塩炊き屋の子は、砂糖大根の夢をみる
紙ふぶきのような雪が散っていました。
夏に矢車菊の色にかがやいていた海は、今は猫柳の芽のような銀となり、にぶい空を映しています。波は飽きもせずに行きつ戻りつ、しおさいのほかに聞こえるのは、海猫の声ばかり。
台地のふち、しずかな浜辺の、冬枯れの浜昼顔の群れの奥に、粗末な小屋がありました。海風がじかにあたる木の壁は、色が抜けて白んでいます。ほこりだらけの窓から、子どもの顔がのぞいていました。
子どもは名をトウといって、この小屋のただひとりの子です。トウはつめたいガラスに手をピットリはりつけたまま、ゴホンゴホンと咳きこみました。病気なのです。雪もようではありましたが、小屋の中は案外あたたかく、トウはしばらく窓辺で海をながめていました。
仕切り壁のない小屋は、入口ちかくが作業場になっていて、そこではトウのお母さんが大釜の中身をかきまぜています。平釜に海水を煮詰め、塩をつくっているのです。お母さんはもうもうと立ちのぼる湯気の中を泳ぐように首を伸ばしてトウの方を向き、声をかけました。
「あたたかくして寝ていなさい」
そこでトウはようやく窓ガラスから手をはなし、ひとつきりのベッドにもぐりこみました。お母さんは安心して、また大釜をのぞきこみ、へらでかきまぜます。ぐつぐつという音を聞きながら、トウは布団の中から窓の外に目をやります。横になっているので、灰色のにごった空しか見えません。時おり、雲の下を海猫が舞います。そのダンスを見ていると、トウも今すぐおもてへ出ていって、踊りだしたくなります。しかし、トウは病気なので、寝ていなければなりません。ひゅうひゅうとトウの胸の中でさみしい風が吹き荒れます。止まった時の中に取り残されたような、心細い冬でした。
ひと月ばかりがすぎました。軽かった雪はぼた雪となり、浜昼顔の枯れたつるをすっかり隠しました。海猫の群れがぬれそぼった浜にすわりこみ、ときおりせつない声で寒さをなぐさめあっています。音をたててふる雪は、塩炊きの小屋にも容赦なく積もります。トウのお母さんは、粗末な小屋がつぶれてしまわぬよう、日に何度も雪おろしをしました。
トウの具合は日に日にわるくなる一方でした。いつも熱っぽく、咳はひっきりなし。ベッドから起きあがる気力もわきません。夜はお母さんがいっしょに寝てくれますが、昼間はひとりきりです。おちつかないトウはお母さんを呼びたくなりますが、お母さんはいつもいそがしくはたらいているので、こらえるしかありません。トウは目を閉じて眠ろうとがんばります。
台地の町のお店に塩をおさめにいったお母さんが帰ってきて、冷えきった手をトウの額にあてました。トウはびっくりして目を開けました。お母さんもびっくりしました。
「起こしちゃってごめんなさい。また熱があがったみたいね」
お母さんは前掛けをまきつけると、昼ごはんの支度をはじめました。あたたかな麦がゆに、自慢の塩をぱらりとふりかけて、ベッドの中のトウに差し出します。ですがトウは、小鳥のついばむほどしか食べられません。お母さんは困りはててしまいました。わが子が心配で、お母さん自身の食もすすみません。トウはなかなか病気のよくならない自分がくやしくて、ポロリとなみだをこぼしました。口に流れこんだなみだはしょっぱくて、お母さんの炊く塩によく似た味がしました。
お母さんは意を決してトウに切り出しました。
「台地の『夢ヶ淵』にはあまい砂糖大根があって、食べるととても元気が出るんですって。お母さんが、その砂糖大根をとってきてあげるわ」
お母さんは前掛けを身につけたまま、海獣の革のコートを着こんで出かけていきました。トウはベッドに横たわり、食卓に出しっぱなしの麦がゆの椀をながめました。せめて後片付けをしたかったのですが、手も足もだるくて、ベッドから出られません。トウはもう一度だけ泣いてから寝入り、夢の世界へ吸いこまれていきました。
