*第一章*
湿気が憎い。
先日、早くも梅雨入りしたと気象庁から発表されたが、そのわりには雨の日が少なく、その分を補うかのように降るときにはバケツの水をひっくり返したような豪雨に見舞われ、それが過ぎ去った後は殺人的な暑さが身を蝕む。それでも欧州のように湿気が少なければまだ過ごしやすいだろうに、こうも蒸し蒸ししては身体も気分も調子が優れない。特に《マイナー》は獲物の探索や追跡で走り回ることが多いので、ほんと勘弁してほしい。
いまも、次から次へと溢れる汗でべたつく服に辟易しつつ、侵入した《ディヴィジョン》を仕留めるべく、神橋早梛は駆けずり回っていた。
その美貌とは不釣り合いな地味な半袖シャツとハーフパンツからは、華奢な手足が飛び出している。六月にしてはやや涼しい恰好かもしれないが、最近の気象を鑑みれば過ごしやすいといえる姿だろう。頭の高い位置で一括りにした青みがかった黒髪が、直射日光を受けてじりじりと焦げていく。
気温と湿度が高いというのは、それだけで普段は温和な早梛でさえも苛つかせていた。外に出たくないというのに敵は否応なしにやってきて、新米の彼女は討伐に駆り出される。刀だけでは複数種の《ディヴィジョン》に対処できないということで拳銃だのなんだの装備が重く、さらに体力を減らしていく。加えて、先ほどからのコレは……さすがの彼女も、ちょっとキレかかっていた。
『あー、その道まっすぐ、で、ちょっと左にクイっといったところでへにょっとなってるから、そこ入って』
「クイ、とか、へにょ、とか言われても、わかりません!」
『だって~、地図上はそうなってんだも~ん』
とりあえず左側に曲がるも、すぐ突き当りだ。
『ああ、わりい。右だった』
「ちょ……ちゃんと位置把握してます? 適当言ってないでしょうね」
イヤホン型の通信機越しに文句をつける。今回の任務の担当通信士、たしか遠藤という名前だったが、この男、先ほどからずっとこの調子だ。
『ダイジョブダイジョブ、大まかの位置は掴んでるって……っと、動いたぞ、急ぎな』
「急いでほしかったらあなたが真面目にやってください」
言い争いをしていると、
『エリア57にて敵影捕捉。一体、推定クラスⅣ』
別の通信士の事務的な声が聞こえた。しかしそれは早梛の耳元から発せられたものではなく、周囲の電柱に設置されたスピーカーからだ。
「ほら、常務部の人はちゃんと仕事してますよ」
『オレだって真面目にやってるよー』
「はあ……」
周囲をうろつく民間の《マイナー》達が一斉に動きだすのを見て、早梛もそれに倣う。
本来、壁内に侵入した《ディヴィジョン》の駆除は《マイナー》の仕事なのだが、今回侵入した個体は動きが早くて対応が遅れているということで、末端の早梛が派遣された。
《機関》のエージェントが行う討伐任務では、都市内部の至るところに設置された監視カメラの映像を元に通信士が現場に指示を出す。ここ最近は早梛の相棒が担当してくれていたが、彼は今日別件で不在だ。急遽宛がわれたのが遠藤だったが、これがなかなか相性が悪い。いや、そもそもこの男には、先ほどから仕事に対する誠意が感じられない。
それでも不満を押し込め、うだるような暑さの中再び走りだす。
『目標、エリア56に移動っと』
「は? 隔離壁は?」
『知らね。常務部の連中の仕事だしな』
「ちょ……すぐ確認してください!」
ちょうどいまエリア57に着いたところだった。踵を返し、56へ向かう。走りながら端末を開く。討伐用のアプリを起動して位置情報を確認する。と、案の定、隔離壁は起動していない。目標の位置を知らせる光点も見当たらない。
「隔離壁、動いてません! いまからでもすぐに、」
『あ、それな』
息切れしながら報告した早梛に、
『なんか今回のさ、空飛ぶ奴なんだって。無効だから動かしてなかったって、常務部が』
「はあああああああ⁉」
遠藤の呑気な声が告げる。思わず立ち止まってしまった。
「そういうことは……そういう大事なことは、早く言ってください‼」
『わあっ、あ、ああ~、オレのハイスコアが……ったく、急に怒鳴るなよな』
「……」
任務中にゲームをしていた遠藤に、もはや怒る気力も湧かなかった。
無言で走りだす。こんなにも体力と時間を消耗してしまった。見つけた後、駆除するまでが任務だというのに。
『目標、エリア56、中央交差点より南側、やや入り組んだ路地にて停止中』
常務部のアナウンスが響く。
ちょうど、中央交差点より道一本隔てた場所に早梛はいた。目の前には三本の道が伸びている。目を伏せ、気配を探る。
『あ~、多分、いや、間違いなく右、右だな』
遠藤の言を無視し、中央の路地に飛び込んだ。
果たして、いた。
一方で、予期せぬ光景に、思わず早梛の足が止まる。
薄さと細さを持った弱々しいものが、仰け反るようにして早梛を見ていた。たおやかな肢が、助けを乞うようにはたはたと動く。しかし、見ている間にあっけなく手折られ、無に帰していく。実際はそれほど細くも弱々しくもない人間大の生き物だろうが、ソレと比べると、小さく儚げに見えて仕方ない。
華奢な翅を前肢で押さえつけ、細い身を啄むソレは体長約3メートルの身体を純白の羽毛で覆っている。鋭い瞳は早梛を見据えているが、食事の手、否、嘴を止める気配はない。
鳩が紋白蝶を食べている。自然界ではよく見られる光景を、人間よりも大きな《ディヴィジョン》が再現する様は、悍ましくあり、恐ろしくもあり、静謐な美しさをも感じさせる。
我に返った早梛は、特殊弾の入った拳銃を抜き放ち、鳩型の《ディヴィジョン》目がけて発射した。瞬間、《ディヴィジョン》は飛び上がって回避するも、驚いたのか咥えていた小さい方の《ディヴィジョン》を放してしまう。
クワケオオオォォォオオアアアァァァアア
食事を邪魔されたことに憤っているのか。凡そ、鳩とは似ても似つかない声を上げて上空でホバリングする。早梛は小さい方に駆け寄った。本来は紋白蝶と同じ形をしていたのならば、既に身体が半分以上無い状態だ。手を下すまでもない。
再度、奇声が上空から降ってくる。とっさに、地を転がって脇に避けた。獲物を横取りされると思ったのだろうか、急降下した《ディヴィジョン》を紙一重で躱す。敵は早梛からおよそ数メートルの位置で停止し、威嚇するように嘴を大きく開いた。
背中を悪寒が駆け抜ける。早梛は年頃の娘としては小柄な方だ。自分の倍以上もある《ディヴィジョン》が鋭い鉤爪と嘴で襲いかかってきたら、第二の紋白蝶になることは容易に想像できる。《ディヴィジョン》には共喰いの性質があるとはいえ、食べるものが同族だけとは限らない。生きたままむしゃむしゃされるのはごめんだ。
《ディヴィジョン》が再度向かってくる。今度は避けなかった。ぎりぎりまで引きつけ、発砲。速度抑制の効果のある銃弾がまっすぐに突進する。
ピュイイイイイィィィィィィ
鳩ではなく鳶だ。鋭い鳴き声とともに、口内から何かが発射される。直進した銃弾にそれが掛かると、推進力をなくしてぼとりと落ちた。確認する暇はなく、鋭利な爪を間一髪で躱して横道に身を隠す。幅が狭い道に入ることができず、《ディヴィジョン》は壁に激突して怒った鳴き声を上げた。早梛を捉えようと、嘴を連続で突き入れる。
身を低くして回避しながら、先ほどの銃弾を確認する。地に落ちて、細い煙を上げながらプスプスと音を立てて崩れていく。
「あの……弾が、溶けてるんですけど」
『んー』
遠藤が間延びした声を上げた。
『……もしかして、六型か、それ』
「見ても判りませんて、そんな」
