*第五章*
「師匠は、どうしてこんなに、俺を気にかけてくれるんですか」
それは何回も、何十回も考えたことだった。
「俺は、こんな身体ですし、『あの人』にもいろいろ弄られて、もう、自分でもきもちわるくて。《機関》にもよく思わない人がたくさんいて、ほんとに冷たい目で見られてばっかで、研究者に任せたほうがいいんじゃないか、っていうか、それがふさわしいあつかい、の、はず、っていうか……」
先ほどまで、いつものように、からかうような笑みを浮かべていた一期は一転、真剣な様子で、少年の言葉を聴いている。
「なのに、師匠は……師匠は初めから、俺を気にかけてくれて、心を砕いてくれて。ずっとずっと楽な道も、良い道もあるはずなのに、俺のために、苦しい道を選んでくれて。俺がちゃんと生きていけるように、いろいろ、尽くしてくれて。師匠みたいになれるように、教えて、鍛えてくれて。それで、いつか仕事を手伝ってほしいとか、そういった、ほんとに、もったいない言葉を言ってくれて。も、もちろん、嬉しいです。けど、でも……どうして俺に、俺なんかに、こんなにしてくれるのかなって」
照れたり、詰まったり、言いたいことが纏まりきっていない様子で、訥々と語っていく。
されど、最後に出てきたのは、わかりきった言葉で。
「けど、それって……俺が」
――だから、ですか。
それを聴いた一期は、顎を摘まんで「んー」と唸った。
飽くまで何気ない、いつもどおりの仕草だった。
「少し違うな」
「違う?」
意外な言葉に、目を瞬かせる。
「たしかにそうなんだが……それだけってわけでもなくてな」
そういって、時幸の師匠は。
「おれが、――」
*
目を開けると、白いくせに何の面白みもない天井が彼を出迎えた。
「おはよ~、よく眠れた?」
「……あまり」
硬い寝台から身を起こすと、案の定、疲れが取れ切れていない筋肉がぎしぎしと軋む。一日の作業効率を上げるために柔軟でもしたかったが、機材に囲まれた研究室ではおちおち身体を動かすことさえできない。
起き抜けのデータを採ろうと夏来がせこせこと近寄るのを「着替えるので」と遮り、パーテーションを展開する。
「……あの後、どうなりましたか」
「うん? 一命はとりとめたみたいよ。七型でよかったわ」
時幸は昨日、スペイン語の通訳を終えた後、その足で鑑識へと向かった。早梛が突き飛ばされた件の時刻の映像照合結果を確認するためだ。
聞いた話によると、何者かによって数時間分のデータの改竄や不正消去が行われたらしい。それが行われたのが丁度、時幸達が《フィフスボーダー》を相手取っていた時間帯。ただ、問題の映像は笙香の指示でいち早く外付けメモリに保存されており、隠滅を免れた。あの混乱の中、とっさに事件性があると感づき、手早い対策をとった手腕には感謝しかない。
果たして、映像には無防備な早梛に手を伸ばし、突き落とした人物の姿がはっきりと記録されていた。渡瀬の部下の《メイジャー》の一人だ。白々しいことに、早梛が落ちた後、周囲の《メイジャー》同様呆気にとられた様子で落下する少女を見下ろしている。すぐさま常務部に事実確認を行おうとした矢先、驚くべき知らせが入ってきた。
渡瀬が、何者かに刺されたらしい。
鑑識は騒然となり、現場検証諸々で一気に慌ただしくなってしまい、やむなく捜査は打ち切らなくてはならなくなった。彼女が刺された理由は不明だが、下手人は捕まっておらず、他の職員にも戒厳令が出された。時幸自身、寮に帰らず研究室に泊まるよう指示が出され、あまり寝心地の好いとはいえない寝台で一夜を過ごす羽目になった。
「使用された刃物に関しては、特に【魔女細胞】は検出されなかったから、計画的な犯行っていうより弾みっぽいわね。でも、わたくしは確認してないけど、現場ではかなりの手練れ同士の乱闘があったと見られているわ。おそらく内部の犯行だろうけど、《メイジャー》か討伐班か、それとも訓練教官なのか……。アレッサンドラちゃんも、どうして職場から遠いあんな奥まった場所にいたのか不明だし。意識が戻るのを待つしかないわね」
「……監視カメラの映像は?」
「それがね、ちょうどその時間頃、映像データへのハッキングがあったみたいなのよ」
「またですか……」
「民間人が壁から落とされるのもショックだけど、さらにショッキングなニュースね、刃傷沙汰なんて。ほんと、世も末だわ」
時幸がパーテーションから出てきた。相変わらずの制服姿だ。「んじゃ改めてデータを……」という夏来を無視して研究室を出ていきかけるも、
「そういえば、開発班から新しいJ・Rの試作型が来てるわよ」
「見ます」
踵を返す。
「アルミでしょうか。前々から要請してはいますが、鎖自体にも伸縮性が欲しいところですね。こっちは……なるほど、喜平型ですか。何回か使ったことはありますが、この細さは初めてです。スイッチも随分洗練されましたね。アタッチメントは錘ですか、あ、もちろん交換可能ですよね? って、持ち手側にも装着可能⁉ 従来のデザインを踏襲しつつ新しいギミックまで……ああ、すばらしい」
「武器にわくわくするなんて……ほんと、男の子ね」
発言の一部を強調し、「気に入ったんなら持ってっていいわよ」と告げる。
「いいんですか」
「さっきも言ったけど物騒だしね」
夏来の言葉に、気を引き締める。
結局、なぜ早梛が突き落とされたのかは不明だ。彼女の身を預かっている時幸の、ひいてはそれを命じた琴羽の失脚を狙っているのだとしたら、それは犯人である渡瀬の部下一人の意図であるとは思えない。そんな矢先に渡瀬が刺されたのだから、何らかの関連性を疑うのは不自然なことではないだろう。……どちらにしろ、今日は早梛に一日張り付いていた方がよさそうだ。
端末を取り出し、時刻を確認する。まだ笙香は寮を出発していないはずだ。電話を掛けると、ワンコールで応答した。昨日の礼を述べ、早梛を寮の外まで送り届けてほしい旨を伝える。起きたばかりであろうに、彼女は快諾してくれた。
J・Rを腰の金具に取り付け、今度こそ研究室を出ていこうとする。
「え?」
「……え?」
*
次々と到着する電車から、人が慌ただしく吐き出されていく。
「……おかしいですね」
「え?」
「今日は少し、人の流れにムラがあります。……嫌な予感がする」
隣に立つ笙香が小首を傾げる。背の低い早梛は大抵の人を見上げることになるのだが、とりわけ彼女は背が高いので、首をありったけ伸ばさなくてはならなくなる。
今朝、日課のストレッチと抜刀を済ませた直後、彼女が迎えに来た。早梛を寮の外まで送り届けるよう時幸から頼まれたらしい。二人で地下鉄に乗って駅に降り立った瞬間、早梛も何やらただならぬ様子を肌で感じ取っていた。
「しょーかちゃん!」
と、生天目の声が聞こえてきた。そちらの方向を見ると、人込みを掻き分けようとしてなかなかこっちに辿り着けない彼女がいた。
「急いで通信室に行って! 様子が変なの、特にいりすちゃんの!」
「わかりました。すぐ向かいます」
そのまま生天目は人波に流されて見えなくなった。
笙香は一瞬だけ形のいい眉を顰めたが、すぐに早梛を安心させるように目尻を下げた。
「いりすさんがおかしいということは、討伐関係で大事が起こったということですね。……とりあえず、あなたを早くユキさんと合流させなくては」
早梛が差し出された手を取ると、つかつかと歩きだした。
「うわぁ」
笙香はただ早足で歩いているだけかもしれないが、身長差がある分歩幅もかなり違っていて、早梛はとてとてと不格好な形でついて行くしかなかった。
体格の良い彼女が進もうとするだけで、人込みは向こうの方から道を譲ってくれた。ありがたいが、晒し者みたいで落ち着かない。
昨日治療の後通されたのと同じ、研究室や診察室の並んだエリアに入る。と、僅かに話し声が聞こえた。言い争っているようだ。
「だ、か、ら、急いでいるんです」
「いいじゃないのちょっとくらい、減るもんでもないし」
「減りますよ、俺の尊厳が!」
バターン、と、目の前のドアが吹っ飛ぶように開き、時幸が飛び出してきた。制服のジャケットが半分ほど脱げかけていて、片側を夏来が引っ張っている。
「泊まるなんて滅多なことでもないし、昨日は特にいろいろあったんだから」
「こうなることが判っているからです、ああもうっ」
苛立ったように、腰につけている円盤の一つを外して振り上げた。薄い金属同士が擦れ合うシャラシャラという音とともに鎖が二人の周囲を囲む。
鎖の輪の中に潜り込み、颯爽と夏来の手首に架け渡すと身を捻り、ぐいっと引き絞る。
「あ、あらあら」
腕を縛られた夏来の腰を脇に抱えつつ、足払いを掛けて転倒させる。一瞬、宙に浮く形になった彼女を横抱きにし、脚にも鎖を巻いて封じてから床に下ろす。
“バトラー”。幾つかある“審判”の型の中で最も初歩の、非戦闘員を相手取る業だ。
四肢を封じられた夏来は「ぐぬぬ」と声に出したが、
「わたくしは諦めません! 何が何でも検査を受けてもらうから。ちょっと皆、手伝って!」
叫んだ途端、開け放したドアから十数名の研究者がわらわらと現れ、時幸の周りを囲むようにする。
早梛はしばらく呆気にとられていたが、……拳をふるふると震わせ、つかつかと歩み寄った。
「あ」
「失礼します」
静かに、しかし毅然と言い放つと、時幸の腕を掴んですたすたとその場を後にする。
研究室から50メートルは離れたところでやっと立ち止まり、深く息を吐く。そこで掴んだままだったことに気づいて少年の腕を放す。唖然としていた時幸は、慣性の法則に従ってたたらを踏んだ。
「あ、その……ありがとうございます」
「別に。あの人達のやり方が気に食わなかっただけ」
腕を組み、少年を見上げる。少し戸惑ったような表情は、彼を実年齢よりも幼く見せた。
「お二人とも」
と、笙香が小走りで走り寄ってきた。
「研究部部長達にはわたしから言っておいたのでご安心ください。それと、これ、よろしかったらお二人で召し上がってください」
と、小さな包みを手渡すと、踵を返して去っていく。
「……早梛さん、お食事は」
「まだだけど」
「俺もです。……せっかくなので、頂きましょうか」
近くの空いている小部屋で、朝食にした。包みを開ける。中に入っていたのは魔法瓶と、色鮮やかなサンドイッチだった。
「あっ、苺のがある。これほしいな」
「苺、お好きなんですか」
「うん。紅ほっぺ、だっけ。あれが一番好き。東海区からの国内輸入品だからちょっと高いんだよね。でも好き」
一緒に入っていたウェットティッシュで手を拭い、サンドイッチに手を伸ばす。
「あ、おいしい」
小さな口でサンドイッチの角に齧りつき、ふくふくと頬を動かす早梛を、時幸はあたたかい目で見守った。まるで小動物のように愛らしい食事風景だ。
「……少し、意外です」
自身もローストビーフサンドに手を伸ばしつつ、口に出す。
「何が?」
「いえ……」
先ほど、研究員十数名を相手取っても毅然としていた様子を思い起こす。
「早梛さん、思っていたより大胆な方なんですね。しっかりしていらっしゃるというか、その、変なこと言いますけど、まるで、お姉さんみたいだなって」
「私、あなたより年上だよ? ちっちゃいから忘れちゃった?」
「あっ、い、いえ、失礼しました」
「いいよ別に」
事実、気を悪くした様子もなく、上背を測るように手を平行にして翳す。
「中二くらいのときから止まっちゃってさ、いろいろ苦労もしたよ。妹はすくすくおっきくなったのに」
「妹さん、ですか……」
「うん。……生きていたら、あなたと同い年」
「……少し、羨ましいです」
食事の手を止めて、俯きがちに呟いた。
「俺は、兄弟どころか、家族というものがわからず育ちましたから」
「え?」
とっさに否定しようとした。昨日確かに聞いたのだ。
だが、それより前に。
「父親は初めからいませんでした。母親は、俺を棄てました」
さりげない残酷な言葉が、反響する。
「母の記憶がないわけではありません。だからこそ事実からも目を背けられない。俺にとって家族と呼べるのは、戸籍上の養父でもあった師匠だけです」
時幸は淡々と話しだす。
「昨日、ご覧になりましたよね。……俺の身体は、《ディヴィジョン》に対して万能の武器になりえます。これは生まれつきのものです。血の一滴でも身体に入れば、どんな《ディヴィジョン》でも死滅する。……一型であっても。それ故に、《機関》に来たときから注目されると同時に、腫れ物に触るように扱われた。《ディヴィジョン》を易々滅ぼせるということは、人間も簡単に殺せるということですから」
「……‼」
予想していた以上の事実に、全身が粟立つ。
「昨日、早梛さんは俺が学校に通えている、普通の高校生、とおっしゃいましたが……逆です。本来なら、俺は一生研究所の中から出られない存在です。それを師匠が、自身の後継としての価値を与えてくれました。エージェントになり、《機関》に繋がれることを条件に、俺は人権を持った個人として扱われる。エージェントになれなければ、俺は実験動物として、危険人物として、夏来さん達に管理されなければならない。師匠は、俺を連れて帰れば、《機関》でどのような扱いを受けるか予測がついていました。だから先手を打った」
対人有害生物対策法特例養子縁組制度。《ディヴィジョン》によって子を失った親が、同じく孤児になった子どもを育てやすいように、従来の養子縁組制度を大幅に簡略化したものだ。現在では財産相続などの面から見直しが検討されているが、一期はそれを利用した。公的に時幸の人権を保障させ、さらに《薪の塔》や《赤の帝国》とも裏取引を行い、《機関》になくてはならない人材となることで優位な交渉ができる基盤を作った。
「《機関》としても、俺を他の組織に連れて行かれるよりかは、という理由で了承せざるを得なかったんでしょう。……もっとも、師匠にとっては、それだけではなかったようですけど」
「?」
「師匠は、俺に……亡くなったご友人の面影を、重ねているようでしたから」
「それって、笙香さんの言ってた?」
「ご存知でしたか」
時幸は少し、目を伏せた。深い黒の瞳に影が差す。
「……彼が自殺だったことまでは伺いましたか」
「え……」
一瞬、視界の色彩が消えうせた気がした。世界から音も光も消失したような、残酷な平坦が周囲を満たす。
救えなかった。
友の苦しみに気づけなかった。
笙香が言っていたのは、こういうことだったのか。
「俺は会ったことはないんですけどね。師匠は親友について、しょっちゅう語りたがったんです。そんなときのあの人は本当に楽しそうで、嬉しそうで。自慢の、大好きな友人だったんだなって、思いましたよ」
――ちっちっち、まだまだだな、ちびゆきくん。
――ちびって言わないでください!
