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 秋の夜は、安らぎそのもののように穏やかだった。耳を澄ませば、虫の声が遠くから細く細く響き、静寂を慈しむように時を刻んでいる。

 そんな幻想を切り裂いたのは、天若(てんじゃく)波留(はる)のひときわ鋭い金切り声だった。


幻陽(げんや)だけは殺さないで……! たった一人の息子なの!」


 額から頬を伝い、首筋へと流れ落ちる赤黒い液体は、もはや血というよりも、生の残滓に近かった。痛みはとうに意識の底へ沈み、彼女の思考を支配していたのはただ一つ──懇願。

 土足で踏み荒らされた我が家の床に膝をつき、その足元に縋りつきながら、波留は命乞いという名の祈りを捧げた。


「うっせえなぁ。そんなこと言われてもボスの指示なんだから仕方ねえだろうが」


 冷たく跳ね返すその声には、人としての感情の揺らぎすらなかった。男の顔は黒い犬の仮面で覆われており、その内側を覗く術はない。ライオンのたてがみのように逆立った金髪が、印象的だった。


「ファウンド様! 見つけやした!」


 続いて現れたのは、坊主頭に無数のピアスを光らせた異様な風体の男だった。彼もまた犬の仮面をつけており、表情こそ見えないが、目元の細まり方からして、愉悦に浸っていることは明らかだった。

 彼が荒々しく腕を引いて連れてきたのは、スウェット姿の若い男──幻陽だった。


「母さん!」


「幻陽……!」


 その顔は赤く腫れ上がり、内出血と傷が無惨に混在していた。

 波留が咄嗟に身を起こし、幻陽へと駆け寄ろうとした次の瞬間、背後から首を掴まれ、床へと打ち倒された。顎を激しく打ちつける音が、空間の静けさを歪ませる。


「よし、殺れ」


 冷酷な命令が、波留の頭上から言い渡された。


 その言葉に応じ、もう一匹の犬が黒いコートの内側から一筋の銀に輝く刃を取り出した。躊躇いなど一片もなく、それを青年の喉元にあてがい──無慈悲に横へと滑らせた。


「う゛ぐっ……」


 幻陽の身体は、操り糸を断たれた人形のように膝をつき、やがてゴボゴボと水に溺れるような音を立てながら仰向けに崩れ落ちた。痙攣する指先、震える喉、もがくような一瞬の生命の名残──そして、ふっと音が止まり、世界が沈黙を取り戻した。


「幻陽……どうして…………」


 波留の中で、何かが完全に断ち切れた。精神の糸が擦り切れ、心の支柱が崩れ落ちる音が、内側で確かに響いた。もう何も望まない。何も求めない。我が子を救えなかった自分には、生きる意味など残っていない──そう考えるには、あまりにも自然な絶望だった。


「なんだ、すっかり大人しくなっちまったな」


 ファウンドとやらに、乱雑に後ろ髪を掴まれ、波留の頭が無理やり持ち上げられる。その先で、仮面の男が嘲るように顔を覗き込んでいた。


「よし、なかなか面もいいし、ちょいと楽しませてもらうとすっか」


 仮面越しでも伝わるその視線は、もはや理性という枷を捨てた獣のそれだった。唾を垂らすような卑しさが、波留の皮膚を突き刺す。

 野良犬だ──いや、それ以下だ。理性を持たぬ分、本物の犬のほうがまだ上等かもしれない。


 何がこれから始まるのか、想像するのに時間は要らなかった。それでも波留の身体は抗うことをしなかった。否、抗えなかった。

 頭は真っ白になり、幻陽の絶命の瞬間が脳内で繰り返し再生されている。それ以外を考える余地など、残されていなかった。


「終わったら俺もいいっすか?」


 友人にタバコを一本ねだるような軽さで、坊主頭の男がファウンドに声をかける。ついさきほど、一人の命を奪ったばかりとは到底思えぬ無感覚ぶりだった。


「あぁいいぜ。俺がすっきりした後なら好きにすりゃいい」


「あざっす! じゃ、俺もうちょい部屋調べときやす!」


「いやいい。今回ボスから指示されてるのは殺しだけだ。盗みはしなくていい」


「そっすか? 了解っす! コーヒーでも入れときやす!」


 場違いなほどの軽快さで足を弾ませ、坊主頭はキッチンへと姿を消した。

 死が日常となった人間の目は、ああも鈍く曇っているのか。殺すことが行為ではなく、ただの作業となってしまっているのだろう。


 そして、波留の衣服が裂ける音が空間を切り裂いた。布が破れる乾いた音とともに、下着と白い肌が晒される。冷えた空気が全身を這い、体毛が逆立つ。


「おっほぉ、やっぱ綺麗な体してんじゃん」


 仮面の奥から漏れ出た下劣な声は、心の奥を汚泥で染め上げていく。男の節くれだった手が肌を這い、波留の尊厳を押し潰す。拒むだけの体力は、まだ残っていた──だが、もはやそれを使う気力が、彼女にはなかった。


 幻陽の姿が、また浮かんだ──。

 喉から漏れた声、崩れ落ちる姿、止まった鼓動。脳裏では、ただそれだけが絶えず再生され続けていた。


 そして──。


 下腹部に、異物が突き刺さるような痛みが走った瞬間、意識は霞み、薄闇の彼方へと引きずり込まれていった。

一応最後まで書き上がっているので、あとは清書のみです。

完結まで毎日投稿できるよう頑張ります。


いいねやブクマ、☆☆☆や感想、励みになるので是非、よろしくお願いします。

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