エピローグ
「……はっ」
と、気づいたときには転がされていた。
もう何度目の失敗だろう。いつもの挑戦。いつもの敗北。いつもの天井。
「はっはっは」
いつもの、高笑い。
仕事の合間に、半ば強引に試合の相手を申し込んだ。師匠はとても忙しい。それでも必ず、唯一の弟子に稽古をつけてくれるのだ。弟子が育つのが楽しいのが半分。残りは、仕事から抜け出せる口実ができるためだ。
そして、受けたからにはとても手加減する。侮っている。完全に嘗めている。いまも、渾身の力で木刀を振りかぶった時幸をあっさりいなし、二、三か所ほど峰で打って返り討ちにしてしまった。全然速さについていけなかった。その度に笑われる。まだまだ未熟だな、と、高らかに、ほんとに気持ちよさそうに。悔しいが、実力が足りないのは本当だった。その度に思う。次こそはもう一歩先に行きたい。もう少し粘りたい。いつか追いつきたい。師匠と、肩を並べて戦える日が来てほしい。
強く、なりたい。
速く、なりたい。
師匠が背中を任せられるような男に、なりたい。
そう思い、日々精進しているのだが、いざ試合となるとまるで敵わない。
「懲りないな、ユキ」
「っ、あたりまえです」
「やれやれ、こう執着されると、愛されているんじゃないかって錯覚するくらいだよ」
と、そこで急に真顔になる。
「愛してるって、嫌な言葉だよな」
「はい?」
唐突だった。
「愛っていうのは独善かつ独占的だよ。虐待の口実にもしばしば使われる。まあ、おれがそんな環境で育っただけといえばそのとおりかもしれないけどさ。けど、やっぱり『愛してる』っていうのは気持ち悪い。『おれだけのもので在れ』とか『おれに逆らうな』とか、耳障りのいい言葉で包んでるだけで所有欲や支配欲を含んでいる表現なんだよな」
飽くまでおれの感じ方だけだけどさ、と付け加える。
「それって突き詰めると、相手を見下しているってことだと思う。『愛してる』って言う奴は、その言葉を言った対象をどこかで軽視してるんだよ。男が女を殴りながらとかな。戦争ばっかしてる国が平和を愛してるとかいうのも、そんなきれいごとで問題が解決するかって本心が隠れてる。神様の言う『人類を愛している』っていうのも、自分の縄張りを守りたいだけで、人類に価値を見出しているわけじゃない。じゃなきゃ、全知全能の存在なんて初めから人類に関わらない」
一個人の、一方的な過激思想。だが、一期がここまである一つの言葉だけを、それを用いる人々に対して、憎しみと軽蔑を露わにするのは珍しかった。「愛」に関してはどうやら譲れない哲学が、彼の中で既に完結しているらしい。
「だからさ、ユキ」
と、空に向けられていた話の矛先がこちらに転じる。
「ほんとにそういう相手ができたときにはな、こう言うんだ」
そうして、先ほどとは全く異なる種類の笑みを浮かべる。
「『好きですよ』だ。愛と違って、好意には尊敬が必ず含まれるからな。あ、言い方も大事だぞ。『よ』まで必ずつけろよ、いいな」
「それ、大事ですか」
「ニュアンスの問題だよ」
そう言って、びし、と指をさす。
「いいか、『好きですよ』だ。いつかおまえに……おまえが、ほんとに大切で、愛しくて。たとえ自分は報われなくても、その人だけは幸せになってほしい、そういう相手ができたら、『愛してる』じゃなくて、そう言うんだぞ」
そして、時幸の意識は覚醒した。
周りの研究者が、安堵と怯えの入り混じった表情でこちらを窺っているが、彼らには目もくれずに、寝台を下り、ある場所へと向かう。
*
灰色を四角く切り取った、狭い部屋だった。
備品は二つの椅子と机のみで、それだけでもう部屋は埋まってしまっている。まるで取調室だ。空気よりも重い気体が充満しているように息苦しい空間は、ここが地下だということを否応なしに認識させる。
「やあやあやあ、お疲れ様~」
と、唯一の出入り口である眼前の扉が開き、夏来が入ってきた。正面の椅子に座る。