――むくれんなよぅ。きれいな顔が台無しだぜ。
――誰のせいだと思って……。
――いや、ほんとおまえ日聖に似てきたな。あいつも日に日に顔がよくなってたからな。
――だからなんですか。
――いや、聞けよ。あいつはさ、ほんとに、いい奴だったんだよ。あ、顔の話じゃないぜ。いや、顔もよかったんだがな。学校中の女と一部の男から告白されまくってた。全員振ってたけどな。
ほんとにさ、心意気っていうか、精神がまず澄んでたんだよ。誰にも優しくて、誰とも波風立たせず、誰とも打ち解けようとして。あいつの優しさは、無関心とか、奉仕しようって気持ちじゃないんだよ。相手を知ることで、とことんぶつかり合うことで、真の信頼関係ってのを築いていく力だったんだ。おれみたいに、ときに掴み合いの喧嘩だってした。「日だまりの聖」って名のとおり、普段はひたすら穏やかな奴だったんだけどな。
だから、あいつと知り合った奴は皆あいつが好きになる。あいつが、人との関わりってのに真剣だから。そして、そんな周囲の人間が好きだったから。
だから……なんだろうな。
耐えられなかった。
師匠はことあるごとに、時幸に、会ったこともない男の話をした。大抵は好意的な内容だったと思う。師匠から友人の悪口を聞いたことがない。意外と強かなところやいざとなれば暴力も辞さないところも含めて、師匠にとって「できた人」だったのだと思う。
少し悔しかった。師匠にとって未熟、半人前である自分を前にして、師匠が尊敬している人物について、嬉しそうに話を聞くのは。そして、痛々しかった。話の結びは大抵の場合、師匠の苦悩と後悔だったから。
それに踏み込めないことが、最後まで寂しかったのだ。
「……」
早梛はしばらく、何も言えなかった。
ふと、問いを投げかける。
「……現夜さんって、どんな人だったの?」
「師匠です。戦闘術、交渉術、武器や装置の扱い、エージェントとして必要な何もかも。それだけでなく、『生き方』を教えてくれました」
「違うよ。時幸くんから見てどんな人だったのか、人となり? が知りたいの」
「人となり、ですか……師匠の」
時幸はしばし考え込む。
「……大人げない人でしたね」
「へ?」
「例えば修行の一環で、『いつでも、どこからでもかかって来い』っていう課題を出したことがあったんです。で、実際俺が闇討ちしたら返り討ちにして。自分からふっかけた課題のくせに、容赦なくてですね」
「へえ……」
何というか、早梛の中の「現夜一期」のイメージと全然違う。
「確かに仕事はできましたし、生活能力がないわけでもありませんでした。ですが、人間として決定的なものが欠損していましたね。いろんな意味で。もちろん尊敬はしていますし、恩も感じています。ですが、された所業を水に流せというのは、それはそれ、これはこれです。しょっちゅうからかわれましたし。いや、からかうというか、嫌がらせというか。子どもだろうが格下だろうがガチで。任務ならむしろそうであるべきなんでしょうけれども、あの人の場合、遊びでこそ本気を出す人でしたからね。負けず嫌いでもありましたし」
一期にされたいたずらを思い出しているのだろう。時幸は口をへの字に曲げた。なんというか、かわいい。
「だいたいこんな感じの人でしたね。任務以外では『にゃはは』と笑って、ふざけているように見えてストイックで、優しそうなのにどこまでも冷静で残酷。自分の手の内も心の内も見せないのに、こっちがぼろを出したら突き崩してきて、やりにくくて。かといったら絡んできて、スキンシップも激しいですし、妙なところで常識人、テンションが変に上がっていると思ったら冷ややかに突っ込んできてこっちが恥ずかしくなるし。よく言えばパワフル、悪く言えば……変人、と、評せざるをえない。いろんな意味で底の見えない人でしたね」
「それは……すごい人だったんだね」
「はい。それは」
こくり、と頷く。
「先ほども言いましたけど、尊敬していたんです。尊敬していたし、恩も感じていました。いまの俺があるのはあの人のお陰です」
「へえ。……ちょっとわかるかも」
「? 何がです」
「現夜さん、が、時幸くんを、ほっとけなかった理由」
そう言って、改まって向き直る。
「……時幸くん、傷ついてもいいって思ってるよね? 自分にしかできないことだから、自分が身を削ることで他の人が助かるならって。わかってる、《機関》でもない私に何か言える筋合いはない。でも、見ていてはらはらするの。放っておけないんだ」
「はい?」
「もちろん、強いのは知ってるよ。私より戦い慣れしてるなあとは思うけど。……けど、自分について執着が薄いというか、目的のためならいくら傷ついてもいいって思ってそうな危うさがあるんだよね。だから……」
「守りたいって、思ったんだ」
強くて柔い、青い少年を。
一期の無二の親友、あの写真の青年にどこか似た昏さを持つ、沫雪のような彼を。
「それは……」
言い淀む。
「俺は、けれど……まだまだ未熟で、自分の特性を、活かせていなくて……こういった戦い方しか、できませんから」
大抵の人間は、《ディヴィジョン》よりも弱い。故に、限られた選択肢の中から、いかに生き延びられるか、いかにして相手を倒すか、工夫し、真剣に考え、進化することで道を切り開いてきた。しかし、血肉そのものが対《ディヴィジョン》の武器となる時幸にとっては、《ディヴィジョン》への対処はワンパターン、それも自己犠牲を前提としたものになりがちだ。万能であるが故に、成長もない。
「特性のない俺は《ディヴィジョン》と対等に戦うなんてできませんし、気の利いた作戦も思い浮かびません。一応、生産者特権でBMWSはいくつか所持してはいますけどね」
BMWSの正体は、時幸の血液を利用した武器だ。定期健診の際に採血され、加工される。
「……それが良くないんだよ」
それを聞くと、早梛はますます眉を顰めた。
「自分が奉仕するものだって、搾取されても致し方ないって考え方があなたの中にある。いくら微妙な立場でも、あなたにしかない特性であっても、あなた自身までそんな気持ちなのは良くないと思う。むしろ、《機関》の方を利用するくらいじゃないと」
そう言って、置いていた刀の鞘を撫でる。時幸ははっと顏を上げた。
「……気持ちに、変わりはありませんか」
「ええ」
改めて、強い決意を滲ませる。
「変わらないよ。私は家族の仇を討つ」
たとえ相手がどれだけ強大な存在であり、勝ち目が薄くても。
たとえ相手が、どんな事情を抱え、どれほど哀れな存在でも。
何を利用してでも、何を犠牲にしても。
早梛の歩みは止まらない。
「……ほんとはね、家族のこと、好きじゃなかったの」
ぽつり、と、声に出す。
「私、無意識に、家族のことを見下してたんだと思う。親や妹も私を馬鹿にしてたけど、心の中で私も、家族のこと、嫌ってた。……だから、」
すぅ、と、息を吐き出す。
「『対決』したかった。けど、できなかった」
「……対決、ですか」
「そう。家族と決着をつけるのは、私であるべきだったの。いつか、家族と向き合って、ぶつかって、縁を切ることになってもとことん話し合おうって思ってた。……でもさ、あんな形でいなくなっちゃった。そのときにさ、思ったんだ。こんなのは、公正じゃないって」
「こうせい?」
「そう。確かに私は家族が嫌いだったよ。しょっちゅう喧嘩してた。けど、あんな惨たらしい方法で殺されるような悪いことは、けしてしなかった人達だった。誰よりも私が、それを知っていた」
だから、と、早梛は続ける。
「こんなのは道理に合わない。悪いことをしていないのに罰を受けるなんて、そんなのは間違ってる。私の家族はそうだった。そして……私も」
早梛は、家族と対話する機会を奪われた。早梛があたりまえに享受するべき権利を、永遠に失った。
「私の復讐は、私のものなんだ。家族のためじゃない。私だけ助かったことに意義があるとしたら、それは私のため、私自身がここから進むため」
「……それでも」
時幸は首を振る。
「早梛さんは、優しくて、素敵な人です。自分の気持ちを持ったまま、ご家族が理不尽に殺されたと思っている。優しくて、正しい人です」
「そんなことないよ」
顎を組んだ手の上に乗せる。
「私は、あなたが思うようなきれいな人間じゃない。仇にもそれなりの理由があったかもしれないし、ここまで来るのにあなたも含めた多くの人に迷惑をかけてきた。それでも自分のエゴのために進むって、人を傷つけ続けるって豪語してる。嫌っていい。軽蔑していいよ」
「しませんよ」
時幸は笑った。我欲を、醜さを晒した早梛を、それでも是と断じてみせた。
「復讐にどんな意味を見つけるのかは、人それぞれですから。誰にだって否定する権利はない。それに初めて会ったときから、早梛さんの印象は変わっていません」
早梛は、自らが定めた復讐にまっすぐだ。その思いに混じりけはない。
たとえどのような動機であろうと、その芯の強さ、想いの清さが姿勢に、表情に、行動に、在り方に投影されていた。
それがとても――だと思ったのだ。
そして、同時に……。
「……では、お互い、今後の方針は変わらないということですね」
「うん。……でもいまは、《調律の彼女》になりたいとはもう思ってないかな。刀が本当に切り札になるなら、あとは私の実力次第だろうし。新堂さんにもよしたほうがいいって言われたし」
「新堂さん?」
と、時幸が眉根を上げる。
「新堂さん……四課の新堂侑生さん? 彼女にお会いしたんですか?」
「うん。昨日、零室まで案内されたときに」
「……おかしい。ありえません」
時幸のただならぬ様子に、早梛も狼狽える。
「えっ、どしたの?」
「……四課は内郭討伐班です。昨日《ディヴィジョン》による襲撃事件があって、その時間は出払ってるはずなんです。しかも場所はエリア69、ちょうど彼女の担当地区で、零室とは真逆です。いくら人員がマカオに出払っているとはいえ、自分のエリアで殺人があったのに本部にいるのは妙です」
立ち上がりかけた時幸は、息を整えた。
「……俺の勘違いで済めばいいのですが、やはり気になります。琴羽さんに相談に行きましょう」
*
「……単刀直入に言うと、おまえ達には囮になってもらった」
零室室長であると同時に特務部監督主任でもある琴羽には、《機関》施設内に幾つもの執務室がある。そのうちの一つを訪れた二人に、琴羽はさらっと衝撃の事実を伝えた。
「知ってのとおり、《機関》内部には離反者がいる。総帥が長期間日本を空けているいま、そいつらが何も仕掛けないとは考えられない。だから敢えて、そいつらが仕掛けやすいよう人事を調節し、炙り出すことにした。九岡達とも協力してな」
時幸は口を開きかけて、一旦深呼吸した。
「……どうして、早く言ってくださらなかったんですか」
わなわなと肩を震わせる。
「予め説明すれば囮の意味がなくなる。おまえを狙う奴らを釣るためには、演技ではなく無防備である必要があった。それに、先んじて勝手に事を起こされては、他の内通者や裏切り者まで一網打尽にできなくなる」
つまり餌として、利用されるだけ利用されていたということだ。頭に血が昇っていくのが感じ取れる。濃い黒の瞳が一瞬、別の色に瞬く。
しかし、
「初期の計画では話す手筈だった。だが予定が狂った。他ならぬおまえのせいでな」
琴羽は淡々と言ってのける。
対する時幸は、虚を突かれ、それまでの怒りが霧散しかける。
「試験を突破し、正式なエージェントとなった暁には、これがおまえの初任務になる予定だった。だがおまえは失敗し、さらに、本来の計画にない行動をとった。お陰で予定は大幅に狂ったが、それも敢えて利用させてもらった。神橋早梛という予定にない人物の登場により、対象者の行動も変則的になり、粗を出しやすくなったともいえる」
時幸の目が見開かれる。
「つまり、それは……」
「おまえ達に関わる昨日の人事は、容疑が掛かっている者達だ」
琴羽は持っていたペンを何とはなしにくるくると回した。
「離反者には二グループある。《機関》の機密を他組織に売ろうとしている内通者グループと、《機関》を潰そうとしている裏切り者のグループ。渡瀬と新堂は後者に所属していたようだ。目的が判らないんで泳がせていたんだが、どうやら内輪揉めしたらしいな。だが、今回の捜査では三年前の一件と関わりのある人物は判明していない」
「……どうして」
時幸は絞り出すように囁いた。
「言っただろ、おまえが感情を自制できて、演技も打てると証明していればもっとシンプルだったんだ。しかもおまえは、手出し無用と伝えたはずの別件の捜査を独自に開始し、内通者顔負けの違反行為に手を染め、部外者を《機関》に招き入れる結果になった。それについてはスズからの執り成しもあるし、短期間であそこまで調べて手を回し、行動開始した手腕には一周回って感心しているけどな」
「そうではありません」
そこで琴羽は初めて、僅かばかり眉を動かした。
「俺が狙われるのは理解できますし、それを利用しようとするのもわかります。けどっ、けれども……それならなぜ、早梛さんを巻き込んだんですか」
「彼女を巻き込んだのはおまえだ」
「ですが、危険な目に遭うと判っていて同行させる必要までなかったはずです。俺だって、あんな目に遭わせることになると判っていたら連れてきませんでした」
「……昨日の時点ではサナ自身にも他組織の回し者疑惑が掛かっていたからな。はっきりさせておく必要があった。まあ、私もさすがにあんな派手なことをしでかすとは思っていなかったよ。でも最大限のフォローはしたつもりだぞ?」
「それはっ……それを判断するのも、俺の役目のはずです」
「いいや」
琴羽はふ、と息を吐いた。
「おまえには任せられなかった。……いや、途中まではそれもいいかと、できると思っていた。だが、昨日のアレを聞いたら無理そうだと思ってな。現にいまも、おまえらしからぬ理由で食い下がってるじゃないか」
怒鳴り散らす時幸を煩わしく思いつつ、どこか楽しげに応対する。
「あのっ」
一歩後ろで黙って聞いていた早梛が、おずおずといった風に手を上げた。
「少し、気になることがあるんですけど」
「……きみは怒ってないのか」
「はい。私はこのとおり無事ですし、それに、《機関》に行くと決めたときから周りが敵だらけなのは覚悟していましたから。さすがに突き落とされた時は心臓止まるかと思いましたけど。でもいまは、それはいいです。……新堂さんと渡瀬さんは、二人とも《機関》を瓦解させようと動いてたんですよね?」
「ああ。そこの調べはついている。動機はこれからだがな」
「それなんですけど、昨日、私が突き落とされたのは時幸くんや琴羽さんを失脚させるため、みたいに聞きましたけど……《機関》を滅ぼすなら、一個人の立場なんてあまり影響ないと思うんですが」
「そうだな。主任なんて呼ばれちゃいるが、私一人がどうこうなったくらいで崩れるほど《機関》は柔じゃない。……なら、何の目的で、渡瀬はきみを落としたと思う?」
早梛は押し黙る。早梛の生き死にが《機関》を揺るがすとは思えない。騒いだのはせいぜい周囲の《メイジャー》と通信班のオペレーターくらいだ。
「……ん?」
そこで、はたと気づく。
「……通信室って、常務部と特務部で分かれてますか」
「いや、場所ごとだ。《メイジャー》への指示はすべて同じ部屋から発信される」
「じゃあ……私が落ちたとき、全然関係ない場所を見ていた人達も、多少は気をとられましたよね?」
