エピローグ 何もかも終わった朝
そんなはずはない、と本心では縋りたくても、エージェントとしての理性は、絶望的だと告げていた。肉体が原型を留めていればまだましだ、とも。
それでも、と走る時幸は、まるで意固地な小さな子どもだ。
だから、よく知る青色が瓦礫の山から垂れ落ちるのを見つけたときは、興奮と恐怖で一瞬、心臓が止まった。
「――早梛さん!」
ぼろぼろ崩れる瓦礫を踏み砕いて、掻き分けて、彼女の元に馳せ参じる。
早梛は、さっきまでの時幸と同じように瓦礫に挟まれている状態だった。すぐに助け起こそうとして、冷たい理性がせせら嗤った。果たしてコレは早梛なのか、まだ、早梛でいてくれているのか……。
「げほっ」
「! ――早梛さんっ、早梛さん!」
渾身の力で、瓦礫を弾き飛ばした。時幸の全長よりも大きなコンクリートの塊が途中で折れ、同じような欠片の坂を転がってどしん、と落ちる。
「早梛さん! 早梛さ……!」
力に任せて引きずり出す。いつもよりも、軽かった。
「がぁぼ」
また一つ咳をした。大げさなほど、血が飛び出した。
胸元から太腿の辺りまで、鮮やかな赤に染まっていた。雪の中一輪だけ咲いた薔薇のように、白い肌に、深紅が映える。ごぼごぼと、滝のように吐き出される血が、弱々しく流れてさらに肢体を濡らしていく。それだけではなかった。
「……ああ、」
放心したように呟いた。抱えている早梛の身体には、まったく力が入っていなくて、腕を少し緩めればそのまま頽れてしまいそうだった。
助からない。
助けようがない。
助かりっこない。
時幸よりもずっと手遅れだ。
早梛の身体からは、欠けてはいけないものが欠けている。
生きるために必要な臓器がごっそりなくなっている。
「ごぽ」
また、早梛の命が零れ落ちた。
「……いやだ」
死に逝きつつある。
いや、まだ死んでいない、というだけで、既に早梛は、
とっくに手の施しようが、なかったのだ。
「……約束、したじゃないですか。あなたから……なのに、」
腕の中の彼女に、縋りつく。
「……だめ、だめだ、死んじゃだめだ、死んじゃいけない、あなたは、死んではいけない」
呪文のように繰り返すが、それで早梛が回復するような都合のいい魔法は存在しなかった。
「早梛さん、だめだ、だめ、いや、いやだ、嘘だ、嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だーーーーー!」
頬をはらはらと涙が伝う。
早鐘を打つ心臓を彼女に与えられるのだとしたら、時幸は躊躇いもなく抉り出しただろう。
でもそれじゃ足りない。たとえいますぐ最新医療の整っている処置室に瞬間移動できたとしても、彼女を救うすべなど一片たりとも残されていない。
なんで、どうして、どうして早梛が。
前後の因果関係など判りきっていても、どうしようもない感情が全身を駆け巡る。
早梛は、こんな場所で死んではいけない。
死んでいい人間じゃない。
善良な人間が、優しい人間が、正しい人間が、こんなところで死ぬなんておかしい。許されるはずがない。
「……いやだ」
これまでの行いの結末が、こんな仕打ちであっていいはずがない。
善行には褒美があり、努力には成果がある。そんな青い理想をまるで、自明の理のように語り、そのように公正で勤勉であろうとした人間が、こんな理不尽に死ぬのだとしたら。この世の道理なんて、何の意味もなくなってしまう。
それが世の常だ、といわれればそうかもしれない。だが、時幸には認められない。彼自身はともかく、早梛は何も悪いことはしていない。彼女の信じるものから裏切られる筋合いなんかない。
いままでずっと頑張ってきて、こんなにぼろぼろになるまで、身を投げ打って。最後の最後まで、自分ではない誰かを守ろうとした、彼女に対する報いがこれで、いいというのか。
こんなの、あまりにも救いがなさすぎる。
「俺を……ひとりに、しないで」
何より、時幸が彼自身よりも大事に思う人間が……彼より先に、死んでいいはずがない。
顔を上げた。
相変わらず、【魔女】は幸も不幸もないといった眼差しで、時幸と、その腕の中にいる、命を吐き出す少女を視ていた。
「……助けて」
絞り出すように、時幸は乞うた。
「助けて、下さい。俺を治したみたいに。お願いします。……早梛さんを、助けて」
それが何を意味するのかは承知している。だからこそいままで選ばなかった。
しかしこの瞬間、早梛を救えるのはもう、それしかなかったから。
“青海波”と同じ成分を含む時幸だからこそ治癒できた、というのは理解していなかったわけではない。たとえできたとしても、既に“青海波”がいない以上、同じことは不可能だ、という考えだってないわけではない。