「大変だったわねえ。うちの事情に巻き込んでごめんなさいね。でも、よかったわ。傷口から《ディヴィジョン》の細胞が体内に入るとか、そんなことなくて。ま、そうなっても《調律の彼女》になれば助けられるんだけどね」
「……あの人達、今回、裏切ったっていう」
「ええ、そうね。……詳しいことはまた後で聞く予定だけど、イツミちゃんもアレッサンドラちゃんも侑生ちゃんも、《調律の彼女》である自分自身のこと、この制度のこと、あまりよく思ってはいなかった。だから彼女達なりに、『よりよい未来』を目指した結果なんでしょうね。いまはまだ、このやり方しかない。けれどわたくしも、このままでよいとは思っていない。変わるべきなんでしょうね」
そう言って、早梛を見て、ふと顔を逸らした。自身の失言に気がついたのだろう。
「……時幸くんは」
「貧血よ。いま輸血してるとこ。まったく、昨日の今日だっていうのに。さすがに無茶しすぎだわ」
呆れたように鼻から息を吐くと、こちらに目を遣る。
「あなた、通信が遮断されてる間、ずっと一緒にいたのよね? 何があったのか教えてくれないかしら。だいたい想像はつくけど」
詰問するような、少しばかり苛立っているようにも聞こえる口調で問いかける。
早梛は言われるがままにあったことを洗いざらい話した。夏来は時折口を挟み、特に時幸が蘇生した辺りでは死因や、そのときの状況を詳しく聞きたがった。説明するうち、早梛にも起こったことの異常性が改めて実感された。アドレナリンが切れた後傷が痛みだすように、恐怖とも困惑ともとれる感情がじくじくと心を侵犯する。
「……なるほど。ありがとう。もういいわ」
唇をぺろりと舐めると、夏来は席を立った。
「今日がそうだったなら、肋骨とっときたかったなあ……」
「待ってください」
ひどく青ざめた顔色をしていた早梛は、感情の籠らない声で強く止める。
夏来は億劫そうに振り向くと、
「ここから先は、あなたが関わるべきじゃない」
と言い放った。
「……なんですか、それ」
「あなたのためよ。これ以上のことは《機関》の『秘密』を切開しなくてはならなくなる。そうなったらもう一生、文字どおり日の目は見られなくなるわ。それだけじゃない、ユキくんのプライバシーに土足で踏み入る羽目になるのよ。あなたにはもう、彼とは関わってほしくないの」
摂氏-の瞳で、早梛を見下ろす。ハッタリではない。処分する予定の実験動物を見るような眼差しで、同様に早梛も処分する算段を立てている。
しかし早梛も、怯むことはなかった。精一杯の眼力で真っ向から見返す。
しばしの間、二人とも無言。
先に構えを解いたのは夏来だった。ふっと息を吐き、肩の力を抜く。
「あなた……どうしてそこまで、あの子にこだわるの」
先ほどとは異なる意味合いを込めて、早梛を見つめる。
「ただの好奇心や理屈で言ってるの? それとも何か御大層な理由があるわけ?」
呆れるような憐れむような瞳で、早梛を試す。
早梛は押し黙った。なぜ、と聞かれるとうまく答えることはできない。
ただ、早梛は時幸の抱えている事情を知らなくてはならないのだ。知りたい、でも、知らせろ、でもなく。
――そうして、探し出した答えは。
「彼が……『アラヤ』だから」
夏来はしばし、目を瞬かせた。
お腹の辺りに力を籠め、息を思いきり吸う。
「昨日言ってましたよね、彼の師匠……現夜一期は、どれだけすごいことを成し遂げても、慕われて神格化されていても、英雄なんかじゃない。欠点があって、不安定な、人間だったって。なら同じです。時幸くんは同じなんです……私と」
早梛の目に、光が宿る。
「自分の弱さを嘆いて、復讐に飢えて、真実を欲しがる、ただの一つの存在です」
強く鋭く、清らに脆い。
一振りの刀剣のような灯の輝きを見て。
それの宿る、少女の眼を見て。
「……青い」
呟かれたのはそんな言葉。
「……くっ……あっはっはっはっはっは」
次いで出たのは快活な、空を破るような笑い声だった。
「い、いやあね、若さが羨ましくってぇ」
まだ充分に若いと言える部類の女が、笑いながら弁明する。