「だろうな。役割分担の原則があるとはいえ、突然の混乱に注目する可能性は高い」
そこで琴羽は、早梛を見た。
「……陽動、か」
呟いた瞬間、
けたたましい警報が辺り一面に降り注いだ。
ほぼ同時に、天井付近のスピーカーから、何人もの声が響き渡る。
『エマージェンシー! 東京湾より襲来のクラスⅡ、第一防壁を突破! 繰り返します、クラスⅡの第一防壁突破を確認!』
『《メイジャー》総員に告ぐ! ただちに迎撃の準備を……』
『た、大変大変! 壁内侵入、エリア4、27、56、88、113……』
『少なくとも十六区画で同時に確認! 四課の職員は至急、』
『い、い、いち、いち』
『毬弥さん、深呼吸』
『すう、はあ……一大事です! 新堂隊長が、新堂隊長が、血まみれに』
『きゅ、救護班―‼』
『緊急事態、複数のルートにて《機関》内部への侵入の疑いあり!』
『六室は全員出撃準備を! 四室と九室からも人員を回して、』
『ふははははははは! 殺せ殺せ殺せ殺せえええええええ』
『誰か鳥海を黙らせろ!』
『九室は壁上待機状態に、四室と六室は部長室へ内線を……』
ブツン、という音がして、スピーカーからの声の濁流が停止する。
「な、なに? なんなの?」
呟きながら、早梛はとっさに刀を掴む。
「私だ……応答しろ!」
琴羽はすぐさま端末を取り出す。しかし、《機関》支給品であるはずのそれはうんともすんとも言わない。
「やられたな」
舌打ちし、ドン、と机を叩く。
「……通信サーバが落ちた、いや、落とされた。どうやらクラスⅡが壁を突き破ってきたらしい。担当は渡瀬の隊だったな。しかもどうやら、新堂まで離反者同士の内輪揉めに巻き込まれたらしい」
「それじゃあ」
「……昨日、古坂と中曽根は縛り上げてシロだと判明したが、犬養が戻ってこなかった。奴には《ディヴィジョン》の遺骸の回収を任せていたが、それをパクって都市内にばら撒きやがった。ご丁寧に近隣の《機関》への通行口を開け放して、な」
適切な処理を行わなかった《ディヴィジョン》の遺骸は一定期間を経たのち下位の《ディヴィジョン》へと変化する。何の前触れもなく多数の《ディヴィジョン》が出現したのはこのためだろう。しかも、一部は《機関》内部にも入り込んだらしい。
「民間人を落として通信室と《メイジャー》の隙を作り、都市と《機関》の混乱する状況を作り出してクラスⅡを侵入させる。しかも昨日の一件で、《メイジャー》内部の連携が乱れている状況で、だ。もちろん壁内の《ディヴィジョン》も放ってはおけない。討伐班だけじゃなく追跡班と訓練班も回したのはさすがショーカだな。だが、民間人の避難も同時にやらないといけないし、《機関》内部侵入の対応は厄介だ。何より、通信が遮断されているままじゃどこもかしこもままならん」
琴羽は三秒だけ考えた。
そしてすっと立ち上がると、仕事人の顔になって時幸に命じる。
「とりあえず九岡と合流して、私は壁上か壁内の討伐に向かう。ユキ、おまえは通信を遮断した奴を確保して、サーバを復旧させろ。まだ近くにいるはずだ」
「はい」
言い合いしている場合ではないと判断したのだろう。殊勝に頷く時幸だったが、琴羽の次の言葉に絶句した。
「もう一つ。今回の任務には神橋早梛の同行を要請する」
呆気にとられた時幸を後目に、早梛に向き直る。
「もはや隠し立てするつもりはないが、我々はきみを信用しきっているわけではないし、そのために無礼も働いた。だが、恥を忍んでお願いする。見てのとおり、緊急事態でな。少しでも戦闘力のある人間の助けが必要だ」
「わかりました」
自分でもあっさりするほど早く、返答していた。
というより、そうすることがあたりまえだと思っていた。
「~~~~待ってください! 今度という今度は、早梛さんを巻き込むわけにはいきません。彼女は《機関》とは何の関りもないんですよ」
「とは言ってもな、ユキ。実際一番安全なのはおまえの傍だぞ? 《機関》内部は混乱してる。乗じてまだ裏切り者が出ないとも限らない。零室に一人で置いておくわけにもいかないだろう」
「ですがっ」
「時幸くん!」
今度は早梛が声を出す。
「早梛、さん……」
深く呼吸して、自分の胸に手を当てる。
「大丈夫。《ディヴィジョン》じゃなくて、人間が相手なら、自分の身は守れると思うし」
その目には強い決意が滲んでいる。
早梛とて、自分を利用しようとした組織に、全くの善意で協力しようというのではない。琴羽は言外に重々意味を置いていた。刀の解析が終わった時点で、早梛は《機関》、少なくとも特務部にとっては用済みだ。むしろ、《ディヴィジョン》の一部を持ち去って結果的に都市の混乱の一端を担い、いまも他国の対立組織や反《機関》勢力の一員ではないという証明ができているわけではない。これは駆け引きだ、早梛がこれ以上の情報や戦力強化を《機関》から受け取れるかどうかの。
そんな彼女は、とても――。
(――危うい)
初めて彼女を見たとき、そう思ったのだ。
当時は早梛の事情は何も知らなかった。だが、芯の強さ、まっすぐな意志を美しいと思う一方、世界を見つめる悲痛な眼差しも、それを押し殺したような凛とした佇まいも、怒りも憎しみもなく《ディヴィジョン》を機械的に処分した冷徹さも、いまにも壊れそうに思えた。見た目という意味ではなく、気を張っている、小さな女の子のようだと。
そんな、抜き身の刀のような彼女を――。
「……放っておけないのは、早梛さんの方です」
「ん?」
「何でもありません」
時幸は聡い。早梛の考えをすぐさま汲み取った。
故に、唇を噛み、少しだけ躊躇ったが、最終的には彼女の意志を尊重してくれた。
「……俺から離れないでください」
「わかってる。……行こう」
*
「……さっきの話だけどさ」
通信サーバのある棟へと向かいながら、早梛が前を行く時幸に声をかける。
「三年前から裏切り者がいるって……」
「……」
時幸は振り向かず、されど静かに足を止めた。
「三年前……俺の師匠が、何者かに殺されました」
「うん、聞いた。でも《ディヴィジョン》に殺されたって」
昨日の話を思い出す。
「あの現夜一期が、たかが《ディヴィジョン》に負けるはずがない。謀殺されたんです」
不穏な言葉に、早梛の肩がびくつく。
「……あの日、師匠は無二の親友の家に行っていたんです。もっとも、その親友は既に亡くなっていたんですが。で、滞在している間、屋敷に乗り込んだ《ディヴィジョン》に、親友のご家族共々襲われたんです」
「‼」
確かに衝撃的な話だった。だが、これだけなら、言ってしまえば「よくある」類の話だ。
だが、襲われたのは他でもない「英雄」、現夜一期。
「壁内侵入があったにもかかわらず、システムが作動しなかったこと。親友の家を訪問中という、完全なプライベートを狙われたこと。襲撃したのが日本にはまずいない六型の《ディヴィジョン》だったこと。偶然とは思えない。師匠は絶大な交渉力と影響力を持つ分、敵も多かった。だからどの組織が狙ったものであるのかは判りません」
「……でも、《ディヴィジョン》は飼い馴らせないんじゃ……?」
「習性を利用してけしかけることはできます。だから親友のご家族も巻き込まれた」
時幸は冷たい目のまま、遠くを見据える。……否、何も見てはいないのかもしれない。虚無を覗き込む、昏さがあった。
「ただ、判っていることは……《ディヴィジョン》の壁内への侵入を手引きし、それを《機関》の監視システムに感知されないようにできる人物、そして師匠のプライベートを調べられる人物が犯人、或いは協力者、ということです」
「《機関》内部には、いまも裏切り者がいる」
水を打ったような静寂、というのはこういうことをいうのだろう。
じりじりとした圧力がその場を支配する。
知らなかった。昨日ずっと一緒にいたのに、いまのいままで、時幸の根幹をなす事柄を。早梛と時幸を結びつけた、共通の感情を。
「師匠の死が隠されているのもこれが一因です。《機関》内部に裏切り者がいると判れば、日本政府や他国の組織への弱みになりますし、民衆を不安にさせる」
けれども、と、絞り出すように言う。
「俺は、けして許しません。何としてでも辿り着きます」
痛々しいほどに、固い意志。
早梛は悟った。時幸は、何も自分の体質を活かすためだけにあのような戦法を取るわけではない。
本当に、自分などどうなってもいいと、目的のためなら自分を使い潰していいと考えている。
そして――誰よりも、それを否定する権利が、早梛にはない。
話は終わったと、時幸が歩みを再開する。早梛はその場から動かない。
時幸が振り返る。怪訝そうに、こちらを見る。
「時幸くん……」
死ぬつもりなの、とも、人間を殺すの、とも、訊けなかった。
かわりに、とても間抜けな質問が、口から零れた。
「なんで鎖とか手錠なの?」
「は?」
時幸も、まさかこのタイミングでそれを訊かれるとは思わなかったらしい。
「いや、その……《ディヴィジョン》なら、ちょっと傷つけて血を入れれば勝てるわけでしょ。わざわざ捕まえる必要あるのかなって」
「いえ……俺はそもそも、対人戦闘を主に訓練されましたから」
それでも、人を傷つけて無力化させる方が、傷つけることなく拘束することより何倍も容易い。それをわかっているからか、時幸は少し言い淀む。
「……師匠の十八番が拘束術でしたからね。まず縛り方を教わりました。肉を斬らせて骨を断つ、とは言いますけど、肉が斬られれば次の動作に支障が出ますし、相手が死ねば情報が引き出せなくなる。動きを制限することは、自分の安全を確保すると同時に相手の命を守ることにもなる、と」
「……優しいのね」
「はい。師匠は、とてもおっかない人ではありましたけれど、とても優しい人でもありました。……それで、曰く、自分よりもずっと優しい人を守るため、だったそうです」
そして、腰に括りつけた円盤を外す。先端に錘のついたフリスビーのようなものを、早梛は不思議そうに見ている。
錘を引くと、中からやはり鎖が引き出される。ある程度引き出したところで手を離すと、鎖の長さが固定され、持ち手についたスイッチを切り替えると瞬く間に収納された。
今日研究室で渡されたJ・Rの一つだ。軽量タイプの方は夏来がうるさいので使ってしまったが。
「……拘束術を極めたのは、親友のためだった、と」
「……?」
この話の流れで、どうして拘束具マニアになる結論になるのか、皆目見当がつかない。
「まあ、この拘束術は、極めれば体格の勝る相手にも通用しますし、俺にも使いやすいという理由で伝授されたんだと思いますけど」
「体格?」
とっさに、時幸の上体、胸辺りをまじまじと見る。少年はさっと腕を交錯させて隠した。
「あ、ご、ごめん」
「いえ……」
ばつの悪そうな顔を背ける。
「……自分でも気にしてるんですよ? 日々の鍛錬を続けてるのに、一定以上筋肉がつかないんです。師匠曰く体質らしくて、純粋な成長を待たないと筋力や腕力が発達しないって。別にいま柔だとは思いませんけど、やはり鍛えれば鍛えるほど成果の出てる人と自分を比べると、落ち込んだりもします」
「別に、気にすることでもないと思うよ? 成長期なんだし」
確かに柔ではないとは思う。細身ながらもしっかりとしていて、均整がとれているように見える。それに、勝手な意見かもしれないが、この顔でマッチョな体つきというのは少しもったいないとも思う。
「ふうん……そうなんだ」
「なんですか、急に」
「いや……私と同じようにコンプレックスもある、普通の子なんだなって……」
「普通?」
少し意外な言葉に、目を瞬かせる。
「普通とか……初めて言われました」
ぽつりと、零すように口に出した。
突然、強い力で引き寄せられ、物陰に引きずり込まれた。
「な」
「しっ」
進行方向を指さす。
何かを引きずるような音が、近づいている。
「……」
「……」
彼方に、朧げではあるが、近づいてくるものが見える。黄色い影が揺れている。二足歩行してはいるが、明らかに人間ではない。《ディヴィジョン》だ。施設内に侵入したうちの一体だろう。
顔を見合わせ、頷き合う。徐々に近づくそれを待ち伏せする。
全長2メートルほど。手足が二本ずつあり人間とそれほど変わらない形をしているが、水をぱんぱんに詰めた風船みたいに膨らんでいる。頭部に当たる部分はのっぺりしていて不気味だ。
距離が詰まったことと、気づかれていないことを確認し、早梛は刀を抜く。
しかし、駆けだそうとして、制止される。
「待ってください。様子がおかしい」
言われても、何がおかしいのかはわからなかったが、身を屈めて待機する。
《ディヴィジョン》は目の前に迫ってきていた。そのまま、二人には気づかない様子で行き過ぎる。
「……?」
見送った《ディヴィジョン》の、後部……進んでいるのとは反対の向きに、練切に爪楊枝で掘ったみたいな三つの穴がある。互いの位置から辛うじて顔だと判別がつくが、心なしか苦しそうだ。
「……後退りしている?」
後ろ向きで歩くような、そういう奇行を行う《ディヴィジョン》はさほど珍しくはない。しかし、目の前にいるそいつはどうもぎごちない。
時幸がそいつの足元付近を指し示す。
《ディヴィジョン》の足はボロボロで、一歩進むごとに床に削られ、擦り切れ、ほぼ千切れそうになってもまだ歩いていた。引きずる音の正体はこれだったのだ。まるで、進みたい方向とは逆の方向に無理やり歩かされて、必死に抵抗しながらここまで来たかのように。
「……早梛さん」
時幸が何か思いついたようだ。
「あいつの背後……顔のない方から、気づかれないように足元を斬りつけることは可能ですか」
「……やってみる」
早梛は物陰伝いに《ディヴィジョン》に接近し、進行方向に回り込む。
体勢を低くし、一気に駆け抜ける。
すれ違いざま、刀を一閃させた。
すぐに物陰に飛び込み、身を隠す。
《ディヴィジョン》が停止した。不思議そうに辺りを見回すと、足元に目を遣る。おそるおそる、前に踏み出す。
自分の行きたい方向へ進めることがわかると……それまでののろのろとした動きからは想像もつかないスピードで、いま来た道を駆け戻っていく。
予想外の速さに一瞬、唖然としたが、すぐ我に返ると、二人は《ディヴィジョン》の後を追いかけた。
*
複数のモニターを睨みながら、休みなく手を動かす。
《機関》の通常の回線を組み替え、外部に繋げることには成功した。それでも、ここまでの工程を行うのに、既に予定の時間を大幅に過ぎている。回線が復旧し、《機関》各所の通信が回復する前に、自家発電の電力でモーターを回し、情報を発信しなくてはならないというのに。メインサーバはここだけだが、予備のサーバは別の場所にある。通信が回復したら、繋いだ回線の存在も明らかになってしまう。すぐにこの場所にエージェントが殺到するだろう。普段は楽観的に振る舞うことの多い彼女も、さすがに演技をかなぐり捨てて焦りの色を見せ始めていた。
しかし、ここまで来た以上、何としてでもやり遂げなくてはならない。この都市に息づくすべての同胞のためにも。
発電機は既に回っており、後は電波を捉えるだけだ。
と、モニターに、背の高い影が反射する。
「……え」
振り向くと、すぐ目の前に《ディヴィジョン》が迫っている。
「くっ」
とっさに飛び退る。先ほど彼女の血を塗った刃で斬りつけた個体だ。目の前の人間を襲う単純な奴で、斬りつけた後、彼女に近づけなくなって部屋から追い出したはずだった。なぜ戻ってこれた?