間近で砲声。奇声を発しながら早梛を突っつこうと、無理やり顔を押し込もうとする《ディヴィジョン》が、不意に大きくよろめき、視界から消えた。隘路から身を乗り出すと、路地の入口から民間の《マイナー》が何人か一斉に発砲しているところだった。《ディヴィジョン》は体勢を整えると、大きく羽を広げて上空へ逃げる。
『やっほー、わたくしですよ☆』
通信が、軽やかな女の声に割り込まれた。
「夏来さん?」
研究部部長、夏来鈴芽。《ディヴィジョン》の専門家である彼女なら、攻略のヒントをくれるかもしれない。
『聞こえてるかしら。いま相手にしてもらってる《ディヴィジョン》、種名をそのまま“シェイプレスピジョン”っていうのだけど、二型なのよね。で、お願いなんだけど、日本で二型の素材が手に入ることは稀なの。たとえクラスⅣでもね。なので、できるだけ因子を混ぜずに確保してちょうだい! よろしくね~』
「……」
……ヒントではなく、試練が増えた。
猛スピードで突っ込んでくる、酸を吐く倍以上の大きさの《ディヴィジョン》を相手に、特殊加工を施していない武器で太刀打ちできると本当に思っているのだろうか。
「い、いやあああああああ」
叫び声に、我に返った。上空にいた《ディヴィジョン》が《マイナー》達目がけて突撃したのだ。《マイナー》達は左右に避け、或いは身を伏せ、或いは風圧で吹き飛ばされていく。路地を出て再び上空に飛び上がった《ディヴィジョン》が、身を翻し、再びこちらへ向かいくる。
《マイナー》を蹴散らした《ディヴィジョン》の狙いは食べかけの紋白蝶だ。アレを持ち去られて再び飛ばれたら、また追いかけっこのやり直しだ。とっさにそう判断した早梛は、 死にかけの蝶型《ディヴィジョン》に駆け寄り、その身体の影に入り込んだ。破れそうな翅を引っ掴む。
「ひっ」
柔い翅は瑞々しく、ふやけた皮膚のように生暖かくも冷たい。
まだ生きている。その感触が伝わってくる。
悪寒に震えながらも、《ディヴィジョン》の身体を引き摺って再び横道に飛び込んだ。
獲物を奪われると察した鳥型の《ディヴィジョン》が、怒ったように突っ込んでくる。一瞬前まで早梛がいた場所を鉤爪が引っ掻き回す。風圧に早梛の身体が浮き上がり、隘路の奥まで吹っ飛ばされた。
『おーっとっと、大丈夫か』
飽くまで他人事のような遠藤の声。もはや怒りさえ覚えない。
《ディヴィジョン》は嘴をカチカチ鳴らしながら浮き上がり、上空へと消えた。
「……諦めた、わけじゃなさそうね」
『どうだかなっと……えっ、ええええええええええ! なんであんたが』
「な、なに⁉」
直後、すぐ脇を黒いものが行き過ぎる。
「え……」
振り返ると、ボーリングの球くらいの大きさの黒玉が、地面に軽く30センチはめり込んでいた。
とっさに飛び退る。数秒前までいた場所に、再び黒玉が落下した。
ちらりと見上げる。白い尾羽と、肢。その間から、いままさに、投下されたものと全く同じ黒玉が出現したところだった。
紋白蝶を引っ掴んだまま疾走。あんなものが直撃したら頭蓋骨粉砕は免れないだろう。《ディヴィジョン》は通路に侵入できないと悟り、上からの攻撃に切り替えたのだ。
黒玉は後から後から落下し、徐々に早梛を追い詰める。隘路の出口が見えてくる。向こう側は《ディヴィジョン》が自由に飛び回れるだけの広さの路地だ。かといって、いつまでも出なければいずれ黒玉に激突してしまう。猶予はあと、僅か。
『落ち着いて。向こうの通りへ出てください』
「へ?」
遠藤ではない声が通信機から流れ出た。
『出たら向かって右に、路地の出口まで、何とか駆け抜けてください』
聞いたことのない、落ち着いた男性の声がナビゲートする。……迷っている暇はない。
意をけして、隘路から飛び出した。すぐさま右に全力疾走。上空を旋回する羽音。引っ掴んだ紋白蝶が恐怖でじたばたもがく。意外としっかりした肢が早梛の肌を引っ掻くが、構っている余裕はない。出口が近づいてくる。風を切る音はさらに近くに。
『手を放して! そのまま出口まで』
紋白蝶を払い除ける。軽くなった身を路地の出口に滑り込ませた。
瞬時に打ち捨てられた紋白蝶を咥えた《ディヴィジョン》が滑空し、その勢いのまま上を目指す。路地の出口を抜けようとした、その瞬間。
『いまだ、ユキ!』
《ディヴィジョン》が硬直した。その身体の表面で、周囲で、きらきらと光るものがある。
出口の左右から網状に張り巡らされていたのは何十本ものテグスだった。その細さに見合わない強度は技術班の努力の賜物だ。標的が上昇しながら通り抜けようとしたまさにそのとき、事前に設置されたそれらが引き絞られ、雁字搦めに拘束していた。高さといいタイミングといい最適であり、食い込んだテグスの中、まんまと誘導させられた《ディヴィジョン》はまさに加工されるのを待つ鶏肉のようにぴくりとも動けない。もっとも、早梛も直前まで、ここに罠が仕掛けられていることを知らなかったのだが。
「ぜえ、はあ、ぜえ、はあ」
全力疾走し、もう体力の尽いた早梛は、はしたないと思いつつもその場に大の字に転がった。大きく息を吸う。汗みどろの顔が燃えるように熱い。
銃声の連続。《ディヴィジョン》の顔は文字どおり焼けていた。弾切れまで撃ち尽くし、すぐさま再装填。銃声。リロード。銃声。リロード。
ただの鉛玉といえども、脳髄に数百発も受ければクラスⅣごとき、生きてはいられまい。原型を留めなくなった頭部がどろりと崩れ、熟れすぎた果実のように落ちて地面にべしゃりと広がった。同時に、力を失った胴体がテグスに凭れ掛かり、両側の滑車がぎりぎりと軋みを上げる。どうやら、これでテグスを巻き取っていたらしい。
「立てますか」
罠の仕掛け人であり、《ディヴィジョン》に銃撃を浴びせて止めを刺した人物――現夜時幸が問いかける。
「……動けない、かも」
「そうですか」
時幸はふい、と顔を背けた。
「こちらは済みましたので、しばらく休んでいてください」
「……ありがと、助かった」
「俺のすべきことをしたまでです。相棒ですから」
こちらを見もせずに言う少年に、早梛は少し、寂寥のようなものを覚えた。
早梛が《機関》に所属することになってから、もうすぐ一か月。きっかけはそもそも、時幸と出会ったことだった。既に何度か、難易度の低い任務を一緒にこなしている。
だと、いうのに。
初めて会った頃よりも、よそよそしいと思うのはなぜだろう。
かける言葉を考えあぐねているうちに、処理班の到着を告げるサイレンが初夏の風に乗せられて聞こえてきた。
*
連続する水音が無個性な音楽を奏でる。
全身の汗を熱い湯で洗い流し、日に焼けた髪をぬるま湯で濯ぎ、徐々に温度を下げ、冷たさに身体を慣らしていく。艶やかに流れ落ちる水が紫外線に晒された肌に心地好い。色白な早梛の肌は暑さに弱く、すぐに赤くなってしまう。一応任務前にケアはしたが、シャワーを浴びた後で再び整えたほうがいいだろう。
シャワー室を出ると、指定されたすぐ近くの診察室へ向かった。適切な治療を受け、部屋を出る。シャワーと冷房ですっかり身体は落ち着いていたので、次の指令が下されるまでトレーニングでもしようかと思い立ち、通路を辿っていく。しかし……。
「あれ?」
知っている場所だと思っていたが、どうやら全く違う棟にいた、ということに気がついた。
加入して日の浅い早梛は、地下深く蟻の巣のように複雑に広がる《機関》本部を未だに把握できていない。今回は任務地の関係で、いつも治療を受ける部屋とは別の場所に通されたらしい。壁の色も施設の造りも似通っていたため、それと気づかず歩き回ったせいで、すっかり迷ってしまった。