笑いの収まった夏来は、もう一度だけ噴き出すと、早梛に向き直った。
「まあ正直、《機関》は知りすぎたあなたを持て余してるっていうのはあるけど……けど、どうかしら。当の本人は、あなたには知られたくないんじゃないかしらね。もう、会うつもりもないのかも」
「早梛さんっ」
唐突にドアが開かれ、入ってきた人物を見て固まる。
「……あ、御取込み中でしたでしょうか」
非難するような夏来の視線をものともせず、ノックせずに入室したことを詫びる。
「いやいやいや、ユキくん、あなた少しは空気を読ん」「すみませんが、席を外していただけますか」「……しょぼん」
夏来はもの言いたげに少年と少女を見比べ、しかし結局、様々なものを諦めたらしい。黙って部屋を出ていく。
「……時幸、くん」
「早梛さん」
「……大丈夫?」
「ええ」
何が、とは言わなかった。
時幸は夏来が座っていた席に腰掛けた。
「あなたに……話さなくてはならないことがあります」
「……なぜ【魔女細胞】を男性に与えることが禁止されているのか、御存じですか」
少し俯きながら、静かに語りだす。
「……【魔女細胞】は男性には適合しないって聞いたけど?」
「はい、本来は。……いえ、適合しない、というのは、実際には少し違います。最終的に死ぬことに変わりありませんが。……【魔女】の細胞を移植された男性は肉体が変異し、やがて【魔女】でも【眷属】でもない【新生物】へと変わります。テレキネシスと沸騰に似た超常能力を宿し、それを破壊衝動のままに周囲に振るうようになる。寿命が尽きるまで、どんな手段であっても傷つけることはできず、目の前の一切を消去し続ける。実際、十九年前、アメリカの州が一つ地図から消えました。故意か偶然か、【魔女原細胞】が体内に混入した男性によって」
先ほど見た光景を思い出す。時幸は何をするでもなく、そちらに意識を向けた、それだけで《ディヴィジョン》を文字どおり蒸発させてみせた。
「A・Rとは、【新生物】に変貌した男性のイニシャルです。A・Rに限らず、雄性の生物は【魔女細胞】を移植されると例外なく【新生物】に置き換わり、そして七十二時間を待たずに死亡する。【新生物】の強すぎる力に、肉体が耐えられなくなるんです。破壊衝動の制御はともかく、肉体の負荷を解消するには、移植という後天的な処置ではなく先天的な要因が必須……つまり、【魔女】を母親に持つ男子なら力に肉体が耐えられる、と理論上は考えられていました」
「……」
早梛は少し俯いていた。俯いたまま、時幸を見た。
「ただ、【魔女】には男子を出産する機能がありません。胎児の分化の段階で流産するように身体ができてしまっている。それこそ魔法か、呪いのように。……例外が、【第一魔女】……【紅鹿事変】を起こした、日本の【魔女】です」
固唾を呑む。
「……十六年前、【第一魔女】が《機関》を襲撃し、総帥の研究室に保管されていたとある男性の細胞を盗み出しました。その人は総帥の患者で、遺伝病の治療のために細胞の一部を採取してあったそうです。どのような方法を用いたのかは定かではありませんが、その細胞を用い、彼女は男児を出産しました。【第一魔女】が特殊だったのか、奪った細胞に要因があったのかは判りません。しかもその人、師匠の無二の親友というからややこしくて」
そう言って、少し笑う。
「……じゃあ、時幸くんは……時幸くんのお母さんは」
「俺は……俺の身体は、【魔女】に連なるすべてのものにとって天敵となります。それは、俺が……本来生まれないはずの、【魔女の息子】だからです」
「どうして俺が【新生物】でありながら暴走しないのかは不明です。生まれながらの性質によって安定しているのか、用いた細胞に原因があるのか。そうだとしたら、【魔女】はどうやってその血の持ち主を探し当てたのか。彼女は研究棟の外には出られなかったはずですし、総帥の患者は研究棟には立ち入りできなかったはずですから。ただ判っているのは、俺がとても危険な存在である、ということと、【第一魔女】……俺の母が、何らかのことに俺を利用しようとしている、ということだけです。……こっちの眼」