それでも縋った。早梛はまだ死んでいない。だから、湖麻由になら救えるはずだ、と。
「俺はどうなろうと、どうしようと構いません。だから、お願いします」
早梛を死なせない、それだけしか考えなかった。たとえ、自分のすべてを投げ打ってでも。
そんな、必死の懇願に。
自分の命さえ顧みない、魂からの希求に。
【魔女】はやはり、無言で応じた。
だが、時幸は見てとった。
その瞳は、「できる」と述べている。
――わかっている。
できる、からといって、湖麻由が早梛を救う筋合いは、ないのだ。
彼女にとっては計画に必要ない赤の他人。とるに足らない小娘の命。この場で死のうが死ぬまいが、どうでもいい。
時幸だけだ。
時幸だけが、彼女の心を動かすことができる。
見返りも理由も要らない。彼の願いであれば。
「早梛さんを、助けてください。早梛さんの命は俺の命より重いんです。彼女が……死んだら、俺も生きては、いけない。……だからっ」
身勝手な願いだとは判っている。散々拒絶しておいていまさら、と自分が自分を詰る。虫の良すぎる話だ、と、現実を見据える己がいる。
迷いはある。葛藤もある。彼女に何か願うということは、《機関》に対する離反に当たる。
琴羽や続岩、そして一期、時幸を信じてくれる人々全員への裏切りだと、それを彼が選ばないように心を砕いてくれた彼ら、彼女らの願いを無碍にする行為だと、自覚はあった。
早梛が許さないだろうと、こんなことまでして助けられたと知ったら彼女自身を責めるだろうと、なにより彼女の身と心に消えない傷をつけることになると、わかっていた。
口に出してしまえばもう、いままでの時幸では、《機関》の、現夜の、早梛の隣の時幸では、いられない。
「お願い、します。……お願い」
それでも。
たとえ誰に謗られようと。
たとえ時幸自身を損なうことになろうとも。
――死なせたくなかった。
――死んでほしく、ない。
「助けて……おかあさん」
それを聞いて、時幸の母親は。
「いいわよ」
ぽん、ぽん、と瓦礫を蹴って、二人のすぐそばまで近づいた。
「他でもない、ユキちゃんのお願いだもの。さ、もう時間もないし、さっさと始めるのら」
力なく投げ出された少女の肢体を覗き込み、凹んだ腹部に軽く触れた。
「あれ、この子……」
眼を瞬かせる。
時幸が何か言いかけるより先に、
「んっ」
小さな腕を、自らの腹部に貫通させた。
「! え……」
泣き腫らした顔にぽかんとした表情を浮かべる息子を後目に、体内から拳を抜いた。握り込んでいた手を、そろそろと開く。
湖麻由の八歳相当の手に収まっていたのは、その小ささに見合った小箱だった。ぱちんと開くと、そこでなぜか、中身と時幸の顔を見比べた。
惜しむように、或いは吹っ切れたように目を伏せてから。
体内から出したときと同じように唐突に、乱暴に掴みとった中身を、早梛の胸元に突き入れた。
「なっ⁉」
「かっ……」
まだ潰れていなかった部分の肺が、押されたことで思い出したように盛大に咳き込んだ。
ずぶずぶと沈み込む小さな腕。一拍ほどの沈黙の後、徐に引き出される。真っ赤な血に塗れた幼女の腕は、既に空だった。
「いったいなにを」
「手を握っててあげて」
入れたんです、という言葉を遮って、湖麻由は少女の身体を抑えつけた。
「……げほっ、げほっ」
「‼ 早梛さんっ」
早梛がまた、大量に血を吐き出した。そのまま、がっ、がっ、と咳き込みだす。
「がはっ、あ、あ、あ……」
間欠的だった息が、徐々に連続になりだした。だらりとしていた身体に、力が漲っていく。
「あっ、あっ、あっ」
「……早梛、さん?」
「あ、あ、うぁあああああああああああああああああああああああああああ‼」
突如、叫びを上げた。
「早梛さん!」
がくがくと震え、頸を、肩を、腰を、しきりに打ちつけ、目を見開く。
骨の折れた手足があらぬ方向に曲がり、自ずから拉げてぐぎり、ぐぎりと音を立てる。
「ぅあああああああああああ‼ あ、ああ、ああああああああああああああああああ‼」
急激な変化に耐えきれないのか、奇声を発しながら、わけもわからず暴れだした。みるみると涙が溢れ出し、口から、鼻から、耳から血が流れていく。
「早梛さんっ!」
早梛が自身を傷つけないよう、必死に押さえつける。
「あ、ああ、あ、うあああああああああああん! うっ、ぅああ、ああっ」
ものすごい力だ。先ほどまでの力なかった様子が嘘のように、この細い身体のどこに秘められていたのかと思うほどに。