「えっと……」
襲撃されたときの対策として、《機関》の廊下には施設案内の類が一切設置されていない。さらに所属する部署によって端末にダウンロードできる地図も制限されている。診察室まで戻ろうにも、どこをどう曲がったのか憶えていない。
「まいったな……」
と、横の方から自動扉の駆動音、次いでこつこつという足音も聞こえてきた。数秒後、角を曲がって人影が現れる。
「おや」
胴の長い男性だ。年齢は四十代から五十代。髪をオールバックで纏め、控えめな色のスーツをきっちり着こなし、乱れがないところを見るに、後方支援担当の事務員だろうか。左眼の下の泣きボクロが特徴的だ。
「どうかしたの、こんな場所で」
いかにも途方に暮れている様子の早梛を見て、足を止めた。
「えっと……」
聞き覚えのあるような声に、記憶を探る。
「もしかして、迷子?」
「……はい。恥ずかしながら」
結局思い出すことができず、訊かれたことにやや頬を赤らめて答えた。
「わかりづらいもんなあ、ここ」
男性は肩を竦め、
「ついてきなさい」
と身を翻す。素直にとことこと付いて行く。
しばらく歩くと、白い壁と扉の連続する景色が、硝子張りの個室へと変わっていく。特務部の事務棟、零室のある場所の近くだと判り、ほっと安堵の息を吐く。
「ありがとうございます。ここまでくれば大丈夫です」
「そうかい」
そこで気づいた。どうして男性は、早梛が零室所属だと判ったのだろう。
尋ねようとしたとき、
「早梛さん!」
彼女を呼ぶ声が廊下を貫いて届いた。
振り向くと、時幸が駆け寄ってくる。
「心配しましたよ。診察室に迎えに行ったら『もう出た』って言われて、でも戻ってなくて……」
と、早梛の傍らにいる人物に気がつき、目を瞠った。
「山本さん⁉」
「久しぶり。大きくなったな、ユキ」
早梛をここまで案内した男性は、僅かに頬を緩ませる。
「お久しぶりです。先ほどはありがとうございました」
「いや、部外者がでしゃばってすまなかったな」
「いえ、そんなことありません! 助かりました」
ぺこりと礼をする時幸を見て、早梛も思い出した。
「さっきのアナウンスの……」
男性――山本は、にこりと微笑む。
「ありがとうございました。道案内までしてもらって」
「いや、大したことはしてないよ。それじゃあ」
後姿を見送り、時幸はちらりとこちらを見た。
「山本さんに案内してもらったんですか」
「う、うん。迷子になっちゃって……」
「そうですか。ひとまず無事でよかった。ですが……今度から、知らない場所では俺が迎えに行くまで待っていてくださいね」
少し棘のある言い方が、いささか癇に障る。
「……知ってる場所だと思ったの。それに、地図更新しとけば迎えに来てもらわなくても平気」
「そういうわけにもいきません。山本さんにご迷惑をおかけしてしまうなんて」
ふう、と溜息を吐く時幸。
「……あの人って、何者? 通信士じゃないの?」
「ええ。監察部の元部長です。引退されましたが、現部長が留守なのでここ数日手伝ってくださっていると琴羽さんから伺いました。他にも手薄の部署をサポートしてくださっているようで、ありがたいことです」
「元部長ってことは……九岡さんの前任ってこと?」
「九岡さん?」
意外な名前に、時幸は目を瞬かせた。
「いえ、違いますが……お会いしたことが?」
「うん。一週間くらい前かな、訓練場にいたら稽古してくれて。“審判”ってすごいね。まるで敵わなかった」
「九岡さんが……」
現特務部部長である九岡は役職故に多忙を極め、ここ数年は現場に出ていない。訓練場を訪れるなど、まして本領ではない“審判”で新入職員に手合わせしてくれることなどかなり稀だ。時幸以外に“審判”を使える人間は少ない上に現在は役職持ちばかりで、彼自身、どうにか時間を割いて訓練に付き合ってくれとは言いづらい状況である。
そのことへの僻みもあってか、時幸の言葉は若干ささくれ立っていた。
「そうでしたか。……九岡さんの前任者は俺の師匠です。その縁で“審判”の心得もあります。ですが、無理に付き合わせるようなことは控えてください。かなりご多忙な方ですから。他にも訓練官がいらっしゃるでしょう。何なら俺が相手します」
「え、いやだって、たまたま訓練してくれただけだもん」
「だってじゃありません。前々から思っていましたけど、最近早梛さん勝手な行動が多いです」
「何が?」
自覚がなかった様子の早梛に、時幸は怒りと呆れの入り混じった口調で言い放つ。
「例えば、今日。どうして俺の到着を待たなかったんですか」
「え……だって、時幸くん、試験だったんでしょ?」
「確かにそうでしたが……なら、無理して討伐任務に参加する必要はなかったはずです」
時幸の正職員昇格と早梛の《機関》加入が決まった日、上司である琴羽から提示された条件は「原則として二人一組で任務に当たること」だった。よって、今回のように片方が参加できない場合、もう片方には任務を断る権利がある。
「要請が来てたの。動けるのは私だけだったし一人で充分だと思った。通信班の人がサポートしてくれるって話だったし」
任務に当たるのが片方だけだった場合、可能な限り特務部の他の職員でサポートする、というのも後に追加された。よって、早梛の言い分は間違ってはいない。だが、時幸には納得できない。
「俺がいなかったら、危ういところだったじゃないですか。あげく怪我まで負って」
「……思ったより手こずったのは確かだけど、どうにか切り抜けることはできたと思う。時幸くんは私と違って高校生なんだから、学業を疎かにしちゃダメ」
早梛にとって、時幸が高校に通っている、という事実はとても大切なものだった。特に彼の事情を知ってからは、なおさら。早梛自身が高校を中退していることもあり、その分も彼には充実した学生生活を送ってほしいと思っている。
「今日のことだけじゃありません。任務のないときは待機と言われているのに、零室にいませんよね」
「零室にいても、私には書類仕事はこなせない。だったら時幸くんや琴羽さんの邪魔にならないように、トレーニングに行ってるほうがいいでしょ。任務が出されても、訓練場にいた方が出向しやすいし」
「確かにトレーニングも大事ですが、早梛さんには他に覚えなくてはならないことが山ほどあるんです。それを教えるためにも一緒に行動するべきなんです」
「そんなこと言ったって、時幸くんこそ忙しくて零室にいないじゃない。通訳とかオペレーションとか、いつも駆り出されてるし」
「だから、本来はそういった任務にも共同して当たる規則なんです」
「うるさい!」
一喝とともに時幸の身体が吹っ飛ぶ。いつの間にか二人のすぐ傍にいた女性は拳をぽんぽんと叩きながら、地に臥した少年を屑虫でも見るような目で見遣った。
「おまえらうっさいぞ、往来の真ん中で言い争いなんて何様のつもりだ。それに、何で二人とも部屋にいないんだ。おかげで捜す羽目になったぞ、暇じゃないってのに」
「こ、琴羽さん……」
彼女の言うとおり、言い争いに夢中で、声を荒らげていたことに気づかなかったらしい。行き違う人々や、硝子壁の向こうで作業していた人々から、怪訝な視線を向けられていた。
「……ごめんなさい」
殴られはしなかったものの、気圧された早梛は素直に頭を垂れる。
「いったい何があったっていうんだ」
琴羽は鼻を鳴らし、髪に挿した雨蛙が止まっている意匠の簪を軽く弄る。
「えっと」
「……別に大したことではありません」