夢の海は夏の日ざしにてらされ、あらゆるものが命のかがやきを放っています。トウの足は熱い浜を踏み、くるくると回っては、光る砂つぶを散らします。森からやってきたワシが、もくもくと沸き立つ雲から、抜けるような青空へ悠々と滑空します。トウは着ているものをすべて脱ぎ捨て、透明な波間へ入っていきました。ぬるんだ水は、砂を含んでトウのからだを包みます。トウは沖へ沖へと泳ぎ出しました。海水が口に入ると、しょっぱくありません。ざらついた砂つぶがあまく舌に残りました。なんてすてきなのでしょう。これからは、お母さんが海の水を釜炊きすると、砂糖ができあがるのです。しょっぱいだけの塩なんかより、ずっといいや。糖蜜のような海水を口にふくんで泳ぎながら、トウはそう考えました。
戸をたたく音でトウは目をさましました。開けっぱなしの窓かけの外からななめに日がさしこんでいます。この窓から見えるのは朝日のはず。トウは飛び起きました。一晩ぐっすり寝込んで、すっかり朝になったのでした。お母さんはいません。食卓の食器もそのままです。トウのからだはすこしだけ軽くなっていました。口の中には、夢であじわった海水のあまさが残っています。
ふたたびドンドンと戸がたたかれました。トウは数週間ぶりにベッドから出て、扉をあけました。戸をたたいていたのは、台地の店のご主人でした。ご主人は、トウのお母さんをおんぶしていました。お母さんはご主人の背中で眠っていて、まるでちいさな子どものようです。
「トウ。お母さんの様子がおかしいんだ。心当たりはあるかい?」
ご主人が問うと、トウは、お母さんは砂糖大根を探しに行ったのだと話しました。
「砂糖大根? こんな真冬に?」
ご主人がけげんな顔をして、トウもふしぎに思いました。砂糖大根は、秋に実るのです。とっくに季節をすぎています。トウはかさねて説明しました。
「夢ヶ淵には砂糖大根があるって、お母さんが……」
トウが話しているうちにお母さんの目が覚めて、あたりをキョロキョロと見まわしました。
「ここはどこ?」
ご主人の背から下りるとき、何かがお母さんの胸からゴトリと落ちました。
「あら、いやだ!」
お母さんはあわててしゃがみこみ、落としたものを大事そうに抱えあげました。子どもの頭ほどの大きさの、りっぱな砂糖大根でした。
「こんなに大切なものを落としてしまうなんて」
砂糖大根を抱きしめるお母さんに、トウはおそるおそる声をかけました。
「お母さん、だいじょうぶ……?」
そこでお母さんははじめてトウを見ました。そしてふしぎそうに首をかしげてたずねます。
「あなたは、だれ?」
トウはたいへんな衝撃を受けました。心臓がぎゅっと縮みあがり、熱があるはずの頭は、さっと冷たくなりました。お母さんには、あれほど心配していたトウのことが分からないのです。トウは泣くこともわすれて、ご主人を見上げました。ご主人は困ったように言いました。
「朝方にふらふらと町を出歩くお母さんを見かけて、声をかけたんだよ。するとこのとおり、なにもかも分からない様子じゃないか。とりあえず家までつれてきたんだけど……まさか、夢ヶ淵へ足をふみ入れたとは」
「夢ヶ淵はあぶないところなの?」
不安になったトウがたずねると、ご主人はうでを組んでしばらくかんがえこみましたが、やがてひげだらけの口を重そうにひらきました。
「夢ヶ淵にはいつも霧が立ちこめていて、その霧を吸いこむと現実を忘れてしまい、夢の世界から帰ってこられなくなるといわれているんだ」
トウは悲しくなりました。お母さんはトウのことを忘れてしまったのです。
ここまでお母さんを運んできてくれたご主人にお礼を言って、トウはお母さんを小屋の中へ入れました。お母さんは作業場の塩釜を、生まれてはじめて目にしたかのようにながめていました。トウは食卓を片付けてお母さんを座らせ、火をおこして鍋に湯をわかします。お母さんはおなかがすいているようでした。トウは昨晩お母さんが作ってくれたのとおなじように麦がゆを作って、お母さんに食べさせました。
「ああ、おいしい。ほっぺたが落ちそう」
お母さんはほうっとため息をついて、ほほをおさえました。ゆっくりと麦がゆを味わうお母さんの顔はしあわせそうでしたが、トウの胸はざわつきました。麦がゆがおいしいのは、お母さんの塩のおかげなのです。ですが、お母さん自身はそのことが分かっていません。
お母さんの椀の隣には、まだ土がついたままの砂糖大根がありました。きのうお母さんは、この砂糖大根を食べると元気が出ると言っていました。もしかしたら、お母さんがもとにもどるかもしれません。トウは思い切ってお母さんにきいてみました。
「これ、食べてみようか?」