太腿のガーターベルトからナイフを数本抜き取り、手首の包帯を外す。先ほど切った傷はまだ塞がっていない。血をナイフに擦り付ける。何回も、何十回も行い、その度に嫌悪してきた行為だった。身の毛がよだつ。同時に怒りを抱く。この行為を強要し、戦地に立たせる《機関》を、許してはおけない、と。
その《機関》の息の根を、あと一押しで止められるところまで来たのだ。いまさらこんな奴の妨害程度で立ち止まっていられるか。
《ディヴィジョン》が迫ってくる。3メートル、2メートル、1メートル、ぎりぎりまで引きつけた瞬間、ナイフを一斉に放る。五本のナイフは怪物の両手と両足、そして眉間に突き刺さった。
《ディヴィジョン》は数秒固まった後……どう、と後ろ向きに倒れ込んだ。
彼女の性質と対立する因子を持っていないことは初めに斬りつけた時点で判ってはいるが、それでも因子の相性で見ればこちらが有利なことに変わりはない。死にはしないだろうが、しばらくは動けないはずだ。
機材に向き直ろうとして、閉まっていたはずの出入り口が開いていることに気がついた。モニターの光源が照らすばかりだった部屋が外部からの灯で暴かれる。
床中にコードの敷き詰められた、幾つものモニターのある部屋の中央に佇む、彼女の姿を露わにする。
「そんなに焦って、どこに連絡するつもりですか、麻生さん」
ワイヤーガンを構えながら、時幸が部屋の中へと歩を進める。おずおずと、早梛もそのすぐ後に続くと、部屋の内部にいた人物を見て、僅かばかり目を見開いた。
ここにいるのが彼女だということは、予測がついていた。
古坂、中曽根はシロ、犬養は壁内部で遺骸をばら撒いている。
新堂は仲間割れの末に治療中、渡瀬も同様。
研究部の野々宮には、特務部の通信系統に介入することはセキュリティ上不可能。
《メイジャー》の負傷は手の空いている医療士がランダムで行う。
オペレーターの三人は通信が遮断される直前まで放送を行っていた。
昨日時幸達に関わった人物、つまり離反者の疑惑の掛かった者達の中で、特務部に所属し、渡瀬、新堂両名を負傷させられる実力を持つ者はただ一人。
「あれぇ、ユキ、けっこう早かったねぇ」
早梛を女子寮に案内した女は、不敵に笑ってみせた。
*
「……足だけを斬ることで進路を“反転”させていたんですね。いまは上位の異なる因子が体内に入って麻痺している様子ですが」
足元の《ディヴィジョン》を警戒している早梛に説明する。
「彼女は、五型の《調律の彼女》なんです」
「そんなふうにいうのはやめろ!」
突然、麻生が声を荒らげた。
「好きでこんな身体になったわけじゃない。普通に暮らしていただけなのに、ある日全部壊された、おまえらのせいでね!」
普段軽薄な態度ばかり取っていた彼女が、頬を紅潮させ、拳をわなわなと震わせている。
「《機関》が悪いんだ。意識がないのをいいことに、無理やり手術を受けさせて! それで死んだ人が何人も何人もいる‼ 成功したらしたで戦いを強要して! アタシらから自由も、幸せも、まともな人間として死ぬ権利すら奪った!」
「……そんなことを考えてらしたんですね。討伐班として優秀な働きをしていたと伺っていますが」
「そうだ、《ディヴィジョン》は憎いからね、殺したいさ! でもね、それ以上に《機関》が憎い。もともと自分達の不始末で生み出したものの責任を、何の関わりもないアタシらに押しつけて、正義ぶってる連中が!」
「《ディヴィジョン》を作り出したのは《REIMEI》です。《機関》はその責任を取っているにすぎません」
「同じことだろ? 身内の尻拭いを赤の他人に押しつけてるだけじゃないか!」
さすがに興奮しすぎたのか、麻生は一旦黙り込み、荒い息を整える。その隙に、時幸は疑問を投げかけた。
「……それで、どうしたいんですか。都市内部に《ディヴィジョン》を放ち、外からはクラスⅡに襲撃させる。確かに痛手ですが、それでどうにかなるほど《機関》は柔ではない。あなたもご存じのはずです。内部侵入された際のマニュアルはありますし、通信が遮断されたって訓練されている。クラスⅡは手強いですが、この都市の防衛システムをフル稼働させれば対処可能です。《機関》の立場は苦しくなるかもしれませんが、絶望的というほどではない」
「……知ってるさ」
そう言って、口角を吊り上げる。ただ嗤っただけだ。
しかし、なぜか凄みのある表情に、早梛は一歩退いた。
過去、同じような状況で滅びた都市は世界中にある。その分、生き残る都市の防衛は強化されている。まして《機関》は《ディヴィジョン》研究の第一人者が頭なのだ。
それに、たとえ東日本一区ごと《機関》の本部が壊滅したとしても、日本の他の都市にそれぞれ支部がある。彼女の目的は他にあると思って間違いないだろう。
「……陽動、でしょう。通信が麻痺している間に、別系統で外部との接触を行うための。教えてください。一体誰と何について話すつもりだったんですか」
その途端、麻生が身体を折り曲げ、くつくつと笑いだした。
「……?」
笑い声と、《ディヴィジョン》の哀れな鳴き声が薄暗い部屋の中に響く。
「……『秘密』だよ」
身を起こすと、再び嗤う。
「からかわないでください。もうあなたは詰んでいる。正直に答えてください」
「だ、か、ら、『秘密』を、世界中にお話しすることにしたんだよ」
背を仰け反らせ、高々と宣言した。
「アタシは《機関》を徹底的に潰すことにした。これ以上、アタシみたいな女性を増やさないために。そして……おまえのようなものを、二度と生み出さないために」
「……まさか!」
時幸は目を見開き、麻生の背後に広がる数々のモニターを凝視した。
「……まずいですね」
「……何がって……訊いてもいいかな」
すぐ後ろから早梛が囁く。
「……《機関》には、一つ『秘密』があります。どんな組織にも、日本政府にも隠し通している『秘密』が」
【魔女】の存在とその起源は、何の目的かは不明だが、他ならぬ【魔女】達によっていままで秘匿されてきた。《調律の彼女》の正体は、《マイナー》として成績を上げれば知ることができる。これらは「公然の機密」であり、どの組織でも、程度に違いはあれ内部ではあたりまえに開示されている。
「ですが、《機関》の『秘密』は、《機関》内部でも限られた者にしか開示されていない。それほど危険な情報なんです。……もしそれが、万が一政府や海外に漏れたら」
「《機関》は完全に孤立する。たとえこの危機を乗り越えても、世界中の国家と組織から総攻撃を受けるだろうねぇ。本部も支部も皆壊滅する。それこそがアタシの狙いってわけ」
「まさか、暴露するつもりですか」
「後ろ暗いものを抱えている《機関》が悪い」
平然と、麻生は言ってのけた。
「っ、そんなことをして、何になるというんですか!」
《機関》がなくなれば、《ディヴィジョン》に対抗するための研究は大きく遅れるだろう。それどころか、「秘密」が公の下に晒されれば、世界中が大混乱に陥るかもしれない。一期も総帥も、そうなることを防ぐために徹底的な規則を敷き、たとえ親しかった者でも内通者がいたら排除してきた。世界の平穏のため。いくら泥を被ろうとも、良心が咎めようとも。
それを台無しにしようとする麻生に、時幸はいま、激しい怒りを抱いていた。
「……いいじゃん、それで。《機関》がなくなって、他の組織の連携も乱れれば、もう《調律の彼女》は生まれなくなる。化け物に襲われた挙句同じ化け物に変えられて、子どもも産めなくなって、戦う道具にされて、人権なく使い潰されていく人がいなくなる。それでいい。人が化け物になるなんておかしい。だったら、人としての尊厳を持ったまま死んだほうがよっぽどいい」
腕を大きく広げ、麻生は訴える。
「それを、なんだ、アレッサンドラも侑生も! どうして《調律の彼女》を肯定する? 立場の向上だと⁉ 誇りを持って死ぬことこそが一番の立場向上だろうが!」
「それを決めるのは、あなたではありません」
「おまえに人間の何がわかる! 生粋の化け物のくせに!」
再び、麻生が激昂した。金切り声に、びりびりと機材が震える。
「おまえこそ死ぬべきだ、おまえこそ、たくさんの人を不幸にする! 人類を救うっていうなら、真っ先におまえを殺すのが正義だろう! なのに、なんだ、おまえは! 人間じゃないくせに、両親とも化け物のくせに! いまも不幸な人達の上でのうのうと生きて、恋をして幸せになれると思うな!」
そう言って、き、と早梛を睨みつける。
そのときだった。
……ァァアアアアアアアアアアアゥゥゥゥゥゥ
部屋の隅で横たわっていた《ディヴィジョン》が唸り声を上げた。麻生の激昂とはまた違った縦揺れが、空間を襲う。それに呼応するように……低い地鳴り。
彼方から、同じような唸り声。何かを引きずるような音……が、だんだんと、床に何かを打ちつける激しい連続へと変わる。
オオオォオォオォオオォォゥウウウ
ウワアアアアァァァッァァァッァァ
キエエェェエケケケェッェェェェェ
開け放したままの扉から、ぬっと仮面みたいな顔が覗き込む。
そいつはするりと部屋の中に入り込んできた。間髪入れずに、首の長い四つ足の生き物が続き、さらに形容しがたい形のアメーバじみたものが後に続く。
「……侵入した《ディヴィジョン》?」
呼び寄せたとでもいうのだろうか。犬養が《機関》内部に手引きした数々の――少なくとも十体以上――が集結していた。
新手の《ディヴィジョン》達は床に倒れ伏している一体を見て……部屋の人間達に、明確な殺意を抱いたらしい。怒ったような鳴き声、威嚇するような音を出しながら、一斉に襲いかかってきた。
「……くっ」
早梛は敢えて前に出ると、居合抜刀で横から叩きつけるように先頭の一体を薙ぎ払う。さらに一歩出て回転しながら周囲の二、三体に纏めて斬りつけると、真後ろに飛び退って四体目の攻撃を躱す。
「……ぅ」
刀を構え直すが、明らかにやりづらい。
一体一体は雑魚ばかりだが、こうも群れで来られると厄介だ。しかも、昨日とは違い、ここには機材が至るところにあり、思うようには武器を振るえそうもない。
「早梛さん!」
「大、丈夫! その人を止めて!」
こちらに駆け寄ろうとする時幸を制し、一度息を吐く。正眼の構え。
「……はぁ!」
時幸は逡巡したが、迷いを吹っ切り、麻生に向き直る。
「あれぇ? 助けてあげないんだ」
「……守られなければ戦えないほど、早梛さんは弱々しい方ではありません」
「へえ、やっぱり。……じゃあ、あの女がどうにかなったら、アンタのきれいな顔もめちゃくちゃに歪むのかなあ!」
「させません!」
ワイヤーガンを発砲する。斜め下方、麻生の腰辺りを狙って。
しかし抜き放たれたナイフに絡げとられる。麻生がさっと腕を上げると、釣られてワイヤーもぎしりと軋む。やむを得ず銃を手放すと、同時に彼女目がけて疾駆する。
腰からJ・Rを外すと素早く引き出し、数度手繰って何本かの鎖の盾を展開、投擲されたナイフから身を守る。そのまま麻生との距離を詰める。
一本は投げずに構えており、時幸を迎え撃つように突き出した。鎖はしなやかにナイフを受け止めるが、構わず刃先を少年側にぐりぐりと押し出そうとする。
「こんな、ことをして……何になるって言うんですか。あなたは何がしたいんですか」
「少なくとも化け物の相手をさせられることじゃない」
鎖とナイフ、時幸と麻生は拮抗していた。お互いに仕掛けたくとも仕掛けられない状況だ。
「……誰だって、そうですよ。この世界から脅威を失くしたい。けど、それはすぐにはできないから、大切な人を守りたい。そのために戦うんです」
「それが何?」
麻生は鼻を鳴らした。
「アタシには守りたいものなんてない。昔はあったかもしれないけど、全部全部裏切られた。だから捨てた」
「……それは……だけど、この都市まで、捨てていいことには」
「アンタもだよ。この都市に何の愛着があるわけ? この国が、《機関》が、アンタに何したか忘れちゃった? どうせその守りたいとかいうのも、前部長に吹き込まれた、空っぽのアンタの安全毛布でしかないじゃん」
「‼」
鎖を握る手が僅かに震える。ジャリジャリと金属が擦れ合う音が、剣戟の中に交じり込む。
「都市を守った英雄、現夜一期……アンタの中ではさぞ輝いていることだろうね。けどさ、あの人は別に、この都市を守りたいと思ったわけじゃないよ。恋人が死んだばっかで、アンタと同じ空っぽで、たまたま役目が欲しかっただけ。それがうまくいっただけ。あの男は、世間様で言われている英雄なんかじゃけっしてない」
その言葉に、再び、時幸の手に力が籠る。
「‼ ……俺のことは何とでも言えばいい! けど、師匠への侮辱は許しません!」
しかし麻生は竦むことなく、むしろありありと軽蔑の目を向ける。
「侮辱? ほんとのことだろ? あの男がしたことに比べたら、アタシらが企ててたことなんてカワイイもんだよっ」
一瞬、麻生の力が膨れ上がり、時幸が押されかかる。
「アンタ、知らなかった? あの男は《機関》に所属してるふりしながら、《薪の塔》や《魔女狩り》にも情報や武器を横流しして、高い地位に就いてたってこと! あの男こそが離反者、極悪人じゃないか! 都市への情なんかありやしなかったのさ!」
「なっ」
「それだけじゃない。世界各国の、【魔女細胞】を利用するために討伐を妨害する組織にも協賛してた! 表向きは品行方正ぶって、裏では自分だけ助かろうと他人を売ってたんだ! 核兵器のテロリストとも、それどころか【魔女】とさえ取引してね‼」
時幸の瞳が揺れる。鎖の均衡が乱れ、しゃらん、と軽やかな音を立てる。
その隙は一瞬、されど致命的。
麻生が小銃を抜き放ち、発砲するには充分過ぎた。
少年の身体が、嫌にゆっくりと倒れ込む。
瑞々しい額から、煙と、鮮やかすぎる赤をたなびかせながら。
鎖が眩い光を放ち、のたうつように落下した。
「――時幸くん!」
発砲音に振り向いた早梛は、倒れ伏す少年に目を見開いた。
周囲にはまだ息のある個体がいたが意識から瞬く間に消失。
一目散に少年の元へと向かう。
切り伏せた《ディヴィジョン》の死体が邪魔だ。
その空白は静謐。
無を切り裂くようにただ、少女の足音が響く。
駆け寄って、抱き寄せる。
直視したくない。信じたくない。
早梛の必死の想いに反し、血は後から後から流れ出て、少年の瞳が光を失くしていく。
いや、いや、と首を振り、縋るように、身体を揺すり、繰り返し名前を呼ぶ。
両目から、澄んだ欠片が溢れだす。
けれど……気持ちとは裏腹に、冷めた現実感が耳元で囁く。
もう助からない。
もう戻ってこない。
脳天を撃ち抜かれて、生きていられる者はいない。
「……あ、あああははははははははははははははは!」
麻生が狂ったように笑いだした。
まるで壊れたおもちゃのように。
高笑いと、息のある《ディヴィジョン》の啜り泣きに似た唸りと、早梛の弱々しい呼びかけが不協和音を奏でる。
「時幸くん、とき、ゆ……」