立ち上がった時幸が、視線も合わせずに吐き捨てた。
「……そうか」
零室室長である琴羽にとっては部下同士の間に確執があるのは大したことなくはないのだが、深く追求して余計に拗れるのは避けたかったこともあり、その場は収めた。
「二人とも話がある。付いてこい」
身を翻し、部屋に向かう。
まだ言い足りないことがあるのか、ぎくしゃくした雰囲気を背後に感じながら、琴羽はそっと溜息吐いた。
(……良いコンビになると思ったんだがなぁ)
複雑な事情故、時幸は幼い頃から人間関係の構築に不器用なところはあった。普段の彼の、穏やかにしながらも周囲と距離をとりたがる性格も、目立たないように、波風立てないように気を配ってきたことに起因している。そんな様子が、嫌でも「あの人」を思い起こさせる。
早梛の存在は、良くも悪くも時幸を一変させた。いままで《機関》に付き従うことで身を守り、復讐を心の支えにしてきた時幸が、初めて《機関》に反抗するきっかけとなった人物であり、いまでは目的を共有する相手でもある。さらに、彼自身は気づいていないようだが、ただ同じ目的を持つ同志というだけではなく、より深い感情を彼女に傾けているのは確かだ。
一方で、いままで自分の心をここまで乱す個人というのが身近にいなかった分、距離が近づいたことで却ってぎごちなくなっているようでもある。思春期ということもあり、時幸自身、自分の心と折り合いをつけられていないのかもしれない。
早梛は早梛で、《機関》内での身の振り方が判らず戸惑っているようだ。遊撃班零室は特務部の他の班とは異なり、特定の業務を担当することはない。状況に応じて他の班や部署の要請を受けてアシストしたり、どの業務にも該当しない任務を引き受けたりする立ち位置だ。故にオールマイティーな資質が要求される一方で、《機関》に所属して間もない早梛にいきなり機密情報を一から十まで明かすわけにもいかない。
よって、彼女に回されている任務はいまのところ侵入した《ディヴィジョン》の討伐ばかりだ。それ以外の時間は身を持て余しているらしく、訓練場に入り浸っているらしい。今後のことも見据えてなるべく時幸と行動をともにし、いろいろ吸収しておいてもらいたいのだが、いまいち噛み合っていない。スケジュール的にも、心の距離的にも。
そんなことを考えているうちに、零室に辿り着いた。すぐ手前の席が時幸の、2メートルほど離れた場所に最近用意したのが早梛の席だ。琴羽は普段別の部屋で執務を行うことが多いため、積もった埃を払ってから着席し、本題を切りだす。
「イタリア、ミラノ区画の件について聞いているか」
顔を見合わせる二人。つい先日のことだ、無理もない。
「半壊した」
「「はああぁぁぁ⁉」」
こういうときだけ息ぴったりだな、とどうでもいいことを思う。
「驚くのはまだ早い。日本から出向しているエージェントの話では、襲撃したのはどうやら、クラスⅠらしい」
時幸は息を飲んだ。
「そんな……おかしい、そんなことは」
型とは別に五つの位階に分類される《ディヴィジョン》の中でも、創造主直属の【眷属】であるクラスⅠは別格だ。襲撃されればまず間違いなく甚大な被害をもたらす。
だからこそ、クラスⅠは世界中のネットワークで監視され、個体数、それぞれの位置情報、発生した時期、習性など、日々情報がやりとりされている。何より、一部例外はあるとはいえ、平均して10メートル近い体長を誇るクラスⅠの接近に、直前まで気がつかない、などということはありえない。
「だが事実だ。生き残りの証言も、衛星写真も、通過した場所の痕跡も、すべて過去クラスⅠに襲撃された都市のデータと一致する。何型かはまだ情報が入ってきてないが、だが、妙な話が入ってきてる」
「「?」」
その前に、と琴羽はミラノ区画の説明を始めた。
「《魔女狩り》の技師の出身地が含まれてる縁で、数年前に開発された対地対空攻撃投下砲の試験地に設定されていた」
「聞いたことがあります。《ディヴィジョン》の位置情報を人工衛星に送り、鉄塊などを撃ち出して攻撃する兵器、ですよね」
「そうだ。 “壊れた歯車”によって核兵器が封じられて以降、人類側の戦力の中で十位以内に入る強力な武器の一つだ」
《魔女狩り》とは、《ディヴィジョン》に対抗する人類の組織の一つで、イタリアを拠点に主に南欧での活動を行っている。《ディヴィジョン》由来の力を一切使わず、純粋に人類が開発した道具で討伐を目指しているのが特徴だ。《ディヴィジョン》の死骸を有効活用し、《調律の彼女》を量産し続ける日本の《機関》やドイツの《薪の塔》とは対照的ともいえる。
「数日前にも、北部の村で使われたばかりだった。当然、今回のクラスⅠ討伐にも用いられたわけだが……」
クラスⅠとはいえ、一概に人類の兵器が効かないとは言い切れない。同じ創造主から生み出されたものであっても、どうデザインされたか、形、耐久性、製造目的、どれに重きを置いているかで、当たりさえすれば、ときに対立する因子以外でも殺傷できなくはない……桁違いの火力が必要であることと人類側への被害を考慮しなければ、だが。
今回採用されたものは、人類側の持つ兵器の中では間違いなく圧倒的な威力は備えていた。大きさからクラスⅠであることは早い段階で推測されていたため、かなり殺傷力のある質量の弾頭が選択されたらしい。通常の射出要請で用いられるものを針だとすれば、それは大人でも抱えられないほどの大木の幹をそのまま兵器に転用したに等しいほどだったという。そして、攻撃も命中した。命中したのだが……。
「奴が出現したときとは反対に、ぱっと消えたらしい。前触れもなく、そして跡形もなく。それで攻撃方法なんだが、何もない空間に岩の礫を出現させる、というものらしい。礫といっても軽く5メートルはあるものが、ざっと半径500メートル圏内に一斉に現れたとのことだ。これまた突如、一瞬前にはなかったはずのものを。だが問題はそこじゃない。さっきの妙な話っていうのがな……区画内部の被害が甚大だったにもかかわらず、外周部の被害は微々たるもの、しかも区画壁には損傷さえなかったらしい」
「は……」
「その証拠に、暴れ回っているのはそのクラスⅠのみで、奴が空けた穴を通って他の《ディヴィジョン》が侵攻した形跡は一切ない。それでな、現地のエージェントが探ってくれたんだが、生き残った住人の話に興味深いものがある」
証言者はジュリオという名前で、ミラノ区画北部にある小さな村の住人だという。
数日前、奇妙な二人連れが村を訪れた。二人とも、鴉のように真っ黒な服装に身を固めた白人で、壮年の男性と十歳ほどの少女だった。小さいとはいえ中世の風景を再現したこの村は観光地であり、訪れる客は珍しくない。ただ、その二人は古城や装飾などには一切目もくれず、村中をうろうろと歩き回り、まるで小さな落とし物でも探しているようだった。
物見櫓にいたジュリオはその様子を不審げに見守っていたが、しばらくして、少女の方が道端に何かを見つけ、駆け寄ったようだった。そして数秒後……。
「……まさに少女のいた場所から、クラスⅠが出現したそうだ」
「出現⁉ 侵入ではなく?」
「ああ。空から降ってきたんでも、地を掘ってきたわけでもない。まさしく、何の前触れもなくいきなり現れた。外壁が無傷なことにも説明がつく。それを裏づけるかのように、どのクラスⅠによる襲撃なのか未だに特定ができていない。データベース上にない新種の《ディヴィジョン》である可能性が高い」
「だとすれば……」
クラスⅠを増やせる存在はただ一つ。