と、右眼を指す。
「俺の生まれ持った眼ではありません。母の角膜が移植されています」
「……!」
「総帥が言うには、どうやら本来の持ち主と連動しているらしく、何の前触れもなく痛みます。そういった時には色も変化するようです。先ほどのように、俺に強いストレスがかかったときにも」
瞳をまじまじと覗き見た。言われても、左眼との違いは認められない。先ほど、あれほど鮮やかに燃えていた緑色もいまでは遠い記憶で、あれは本当のことだったのかと疑いたくなる。
「蘇生した後、俺の身体は傷などのないニュートラルな状態に戻り、埋め込んだGPSなども排出されます。けれど、この眼だけはこのままです。……七年前、母は俺の健康な眼球に突如メスを入れ、摘出した自身の角膜を移植した直後、師匠に俺を預ける形で姿を消しました。俺を手元に置かず現夜一期に預けた理由は判りませんが、それも含めてあの人の計画どおりなんでしょうね」
口元を歪めてみせる。ぞくりとするほど魅惑的な、毒々しい自嘲だった。
「【魔女の息子】は、一度覚醒してしまえば人類を滅ぼしかねない存在となりうる。一方で、すべての【魔女】と【眷属】にとっての天敵でもある。俺を生み出した【第一魔女】に対してさえも。俺の危険性と利用価値とを秤にかけ、師匠は、俺の存在を秘匿して育てることを選びました。《機関》ぐるみの『秘密』として」
時幸は顔を上げた。一言で言うと、暗い顔をしている。顔色が悪いとか、目が死んでいるとかいうのではない。飽くまで美しく、自らの正体を暴露して清々しく、嫌われないことを諦めて痛々しく。光の萎えた、闇へと向かう相貌だった。
早梛は、まだ俯いたままだった。いましがた聞いた話を、一つひとつ噛み締め、自分の知識に置いていく。
「……じゃあ」
蚊の鳴くような囁き。
「時幸くんが、生き返ったのも、【新生物】だから?」
「……いいえ」
首を振った。
「肉体自体は安定していますが、俺は【新生物】としては未完成の状態です。どうやら、角膜を移植されたことで何らかの制限が掛けられているようです。俺が死んでも生き返るのは、それとは別の……受け継いだもう一つの血によって、です」
組んだ指の合間に、目を落とす。
「……俺の、生物学上の父親が、遺伝病のようなものを患っていた、という話は先ほどしましたが……その人の家系では代々、常人とは異なる能力を持った子どもが生まれるそうです。俺の蘇生はその血が原因です。……ただ、母がそれを見越してその家系の血を入れたとは考えにくい。というのも、菊織の呪詛は個々人で効果が変わるらしく、どのような異能かは発現するまで判らないので。師匠の親友の場合は特に酷かったそうで……日常で、何の前触れもなく、獣のように変貌する症状が出たそうです」
「……!」
「一度そうなると自分ではもう抑えが利かなくなってしまって、意識が戻るまでひたすら暴れ回った、とのことです。普段は信じられないくらい温和で優しい人だったそうですから、そのことに酷く心を痛めていて、総帥に治療を依頼したんだそうです。……師匠が、相手を傷つけずに拘束する術を磨いたのは、そんな親友のためでした」
*
そういって、時幸の師匠は。
「おれが、あいつを」
「救えなかったからだ」
鼓動さえ響くような静寂が訪れる。残酷で、切なく、ある意味では心地好くさえある刻が流れる。
「……たしかに、おれがおまえを気にかけるのは、おまえがおれにとって特別だからだ。おれにとって特別なあいつの……な。けどな、ユキ。それだけじゃない。やっぱりそれだけじゃないんだ。あいつが生きてたら、少なくともいまみたいな接し方はしてなかったと思う。総帥に引き渡して判断を仰ぐか、まあ、あいつ自身に相談してたかもしれん。たとえあいつがもういなくても、それが偶然巻き込まれた不幸な事故だったら、やっぱりこうはなってなかったよ、きっと」
一期は、軽く微笑んだ。けれども、時幸でもわかる。心の中では泣いている笑みだ。