無。
何者も侵しがたい、圧倒的な「 」。
溢れて溢れて止まらない涙を、既に止まった鼓動に押しつける。
まるで世界に、独りぼっちになったかのように。
まだあまりよく知らない。
昨日会ったばかりで、いや、実際は数日前に会っているらしいが憶えてなくて。
突然、いろんなことに巻き込まれて。大変で。
でも、楽しくて。
口調は丁寧なのに大胆で、物腰の柔らかい男の子で。周囲の人には強く出られなくて。
お人形さんみたいにきれいで。でも鎖での戦いとか、かっこよくて。けど、ふっと見せる表情はかわいいの。
私のせいで迷惑かけちゃったっていうのに、笑って許してくれて。みっともないこと話しても、そんなことないって聞いてくれて。優しくて、あたたかくて。
夢があって、まっすぐで、それが少し痛々しくて。
傍にいてあげたいって、思えた。会ったばかりなのに、不思議だね。
私のこと、守るって言ってくれた。嬉しかった。
時幸くん。
時幸くん。
嫌だよ。
*
掃除していない脂ぎった台所の隅を走る黒くて素早いアレ。
それが“霹靂”の第一印象だった。
違いは、アレなら丸めた新聞紙で叩けば済むのだが、大きすぎて新聞紙では間に合わない、といったところか。
琴羽が乗っている壁に、先ほどから休みなくぶつかり続けている《ディヴィジョン》は体長8メートルほどだろうか。頑丈で分厚いはずの壁がみしみしいうほどだから、そのパワーは計り知れない。小一時間ほど前に同じ方法で突き崩したらしい一枚目の壁の穴からは、クラスⅢ以下の雑魚が次々入り込んできている。
「梅島さん!」
慣れない呼び方で呼ばれ、振り向くとそこには先ほど用事を言いつけた《メイジャー》の男がいる。特務部ではないので彼女のことを「主任」とは呼ばないのだが、苗字で呼ばれるのはどうも落ち着かない。
「その……退避完了しました」
壁上に到着して早々、琴羽が命じたのは「自分で足手まといだと思う奴はとっとと避難しろ」だった。事実、疲労と内部分裂とクラスⅡへの恐怖で使いものにならなくなっている《メイジャー》は少なからずいた。琴羽は彼らを後方へ追いやり、戦地に残る意志のある者のみを周囲に配置する。
「……あの、それで」
男はちらちらと“霹靂”を見下ろしながら、青い顔で琴羽を窺う。
一体どう戦うつもりなのか、と。
「なあ、おまえさ、あれどう思うよ」
言外の質問には答えず、琴羽は突破された壁の残骸を指し示した。
「いくらこいつがデカブツで、数日がかりとはいえ、この都市の壁が破られるなんていつぶりだろうな」
「それは……老朽化が進んでいたのではないかと」
「おまえら毎日見てて判らなかったのか」
「……壁が脆くなっているかどうかは、見ただけでは判りません。ですが、外からくる《ディヴィジョン》の傾向や修繕状況のデータから、ある程度の劣化は予測できます」
「へえ。なのに破られたんだ」
琴羽は何気なく言ったつもりだったが、彼女に関するどんな噂を聞いているのか、男は縮こまって言い訳を述べる。
「それは……最近、ここら辺は第三隊の管轄で……あいつら、時間は守らないし、討伐も手を抜きがちで、作戦を土壇場で変えるとか、適当やってて、他の隊とは独立してたというか……」
「なるほど。渡瀬は敢えて反感を買い、この場所を隠してたんだな」
討伐されないよう《メイジャー》間での対立を煽って連携を絶ち、民間人が壁から落ちる事故を装い、常務部と特務部の通信士が皆そちらに注目している隙にポイントに誘導した、というところだろうか。
「その間の監視カメラの映像は共謀者に消させる。うん、悪くはない手だな」
皮肉たっぷりに付け加えると、琴羽は男に冷たい視線を投げかける。
「……ところで、私らが乗ってるこの壁だが、前に修理したのはいつだ?」
「え……」
「外側の壁だけを破らせるつもりだったわけじゃないだろ」
男の顔がますます青くなる。
「おまえも逃げていいぞ」
初めに人員を減らしたのは何も足手まといが邪魔だからという理由だけではなかった。第二壁もこのままでは遅かれ早かれ崩されるだろう。その際の混乱を防ぎ、被害を減らすためだ。
「ど、ど、どうなるんですか、俺達?」
「どうもこうもない。このままだとこの壁は崩される」
琴羽は淡々と告げる。
「そ、そんな、それじゃあ」
「だから、」
どうん、と一際大きく壁が揺れる。
「壁を壊すぞ」
「……は?」
男を始め、その場に残っていた人員が一斉に目を瞠る。
「甲殻が硬すぎて、生半可な妨害は効かない。なら、奴が壁を破る前に敢えて崩し、頭上から瓦礫を落として埋めるのが効果的じゃないか。たとえこの場でここを死守したとしても、どっちにしろ老朽化してるんじゃあ別の奴に突破されておじゃんだろ。だったらいまここで打ち壊せばいい。新しい壁を築く間はこいつの死体が代わりになる」
「で、ですが」
「周辺区画の隔離壁は起動済みだし、そもそも無人地帯の海だ」
そして顔を上げ、周囲に宣言する。
「あの甲殻には常備の弾は効かない。私が奴に接近し、直接七型因子を打ち込む。おまえらはぎりぎりまで後退、タイミングを見計らって壁を爆破しろ」
周囲は皆顔を見合せた。その間も腹の底から揺らされる感覚は途切れることを知らない。
そう迷っている時間はなかった。
降下装置で腰を固定し、愛用の武器に対三型専用の杭をセットする。七型‐クラスⅠの死体の骨から作られており、触れるだけで同ランク以下の三型は細胞崩壊を起こす。“霹靂”の接近が目立ってきた辺りから、この事態を見越して事前に用意したものだ。
準備ができたことを合図し、壁を蹴って宙に舞う。
直後、一瞬前までいた場所が爆発した。
轟音を立てて、壁が崩落する。地面と繋がるすべてが揺れる衝撃。重力から解放されている琴羽だけが、悠然と飛んでいる。
降下装置のワイヤーを操り、圧しかかる瓦礫をもろに受けるクラスⅡ“霹靂”に近づいていく。その降下装置も壁の上に在り、崩落とともに基部が弾け飛び、一瞬、ふわりと身体が浮く。
完全な自由落下に陥るより前に、琴羽は着地していた。みごと、“霹靂”の背面に。
「ふふっ」
琴羽は腕に抱えた得物を掲げる。
どんな装甲でも打ち破る貫通力を持つ一点突破型の武器、パイルバンカー。
これで抉れば甲殻さえ砕けるかもしれない。しかし、それでは手間がかかる。
幸い、敵は瓦礫の雪崩に巻き込まれて身動きが取れない状況だ。周りの雑魚も圧し潰されて一掃されている。
一旦背を降り、回り込んだ。比較的柔らかい腹部から内臓を直接攻撃する心づもりだった。
しかし……。
「な……」
琴羽は絶句した。
*
寒い。
身体が、氷になったみたいだ。
手足の先が、痺れたように動かすことができない。
声が、遠い。
誰かが呼んでいる。
だれ?
捜したい。
けど。
暗くて、よく見えない。
だれか。
ここは、寒いよ。
まるで、あの日みたいに。
幼い頃、世界中を連れ歩かされた。アメリカ、中国、インド、ロシア、フランス、ドイツ、イギリス、それ以外にも多くの国に。一所に留まるのは稀だったが、特に苦ではなかった。新しく訪れた地も、前に訪れた場所も、彼には等しく新鮮で、楽しかった。そんな彼を見ると、彼女も安らかに微笑んだ。
彼女がとりわけ訪れたのはロシアだった。理由はよく知らない。ロシアが好きだったのだろう、と時幸は思っていた。
だからあの日も、多分あそこはロシアだったはずだ。
いつのことだっただろうか。連日の雪で随分はしゃいでいたのを覚えている。ほぼ毎日近場に出かけては雪遊びに興じ、全身ずぶ濡れで帰っては風呂に入る、そんな生活を送っていた。ただ極寒というほどではなかったので、おそらくは秋か春だろうと思っている。
数日前から彼女は少し、いつもとは違っていた。何かに思いつめたようにしきりに溜息を吐いては、あちこちに連絡したり、椅子に凭れて何時間もじっとしていたり、時幸をしょっちゅう抱いては顔を擦りつけていた。
時幸は、どうして彼女が辛そうなのかわからなくて、いたたまれなくて、ただ大人しくされるがままでいるしかなかった。
あのときも、いつもみたく時幸を膝に抱き、頬ずりをしていた。ただ、そのときはそれまでの鬱々とした雰囲気はなく、機嫌が好さそうでもあったので、時幸も嬉しくなって、久々に思うままに甘えた。
と、彼女がいつもみたく、彼女なりの呼び方で彼を呼び、時幸は「なあに」と返事した。
彼女は柔らかく微笑みながら、真剣な眼差しで、これから時幸は××しなくてはならない、と言った。
正確には、時幸を××する、と。
当初、幼い彼にはそれがどういうことかわからなかった。しかし彼女は、時幸にもわかる言葉で、淡々と、これからの予定を一つひとつ説明した。時幸にも徐々に、その異常性が理解できた。理解すると同時にいまだかつてない恐怖を抱いた。本能のまま、逃げ出そうとした。
しかし、彼女の中では何もかも、既に決定していることだった。
「ごめんね」
首筋に深々と麻酔が打ち込まれ、意識を失った。
そして、意識が戻ったときには、もうすべてが彼女の思いどおりになっていた。
数日間、時幸は高熱でうなされた。特に右眼が、沸騰しているかのように熱かった。感覚で、ベッドに縛りつけられていることは理解した。暴れられる範囲で必死に抵抗した。彼女の声がして、すぐ近くにいることを悟ると、恐怖とともに激しい嫌悪を覚え、放して、とか、あっちいけ、と罵った。
何日が経過しただろうか。
彼女は突然、まだ朦朧とする時幸を無理やり外に連れ出した。
きつく握られた手が嫌で、彼女が嫌で、時幸は必死に抵抗するが、幼い子どもなんてしょせんは無力だ。どこに行くのかはわからなかった。痛むのは右眼だったが、連動して左眼もうまく開かなかった。
冷たいものが頬に当たる。今日もまた雪が降っているのだ。積もった雪の冷たさを足元に感じながら、時幸は暗闇の中を歩かされた。
ぐいぐいと強い力で引っ張られ、とある場所へ着くと、彼女はようやく立ち止まった。時幸の手は放さないままだった。出て来たらどう? と彼女は言った。
そこで初めて、尾行されていたことに気がついた。
何人かの足音が、二人を囲む。
「その子に何をした」
深く澄んだ、声がした。
彼女は何か皮肉めいたことを答え、彼の手を放した。突然解放されたものの依然として開かない視界の中、彼は転んで、膝をついた。
間髪入れず、周囲のあちらこちらから悲鳴と、銃声と、重いものが雪の上に倒れる音が数回、そして特徴的な彼女の笑い声がした。
辛うじて開く左眼を抉じ開ける。
周囲を囲んでいた数名の男女が、倒れ伏していた。
傍らにはほかほかと湯気を立てる赤いものが落ちている。
その手前、思っていた以上に近い場所に、一人の男性が立っていた。尾行の行程か、戦闘のためか、服も髪も乱れ、拳銃を持つ手からは血が滴っている。けれどその眼光は鋭く、まっすぐ銃口を、向かい合った彼女に向けている。
時幸は、何か言おうとしたんだと思う。或いは実際に口に出していたのか。
男性がこちらを見て、目を瞠った。
「何をした!」
かつてない大声で、彼女に迫る。
が。
銃で撃ったくらいじゃ、わたしは死なないの。
指先で拳銃を弾く。ぱん、と乾いた音が中空に響き渡る。
同時に、もう片方の手を男性の脇腹に深々と差し込んでいた。
すり抜けるように易々と入り込むと、ある地点で止まる……そのまま、捻るように腕を回した。
「がっ」
男性の口元から血が漏れる。脇腹がみるみる赤く染まり、零れた赤が雪に染み込んで斑を描く。
手が引き抜かれると、男性は数歩よろめき、どさりと倒れ込んだ。びくん、びくん、と震えている。
時幸は茫然と、怯えた眼差しで男性を凝視していた。
と、顔に触れられる。
気がついたときにはすぐ傍に彼女がいて、時幸の右眼を覆う包帯をするすると解いていた。同時に、彼女の顔を同じように覆う包帯も外していく。
二枚の包帯がふわりと舞い、時幸と彼女を包み込んだ。
あの日以来見ていなかった、彼女の顔を見た。
たかだか十六歳ほどの少女の顔がそこにあった。
雪のような美貌の面差しは、少年にも受け継がれている。
褐色だったはずの左眼は、いまは蛍火のような緑に染まっていた。
本来なら右眼がある位置には眼球がなく、ぽっかりとした腔が開いている。
ユキちゃん。
あなたがとても大切よ。
でも、一度お別れしなくてはならないの。
哀しいことだけれど、必要なことなのよ。
大丈夫。また会えるわ。
あなたが大きくなって、素敵な男の子になった頃にね。
絶対に、会える。わたし、あなたに会いたいもの。
ああ、ユキちゃん――時幸。
愛しているわ。
お母さん、あなたを愛している。
この世界中の、誰よりも。
そう言って、彼女……時幸の母は、手を放した。
あれほど嫌悪していた手が無性に恋しくて、嫌、嫌、と縋りつく。
母は困ったように笑うと、そっと……突き放した。
小さな時幸の身体は、ぼふ、と積もった雪に倒れ込んだ。
助け起こす手は、もうなかった。
ちろちろと後から後から降る雪を見ていた。
空は遠く、そして低かった。
棄てられた、ということはわかった。
その前にされたことを鑑みても、母親として息子を想っての行為でないことは重々把握していた。
すべて彼女の想定事項だった。
ここで時幸の前から姿を消したことも。
時幸の右眼に施したことも。
時幸をこれまで育てたのも。
そもそも、時幸を産んだことでさえ。
すべて彼女の計画の内で、時幸の生涯はそのために設計された。
そう思い当たった瞬間、すべてが濁り始めた。
いままでの思い出も、感情も、全部全部、与えられたものにすぎなかった。
そしてこれからの人生も、どこへ行っても、あの人の呪縛からは逃れられない。
嗚呼、この世界は、
なんて空しく、価値のないものなのだろう。
だったら、もう……。
いいではないか。
こんな世界、壊れてしまっても。
壊してしまっても。
それにしても……寒い。
雪はいつ、止むんだろう。
*
そして、血が巡りだす。
ドゥン、と突き上げる衝撃。
「かふっ」
数分間とはいえ、久方ぶりの酸素が喉を焼き、特徴的な咳が漏れる。
停止していた筋肉に電気が奔る。びく、びく、と意志とは関わりなしに指先が蠢く。
がちがちと歯が震える。顔の中心に引き攣るような痛みと熱。
再度突き上げる衝撃とともに、時幸は身を起こした。
「……時幸、くん⁉」
傍らの少女が、信じられないものを見る目で凝視している。
……どちらさま、でしょうか。
まあ、些末な問題ですね。
それよりも、ここは寒くてたまらない。
ぽっかりと額を抉ったはずの穴が、静かに渦巻き、皮膚に引き込まれるようにして消えていく。
全身の器官が軋みを上げる。熱い血が補填されていく。
だというのに、手足は痺れるように凍えている。
ゆらりと立ち上がる。
ここはどこだろう。随分汚らしいところだ。
視界に映るものは須らく澱み、腐った緑色の膜に覆われているかのよう。
がんがんと頭が痛む。耳の奥で音が反響する。
……どこから?
