10‐3 瞳を逸らす
「“青海波”を含めた一型の《ディヴィジョン》は、どちらかというと生物より現象に近い。熱源を持たず、実体といえるものがあるのかもあやふやだ。肉眼で見えてもレーダーでは捉えられないときもあったし、その逆もあった。そのときどきで重さも違う。文字通り計り知れない、異なる次元のもの。そんなものが“消失”した。現象だから消えた、ことにはいまさら突っ込まないけど……」
東海区支部の一室、主に生体研究を担当する部署。平面画像と立体ホログラムが立ち並び、“青海波”のスペックや、崩壊した塔から採取された物質の解析結果が次々に映し出され、数値が更新されていく。
それらを一様にモニターできる場所に配置された、普段は班長が座るという革張りの椅子。だが、いま腰掛けているのは、ともすれば家具の威厳に負けそうなほど平凡な容姿を持つ男だった。
「吸収って、どういうことだよ?」
仁藤は報告書と目の前にいる人物の顔を見比べる。
報告は既に任務終了後……半日前に、とっくに上がっている。土壌も含め、【魔女】と【眷属】の残滓は、どんな些細なものであれ回収され、いまも着々と収容されている。だから、本来なら後は研究者の仕事、それこそ仁藤の本領発揮、のはずなのだが……。
「大半は土に浸み込んだとはいえ……彼の体積と現場の残留物の和が推定質量と一致しないんだけど?」
「専門家であるあなたにわからないのでは、ここの誰も答えられないでしょうね」
続岩は肩を竦める。
「まあ、それについては、実はあまり気にしてはいないんだ、どうでもいいから」
「なら聞かないでください」
秘書の怒りを滲ませた言を無視して、仁藤は手前のモニターを引き寄せた。
「あの“青海波”がまさかこんなところで崩壊するなんてね。ヘリから見てたとはいえ、俄かには信じられなかったよ。まあね、いろいろ思うところはあったけど……とにかく、一型の細胞を大量に採取できるなんて思ってもみない収穫だ、と、思っていたんだよ」
そこでがっくりと肩を落とす。
「何が不満なんです?」
「不満っていうかね……死んだ細胞だったんだよ」
「? そりゃそうでしょ」
何をいまさら、という顔で、続岩は小首を傾げた。
「これまで人類が獲得可能だったクラスⅠの細胞は、すべて死んだ後もクラスⅠだった。でも“青海波”は、あの死骸は違う。現象に近い、とはいったものの、やっぱり生体であることに、いや、生体でもあることに、間違いはなかった。だからね、つまり……成分が変わったんだ」
クラスⅠの死自体は珍しいものではない。【魔女】によってまちまちだが、《ディヴィジョン》は“一なる命題”を完遂さえすればいいだけの使い捨ての駒という側面さえある。四型“リーパ”、三型“天権”など、《機関》が討伐に携わったクラスⅠも少なくない。しかしそれらは、死後も骸が残り、故に人類にも研究利用ができたし、生体移植も可能だった。
「“青海波”の大半は液状になって土に浸み込んでしまった。でもあの質量だ、回収できた部分もある。でもそれが、急速な不活性化とともに、地球上の物質としてありえなくもないものに変換されていったんだ。【魔女細胞】でさえなくなりつつある。いままでの“透過”や“不可視”の使い分けは、細胞の活性状態を使い分けることで実現していたんじゃないか、という仮説を立てたんだが……ケースがケースだけに、自信がない。なぜでしょーか」
「だーかーらっ、俺にわかるわけないでしょって」
「それでも君は僕の秘書か!」
「業務内容に含まれてないんで」
ぴしゃりと言い返し、そっぽを向く。
「死んだことで成分が変わったのか、トッキーの身体を通り抜けたことで成分が変わったのか、判断がつかないから」
「……」
黙殺という形で意志表明する若い秘書に、仁藤は澄んだ黒い眼を向けて、やれやれ、と肩を竦めた。
「……わからないことはまだある。なんで富良賀湖麻由は、このときこの場で“青海波”を処分することに決めたと思う?」
専門家というより、《機関》総帥として意見を求めていると察し、素直に返答する。
「……報告の通りだとするなら、致命傷を負った息子を助けるためでしょう。ですが……ユキは、死ねば治る。知らないはずがないでしょうに、わざわざ生かしたまま、助ける必要があったのか」
「そう。特に“青海波”は、出産以前に生み出した【眷属】だ。ここで失うことは湖麻由にとっても想定外だった可能性が高い。それでも、貴重な駒を使い潰すに見合うだけの見返りを得たとするなら……」
「……」
黙って視線を混じり合わせる。
「……まあ、それについては僕が依然考えた仮説のこともあるし、一旦は置いておこう。最大の問題は、彼の隠し事についてだ」
「……医療室の報告によると、意識が戻らないものの、いまのところ異常は見られないそうです。ですが……」
時幸の幼馴染は、深々と溜息を吐いた。
「トッキーが死ななかったのはGPSが作動したままだから本当。一型と彼は大元が同じだ。だから“青海波”を取り込んで彼が癒えるのは、まだわかる。……でも、他の人間にはそうはいかない。報告にあった、彼女も“青海波”を被って傷が治った、なんてのは、ありえるはずがないんだ。……かといって、あの規模の任務をこなして、小里川志緒に監禁されて、建物の崩壊に巻き込まれて。ほぼ無傷であった、理由が見当たらない」
一度目を通した報告書を、再び表示させる。