「日聖はさ、ほんとに、ほんとにいい奴だったんだよ。頭がよくて、正しくて、ばかみたいに皆に優しくて。……だからさ、耐えられなかった。自分の大切なものをいつか自分自身でめちゃくちゃにするんじゃないかって……。ばかだよな、おれ。一番近くで見てたのに。あいつが怯えてること、知ってたのに。いるのがあたりまえで、いてほしくて、何回も何回も助けられたのに、回数だけじゃない、あいつのおかげでおれがあるっていうほど、救われたのに……おれは、あいつが助けてほしかったことに、あいつを失うまで気づけてやれなかった」
遠い、と思った。師匠は、目の前にいるのに、全く別の場所にいる。
時幸はそこに行くことはできない。
「もちろん、あいつとおまえには何の関わりもない。おまえはあいつの代わりにはなれないし、あいつに義理立てするわけでもない。ただのおれの、自己満足だ。……ばかだよな、ほんとに」
一期には闇がある。恋人を失ったことでも、親友を救えなかったことでもない、もっと根幹にかかわる、大きな闇が。そしてそれに触れられることを何より嫌がっている。触れていいのは……彼の必死の攻撃を受けて、血を流して、それでも苦楽を分かち合ったのは……ただ一人だけだった。
「……それでも、」
幼い時幸は、されど真っ向から師を見つめ返した。
「俺は、師匠に救われました」
*
「……こんな異端の存在である俺を、それでも師匠は生かそうとしてくれた」
「それは違うよ」
「え?」
早梛は立ち上がり、時幸の傍らに歩み寄る。さらに接近する。顔が近づき、甘い吐息が耳をくすぐる。
「早梛さん……?」
呆然とする時幸の手を静かに取る。両手で包み込むようにして、胸に抱く。
そして、
慈愛に満ちた、あたたかくて、柔和な、
迷子の子どものようで、壊れそうで、繊細な、
泣き笑いを浮かべた。
「時幸くんは、優しい人だよ。会って間もない私を、何度も身体を張って守ってくれた。優しくて……危うくて……素敵な人。そんな人がさ、都市のために身体を張って、身を削って……何も見返りがないなんて、おかしいよ。人間だとか、【新生物】だとか、関係ない。頑張った人は報われるべきだよ。幸せになっていい。ユキって、そういう意味でしょう」
「だから――自分を決めつけないで」
すっと、見上げる。慈しむような瞳で。
「身勝手な願いかもしれないけど、自分を大切にしてほしい」
不意に垣間見たその表情に、時幸は戸惑い、また狼狽えた。
「自分を、大切に……」
「そう。あなたは一人しかいないんだよ。身体のことじゃない。他でもない、私と出会ったあなたは」
体温が伝わる。痛みが伝わる。
「早梛さん……」
早梛の鼓動を、感じる。
「俺に……触れてくれるんですか」
囁く声は、まるで小さな子どものよう。
「俺は……あなたに触れて、あなたの傍にいて、いいんですか」
あんな無様を晒したのに。
あんな貌を向けたのに。
あんな悪意をぶつけたのに。
けれど、早梛は、
「いいよ」
なんてことのないように言うのだ。
「あなたを……傷つけるかもしれなかったのに」
「時幸くんは、私のこと傷つけたいの?」
「! いいえ」
強く、強く手を、握り返す。
「俺は……あなたを守りたい。いえ、守ります。俺自身からも、必ず」
「そっか。じゃあ、時幸くんは私が守るよ」
さらりと、宣言する。
その言葉を受けて、時幸は。
いまにも泣きだしそうな、それでいて安堵したような、淡い、春の雪みたいな笑みを浮かべた。
「……死んだらすべてリセットになるからといって、けして乱用のできる力ではないんです。それどころか、俺は、俺の身体は死ぬ度に、父親に、自我のない怪物に近づいていく。それが総帥の、診断結果です。……あたりまえですよね。死んでも生き返るなんて、まともじゃない。いくら血を失っても、どんな傷を負っても何事もなかったみたいに元に戻るなんて、目に見えない何かが減っていないと、道理に合わない」
ありのままの、心をぶちまけた。
