聖女の力
シルヴィウス様が私を庇うようにして、片手をのばす。
右手は剣の柄にかけられている。
黒い靄がゆらゆらと集まり、形を成した。
それは――虚空からさかさまに吊るされた、真っ黒い不格好な人の形に見える。
吊られているのは足で、いやに長い両手がさまようように揺れる。
あるものはばたんばたんと、体を折り曲げ、ねじるように動き、あるものは左右に激しく動き回っている。
いずれも口はなく、鼻はなく、ぎょろりとした二つの双眸だけが虚ろに周囲を見渡している。
「ネクロース……」
「これだけ魔素汚染が濃いと、湧くね」
ネクロースと呼ばれる人型の魔物である。
魔物の種類も様々で、可愛い姿のものもいれば、不気味な姿のものもいる。
すべて同一の形というわけでもないけれど、ある程度の形によって分類されて命名されている。
「さがっていて、エフィ。俺に任せて」
「はい……!」
「ルヴィ様頑張ってって言って」
「ルヴィ様、頑張ってください!」
シルヴィウス様だから、ルヴィ様。
そうして略すとずいぶん可愛い響きになる。
「素直だねぇ」
シルヴィウス様は笑いながら剣を抜いた。
その剣は――禍々しい黒色である。
黒色の剣の中央には、赤い人の目のようなものがある。
その目から剣に、縦横無尽に血管のようなものが張り巡らされて、どくどくと小刻みに鼓動を刻むように動いていた。
「え……」
「あ、これ、見せてなかったよね。これはね、魔剣イグノア」
「魔剣……?」
「うん。これが、俺が聖騎士団にいた理由で、辞めることも辞めさせることもできなかった理由」
驚く私に向かって、ネクロースたちが手を伸ばす。
その黒い手は不気味に伸びて、私に襲いかかってこようとする。
ネクロースの手に捕まれると、人の体は腐りただれる。
鉄製の武器は錆び、盾や鎧は溶けてしまう。
有効なのは炎だ。
先端に油をしみこませた布を巻いた槍に炎を灯し、その体を焼き切るのが一般的な戦い方だけれど──。
シルヴィウス様は腐乱することなど何一つ恐れていないかのように、ネクロースたちの群れの中に突っ込んでいく。
魔剣イグノアが、暗く赤く輝いた。
その剣が、背丈ほどにのびたような錯覚を感じる。
赤い軌跡を残しながら、シルヴィウス様はネクロースの体を真っ二つに断ち切った。
次々と襲い来る黒い手の中を駆けて、飛び上がり、ひらりと着地する。
それだけで――全てのネクロースたちが体を真っ二つに裂かれて、虚空から地面へと落ちている。
地面の上をもぞもぞ動き、ぴくぴくと震える様は、巨大な蛭を連想させた。
「弱いね。死んで」
シルヴィウス様はご自分で言っていた通りに強い。
そして、その魔剣は――魔物の特性を打ち消してしまう効果があるみたいだ。
まるで、お野菜でも切っているかのように、ネクロースの体がよく切れる。
もちろん、剣だけではなくて。
シルヴィウス様の身軽であり、力強さもある、常人離れした身体能力もあるのだろうけれど。
「ま、待って! 今、浄化を!」
シルヴィウス様が地面をのたうち、一つ塊に集合しようとしているネクロースに剣を突き刺し始める。
耳障りな悲鳴のような声が森に響き、私は声を張り上げた。
「エフィ、こいつらは集まって再生をする。浄化をするなら、早く」
「は、はい、今すぐに!」
私は両手を胸の前であわせた。
心臓の上の皮膚が、熱くなる。
聖女の力と呼ばれる浄化の力は、女神レキサンヌ様から与えられるものと言われている。
私の体はレキサンヌ様の力の通り道となるのだ。
本当のところは一体何なのか分からないけれど、少なくとも神殿ではそう言われている。
「女神レキサンヌ様の慈悲により、悲しき魂に安らぎを。還りなさい」
何も言わなくても、力を使うことができるのだけれど。
聖なる祝詞を唱えたほうが集中力が増す気がしている。
それに、土地も魔物も、心地良く大地に還ることができるような気がする。
私の言葉と共に、どこか暗かった森に光が差し込む。
地面からは青々とした蔓がのびて、蔓からは美しい花々が咲き始める。
ネクロースたちは、草花の檻の中に閉じ込められた。
大輪の花が咲き、花弁が舞う。黒い粒子は消えていき、色とりどりの蝶が舞った。
いつも、だけれど。
こうして浄化をしているとき、私の体は本当に大地と繋がっているような感覚に襲われる。
足の裏から、皮膚から、口から、全てから、大地の生命力が私の体を通り抜けて、そして再び還っていく。
「……すごいね」
ネクロースと共に黒い粒子が消え去った後には、正常な空気が残る。
生き生きと草花がはえて、木々も一気に成長する。
成長した木々には、林檎や葡萄や、桃がなっている。普段はこれをしないように、気を付けているのだけれど。
「あぁ、ご、ごめんなさい……! ……ここには誰もいないから。気が、抜けてしまって」
「どういうこと?」
「私、力をおさえていないと、こうして無駄に草花をのばしてしまうのです。いつも、気を付けていて。気を抜くと、私が歩いた道に、花が咲いて、こうして果物がなって。調子がいいと、お野菜なんかも」
「食べられるの、これ」
「はい。ただの林檎や、桃なので、食べられます」
十歳の頃。
聖女の力が発現したばかりのときは、力を抑えるのが難しかった。
ただそこにいるだけで、私の周囲は蔓植物や、木々や草花でまみれた。
それを不気味だと言われて、ひどく叱られたのだ。
だから、力をおさえなければと、ただ浄化だけをしようと、ずっと気をつけていたのに。
「……エフィ。食料問題が解決したね」
シルヴィウス様は特に何も気にする様子もなく、林檎の木から魔剣で林檎を一つスパッと切りとると、ぱくりと口に入れた。
「うん。美味しい」
「……っ、あ、あぁ、ありがとうございます」
――不気味だと罵られた記憶が脳裏を過る。
それが、にこにこしながら林檎を齧るシルヴィウス様に重なった。
思わず涙ぐんだ私の頭を、シルヴィウス様はぐりぐり撫でた。