「村を訪れたのは、【魔女】ということですか?」
おそるおそる、早梛が尋ねた。
今日の地球を跋扈している《ディヴィジョン》はすべて、元を辿れば八人の【魔女】と呼ばれる改造人間によって生み出された。そして、どの【魔女】を太源とするかで《ディヴィジョン》の性質は異なる。
今回新たに出現したとされるクラスⅠは、おそらく「あったはずのものを消し、なかったはずものを出現させる」能力を持っている。そんな能力を与えられるのは、四年前に死亡が確認された【第二魔女】を除く七人の【魔女】のうち、唯一人。
「……最も可能性が高いのは、【第七魔女】でしょうね」
「え?」
「そう考えるのが妥当だろうな。だが、それこそありえないんだ。ん? サナ、どうかしたか」
「い、いえ。続けてください」
「そうか? ……それで、【第七魔女】が現地を訪れて新たにクラスⅠを作ることはありえない」
早梛にもわかるようにだろう、琴羽は順に説明しだす。
「第一に、【魔女】の動向はクラスⅠ以上に注目されているから。世界中に散らばるクラスⅠと違い、【魔女】はたった七人。もちろんうまく隠れてはいるが、少しでも動けば何がしか情報が上がる」
《ディヴィジョン》に乗って移動すれば衛星から撮影されるし、各国の空港や国境には最新の手配書が嫌というほど配られている。まして【第七魔女】はここ数年、潜伏先であるイギリスから出た形跡がない。
「第二に、動機がない。《魔女狩り》にとって重要な拠点の一つを破壊するのはまだわかるが、それを【魔女】直々に現地に赴いてまで起こす必要性がない。はなからクラスⅠを生み出すつもりだったら、本国で生み出して命令を与えればいい」
「クラスⅠを生み出す気はなかったけど、途中で計画が狂って生み出さざるを得なかったんじゃないでしょうか」
「その線は薄い。目撃証言によれば、問い詰められたり追われたりしていた様子ではなかった。そう、目撃証言だ。第三に、最後に【第七魔女】が目撃されたときの人相と、ジュリオが証言した旅行客の外見が一致しない。髪の色や身長はごまかせるが、クラスⅠを生み出した後の肉体の変化はどうしようもない」
「「え?」」
時幸と早梛が同時に声を上げる。
「ジュリオは見ていたんだ。クラスⅠが出現した直後、その背に乗る旅行客の姿をな。件の少女は全く同じ姿で立っていたらしい。服装にも乱れたところは見られなかったそうだ。ジュリオは村の哨戒担当者だったからな、視力にはかなり自信があるらしい」
「つまり、肉体が若返っていなかった、と」
「何らかの方法で変わらなかったとか? 因子の性質によってはありえなくなさそうですけど」
「いや」
早梛の言に、琴羽は首を振る。そして時幸をちらりと睨んだ。「そんなことも伝えていなかったのか」と、声には出さず叱りつける。時幸は目を逸らした。
「【魔女】の肉体がクラスⅠを生み出した後小さくなるのは生命活動を維持するために必要な措置だ。任意でどうこうできるものじゃない。拠点に帰った後でごまかすことはできるかもしれないが、生み出した直後にそんな余裕があるとは思えない。仮にそうだとしても、クラスⅠが傍にいる以上、外見を偽るメリットはない」
三人とも、しばらく黙り込んだ。それぞれ考えを巡らせている。
「ですが」
時幸が静かに口を開く。
「クラスⅠを生み出せるのは【魔女】だけです。《ディヴィジョン》は細胞だけで動いているのではない。【魔女】の命令があって、初めてこの世界に存在していられるんですから」
いくら【魔女】の肉体を切り落としても、それは《ディヴィジョン》にはならない。彼女達自身の意志が伴わなければ【眷属】は生まれない。
「やっぱ、そうなるか……」
幾つかの疑問は残るものの、やはり、それ以外に可能性はない、という結論に至ってしまう。
「まあいい。私ももう少し情報を集めておく。……いつ日本も同じ目に遭うか判らないからな」
琴羽が出て行った後の零室。他の部屋と比べて物も者も少ない空いた場所。壁に映写されているホログラム写真が、焼き付き防止のためにゆったりと動く他は動的なものの一片もない。
「……あのさ」
早梛がおずおずと口を開いた。
「なんでしょうか」
時幸の声は平らだ。その声音から感情を読み取ることはできないが、機嫌がよくはないだろう。言い争いは琴羽の乱暴な介入で中断されたが、その琴羽に、早梛の知識不足を責められるような言動をとられたのだから。それは純粋に早梛が悪いと思っている。だからこそ、疑問に思うことを早めに訊いておきたい。
「あの……七型って、三型と対になる性質だよね。でも、さっきの話だと“変化”の対になるとは思えないんだけど……」
「ああ。そういえば説明していませんでしたね」
「ごめん」
「いえ。その二つについてはややこしくて、俺も説明を後回しにしていましたから」
椅子を回し、早梛に向き直る。
「……まず、簡潔にいうと、三型は“創造”と“変化”の二つの面を持っています」
「それ疑問だった。物や人を変化させる《ディヴィジョン》も、もともと見たことない形だったり、そういったものを何もないところから生み出せたりする《ディヴィジョン》も、なんでかどっちも三型として扱われるし。対策も同じなんだよね」
「はい。それらはどちらも【第三魔女】を祖とする個体です。ですが、厳密に言うと三型因子の性質は一つ、すなわち“改変”です」
「つまり、変える能力がメインってこと?」
「はい。ですが、変えるのは何も物質……マテリアルだけではありません。単純に自己、或いは他者の全貌、ないし一部の形質を作り変える“変化”の他に、“改竄”の能力を持ってもいます」
早梛は黙って耳を傾ける。
「いままで存在しない形や能力を持った、全く新しい生物や物質をゼロから生み出す……無から有を、それも未存のものを創り出す、それを複製する。この世界を支配する物理法則に干渉し、書き換える能力です」
「そんな力が……」
日本を襲う最も多い《ディヴィジョン》は三型だ。早梛もまた、三型の《ディヴィジョン》を数多く屠ってきた。そんな、ある意味慣れ親しんだ相手に、まさかそのような力があったとは。
察したのか、時幸が安心させるようにくすっと笑う。さりげない動作だったが、妙に艶っぽい。
「改変したからといって、必ずしも性能が上がるとは限りません。むしろ既存の生物をベースにした場合だと特に、いままでの身体との差異を起こして自滅してしまうことも多いんですよ」
「あ、そっか。そういえばいたね、そんなのが」
いままで相手取ってきた中にも、どうしてこんな効率の悪い戦い方をしているんだろう、と思った《ディヴィジョン》がいたことを思い返す。
「まあそんなこんなで、三型は実に多種多様に分かれますが、根底は一緒です。形、機能、質量、枠組み……何かを“変える”能力。それに対して、七型の性質は“保存”です」
これまでの話に付いてこれていることを確認するように、一度言葉を切る。早梛は頷いた。
「対象となる生物・物品の変化を禁ずる“不変”。一定空間内の位置関係や数量、物理法則を操作できなくする“固定”。そして物をとっておく“転移”。これはそのものつまり、瞬間移動です。目の前にあるものをそのままの状態で別の場所に移したり、逆に、いつでもどこでも出現させたりできる」
「あっ」
思い至る。
「さっきの話、イタリアに出たっていう《ディヴィジョン》は、つまり“転移”に特化した《ディヴィジョン》ってことなんだ」