「怖いんです。死ぬことだけは、何があっても慣れません。自分が自分でなくなるのも、そのせいで誰かを傷つけるのも。だから、一人で生きていこうと、自分だけでも生きていけるようになろうと、そう思っていました。それだけの力を、師匠がくれたんだと。けれど……不思議です。あなたに会って、一緒にいたいって……ここにいたいって、思ってしまいました」
「何それ」
早梛は肩を竦めて笑った。
「ここにいてもいいんだよ。……けど、黙ってどっか行っちゃうのは、止めてね」
またあの、物憂げな、激情が身体を貫くように妖艶な表情を浮かべて見せる。
それにどきどきしつつ、時幸は言いたかった言葉を紡ぐ。
「俺、早梛さんのそういうところ」
ごく自然に。朝すれ違った人に告げる軽い挨拶のように。
「好きですよ」
「えっ」
「あたりまえのように他者を肯定できるところ、困っている人を放っておけない優しいところ、他人のために傷つくのを厭わない勇敢なところ、何事にも公正なところ、そういったところは、人間として美徳だと思います」
「え、ああ、そういう意味ね……」
ほっとしたような、でもどこか残念なような。
「はいはいっ、乳繰り合ってるとこ失礼するぞ!」
扉が蹴破られ、その衝撃で二人は吹っ飛んだ。身体が重なるように床に倒れ込む。
「うげっ、ほんとに乳繰り合ってたのか。気色悪い」
自分で蹴破っておきながらあんまりなことを言う琴羽。その後ろで、期待に満ちた目で夏来が部屋を覗き込んでいる。
「ちょ、ちょ、これかなりレアじゃない? すぐに数値を計測して」
「うっさいだまれ」
背後に的確な肘を打ち込み、琴羽が仁王立ちになる。
「ユキ、おまえ全部喋ったか」
「……はい。俺の出生も体質も全部お話ししました」
一瞬逡巡したが、開き直って堂々と答える。
しかし琴羽は、
「よし」
と、なぜか満足げに頷いた。
「何が『よし』なのよう」
その場にいる者を代表して、夏来が質問する。
「先ほど、マカオへ相談していた事案の回答が届いた」
夏来を無視し、機嫌のよい笑みを浮かべる。
「良いニュースと、おまえ達にとって良いニュースがある。どっちから聞きたい?」
「……良いニュースで」
「うむ」
感慨を込めて、琴羽は言い放つ。
「マカオにて、クラスⅠの討伐が完了。これ以後は人類側の管轄となる。つまり、大勝利だ!」
「……わぁ!」
「勝ったんですか!」
顔を見合わせて喜び合う。一部とはいえ《ディヴィジョン》に長年支配されていた地域を、それも難攻不落のマカオを、ついに人類が奪還したのだ。
「もう一つのニュースだが」
興奮冷めやらぬ二人に、琴羽の声が降りかかる。
「本日1700をもって、特務部遊撃班零室所属、現夜時幸の正規エージェント昇進が条件付きで承認された」
「⁉ ほ、ほんとですか」
「ああ。今回の功績が評価されて急遽、そういうことになった」
琴羽が大きく頷く。
時幸は歓喜と興奮で叫びだしたくなるのを必死で堪えた。
まだスタート時点に立ったに過ぎない。師匠の後を累歩き、もしかしたら《機関》に対する背徳行為を行っていたかもしれないこと、その真意、そして何よりその死の真相に辿り着くための。
それでも、嬉しいという気持ちには違いなく、どうしても顔が緩んでしまう。
「おい、油断するな。条件を聞いてないだろうが」
言いつつ、琴羽も誇らしげだ。夏来も後ろで「おめでとー!」と拍手している。
「ああっ、すみません……」
「で、まあ、条件だが」
琴羽は喜びを押し込め、仕事上の顔を作る。
「同時刻をもって零室所属となる神橋早梛と《ユニゾン》を組み、以後すべての任務は彼女と共同で当たること」
「……はい?」
「わ、私⁉」
ここで自分の名が出てくるとは思わなかったのだろう、早梛は目と口を大きく開けて自分を指した。
「そういうことで、きみには《機関》に所属してもらう。ユキ、まさかこの期に及んでごねたりしないよな?」
「……いや、え、あ、いえ……反対するわけではないのですが……なぜそんなことに?」
「それは――」
「おまえにはサナが必要だからだ」
