兄はいつも笑っていた
ラジオアプリSPOON内の企画「ボイドラDICE」に投稿したボイスドラマ「少年達の革命」のサイドストーリーです。
兄が一人、弟妹が四人。狭い、壁が壁とも言えないような家で暮らしている。兄は、
俺たちとは血が繋がっていない。
でも、大事な家族だ。
変化は徐々にだった。
朧げな記憶を辿ると、俺が5歳の時。
夕食どき、いつも弟妹の話を優しく聞いている兄が、珍しく興奮した様子で言った。
「字を教えてもらえることになった」
母は驚いていたが、どこか表情は柔らかかった。
俺たちは言葉の意味がわからなかったが、兄が嬉しそうなので笑った。
それから兄の生活は少しずつ変わったように思う。
夕食どき、自分の話をポツポツとするようになった。
ある時どこからか電球を持って帰ってきて、灯りが漏れないよう家の隅に衝立を立てて、ガチャガチャと何かやるようになった。
隙間から漏れる光や音が寝るのに邪魔で、何度か衝立に石を投げたけど、それにもすぐに慣れた。
兄の変化に少し遅れて、弟達が空腹が原因で泣くことが、徐々に少なくなっていった。
あるとき、兄はいつもより無表情で帰ってきたと思ったら、大量の本を抱えていた。
その日兄は何も言わずに黙々と夕食を取り、いつもの衝立の向こうに消えた。
控えめに金属がぶつかる音はせず、代わりに紙が擦れる音が静かに響いていた。
その次の年、俺はエレメンタリースクールに入ることになった。兄は笑っていた。
仕事を手伝うと言った俺にまた笑って、「学校から帰ってきてからでいい」と頭を撫でた。
翌年も、翌年も、弟妹は学校に上がった。
最後の一人が上の兄姉達から字を習う頃、兄は14歳になっていた。
仕事が終わった夕食時、兄はいつになく神妙な面持ちで言った。
「俺も、学校に行こうと思ってる」
反対するものは誰もいなかった。
他のスラムの家庭と比べても、兄の働きぶりは常軌を逸していた。
ゴミを拾い、雑貨を作り、弟妹を一人残らず学校に行かせる。
近所ではちょっとした有名人になっていた。
誰もが兄を応援した。
兄は仕事をセーブし、作った時間は全て本に齧り付いていた。
本の内容は難解で、兄以外には理解できなかった。
聞きつけた近所の人が、少しでも足しになればと、貴重な食べ物や石鹸を分けてくれるほどだった。
猛勉強の末の半年後、兄は瞬きを一つもせずに「いってくる」とだけ言って、四度洗った一番傷のないシャツに袖を通して、家族全員に見守られながら家を出て行った。
ひと月後に届いた手紙には「不合格」とあった。
俺たちは字が読めたから、一瞬で意味を理解した。
誰も言葉を口に出せない中、兄はぽつりと「やっぱり駄目かあ」とだけ言って笑った。
「やっぱり」ってなんだよ。俺は兄に殴りかかりたい気持ちだったけど、体は硬直したままピクリとも動かなかった。
俺たちを優先したから。
学校に行く、という贅沢を俺たちばかり享受して、兄の将来を奪ってしまった。
俺はその日布団の中でこっそりと泣いた。
兄はその日も、衝立の向こうで、静かに本を捲っていた。
さらに半月後、近所の気のいいおっちゃんが、慌てて家に飛び込んできた。
一通の手紙を握りしめて。
「こ、これ、カレッジの紋章だろう!?ここの長男のだと思って、郵便屋から引ったくってきたんだ、宛名は合ってるか!?」
確かに、封筒には兄の名前があった。
慌てて兄を家に呼び戻し、兄は家族や近所の人々が見守る中手紙を開封した。
「合格を辞退した者がいたため、繰り上がり合格」
俺たちは字が読めたから、すぐに意味を理解して歓声を上げる。
近所の人たちは俺たちを見て歓声を上げた。
ひとしきり歓声を上げて兄を見ると、兄は目元を手で覆って俯いていた。
いつも笑っていた兄が、初めて見せた涙だった。