「そのとおり。これも、『変えられないように、手出しできないところへ引っ込めてしまう』と考えれば“改変”に対立しているともいえます。あったものを消滅させた、というのも、虚数空間……『この世界のどこでもない場所』へ追放する“転移”の応用です」
「なるほど。うん、わかった」
つまりは「消えたように見せかけている」ということなのだろう。そしてどこに移そうが、二度と戻ってこなければそれは事実上消滅と変わらない。
「また、三型は個々の物質や生物を対象にしています。それに対して、七型はどちらかというと一定の範囲そのものに干渉します。人海戦術と絨毯爆撃、故に七型の方が数は少ないですが、均衡は保たれているんです」
「へえ。おもしろいね、二種類とも複雑なようでいて、本質はどっちも一つだけ。なのに、これだけ発展して応用性もあるのに、末端には一つずつの能力しかない」
「ですね。《ディヴィジョン》はそもそも効率が悪い。だからこそ、【魔女】はクラスⅠを増やすよりも娘を産むことに重点を置く……らしいです」
「ん」
早梛にも無関係ではない話である。
彼女の家族、親族は皆、人間ではない者に惨殺された。確証はないものの、犯人はどうやら【第五魔女】の娘であるらしい。ただ、娘は母親である【魔女】とは別の意志で動いているらしく、背後の勢力の特定も、彼女自身の詳しい情報も一切判明していない。早梛とて《機関》に所属したからといって易々と情報が手に入ると思ってはいなかったが、それにしても何の音沙汰もなく、歯痒く思っていた。
「ただ、《機関》ではいまのところ、【魔女】の娘がクラスⅠよりも純度の高い【魔女細胞】を保有していることは把握できてはいますが、それ以外の能力についてはまるで情報が揃っていないんです。既に出産した記録のある、或いは娘らしき人物を連れているところを目撃された【魔女】はいるにはいるんですが、殆どがヨーロッパでのことですから」
早梛の頭に疑問が浮かび、問いかけようとする。しかし、ノックの音がそれを阻んだ。
「ユキ、仕事」
時幸達とそう年齢の変わらない少年が半身だけ部屋に踏み入った。たしか一室のメンバーだったはずだ。一室は要人との対談や国家間の取引を請け負う部門だ。ということは、時幸に同伴を頼みたい仕事というのも大体予想がつく。
「通訳ですか?」
「シンガポールのお偉いさんだってさ。できるか?」
「はい。英語でも中国語でも、マレー語でも」
幼少期、母親に連れられて世界各地を旅した時幸は、数十か国語を話すことができる。吸収力の高い時期だったというのもあるだろうが、もともとそういったセンスも持ち合わせていたのだろう。ちなみに、その分日本語の習得が遅れていて、常時敬語で話すのもそれが原因らしい。
「すぐ行きます」
早梛も立ち上がろうとするが、「大したことではありません。早梛さんはここで待っていて下さい」と制止された。
一人見送った早梛は、時幸が出ていった扉を黙って見つめていた。やがて、ふい、と不貞腐れたようにそっぽを向く。壁に映し出されたホログラムフォトが目に入った。
ゆったりと宙を泳ぐ写真の数々は、零室の歴史そのものだ。他の部屋にも同じようなものがあるらしい。遺影も兼ねているのだと時幸は言った。任務の特性上、殉職者が後を絶たないのだと。事実、写っている人の何人かは、否、幾人もが、既にこの世にいない。
ある一枚に写るのは、憮然とした、それでいて照れているだけのようにも見える、いまよりも少し幼い時幸と、その肩に腕を回し、勝ち誇ったように笑う男性。
現夜一期。三年前に謀殺された、彼の師匠。
彼の死の真相を暴き、仇を討つのが、時幸の目標だ。そのために、一期と同等の腕を持つエージェントになり、一期が生前何を知りえたのか、追ったのかを突き止めるのだと。故に、交渉の場において彼に失敗は許されない。金や武器、何より情報が動く政府間・組織間交渉は、《機関》内部だけでなくあらゆる要人に顔を売る格好の場なのだ。
早梛は交渉の場には連れていけない。事実、先ほどは同行を勧めながら、いざ対談の仕事が入ったら置き去りにした。多言語が話せるわけでも、高度な駆け引きができるわけでもない早梛は、交渉の場においては役に立たない。それどころか、《調律の彼女》と誤解されて不利な立場に立たされるかもしれない。表向き同盟関係にある組織との話し合いでは武装解除が原則だ。あからさまな戦闘員の同席は敵意ありとみなされてもおかしくない。事実、いまのところ早梛は戦闘員「でしかない」。
ふつふつと、腹の底から込み上げてくるものがある。怒りというほど熱くはないが、ただの蟠りで済ませられるほど軽くもない。
「……ばか」
写真の中の時幸にデコピンする。映像を虚しく擦り抜けるだけで、何の手ごたえもなかった。
戻ってきたら先ほどの疑問を訊き直そう。そう思ってメモすることで気を紛らわせようとするが、時幸は一向に戻ってこない。早梛のもやもやも消えそうにない。覚えなくてはならないがことがたくさんあると言っていたくせに、疑問が湧いたときにすぐ回答がないから学習意欲も失せるのではないか。先ほどの時幸の言葉の一つひとつを思い出す度、苛立ちは育っていく。
「はぁ……」
これではいけない。遂に早梛はただ待っているのを止めた。運動して汗を流せばすっきりするかもしれない。そう思い、いつも利用している訓練場へ向かった。
*
特務部職員の訓練施設は、零室のある棟から出て渡り廊下を行き、エスカレーターでかなり下った先にある。早梛も何度も利用しているため、一人でも迷うことはない。
道を挟むようにずらりと両隣に並んだ扉は、月六万くらいのアパートか、高校の文化部の部室棟を思い起こさせる。だが、扉を隔てた先は一部屋一部屋が随分と広い造りになっている。学校の体育館……とまでいえる部屋は少ないが(あるにはある)、剣道場や柔道場ほどの規模のものばかりだ。
《ディヴィジョン》は大概人間よりも大きいため、個人の訓練のためにはかなりのスペースを要する。実際の討伐や捕縛に使う武具や拘束具の扱いに慣れるため、同等の大きさと重さのものが用意され、壁には立体機動のためのロッククライミングが設置されている。
今日のところはひとまず素振りに適したスペースを探し、手前の部屋の戸を開けた。半分はフローリング、もう半分には畳を敷いた床、壁には幾つかの武器と防具が干されている。
フローリングの真ん中で、先客が柔軟体操を行っていた。
「こんにちは」
「いらっしゃいにゃん」
「よく来たな早之助」
特徴的な話し方をする二人が顔を上げ、こちらに挨拶した。どちらとも、この一か月間訓練場に通ううちに知り合った仲だ。
語尾が特徴的なのは特務部訓練班九室室長、沢村イオナ。この部屋も含めた訓練施設の主であり、《機関》新加入者の選定、試験を受け持つ教官でもある。可愛らしい口調と、釣り上がったようなアーモンド形の眼がチャームポイントだ。ウェーブのかかった髪の上から、猫の耳を模したニット帽を被っている。
時代がかった話し方をする女性は、皆瀬氷織。現代風の服装をしてはいるが、長くまっすぐな黒髪を結い上げ、しゃんと立つ佇まいはどこか若武者を思わせる。四室室長であり、沢村の最初の弟子の一人だ。特務部の室長の中では最年少らしく、優秀である以外にも理由がありそうだが、まだ聞いたことはない。
訓練場にちょくちょく顔を出す早梛を、沢村は面倒見の良さで、皆瀬はポニーテール仲間ということで、気に入ってくれてあれこれ世話を焼いてくれている。
「こんにちは。少し端っこ借りていいですか」
「どうぞにゃん」
快諾を受け、壁に備え付けられた刀掛けから竹刀を一本拝借すると、部屋の隅で素振りを始める。