音源を探して見回すと、床の上で随分みっともない生き物達がみっともなく死にかけている。
「はあ……目障りです」
消えてしまえ。
そう思っただけで、瞬く間に崩壊する生き物だったモノ。
鈴なりに、次々と砕けて崩れてぶっ飛んでいく。
少しだけ、ほんの少しだけ、胸がすく。
壁一面に点滅する機械を見る。
ちかちかして落ち着かない。
壊れろ。
たちまち連鎖爆発を起こし、悉くがらくたへと変わっていった。
と、その手前で腰を抜かしている生き物がいた。
明らかに怯えている。
何に? ……ああ、俺にか。
ついでだ、これも手折ってしまおう。
その直前に。
名を呼ばれた。
*
早梛は、驚愕の目で一連の光景を見ていた。
間違いなく事切れていたはずの時幸が、脈も呼吸も止まって、徐々に冷たくなっていた時幸の身体が、突如再び動きだした。
早梛の見る間に、負っていた傷がひとりでに癒え、硬直していた筋肉が滑らかさを取り戻し、血の気が戻る。……どう見ても致命傷だったはずの傷が、だ。
脳に損傷があったのは明白だった。それも、額の中心を直撃する形で。後頭部からも血と、形容しがたいあらゆる液体が零れ出していた。それとともに、少年の命も零れていくさまざまなもの。掬って元に戻しても、二度と戻ってこなかったはずのもの。
それを床に置き去りにして、ばね人形のように跳ね上がる。
「……時幸、くん⁉」
確かめるように、恐る恐る、呼びかける。
しかし、少年はさして気にすることもなく、さっさと立ち上がる。
痛々しいほど静粛な空気が、狭苦しい空間に満ち満ちる。まるでこの世が終わるとき、天使が人を裁くように。
そんな空気を読まずに喘ぐ、床に倒れ伏す《ディヴィジョン》。先ほど早梛が切り伏せ、まだ息のある数体だ。凝りもせず、再生しようとしているものもいる。
時幸はそちらを一瞥した。……それだけだった。
ただ、それだけで。
突如、《ディヴィジョン》は一気に数倍から数十倍に膨らみ、破裂した。
残骸はあっという間に崩壊してぐじゅぐじゅになった。
何がどうなったのか、てんで見当がつかない、という言葉がこれほどしっくりする状況はないだろう。誰も、特に何もしてはいない。ただ見ていただけだ。《ディヴィジョン》が自滅した、にしては不自然すぎる。とはいっても、こういう原理で死んだ、と説明されても、到底納得できる説が思い浮かばない。
そんなことはさしたる問題でもない、とでも言いたげに、時幸は既に《ディヴィジョン》の死骸には関心を示さなかった。
代わりに、首を巡らした。
壁に設置されていたモニターやキーボードが、一斉にショートして煙と火花と焦げた臭いを撒き散らしながら、がらがらと崩れていく。
「ば、化け物‼」
麻生が叫んだ。
時幸がそちらに顔を向ける。
いけない。
何となく、そう思った。
止めなくちゃ。どうしてかはわからない。
ただ、直感でわかった。
何が何でも、阻止しなくてはならない。
「時幸くん‼」
だから、早梛は、叫んでいた。
彼の名を、喉が涸れるほどに。
呼ばれて、少年が振り向く。まるで世界に無感動な貌。つい先ほどまでの時幸とは全く違う、変貌したナニカ。
そして……見たこともない、瞳。
息を飲む。
時幸の右眼が、それまでの落ち着いた黒ではなくなっている。
虹彩が緑色に染まっていた。
欧米人のような自然な色ではない。人工的に作り出した染料を人体に適用したかのような、歪な蛍光緑。
それが、爛、と射竦める。
怯えていた。
麻生の言った言葉が反芻する。
人間じゃない。化け物。
いままでのことが思い出される。
研究部の実験体。彼の血が《ディヴィジョン》にとって毒になったこと。完全に死んだ状態からの蘇生。
本能が逃げろ、と叫んでいる。
逃げても仕方ない、と理性が諦める。
眼前の、得体のしれないものは、多分、この世界の何を用いてでも倒さなくてはならない類のものだ。生きていてはいけない、存在を許してはいけない。世界中の恐怖と嫌悪の的となるもの。
同時に、人の叡智ではコレを屠ることはできない。何をもってしても倒せない。そういう次元の存在だった。
それを前にして、早梛は。
逃げるわけでもなく。
諦めるでもなく。
第三の選択をした。
手段などこの際どうでもいい。
思いつかなかったので、とっさに全力で拘束することにした。
すなわち、身体全体で抱きついた。
「時幸くん!」
呼び止めるように。引き留めるように。
でないと、今度こそ、彼を失ってしまうから。
*
コエがした。
彼を呼ぶ誰かの声がした。
誰だっただろう、聞き覚えのある声だ。
時幸の大事な人の声だ。
……キ。ユキ。
とても大事な教えだった。
哀しいのか。
と、訊かれた。
それで、哀しかったのだ、と感じた。
その途端、それまでの憎悪なんて雪のように溶けてしまった。
世界なんてどうでもいい、ただただ自分のために泣いた。
世界を巡り、日本に連れていかれた後も、世界は彼の生存を許してはくれなかった。
母親のこともあったが、それ以上に彼の存在自体が危険で、気味悪く、あってはならないものだった。憎まれているというのを肌で感じた。実際、殺されたこともあった。それで知ったのだが、彼はどうやら、殺されたくらいでは死なないらしい。周囲はますます絶望した。
そんなだから彼も、自分というものに愛着がなく、ぐれた生活を送っているときだった。
突然道場に連れていかれ、何が何だかわからぬまま組み手をさせられた。当然、あっという間に投げ飛ばされた。
何度でもかかってこい、と言われた。
時幸自身、さんざんストレスが溜まって、むしゃくしゃしていた。
そんな矢先に突然、理不尽に打ち倒されたのだから、一気に爆発した。
何度も何度もぶつかった。その度に組み敷かれ、張っ倒され、投げ飛ばされた。
それでも何度も立ち上がっては挑んだ。苦しかった。痛かったからではない。乱暴されたからでもない。真っ向から向き合うことが、これほど勇気の要ることだと、知らなかった。
散々負けて、精も根も尽き果てて床に倒れた。もう起き上がる気力はない。
それでも減らず口は止まらなくて、散々に罵ったのを憶えている。
「おまえは生きてるんだよ。死なないんじゃなくて、生きてるんだ」
彼が、時幸を嫌ってこのようなことをしたのではないと、とっくにわかっていたのに。
「おれは、おまえに」
時幸のためを思い、彼なりに考えて行動してくれたのだと、知っていたのに。
「生きていて、欲しいんだよ」
時幸の師匠は、罵られても眉一つ動かさず、淡々と、それでいて熱く、言葉を繋いだ。
「おれは……おまえに、人間として生きてほしい」
「人間として生きて、人間として幸せになってほしいと思ってる。勝手だが、そのために骨を折ってきた。……別に恩を着せるつもりはない。おれが勝手に、おまえの都合も聞かずに無理やりそうなるよう手配した。むしろ恨んだって別に構わんくらいだ。……なあ、ユキ。おまえが世界をどう思っていようが世界はいつだっておまえに優しくないよ。だからなんだ? 死にたいならおまえが死ぬまで、おれが何回だって殺してやる」
「生きろ、ユキ。生かされるな」
「世界だろうと母親だろうと、支配されて、受動的に呼吸をするんじゃない。世界に生かされてる奴は、いつか世界の都合で殺される。ユキ。おまえは世界に殺されるな。世界を生きろ」
「生きる理由がないなら作れ。生きる理由がなくなったら別のもので埋めろ。不純なものでも整頓されてなくても、何でもいいから無理やり詰め込め。大丈夫だ、どす黒いものはいつか入れ替わるから。空っぽのままでいるのが一番よくない。悪くなる一方だ。いいよ、母親に棄てられたって思いこんで、自分を棄てた母親に復讐したいと思ってもいい。母親のことは忘れて赤の他人として生き直してもいい。むしろおれ個人としてはそうなってほしいかな。ま、向こうはそう簡単におまえを手放してはくれんだろうけど」
「生きて、生きて、とことん生き抜け。そうすれば、いつか……ありのままのおまえを好きになってくれる奴が、現れるかもしれないだろ?」
それが師匠の、どういった事情の、どういった感情に起因する言葉なのかは、時幸は知らない。
ただ、この世に一人は、時幸の生を言祝いでくれるひとがいる。
そのことがただ、ひたすらに嬉しかった。
そうだ。
嬉しかったのだ。
何気なく当てられた手のあたたかさ。
時幸の無事を喜ぶ、優しさが。
――……生きてる。
「早梛さ……」
一瞬、すべてが白に染まる。
あのときのように。
それまでの想いが、心が、無に還っていく。
そして、そんな空の心に。一番初めに浮かんだのは――
「っ――見ないで」
――恥、だった。
見られた。早梛に。
自分の、どす黒い面を。醜い姿を。憎悪と自棄と、破壊の快楽に身を任せた行動を。
見られて、しまった。
よりにもよって、早梛に。
「見ないでっ、ください」
時幸はとっさに顔を背けた。消えてしまいたい。もとよりその存在が許されるものではないのだ。ならばいま、いっそ自分自身を抹殺してしまいたい。
だと、いうのに。
「時幸くんっ」
早梛は呼んだ。
「時幸くんっ、時幸くん? 時幸くん!」
腕の中の彼の名を。
何度も何度も、愚直に繰り返した。
離さないように。消えてしまわないように。繋ぎとめるように。
「……っ」
「時幸くん……?」
確かめるように、少年に話しかける。そして気づいたように、
「だ、大丈夫だから!」
赤くなり、ますます時幸にしがみつく。
「は、又従弟とか、お風呂入れたことあるし。み、見られたくなくても、そのっ、と、とにかく、大丈夫、だから」
……いろいろと、勘違いしている様子であった。
そんな必死な様子が、意外であり。心地好くもあり。
なにより、小さな身体なのに、包み込むようにあたたかくて。
時幸は、ふと、息を吐き出した。
慈しむように、自身に回された腕を、抱く。
「早梛さん」
「……時幸くん?」
そろそろと、腕が伸ばされる。
抱きしめた少年の身体を摩る。
「傷は、大丈夫?」
「はい」
時幸は向き直った。
「もう、大丈夫です」
すうっと引いていくように、瞳の色が緑から黒へと戻る。
早梛は、
「――よかった」
呟き、そして、
へにゃ、と。笑った。
ただただ安堵した笑みだった。
時幸の無事を知り、手放しで喜んでいる。
血と涙に塗れて、泥と煤で汚れて、それでも輝いた。
その飾らない想いが。笑顔が。
眩しくて。
とっさに、単純な感想が漏れた。
「――きれい」
言ってしまってから、もっと他に言うことがないのか、とも思いはした。
でも、それが素直な気持ちだった。
「きれいです、早梛さん」
初めて会ったときから、きっと笑顔の素敵な人だと、知っていた。
「へ?」
突然褒められたことの必然性と意味がわからず戸惑う早梛をよそに、そっと、腕を解く。
「……ようやくわかった」
撃鉄の上がる音がした。
振り返ると、麻生がよろよろと立ち上がったところだった。
「間違ってなかった。アンタは倒すべき、倒されなきゃならない存在だってね」
早梛を背に庇い、向き直る。
「……確かに、俺は人とは異なる存在です」
静かに告げる。背後の早梛が何か言いかけた。
「けれども――俺は、生きていたい」
ほ、と、息を吐き出す。まだ呼吸を回復しきっていない器官は雛鳥のように柔くてくすぐったい。
「この先何回悪意を向けられようが、この世界に居場所がなかろうが構いません。俺に、生きていてほしいと願ってくれた人がいたから。俺が、生きていることを願ってくれる人がいる限りは」
そしてまっすぐ、麻生を見据える。
「あなたが決めていいのはあなたの生き様だけです。あなたに俺の生き様を決めつけられる筋合いはどこにもありません」
「なによ、それ」
麻生の顔がくしゃくしゃに歪む。
「あんなことをしでかしておいて。なのに、なんで、なんでアンタだけいろんな人に助けられるの。許されるの。アタシは、あんな目に遭ったっていうのに。誰も助けてくれなかったのに」
拳銃を握る腕がわなわなと震える。
「……あなたが《調律の彼女》として、どんな差別に遭ってきたのかは存じ上げません。けれど、それであなた以外のすべての《調律の彼女》の在り方をどうこうしていい権利があるわけではありません。潔く死ぬのが良いとも思いません。いまだって、壁際では足掻いて、もがいて、生きようと、生かそうとしている人達がいる。それを否定させはしません」
「うっさい! 黙れ黙れ黙れえええええええええええええええ」
麻生は闇雲に発砲した。
床に落ちていたJ・Rを蹴り上げて掴むと、瞬時に鎖を引き出す。銃弾は弾かれ、滑らかな表面をなぞる様にして軌道を変える。