お母さんは顔をくもらせ、砂糖大根を胸に抱きました。
「だめよ、これは大切なものなの」
「どうして?」
トウがたずねると、お母さんは口ごもります。
「それは……わからない」
お母さんは、胸の砂糖大根をいっそう強く抱きしめます。
「わからないけど、すごくだいじなの」
きのうまでお母さんの胸に抱かれるのは自分だったのに。トウは砂糖大根をうらめしく思いますが、そんなことを今のお母さんに言ったところで、分かってもらえないでしょう。トウはあきらめずにお母さんを説得します。
「砂糖大根を食べたら、きっと元気が出るよ。いっしょに食べよう」
お母さんはしぶっていましたが、やがて根負けして、トウに砂糖大根をわたしました。トウは砂糖大根をきざんで鍋で煮出し、石灰をくわえてうわずみを取り出しました。そしてこはく色のうわずみを再び火にかけます。トウが長い時間をかけて糖液を煮詰めているすぐうしろで、お母さんはじっと鍋を見つめていました。ときどきトウは咳こみ、苦しくなりましたが、なんとか砂糖をこしらえました。完成したわずかな砂糖のかたまりを、トウとお母さんは分け合いました。
「おいしいね」
「うん、おいしい」
口の中に広がるやさしいあまさは、泡のようにさっと溶けて消えていきました。その後味をなごりおしく味わううちに、トウは胸の苦しさがすっかり消えているのに気が付きました。熱っぽかった頭も、今はすっきりしています。感激したトウが、病気のなおったことをお母さんに伝えようとすると、お母さんはよよと泣きくずれました。
「どうしたの、お母さん」
トウはお母さんの肩を抱きしめます。お母さんはさめざめと泣きながら話します。
「私には、病気の子どもがいるの。その子のために砂糖大根をとってきたのに、いま、こうして残さず食べきってしまったわ」
その子どもがトウなのです。しかし、お母さんは目の前のトウが自分の子どもだということは思い出せないのです。自分が子どもだとトウは話してみましたが、お母さんには伝わりません。なにせ、先ほどからお母さんと呼んでいるのに、お母さんはちっともお母さんらしくならないのです。どうしたらいいのかわからず、トウはお母さんの背中をさすってなぐさめることしかできませんでした。
夜になりました。小屋を抜け出したトウは、ぽつんと浜辺に立っていました。海からの風が雪雲をふきとばし、久々に星が見えていたのですが、長いあいだベッドですごしていたトウには、それが久しぶりだということを知りませんでした。夜空を見ることじたいが久しぶりだったのです。さえざえとした光がトウにふりそそぎます。波の音が、星のかがやくさざめきのように聞こえました。
トウは満天の星に向かって、きょう一日のできごとを語りました。星々はなんにも言葉を返さず、相変わらずちかちかとまたたいていて、そのしずかな美しさにトウの心はいくらかなぐさめられました。身を切るような風はつめたく、きよらかでした。
小屋の屋根には、雪がずっしりと積もっていました。雪おろしができなかったからです。ベッドでは、お母さんがすやすや眠っています。よほど疲れていたのでしょう。トウはお母さんといっしょに布団にもぐりこみたかったのですが、今のお母さんはトウを赤の他人だと思っているので、むりやり一緒に寝ることはできません。トウは小屋にもどり、冷え切った床に寝わらをしいて横になりました。
朝がきても、お母さんはトウのことを忘れたままでした。そして、砂糖大根がないといってはらはらとなみだを落とします。トウはお母さんをなぐさめ、小屋の屋根の雪をおろしました。
翌日になっても、お母さんはトウのことを思い出せず、泣き暮らします。トウはお母さんをなぐさめ、海水をくんで塩釜で炊きました。
そのまた明くる日、お母さんはまだ泣いています。トウは根気強くお母さんをなぐさめ、台地の町へ塩をおさめに行きました。店のご主人が心配して、トウにお母さんのようすをたずねましたが、トウはだいじょうぶだと答えました。そして店を出ると、町の人に夢ヶ淵がどこにあるのか教えてもらいました。