「ぶれておるな」
と、皆瀬が中断して、早梛の横にやってきた。言葉を受けて軸を直すが、一向に去ろうとしない。
「ぶれておるのは太刀筋ではない。ぬしの心じゃ。心に揺らぎがあるから武器にも伝わっておるのじゃ」
早梛は手を止めた。確かに、集中できていない。
「早之助、何かあったのか」
「いえ……大したことじゃないんです」
「ユキにゃんと喧嘩でもしたのかにゃ」
沢村も心配そうに近づいてきた。
「喧嘩ってわけじゃないですけど……ちょっとタイミングが合ってないっていうか……」
「なんでも言ってほしいにゃ。新入職員は皆あたしの後輩だにゃん」
「未だ羽の生え揃わぬ雛鳥のごとき自らの相方を放っておくとは、幸の字最低だな」
「いえ、ほっとかれたっていうか……訊きたいことはあるのに、彼の邪魔をしちゃいけないって思うと訊けなくて、仕事にもついていけなくて……ほんとは、零室で待たないといけないんですけど、どうも、もやもやしちゃって……」
竹刀の先が自ずと下がる。
「しょんないにゃん。サにゃん入ったばかりにゃん。できなくてあたりまえにゃん」
沢村がよしよしと慰める。
「それに、若い子がいた方があたしらも捗るにゃん」
明るく言われるも、早梛の顔は浮かない。
「よしっ」
と、何を思ったのか、沢村がびし、と背を伸ばす。
「サにゃん、素振りじゃなくて、あたしとやるにゃん!」
「え⁉」
思わず顔を上げた。
背が高い……だけではない。六つに割れた腹筋、引き締まった上腕二頭筋、しなやかさと逞しさを併せ持つ太腿直筋。それこそ猫のようにスマートでありながら、鍛え抜かれた身体がぴったりとしたタンクトップやハーフパンツから覗いている。
気さくな性格とおどけたような言動でつい忘れそうになるが、九室室長沢村イオナ、今年で四十三歳。《機関》創設初期からのメンバーの一人であり……なおかつ生き残っている人物でもある。
彼女の実力は何度も目の当たりにしてきたし、手合わせしてもらったこともある。まるで敵わなかった。人を相手にしている感触でさえなかった。格闘技では岩を押しているように力及ばず、滝に腕押しするように攻撃を防がれ、猛獣にじゃれつかれるような(これは沢村のノリも含めて)勢いで組み敷かれた。
「ぶつかり合えば心も晴れるにゃん。胸を貸すにゃん」
どん、と自らの胸板を力強く叩く沢村。
「え、え、でも……」
何の心構えもなかった早梛は、戸惑う……というよりむしろ、助けを乞うように皆瀬を見た。
「恐縮ながら、ここは拙が」
眼差しの意を組んで、彼女なりの助け舟を出す。
「以前より試合を、と望んでおった。お受けいただけるだろうか」
「え……あ、はい。よろしくお願いします」
少し迷うが、二択ならばどちらか選ばなくてはなるまい。皆瀬の方が楽、というわけではないが、早梛自身いずれは彼女とも戦ってみたいと思っていたところだった。
「ふられたにゃん」
「イオナ殿はいつも若人を独り占めしなさる。たまにはお譲りいただきたい」
「みゃー」
畳の上で、距離をとって相対する。早梛は竹刀を構えているが、皆瀬は徒手空拳だ。
「……いきます」
先に仕掛けたのは早梛の方だった。竹刀を突き出すように持ち、まっすぐ突っ込む……と見せかけて、皆瀬の手前で身を沈めると右手に回り、膝を狙う。皆瀬は背後というより垂直に跳んだ。同時に早梛の背中に二打撃。一発目は平手、二撃目は殴りつけると見せかけて、上着を掴み、引き倒す。早梛は身を捻りながら受け身をとる。皆瀬が手を離した隙に素早く身を起こすと、間髪入れずに顎目がけて竹刀を振り上げた。
バシリ、と空気を打つ音が訓練場に響き渡る。
「ちなみに」
腕で竹刀を受けつつ、ふと思い出したように呟いた。
「幸の字に訊きたいこととは何なのだ? 拙やイオナ殿ではお役に立てんかな?」
「え……」
まさかこのタイミングで言うか普通?
「随分余裕なんですね」
「いや。……少し、昔会った者の真似事をしたくなってな」
「そうですか……」
竹刀で弾くようにして、一旦距離をとった。
「それじゃあ……」
零室で書いたメモを思い出しつつ、この二人でも答えてもらえそうな質問を考える。
「ヨーロッパの情報が、日本に入ってきにくいって聞いたんですけど、どうしてですか?」
「ふむ、それはだな」
「派閥が違うからだにゃん」
傍から見ていた沢村が口を挿む。
「……そうだ。ドイツの《薪の塔》、イタリアの《魔女狩り》、いずれも【魔女】の脅威を排除したいという志は《機関》と同じだが、その目的や手段までは一致していない。《機関》が他組織に秘匿している情報があるように、むこうも簡単に自分の手札を晒してはくれないのだよ」
「特にヨーロッパでは《ディヴィジョン》の種類が多い分、人間側もいろんな目論見で動いてるにゃん。かにゃらずしも人類全体の益のために頑張ってるわけじゃないにゃん」
「なるほど。ありがとうございます」
確かに、《魔女狩り》のような【魔女】由来の因子を否定する組織は、たとえ目的が同じであっても《機関》のやり方に意を唱え、協力を拒むこともあるかもしれない。それにもし将来《ディヴィジョン》が地球上から一掃できたとして、それは誰の、どの組織の功績かで、新時代のイニシアチブを握る国が変わるわけだから、人類側も一枚岩どころか蹴落とし合いになってもおかしくはない。
「構わぬ、続けなさい。来ないならこちらから行くぞ」
「え……えっ」
先ほどとは逆に、あっという間に皆瀬が早梛の懐に入り込んだ。突き出された拳をとっさに竹刀で受ける。びりびりとした衝撃が腕に伝わってきた。
「他にはないのかね」
「えぇ……皆瀬さんの会った人って、いったいどんな人だったんですか」
戦闘中に会話など、随分と余裕のある振る舞いだ。現に早梛は、防御にも対話にも集中できずにいる。訓練だというのに、いや、そこを含めて鍛えようとしてくれているのだろうか。
「【魔女】だったよ。そのときは拙が押される側であった」
「えっ」
一瞬の気の緩みを、皆瀬はまさしく突いてきた。鳩尾を狙った手刀を間一髪躱すも、バランスを崩して転倒。すぐに転がって距離をとる。
「驚くことでもあるまい。四室は追跡班。その業務には居所を掴んだ【魔女】の捜索も含まれる。ちょっかいをかけて死にかけたのも、事実死んだ奴も、数えきれるものではない」
立膝で息を整えつつ、気を逸らす目的も兼ねて次の質問を投げかける。
「えっと……じゃあ、【第七魔女】について訊いてもいいですか? さっき、妙なことを聞いたんで……」
「拙に答えられることであればな。しかし先ほど申したように、ヨーロッパの【魔女】は情報に乏しい」
「かまいません。えっと……イタリアに新種のクラスⅠが出たって情報、お二人は聞いてますか」
「聞き及んでおる。都市に到達されるまで把握できなかったとも」
「にゃん」
「そのクラスⅠって、“転移”がメイン能力だって聞いて……思ったんですけど、他の場所で生まれて、都市の中に移動したって考えられませんか? 生まれてすぐにテレポートしたのなら、誰にも見られずに、あたかも何もないところから生まれたように見せかけられるんじゃ」
「無理だにゃん」
「うむ」
早梛の仮説は、けんもほろろに否定された。
「物理法則を凌駕する【眷属】であれば、なるほど一位ほどの大きさと質量のものを移動させることもできよう。されどその負荷が消えてなくなるわけでもなし。大きな業を起こすためには、それに見合うものを支払わねばならぬ」
