってことが分かった。こんなもん、もう消化ゲーっしょ!」


 零士の分析は簡潔で的確だった。

 陽暈は自身の未熟を思い知る。復讐の念だけで動いていた自分とは異なり、零士の冷静な判断力が光って見えた。


「鬼咫もやられたのか……」


 ふらつく足取りで立つ京鹿が、どこか悲しげな声音で漏らす。


「鬼咫? 誰のことか知らないけど、きみの部下はみんな、倒したよ」


「みな、死んだのか」


「さぁ? 少なくともワイラーとレイニーちゃんは生きてるかな」


「そうか……」


 短い言葉の中に、京鹿の疲弊と諦念が滲んでいた。


「ねぇ御門。もうやめないかい? レイニーちゃんもワイラーも、この戦いを望んでいなかったよ」


「…………二人は、なにか言ったのか」


「言ってたよ。きみのことを救ってってね。ちなみに二人とも」


 零士の言葉に、陽暈の胸がざわついた。

 尋芽も同じことを口にしていた。京鹿を、救ってほしいと。


 これほどまでに凶悪な男に、なぜそこまでの忠誠と情が注がれるのか。なぜ、そんな部下が何人もいるのか。

 陽暈が知る京鹿は、ほんの一面に過ぎないのかもしれない。

 その考えがよぎった瞬間、自分の執念に疑念が差した。しかしすぐに振り払う。

 あれだけ憎んできたのだ。たとえ部下に慕われていようが、罪は罪。裁くべきは裁かねばならない。自分の手で。


「救う……か。ふんっ。私も舐められたものだな」


「強がるのはもうやめなよ御門」


「零士。もう私とお前は、歩んできた道も、これから歩む道も、全く違う。互いに正しいと思う道を進む以外にないのだよ。もう、時は巻き戻せないのだから」


「俺は正しに来たんだよ。その道ってやつをさ」


「言っただろう。時は戻せないと……」


 まるで、自らに言い聞かせるような声だった。

 京鹿は静かに腰を落とし、身構える。その瞳に迷いはない。

 一つの決意を抱いている男の顔だった。


「陽暈くん。行けるかい」


「当然」


 二人は、ほぼ同時に構えた。

 これまでにないほど、静かで、確かな気迫が場を包み込む。

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