朝は何度でもくりかえしやってきます。来る日も来る日も、お母さんは泣いてばかり。トウの、お母さんに自分を思い出してほしいという気持ちはしだいにうすれ、かわりにお母さんを気の毒に思う気持ちがふくらんできました。かわいそうなお母さん。だれよりも愛していたはずの子どもがいると分かるのに、その子どもにはいつまでたっても会えず、知らない場所でただひとり、砂糖大根を食べつくしてしまったことを後悔し続けているのです。
ついにトウはお母さんに言いだしました。
「いっしょに夢ヶ淵に行って、砂糖大根をとってこよう」
お母さんのほほを濡らし続けたなみだがぴたりと止まりました。お母さんは目を丸くしてトウを見ます。
「いいの?」
トウがうなずくと、お母さんはにっこり笑って「ありがとう」と言いました。トウとお母さんはひしと抱き合いました。すきま風の吹きこむ小屋は寒く、お互いのぬくもりはほっと感じられました。トウは、たとえお母さんがトウを忘れてしまっても、自分はこのあたたかさを忘れずにいようと思いました。
人目をはばかり、日がとっぷりと暮れるのを待って、トウとお母さんは雪かきスコップを手に小屋を出ました。低くぶあつい雲が夜空をおおい、月も星もまったく見えませんでした。暗がりの中、ふたりは坂をのぼって台地へ上がります。家なみの窓からはだいだい色の灯がもれ、夜闇をいくらか照らします。塩をおさめ続けてきた店の前を通りすぎるときも、お母さんはうきうきとはずむような足取りで、なじみの店などまるで目に入っていない様子でした。
家々はやがて間遠くなり、畑に出ました。町のあかりを背に、ふたりは迷わず農道を進みます。夏にはこがね色の穂がゆれる大麦畑は、雪の下で種まきをじっと待っています。もしも月が出ていたら、雪あかりがきれいだったでしょう。まっくらな新雪の道をふみはずさないよう、トウとお母さんはゆっくりと歩きました。
しかし、やがて見えてきた森は、それまでの雪道が明るく感じられるほど、真の暗闇に沈んでいました。農道が、どこが終わりなのか分からないままとぎれ、低いはだか木がまばらに並んだかと思うと、ふたりはあっという間に樹氷の森ふかくにのみこまれていきました。高くつもった雪をかきわけ、スコップを握る手はかじかみ、ブーツの中の足は重く冷えきっていました。森の暗さがふたりの気をくじきます。トウもお母さんも、もうこれ以上は一歩も進めなくなったとき、とつぜん木々がすがたを消し、見晴らしのよい場所に出ました。夢ヶ淵についたのです。
重たい淀みはしずかに流れ、水音はほとんど聞こえません。淵から立ちのぼる霧は、ふしぎな光をやどしています。明るくやわらかな霧が水面をてらし、きらきらとさざなみがかがやくさまに、トウもお母さんもすっかり見入ってしまいました。霧のあまい香りには、雨のような土のにおいが混ざっていて、胸いっぱいに吸いこむと、ふたりは元気が出てきました。
まわりの雪は消え、淵のまわりの黒々とした土にはこんもりと葉がしげっていました。葉の株もとからは、白くふくらんだ根がのぞいています。トウとお母さんは、力をあわせて引き抜きました。青々とした葉の下に、まるまると太った地下茎がくっついています。
「砂糖大根だ!」
トウとお母さんが声をそろえると、砂糖大根はふたりの手の中でとろりと溶けて、こはく色の糖蜜になりました。あわい光を受けてかがやく糖蜜は、見るからにあまそうです。トウもお母さんもたまらずに、お椀にした手にたまった糖蜜をのどへ流しこみました。舌をつつむやさしいあまみは、まさに甘露でした。
ふたりが夢中になって糖蜜をなめていると、夢ヶ淵のむこうがわで人かげがゆれました。霧のおくから水面をゆっくりとやってくるのは、お母さんとおない年くらいの男のひとでした。トウはそのひとの顔を知りませんでしたが、とてもなつかしく、また、トウとよく似ています。トウはひらめきました。かれは、トウのお父さんです。
男のひとがトウのお父さんだと分かると、トウとお母さんははじかれたように走りだし、夢ヶ淵に入っていきます。淵の水はあまく、ジュースのようでした。淵のまんなかでトウとお母さん、そしてお父さんはしっかりと抱きあいました。ひとつになった家族のかげを霧のひかりがふちどり、夢ヶ淵のふかいよどみが、家族をあたたかくつつみました。白砂糖となった雪があとからあとから降りつもり、トウは夢に抱かれてそっと目を閉じました。淵の水は夏の海のようにあたたかく、トウはこのうえない幸せを手ににぎりしめたのでした。