「つまりぃ、強大なクラスⅠを生み出すためには、【魔女】がかなり血肉を分け与えないといけないにゃん。もしそいつがほんとにイギリスからイタリアまで一気にテレポートしたにょなら、【第七魔女】は既にこの世にいないにゃん。その分の血肉で多分百体くらい作れることを考えると、デメリットの方が多いにゃん」
「【魔女】自身の移動も同じこと。この世の摂理に逆らう現象を起こせば、後に大きな揺り戻しがあることは必然。弱ったところを敵につけ込まれかねん」
「そっか……」
ゆっくりと立ち上がる。
「……あれ?」
と、頭の中で今日時幸が言っていた言葉が蘇る。ある一つの直感が閃いた。それを契機に様々な新しい仮説がポップコーンのようにぽんぽんと生まれる。
「――がっ」
皆瀬の突進が、それどころではなかった早梛にクリーンヒットした。網膜の上を黄道が横切って一等星が降り注ぎ、ふっと暗転した。
……。
うっすらと目を開ける。
「うわわ~ん、よかったにゃあ」
同時に、沢村の巨体が迫ってきて、危うく再び失神するところだった。
「済まぬ、早之助。やりすぎた」
「いえ……勉強になりました、いろいろと」
嫌味に聞こえてしまったかと、少し付け加える。
「それに、いい気分転換にもなりました。すっきりしたっていうか……」
本当はまだお腹がずきずきするし、頭はクワンクワンする。
「無理するにゃ。ひおにゃんの籠手で突かれたら痛い痛いだにゃ」
「はい、籠手……?」
「うむ」
皆瀬が腕を捲り上げると、金属製のアームカバーのようなものが前腕を覆っていた。殆ど厚みがなく、ともすれば皮膚の一部ではないかと錯覚するほどに華奢だ。
「極薄の合金を加工した技術班の自信作だ。関節や筋肉の動きを制限せず自在に曲がり、されど強度は抜群。身一つで相手に向かわねばならないときでも守ってくれる代物だ」
竹刀で打たれても平然としていたのは、これのおかげらしい。
「きれい……全く重くなさそうだし」
「うむ。飽くまで保険の防具だが、結構使い勝手がいいぞ」
「いろいろ応用が利きそうですね。……私も同じようなの、持ってみたいです」
艶やかに光る金属の輝きを、食い入るように眺める。
「私、刀を振るうしかできないから。会談の仕事とか、大っぴらに護衛を連れていけない場所でも、時幸くんや自分を守れるような、小型の武器があったらなあって」
「例えば、相手も武器を隠し持っている場合とかにゃ?」
「ふうむ……状況によるであろうな。そもそも金属類を持ち込めない場もあるだろうし」
「そうですか……そうですよね」
ふるふると力なく首を振る。
「うむ」
皆瀬が近寄り、横たわった早梛の頬にそっと触れた。
「……幸の字と顔を合わせるのが嫌なのか、それとも戻ってこないのが不安なのか。どちらにしろ、一人待つのが嫌ならばいつでもここに来ればよい。拙はいつもおるとは限らぬが、イオナ殿はいらっしゃる」
まじまじと、彼女の顔を見返す。皆瀬はからりと晴れ渡った笑顔を浮かべていた。
見透かされていたのだと、その優しさに思う。
いざというときに動けるよう、日頃のトレーニングは大事だ。だから訓練場に行くのは悪いことではない。そう言い聞かせてきたものの、その実、いたたまれないのだ、零室に。疎外感を抱いている、誰もいない空間に――或いは、時幸の隣に。
「そうなのかにゃん?」
きょとんとしたように沢村が目を瞬かせる。その様子に、思わず吹き出した。本当に、大きな猫みたいな人だ。
「はい。……ありがとうございました」
と、端末が新着メッセージの到来を告げる。琴羽からだった。時幸はこの後も仕事だから、今日はもう寮に戻っていい、とのことだ。
すっきりしたはずの体内に、再び翳りが生まれた気がした。
「――よしっ」
不意に、沢村が早梛の手を取って立ち上がらせる。
「今日はもうあたしらも上がるにゃ! なんかおいしいもの食べるにゃ!」
「え、でも、皆瀬さんは……」
「もちろんひおにゃんもだにゃ! 四室の皆も全員あたしの奢りだにゃ!」
「ふええええ」
笑い合ううち、心の閊えはなくなっていた。……今日のところは。
同時に直感と仮説の数々も、炭酸が抜けるように弾けて消えていたのだが、早梛はそのことに気がつかなかった。
*
《機関》本部のある東京都地下から緯度を13、経度を25ほどずらした場所……香港にある、とあるホテルの一室。
かつては多くの観光客で沸き立った海辺のリゾート地は、海洋性の《ディヴィジョン》から排出される毒素のせいで現在では軒並み閑古鳥だ。代わりというか、闇の恐ろしさも寂しさも感じさせない、発展と堕落のどちらも内包するかのような夜景は健在で、島全体を覆う壁に反射してさながらディスコのミラーボールのように複雑な光で都市を彩っている。
しかし、部屋に唯一の窓は分厚いカーテンで仕切られ、外界の明るさは一切入り込む余地がない。しょぼくれた室内灯のみが、事務的に照らすばかりである。
男は部屋の中央に佇み、端末を耳に当てていた。
電話の向こうの相手は、もう十秒以上押し黙ったままだ。
「聞こえなかったのか」
短く静かに、男は告げる。
「もう一度言え、と言ったんだ」
『……すまねえ、ウィル』
電話口から、怯えた囁きが漏れた。
「貴様が先ほど言った言葉を反芻しろ、という意味だ。同じことを三回も言わせるな。四度目はないぞ」
『……ギフトは消失した。そこにはない』
男は淡々と先を促す。
「それで?」
『す、すまん! ほんとのほんとに申し訳ない‼ け、けどよ、オレのせいじゃない。多分二型の何かに食われたんだ。アジア圏にいるとは思わなかった、予想が甘かったのは認めるよ。で、でもよ』
「我輩がそのような言い訳を聞きたいと本気で思っているのかね? そうであれば医者へ行くことを勧めるがね」
『ひっ』
息を飲む音。再びの沈黙。
「それで?」
飽くまでも平静さを崩さない口調で、だからこそ詰問するよりも威圧的に、男は再度尋ねた。
「ギフトがいまどこにあるのか調べ、我々が次どうするべきか指示を伝えるのが貴様の仕事だろう」
『あ、そ、それは……』
電話の相手は緩まった声を出す。答えられることを訊かれて安堵したらしい。
『もう判ってる。日本だ。日本の、トウキョウ辺りに飛んでったのをモニターで見た』
「では次の行き先は決まったな。追加の航空券は貴様の給料から天引きするよう経理に伝えておく」
通話を終えた男は部屋を出て、ホテルの廊下を進む。他の客は遊びに出ているのか、エレベーターで一階に降りるまで、誰にも会うことはなかった。
ロビーの奥、待合用のソファーに腰を埋めるというより、埋もれるようにして、小柄な少女がぴくりとも動かずに鎮座していた。表情も視線も一切動かさず、電源が切れたように静々と待機する様は、正面に飾られている伝統工芸品の陶器の人形の方がまだ人間らしい。
「シシー」
男が声をかけると、ゆっくりとした動作で顔を上げる。
「問題ないわ」
少女はやっと、表情筋を緩めた。
「きっとやれる。私なら《同盟》の期待に応えることができる」
先ほど微動だにしなかったのはどうやら、緊張していたためらしい。精一杯の意気込みを語る少女を遮り、男は口にする。
「そのことだが、白紙になった」
「は……」
「中国観光は中止だ。パンダを見られなくて残念だったな」
普段は言わないジョークも交え、肩を竦めてみせた。
「そ、そう……」
少女は俯いた。落胆した、だけではない。こっそりと顔面に満ちる安堵の色を、男から隠したかったのだ。
「だが、まだ仕事は残っている」
間髪入れず告げられた言葉に、再び顔を跳ね上げる。
「場所が変わっただけだ。予定を変更し、我々は日本へ向かう」