「《ディヴィジョン》を取り込んで負傷が治るのだとすれば、既にヒトでなくなっている場合のみだ」
さすがの続岩も、顔を蒼褪めさせた。
「……富良賀湖麻由が、彼女にも何かした、かもしれない?」
「本人の意識が戻らないことには自覚症状の有無は確認できないから、まだ確実とは言えないけど……身体の隅々まで調べたが不純物はなし。《ディヴィジョン》になったわけでも、寄生されてもいない。《調律の彼女》になったというわけでもない。どこをどう見ても、何回調べても、彼女は人間のままだ。まるで、悪いものだけ選んで洗い流したみたいに、きれいな状態だったんだ」
「なら……」
仁藤は目を伏せ、深々と息を吐き出した。
「……何とも言えないな、いまのところは。さっきも話した通り、“青海波”を含む一型の《ディヴィジョン》にはブラックボックスが多すぎて、どんな例外が起こってもおかしくない。だからトッキーも、彼女にほんとは何があったのか、口を閉ざすわりに、検査を受けさせることは強く望んでいたんだろう」
ヘリで近づいている間、巨体である“青海波”の崩落は確認できたものの、その後数分間、何があったのかは遠く、仁藤は目撃していない。視認できる距離に近づいたときに見つけたのが、廃墟の真ん中に座り込み、早梛を抱えて呆けたように空を仰ぐ時幸の姿だった。
その後彼は、施設崩落時に一時的にはぐれ、発見したときには早梛はいまの状態だった、と報告した。彼女もまた“青海波”を取り込んだというのは推測だが、服に夥しい量の血液が付着していたこと、にもかかわらず無傷だったこと、他に妥当な理由が見つからない。
だが仁藤は、時幸が真相を知っていると察していた。
「嘘をばれにくくするには、真実を混ぜることだ。“青海波”の消失、湖麻由がそれを承知したことと、彼らが無傷で生還したことは繋がっている。一方で、彼、自分同様に早梛嬢が弄繰り回されることについては激しく抵抗しているみたいだ。自分以上に」
凪いだ黒い瞳はそのまま、鏡のような銀に染まりかける。
「僕に、彼女のことで……早梛嬢のことで、湖麻由のことで、隠し事をして。結果的に自分の首を絞めることになるのは、あの子の方だ」
「そう……ですか」
続岩は歯切れ悪く呟いた。
「……意識が戻ったら、しばらくは療養という名目で、引き続き研究室に留め置いて。異常がないと判ったらエージェントに復帰させて、監視を続行、と梅島にも伝えろ」
「わかりました」
「君にはあの塔の調査と後始末を。通常業務との並行は可能か?」
「問題ありません」
「……場合によっては、気が進まないけど、大御所に意見を窺うことになるかもしれない」
「それも承知です」
「あと、トッキーはしばらく拘束だ」
さらりと、仁藤はつけ加えた。銀雪のような瞳で、にこりと笑う。
「湖麻由と二人きりの時間があったんだ、妥当だろう?」
「……でしょうね」
肩を竦めた。
時幸は明らかに何かを隠している。隠し事があると、すぐばれることも、その内容さえ、いずれ隠し通せなくなると、本人もわかった上で。
それは仁藤の言うように、時幸自身に決定的な弱点を作ってしまった。そのことに時幸は気がついているだろうか。気づいていても、その理由を、自覚しているのだろうか。
おそらく、時幸は仁藤の通達を甘んじて受け入れるだろう。その態度の裏側に、《機関》への嫌気というより、時幸自身への諦めのようなものが垣間見え、男は瞳をそっと閉じた。
「わかりました。伝えておきます」
「頼んだ……すまないね」
「いいえ」
時幸の幼馴染を悪者にして、その申し訳なさとありがたさで、仁藤もまた、そっと眼鏡の奥の瞳を閉ざす。
本来なら徹底的な生体解剖と、容赦のない尋問を行うべきなのだろうが、それはできない。一期と養子縁組を行なった時幸には、法的に人権が認められている。
そうでなくても、ストレスによって引き起こされるであろう事態は軽視できない。かつて同様の仕打ちを受けた彼の母親や、他の【魔女】の軌跡を辿らせるわけにはいかない。それを断行した研究者達と同じ轍を踏むわけには、いかない。
仁藤の記憶の中の富良賀湖麻由は、すべてに諦めていた様子でありながら、その奥にどす黒い闇を抱えていた。あれから十六年。その闇が熟成されることはあっても、薄まっていることはないだろう。彼女の心の内が濁って不透明だからこそ、目的が読めない。後手に回ってしまう。そのことを仁藤は後悔している。彼女に与えられた肉体的・精神的苦痛を静観し、【魔女】と人という線を引いた、彼もその一人なのだから。
もう一人、どうしようもない後悔を抱えている人物がいる。
自分ではどうしようもない体質を抱え、大切な人を傷つけるかもしれない己に常に抗い続け、気の休まる時間などなかったにもかかわらず、世界はそんな彼を化け物と呼んだ。両親、環境、平和で悩みのない他人。この世のあらゆるものを憎み、絶望してもおかしくなかったにもかかわらず澄んでいた、そういう男だった。無力な仁藤に、立派なお医者さんだと、いつもすまないと笑いかけた。あまりにも透明だったが故に、自害なんていう道しか選べないほど潔白だった、菊織日聖。
面識のないはずの、あまりにも対照的な二人。だがその二人の血を受けて、生まれた存在がいる。
「ああ……なんという、因果だろう」
目を開ける。黒曜の、柔らかな眼差しで、初老の男は微笑んだ。
「……ところで、彼はいまどこに?」
「ああ、それは……」