「……誰だって、大なり小なり理不尽に抗って、それでも生きています。生きなくちゃならないんです、俺達は。それが、よりよい未来を創ると信じて。《調律の彼女》の制度は、確かにいまは歪かもしれません。しかしいつかは、英雄として認められるかもしれない。逆に何も特別なことでなくなって、あたりまえのように生きられる世界になるかもしれない」
次々放たれる銃弾を受け流しつつ、一歩、また一歩と距離を詰めていく。
「師匠は俺に言ってくれました。こんな俺でも、人並みの幸せを享受する権利があると。ええ、そうですね。あなたの言うとおり、この都市にさして拘りはありません。師匠が《機関》に忠義がないように、いえ、それ以上に、俺はこの国にも《機関》にも忠義も恩義もありません。……けれど」
そう言って、少しはにかむ。
「この都市には、俺に生きていてよかったと言ってくれた人がいます。いまはとりあえず、そのたった一人を救うために、全力であなたを止めます」
ノーモーションでの発砲。それが開幕の合図。
時幸は深く腰を落とし、弾丸を避けつつ鎖で麻生の右腕を狙う。小判型に比べて独特のクセのある喜平型のチェーンはよく撓り、拳銃を弾き飛ばし、そのまま腕に絡みつく。麻生は後ろに飛んで距離を置きつつ、ガーターベルトから抜いたナイフを投擲する。距離が空いたことでその分鎖も引き出され、時幸は腕に渡してガードする。そのまましゅるりとたくし上げ、円盤の中に巻き戻す勢いで再度接近する。
水鳥が飛び立つように――“オデット”。一連の動作を繋げて相手に肉薄する“審判”の初歩動作の一つ。
鎖の長さをぎりぎりで固定し、今度は逃げられないようにする。麻生はナイフを逆手で持ち、鎖の隙を縫って突き出した。時幸は敢えて接近し、鎖を持つ腕の肘と相手の肘がぶつかるようにする。角度的にナイフを持っていられなくなり取り落とすも、麻生は落ちたナイフを蹴って時幸の脚を狙う。体位を入れ替えて防御――“リバーシ”。麻生を斜めに投げ上げ、回転の威力を活かしてナイフを後方に蹴り上げる。同時に再び鎖を引き出し、しゃがんで背後からの蹴りを躱す。
“月に叢雲”――溜めたバネを解放し、麻生の頭上を飛び上がりつつ、上体に鎖を掛ける。時幸が着地すれば腕を封じられることに気づき、麻生はとっさに腕を広げ、鎖を掻い潜る。その隙に、着地した時幸は背後からそっと押す。麻生は張り巡らされた鎖に受け止められる形となる。あえて身を乗り出し、後ろへ向けて思いきり蹴り出す。時幸は鎖を巻いた腕を交差させて防ぐと、不安定な支脚を払ってさらに身体を回し、下にも張った鎖に麻生を落とし込む――“ディオネア”。
麻生は再び敢えて落ちる道を選択した。落下で勢いのついた己の額を、迎える時幸のそれに思いきりぶつける。傷の塞がった場所が再び割れ、血が零れ落ちる。
怯まず、鎖を一気に引いて接近する。麻生は胴回りに二周鎖を巻かれ、右腕を封じられていたが、自由になる脚でハイキックを放った。今度は時幸が後ろに跳んで避けるが、その際鎖で輪を作り、脚を嵌めてさらに地面すれすれを駆けて再び背後に回り込む。颯爽と、ごく自然に浚っていく――“ワールウィンド”。
現夜一期が独自に編み上げた拘束術“審判”。拘束具であれば何であれ、その用途や長短に合わせて一通りの型がある。しかし、最も効果を発揮するのはJ・Rと組み合わせたときである。というより、持ち主の任意の長さに自在に鎖を固定し、引き出し、巻き戻すことのできるJ・Rは、そもそも時幸の師匠のために設計された。その性質故に《ディヴィジョン》を拘束するのにも用いられるが、最も効果を発揮するのはやはり人を相手にしたときである。
時幸は幾度となく師匠の「仕事」に同行し、見学した。彼はまるで舞うように、相手と鎖で密着し、攻撃をいなし、受け流しながら腕をあらぬ方向へ曲げたり足を払ったり自他の関節を外したり戻したり、距離を取ってはまた肉薄し、完全に自分のペースのままテロリストや離反者を捕縛していた。時幸は師匠の域にまで達していない、どころか、未だに影さえ踏めていない。
それでも、幼い頃から叩き込まれてきた実績は覆しようがない。
軽快にして流麗。
飽くまでスマートに、それでいて徹底的に。
蝶のように舞い、蜘蛛のように絡めとる。
「すごい……」
早梛はしばし見とれていた。
麻生も応戦するが、その度に徐々にドツボに嵌っていく。辛うじて動くもう片方の足でターンして時幸に対峙する。“アインス”。時幸は鎖を掴んだ手を高く上げ、円盤を持つ手と交差させて完全に麻生の動きを封じ込めた。
「……私は、あんたなんかには屈しない。化け物に屈するくらいなら……」
いきなり、麻生が大きく身を乗り出した。時幸の首筋に噛みつこうとでも言わんばかりだ。が、彼女の狙いは、時幸の額から零れ落ちる血液だった。空を落下するそれを、舌を伸ばし、口に含もうとする。
「させません」
片腕を捻ると、隠し持っていた手錠が落下していち早く麻生の口に収まる。
「⁉」
「俺は、あなたにも生きていてほしい」
《調律の彼女》である麻生にとって、時幸の血は致死毒となる。だから、追い詰められた彼女がどのような行動をとるかは見越していた。見越して、対策する方法を考えながら、常に彼女を傷つけさせない位置をとっていた。
余った鎖を襷掛けし、背中を抱えて足まで縛る。行動の一切を完封すると静かに床に横たえた。
「……やるからには、徹底的に。自分も、相手自身も傷つけさせない。それが俺の、師匠の“審判”です」
一期が、時幸に“審判”を伝承した理由。もちろん相手を無力化させる技術は対人戦闘において圧倒的優位を誇るものだ。時幸がその特殊な出生故に、いつか人と対立する可能性を危惧していたこともあるだろう。
しかし、一期が持ち合わせた対人技術の中で、もっとも穏便かつ信頼していたこの術を継がせた最大のわけとは、……一連の動作で、早梛は悟っていた。人の命を守るため。そして、争いたくない、人を傷つけたくない、という心を持った時幸を守るため。
容易く人を傷つけてしまう時幸に、敢えて人を傷つける術を教えなかった。
麻生にもう抵抗する術がなく、かつ命の危機もないことを確かめ、時幸はようやく安堵の息を吐く。
「時幸くん!」
「早梛さん」
駆け寄ってくる早梛を見て、時幸は顔を綻ばせ、されど何かに気づいて強張らせた。だが……。
「時幸くん……すごかった。すごい、かっこよかった」
「は、」
素直な称賛に、一瞬、呆気にとられる。
頬を上気させ、早梛は興奮冷めやらない様子だ。
「ま、まあ、拘束術だけは得意ですから……“審判”の神髄は、まだまだこんなものでもありませんし」
謙遜しつつも、まんざらでもない様子で頬を掻く。褒められることには慣れていないのだ。けど、嬉しいものは嬉しい。
「……にしても」
早梛はふと、壁一面を見上げた。
ケーブルやモニター、所狭しとあった通信機器の一切が使えない状態になっている。時幸は今度こそ身構えた。
「復旧しろって言われたけど……直しようがなくない?」
「は……そ、そうですね。ですが、管制室はここだけではありませんし、予備のサーバがいま頃」
その言葉に応えるかのように、壁面上部にあったスピーカーから、咳き込むようなノイズが響き渡る。複数の音声が弾けるように降り注ぐ。
『緊急事態発生! 手の空いている者はT77ポイントへ急行せよ!』
『何があった⁉ 梅島、説明しろ!』
『通信回線、八割方復旧した模様』
『第二層にクラスⅤを数体確認、五番隊、六番隊は至急討伐へ! それ以外の討伐班はすべて壁面へ向かってください!』
そして一際緊迫した、琴羽の声。普段冷静沈着な彼女の、珍しく焦燥している声。
『おい! 産卵間近とか聞いてないぞ!』
「⁉」
時幸は目を見開いた。
いまの通信を聞いたすべての者が同じ反応をしたのが、スピーカー越しに伝わってくる。
「……そういうことですか」
察しがついた。クラスⅡなんていう大物が突然都市を訪れた理由。麻生達が《機関》を潰滅できると踏んでいた自信の根拠を。
「“霹靂”は産卵間近で栄養を欲しがっていた。さらに、生まれてきた大量のクラスⅢに新鮮な人の肉を与えるべく、都市に執着していた」
「……どうなるの?」
早梛が不安げにこちらを見た。
「……“霹靂”を追い詰めれば、最後の抵抗として一斉に卵を撒き散らすでしょう。数十体のクラスⅢが解き放たれることになります」
「‼」
クラスⅢ……あの《フィフスボーダー》と同等の強さを持った敵を、大量に相手にしなくてはならないというのか。
「まずいですね……《機関》はクラスⅡ一体との戦いを想定して準備を進めてきた。いまから数十体のクラスⅢを相手にできる装備を整えている時間はありません。各個撃破している間に残りの個体が都市に侵入するでしょう。いまからシェルターに住民を避難させても、間に合うかどうか」
「そんな……」
早梛はその場にへたり込んだ。《フィフスボーダー》を相手にしたときの恐怖が押し寄せる。
「私達……どうなるの?」
気丈な彼女でも、さすがに涙を浮かべている。クラスⅢへの恐怖だけではあるまい。
この二日間にあった様々なことへのストレスが、ついに決壊してしまったのだろう。
その一端を担っている自覚がある時幸は、安心させようと、また自身の不安を和らげようと、ぎごちなく微笑んで見せた。
「大丈夫です。……俺が、何とかします」
「だめっ」
袖口をぐいと引っ張られる。
「時幸くん、あんな……あんな目に遭ったばかりなのに、また、危険な、こと」
「……怖くないんですか、俺が」
遂に、その問いを口に出した。
目を背けるわけにはいかない。早梛にはすべて見られてしまった。
あんな姿を晒した後なのだ。嫌われて、気持ち悪がられても仕方がない。諦観していたし、そうであると割り切ってもいた。
だが……。
先ほどまで怯えていた早梛は、一転、瞳に強い光を宿す。
諸刃のように鋭く清らかく、痛々しくも美しい――初めて会ったときに魅せた光。
時幸の心を捉えて離さない、あの眼差しを。
「怖い、怖いよ。でもそれはっ、わからないからだよ」
世界が歪む。光が滲む。生まれたばかりの小さな雫が、瞬く間に膨らんで。
「わからないことって怖いよ、でもいまは、それ以上に、わからないまま死なれるほうが怖いよ」
零れ落ちる。光を受けて落ちる、流星のように。
「……あんな思いは、もう嫌なの。目の前で、さっきまで話してて、あたたかかった人が、どんどん冷たくなって、私は何もできなくて。だから……」
訴えるように、それでいて押し殺すように泣く少女。
強く優しく、脆く青い。
「早梛さん」
ふわり、とあたたかなものが触れる。
涙をそっと、拭い取る。あのとき、彼がしてくれたように。
「ありがとうございます、こんな俺を心配してくださって。……でも、大丈夫です。俺は、頑張れます」
突然、懐に入れた端末からけたたましい着信音が鳴り響いた。取り出して発信先を見ると「研究部 第二研究室」の文字。非戦闘員を隔離している区画からだった。
「はい」
半狂乱の夏来の悲鳴が飛び出す。
『ユキくん⁉ いまどこなの⁉ GPSの反応が消失したから、わたくし』
「後で説明します。それより夏来さん、確認したいのですが、野々宮さんから伺ったんですが、あるんですよね、最新型のが!」
『えっ、ビームのこと?』
「いいえ!」
武器開発班に代わってもらい、詳細を確認する。……いける、これなら。
通信を切り、すぐさま通信室に連絡する。
『ユキッペ? 大変なの! 主任がなんとか食い止めてるけど長くはもたない!』
「ええ。聞こえています。まず、今回の主犯の身柄は確保しましたので、人員を派遣して回収をお願いします。それと、ここから一番近く、なおかつ搬送用スクーターが常備されている壁上武器庫への経路をナビしていただけませんか」
『いいけど……』
「よし」
経路を確認し、端末をしまう。
立ち上がりかけたところで、再び腕を掴まれる。
「……私も行く」
時幸は数度瞬きし、そして、ふっと息を吐き出した。
「傍に、いてくださいますか」
柔く優しい声色で。弱さを晒して。
*
甲虫めいた表皮の上を、走るというより滑っていく。
一秒前までいた場所にびよん、と長い肢を持った《ディヴィジョン》が飛び上がり、さらに一秒後に援護射撃で撃沈される。
彼女を待ち構えるようにして下方に蟻地獄じみた簡易的な巣を構える《ディヴィジョン》を見つけ、勢いを殺さぬままに飛び上がる。懐から小型手榴弾を取り出して左右に放りつつ、落下の速度そのままに蟻地獄の脳天に得物を突き刺す。バッテリーが駆動して杭が律動する。ぐがごごごごごご、と削り取られ、蟻地獄はこの世に別れを告げる。遠方で爆発音がして、集結しつつあった有象無象の《ディヴィジョン》が派手に吹っ飛ぶ。見た目のわりに威力がないのを知っているため、さっさと瓦礫と倒した《ディヴィジョン》の死体を足掛かりに再び有利な高所へ疾駆する。