「‼」
「私が?」
「ああ。こいつは性質上、身を削る傾向にあるからな。《機関》としても、残念ながら高位の敵と相対するためにはBMWS……こいつの血から精製される全型対応特殊弾(Bullet Made of Witch's Son)などの武装が今後も不可欠になる。それに……ユキがあの状態になった時、きみがいたから正気に戻れた、らしいな。今後、同じような状況にならないとは限らない。先輩の事件を追えば危険は倍増するし、何より、いつ【第一魔女】が再び接触してくるかも判らない。そういったとき、こいつがこいつでなくなりかけたとき……きみが傍にいて、引き戻してやってほしい」
ピンと張られた弦のように揺るぎない眼差しで、時幸の後見人は少女に願う。
「はい」
答えは決まっていた。
「私に、どれだけできるかはわかりませんけど」
「自信を持て。たった二日間であれだけのことをやってのけたんだ」
そういって、持っていたものを投げ上げる。
とっさに掴み取る。それは鞘に包まれた彼女の愛刀。
柄を握って抜くと、粉々に砕け散ったはずの刀身は依然として変わらない青い輝きを放つ。
「ようこそ、《機関》へ」
この刀が、早梛の道標だ。
「早梛さん」
「時幸くん」
少年は少し頬を赤らめ、けれど颯爽と宣言する。
「宜しくお願いします。これからも、あなたを守らせてください」
「うん。私も、何度でもあなたを引き戻すから」
相棒となった人を、互いに見つめ合う。
これから戦っていくのだ。
強くて儚い、この人と。
これからも支えていくのだ。
昏い道をひた進む、この人を。
お互いの復讐を果たすために。
お互いを失わないために。
青い理想を胸に抱いて。
*
エリア90はかなり手狭だ。
先日八型‐クラスⅤを相手取ったときとは異なり、100メートルも駆ければすぐ隔離壁にぶつかってしまう。それでも路地が入り組んでいて見通しが悪く、ターゲットはなかなか見つからない。結果、小鼠のように駆け回り、地道に探索を続けるしかない。
『目標捕捉、次の角を左折してください』
「了解!」
笙香の案内に従い、路地を曲がってなお駆ける。J・Rを取り出し、走りながら鎖を引き出す。やがて、時幸の目でも敵の姿を捉えることができた。
正規エージェントになって初の任務がコレとは、まさに因果というのだろうか。
狭い塀の間に佇むのは、以前相対したのと同じどろどろ溶ける流動体の身体。ただし、頭頂に冠している角は一本限りで、直立というより少し傾いでいる。
先日持ち去られた《ディヴィジョン》の欠片の、最後の一片。誰が変化したものなのかは想像に難くないが、深く考えずにおく。
直前で急停止し、近くの標識に鎖を巻きつける。
音で気づかれたが、その前に既に時幸は背後に回り込んで銃口を向けている。凶暴な鉛玉が空を奔る。
標的は身体をCの字に凹ませて回避。銃弾はすべて《ディヴィジョン》の脇腹すれすれを通過する。弾をやり過ごすと、塞がって元の形に復帰する。
その直前を、銀の線が行き過ぎる。
避けられることを予測していた時幸が相次いで投擲したナイフに繋がれた鎖が《ディヴィジョン》の繋がりかけた身体の中を通過して食い込んだ。ナイフが反対側の塀に突き刺さると同時に時幸は鎖を担ぎ上げて塀に飛び乗っていた。《ディヴィジョン》は体内を貫通する鎖に対処すべきか、時幸の次の手に備えるべきか逡巡したが、答えを出す暇は与えない。
J・Rを巻き戻す。金属同士が擦れ合わされる音が空気を引っ掻く。
支点間が急速に短くなる鎖を担いだまま、時幸は塀の上を駆け抜けた。鎖が体内を通ったままの《ディヴィジョン》はされるがままに塀に押しつけられる格好となる。ナイフが刺さった箇所の直前、半ば踏み外す勢いも加えて飛び降りる。
身動きのとれない《ディヴィジョン》はようやく鎖を排出しようと変形し始めたが、既に遅い。
「――早梛さん!」
「――任せて!」
刹那。
目の覚めるような青が、視界いっぱいに降ってきた。
未だ心を捉えて離さない、あの青が。
END