ありえない光景が広がっていた。どうあっても助かりようのなかった、一目見て臓器の欠損が窺えた早梛の腹部の凹みが、次第に盛り上がっていく。四肢の骨折がぼきぼきと軋みながら修復されていく。切り傷が塞がり、真新しい皮膚が形成されていく。咳に混じる血の量が減っていく。
「あ、あ、あ、ああ、うっ……」
「早梛さ、早梛さん! 早梛さん、しっかり!」
痛々しい様相に、恐ろしくなる。果たして、彼女の身に何が起こっているのか。回復したとして、それは本当に、いままでどおりの早梛なのか。取り返しのつかないことを、してしまったのではないか。
「早梛さん、早梛さん!」
時幸はただ、名を呼び続けることしかできなかった。
散々暴れ回って……ふつっと、糸が切れるように唐突に、再び早梛の身体から力が抜けた。
「⁉」
慌てて顔を覗き込む。
眼を瞑ったその顔は、眠っているように穏やかで……すうすうという規則正しい寝息が、聞こえた。
どう見ても致死量に至るだけの出血があったと思しき服の染みが残るのみで、早梛はきれいな状態だった。誰もが一目見てもう助からない、と匙を投げるような大怪我を負っていたなど、信じられないほどに、十全だった。
「あ、……」
ぽろぽろと涙が落ちる。こんなに泣いたのは久しぶりだ。
同時に、笑みも零れた。ぐしゃぐしゃと相好を崩し、子どもみたいに泣き笑った。
しばらくそうして、早梛を見守ってから。
ぐしぐしと顔を拭う。
振り仰いだ。
湖麻由は息子の気が済むまで黙って待っていた。彼が年甲斐もなく泣き腫らすのも、ずっと眺めていた。
「……ありがとうごさいます。早梛さんを、救ってくださって」
「いいの」
軽く頭を振った。
「ユキちゃんのお願いならなんでも聞いてあげる。お母さんだもの」
時幸の母親は薄く目を細めて微笑んだ。
「だからユキちゃんも……お母さんがお願いしたら、お手伝いしてくれるのら?」
突きつけられた言葉に、
「……はい」
頷くしか、なかった。
「おいで、ユキちゃん。だっこさせて」
笑顔のまま、腕を開く。
まるで息子をたやすく抱けていた、あの頃みたいに。
拒む権利は、時幸にはない。
幽鬼のように気の抜けた様子で立ち上がると、ふらふらと歩みだした。
距離はあっという間に埋まって、少年は小さな身体の前に立つ。上背は息子の腰ほどまでしかない。
望まれるままに、時幸は。
跪いた、というより、力が抜けるように、すとん、と、膝をついた。
空っぽになったような身体に、腕が回される。
拒んで、嫌がって、捨てて、逃げて、手を振り払って、見ないふりをして。
それでも結局、時幸は。
【魔女の息子】であることを、受け容れた。
この腕の中に、自ら戻ってきてしまった。
*
それが時幸の、限界だった。
親子の情に縋り、自分を曲げてしまった。
理由や見返りを必要としない繋がりを認めてしまったことで、いずれ息子としての務めを果たすことに、応じてしまった。
好きとか嫌いとか、期待に応えたいとかどうとかは関係ない。湖麻由に頼らざるを得ない状況に陥ったことよりも、そんな状況で、大事なことで、……母を頼ってしまった心理こそ、悔しかった。
この屈辱が、事実が、限界が、おそらくずっと、時幸を苛み続ける。
どうしようもなかった、いずれこうなっていた、という、諦観もある。
もうどうにでもなれ、という、なげやりな虚無もあった。
――だが。
目覚めた早梛を見た瞬間。
その温かな頬に触れたとき。
悔悟でも、悲嘆でも、恐怖でも、自己嫌悪でも、喪失感でもないものが、胸に去来した。
……よかった。
早梛が生きていてよかった。生きていてくれてよかった。これで、よかった。
そう、心から、思えたから。
間違ってない。何も間違えてなどいない。
早梛を見捨てることで保たれる立場やプライドなどどうにでもなれ。
《機関》の時幸でなくていい。現夜時幸でなくてもいい。たとえ、いずれ時幸でなくなったとしても、かまわない。
守るべきときに、守るべきものを守った。
どれだけ無様だろうと。
どれほど惨めだろうと。
時幸が守りたかったものは、守り通せた。
本当に大事なものを、見失うことはなかった。
早梛だけは、諦めなかった。
早梛が生きていてさえくれれば、それで、それだけでこの選択は、報われるから。
笑顔をもう一度見られただけで、充分、誇らしく思えるから。
痛みが、自責が、限界が、この胸を苛んでも。
あなたがここにいるそれだけで、これからも自分を、生きられるから。
この決断は、間違ってなどいなかった。
だから、後悔なんて、きっとない。
いつか選択の代償を支払わされるときが訪れるとしても。
大事なものを、自らの手で壊すことになろうとも。
――たとえ、守りたかったはずの者にさえ、拒絶されたとしても。
――エピソード3・魔女の鳥籠 End