後から後から這い上がってくる《ディヴィジョン》を最低限の動きで無力化していく。効率というよりも、自覚している疲労具合を鑑みて。それも、ワイヤーと瓦礫でなんとか固定しているクラスⅡに極力刺激を与えないようにしつつ、だ。まさに綱渡りともいえる攻防を、もう一時間近く続けている。
さすがの琴羽も、息が上がっている。
コンバットスーツはあちこち裂け、血が滲んでいる。一部は肉が覗くような深い痛手を負っているが、当然ながら治療するどころか、応急処置の余裕さえない。
専用武器としてパイルバンカーを選択しているものの、琴羽は本来、一期同様対人戦闘に特化したエージェントである。それも、初動で隙の無い連撃を加えて圧倒し、短期決戦を想定したスタイルだ。全く畑違いの場所で、援軍の望めない時間稼ぎという悪条件の中、むしろよくここまで保った、というべきだろう。
幸い、足元に横たわるクラスⅡはいまのところ大人しくしている。瓦礫が重くて動かせないのもあるだろうが、飽くまで都市内部に侵入することに拘っているためか、産卵の兆はない。それでも切羽詰まったら、おそらく最悪の事態になることは間違いない。
ことここに至っては、第二壁を崩落させたのは悪手だった。が、いまさら悔やんでも仕方ない。とにかくいまは他の敵を蹴散らしつつ、後方の仲間が打開策を打ち出してくれるのを待つほかない。
崩壊した壁の隙間から侵攻する《ディヴィジョン》は途切れることを知らない。果ての見えない攻防に、壁上の戦力はすっかり気落ちしていることだろう。しかし、いやだからこそ、最前線で単騎食い止め続けている琴羽が止まるわけにはいかない。彼女がまだ生きていることが、辛うじて彼らの士気を留めているのだから。
「……んっ」
不意に耳元をノイズが塞ぐ。通信が使えないのでお飾り同然だったヘッドギアから、次いで聞き慣れたアルトが弾け出る。
『こちら五室、壁上戦力、応答せよ』
慌ててはいるものの飽くまで冷静な笙香の声に、「やっとか」と顔を僅かに綻ばせる。
「私だ、打開策は見つかったか」
『主任? いまどちらに』
「壁の下」
『では、すぐに退避をお願いします。狙撃手の方は、水源の確保をお願いします』
「……はぁ? 水源?」
突拍子もないワードに困惑しつつも、身体は指示に従って後退準備を開始する。迫りつつあった下位の《ディヴィジョン》に残りの爆薬をプレゼントすると、爆風を背に受けながら崩れた壁を、カーブを描くように駆け上がる。
壁上で援護射撃を行っていた《メイジャー》がワイヤーを射出する。タイミングを見極めて掴み、一気に浮上する。
と、彼女が向かう先、壁上を疾駆し、近づいてくるものの影を認める。物資搬送用のスクーターらしいことは判るが、どうにもアンバランスな長さのものを積んでいる様子だ。他にもいろいろ積み込んでいるらしく、大きく傾きながら、規定よりも遥かに速い速度で近づいてくる。
「……ユキ」
搭乗者に気づいて目を瞠る。間違いなく、亡き先輩の後継者である。
「琴羽さん!」
向こうもこちらに気がつき、徐々に減速する。
と、時幸の後ろからひょこ、と顔を見せる人物がいる。
「! サナ⁉ おまえまで。どうして……」
スクーターは壁の崩落箇所ぎりぎりの縁まで来てようやく停止した。すぐ下に、どうにかして拘束を抜けようともがくクラスⅡの甲殻がある。
「はぁ、はぁ……西側の管制室にいたん、ですが、時間がないので、壁の上を、回り込んできました」
「いや、手段じゃなくてだな……」
重さに耐えきれなくなったのか、倒れかけたスクーターを支え起こしながら、積まれていた長い筒を抱えこむ。
時幸の身長ほどもある鋼鉄製のノズルだ。長さのわりに太くない。消防士の持つホースの、リール部分をスマートに大きくしたようにも見える。
壁上で待機していた支援員に指示を出す。すると、まさしくホースのような長い管が接続され、グゥン、という低い駆動音が鳴り響く。
時幸は付属している器具を手早く装備し、筒と自らの身体をしっかり固定する。
「琴羽さんも、後ろを持ってください。水が来ます」
「はあ? 水?」
呆気にとられる琴羽だったが、早梛が時幸のすぐ後ろに立って管を支えるのを見て、何も言わずに背後に回って脇に抱えた。
時幸の右腕には、鉈が握られていた。よく研がれていることは明白で、白刃が昼の陽を受けてきらきらと輝いている。
ごぽごぽ、或いはじゅるじゅるという音が伝い上がり、管が膨らみ、程なくして、暴れ竜のように制御が追い着かなくなる。抱きかかえるだけでは間に合わず、腹と腿の体重を掛けて上から押さえつけるようにして、必死に振り払われないようにする。
先頭にいる時幸が、ゆっくり目を閉じた。深く息を吸い込む。二、三秒ほど息を止めると、やがて静かに吐き出す。
そして。
いきなり、刃物を振り下ろした。……自身の反対側の腕に。
ポンプで加圧された水流が管を通って小径のノズルから迸る。
鮮やかに赤い、あたたかな血が、噴き出したばかりの水流に合流する。
マッハ3を越える高速、高密度で噴出された超高圧水はその凶暴な推進力を全く衰えさせぬままにクラスⅡに迫る。
それは音速さえ超える一撃にして一戟。
あっけなく、さりとて荘厳に。
洗練された一線が、空気を斬り裂く。
果たして、頑強な甲殻は紙に穴を開けるがごとく穿たれ、肉も臓も骨さえも貫通した。
ジェット水流の速さが体内を駆け抜けるダメージもさることながら、混入された要素が瞬く間にクラスⅡの巨体を蝕んでいく。
銛を打ち込まれた鯨のごとき咆哮が劣化した壁をぼろぼろ剥がす。
ウォータージェットメス。
簡単に言うと、水鉄砲である。
圧縮された水を一気に射出することで超硬度を誇る物質であっても一点貫通することができ、工業機械としても採用されている。加えて、水の性質上、他の液体を混ぜやすく、さらにそれが浸透しやすい、という長所がある。時幸が今回、幾多ある貫通武装の中でこれを選択した所以だ。
水流が衰え、痩せ細り、ついに潰える。しかしもはや誰の目にも明らかだった。
クラスⅡは体内の主要な器官が修復不可能な域にまで破壊されている。
びちゃびちゃという音がやけに近くで聞こえた。
水流は収まっても依然として威勢よく溢れ出る血液が、時幸の足元を真っ赤に染め上げている。
「……やった」
誰かが小さく呟いた。
囁きは次第に大きくなり、やがて大きな歓声の渦となって壁の上を席巻する。
「まだだ‼」
琴羽の一喝が、浮かれていた《メイジャー》を叩きつける。
クラスⅡの、巨体に似合わぬ細い、されど多数の肢が、ぴくぴくと震えている。まるで羽を傷つけられて飛ぶ不格好な蝙蝠のように。しかし、奴が死んでいるのは明白だった。神経系のダメージによる反射に過ぎない。
しかし――痙攣する肢と肢の隙間から、外を、上を、こちらを見る、無数の眼球。
誰かが、ひっ、と声を上げた。
瞬間、クラスⅡの遺骸が頽れる。ドミノ倒しの駒のように、柱の腐った木造建築が倒壊するように、がらがら崩れてそこら中に散らばる。水分も油分もなくなって干からびた残骸とともに……人間大の、ピンポン玉のようなものが零れ出す。
「……運悪く水流が子宮を避けていた、か。まあ想定の一つではあるな」
「そんな……」
「……っ、生まれたら……もう一度、射出します。今度は、広範囲に、シャワーみたいにして……」
時幸が、よたよたとした歩きで倒れたままのスクーターに向かう。荷台を引っ掻き回し、アタッチメントを取り出すと、引きずりながら筒まで戻る。
「……再噴出まで、いくらかかる?」
振り返らずに、琴羽が背後の《メイジャー》に問いかける。
「えと……! だめです。ポンプが空っぽで、200メートル先の貯水槽までホースを伸ばさないと……」
「だめだ。時間がない」
少なく見積もっても三十個の卵の中で、倒したばかりのクラスⅡによく似た影が肢を動かしている。もって数分。いやもしかすると、あと数十秒の後に、壁下は生まれたばかりの、三十体を越えるクラスⅢで埋め尽くされることになる。それだけではない。クラスⅡの崩壊によって一時的に遠巻きになっている他の《ディヴィジョン》が、いつ活動を再開するかも判らないのだ。
「やるしかないだろう。各個撃破だ」
琴羽は舌打ちし、足元に広がる紅の池を見た。これを用いれば、一体一体にかける討伐時間は最短で済むだろう。ただ、数が厄介なだけで。……そして、数が最大の問題なだけで。
《メイジャー》達の顔には絶望がありありと浮かんでいる。結局、クラスⅢを一網打尽にする手などなかったのだ。琴羽とてわかっている。壁がなくなった今、壁内の犠牲は必至だ。東日本一区に存在する対三型の武装と《調律の彼女》を集めたところで、完全に侵入を食い止める手段などありはしないだろう。
「あのっ」
そのとき、小さな声がした。
小さな、されどよく通る声だった。
下を見ると、その声にふさわしい、小柄な、されど芯のしっかりとした少女がいた。
「琴羽さん……に、お願いがあります」
「……なんだ」
早梛は、自らの愛刀を差し出した。
「これを……粉々に、砕いてくれませんか」
「⁉」
目を瞠る。
「この刀を、砕いて、細かくして、粉にしてください」
もう一度、揺るぎない口調でそう告げる。
「そんなことをして……何をする気だ」
「撒くんです」
刀を握る手に、軽く力を籠める。
「殺すことはできないけれど……足止めくらいにはなると思います」
「しかし……」
「大丈夫です。この刀、砕いても元に戻るって、夏来さん言ってたじゃないですか。私にとっても家族の形見みたいなものですし、仇討ちのための大事な切り札なんで、捨てるわけじゃないですよ?」
そこでふと、力強く微笑んだ。
「時幸くんが、身を削ったんです。それを私は、止めてとはいえません。他の方法は、いまの私では用意できない。だったら……」
本当は傷つかずに済めばいい。けれど、この世界はそれを許してはくれない。
なら、せめて。
「私も身を削ります。大事なものを差し出さないと、彼の隣に立つことはできない」
琴羽はしばし茫然としていたが……。
「ふっ」
小さく噴き出し、そして次第にはっきりと、ついには高笑いしだした。
「あっはっはは、あははははは! まったく、大胆だな、きみは」
そして小さく付け足した。
「――あいつが惚れるわけだ」
「? 何か言いました?」
「いや、何でもない。……それじゃあ、やるか」
パイルバンカーを駆動する。杭が微細動する。
「きみの切り札、この都市に預けてくれ」
*
遂に。
仄かに透ける殻に、亀裂が入る。
罅割れは徐々に広がり、殻の上部いっぱいに網目のように張り巡らされ……細く鋭利な肢が、外との境界を抉じ開ける。
2000Hzはあろうかという高い産声を上げて、クラスⅢが次々と誕生した。
「くらえ」
生まれたばかりのクラスⅢに、細やかな銀色が纏わりつく。
戦火から生まれた灰のように柔らかく微小な粉は、満遍なく《ディヴィジョン》に降りかかっていく。
街中で初雪に遭遇した人のように、なおも降り落ちるそれを不思議そうに眺め……次の瞬間、ものすごい勢いで後ろに引かれる。クラスⅢは、いましがたようやく出たばかりの殻の中に逆戻りする。
なんとか殻を外そうとじたばたもがくが、殻が放さないのではない。
出ようという意志とは裏腹に、クラスⅢ達は不格好な卵内回帰を試みる。
「……よし、いいぞ」
その頭上、粉砕機よろしくパイルバンカーを構える女が呟いた。
傍らでは小柄な少女が、愛刀が砕けて銀粉を巻きながら形を失っていく様を見守っている。
砕けた刀は十の、百の、千の万の億の欠片となって散布され、クラスⅢを呪う。
無数の粒子になっても失われることのない、高位の“反転”の力。
クラスⅢは一体たりとも、卵の傍を離れることはできない。
「――準備完了です!」
引き絞られた矢のように快活な声が耳朶を打つ。
振り返ると、ホースを抱えた列が遥か先まで伸びている。
その先頭に、時幸はいた。
顔色は蒼褪めているが、早梛を見て、微笑みながら頷いた。
再び、ポンプが駆動して水が上がってくる。こんどは高圧水ではない。通常の速度だ。先端は如雨露のようなアタッチメントに付け替えられている。
先ほどのジェット噴射ほどではないがそれなりに勢いよく水が噴出した。
時幸は手首を掲げ、血を垂らしていく。
時幸の血の混じった雨が降る。動くに動けないクラスⅢに降り注ぐ。
最初の一滴が、その表皮に触れた瞬間。
産声よりもさらに高い、高い断末魔がそこら中を引っ掻いた。
ばたばたと、クラスⅢが倒れ、やがて痙攣さえしなくなる。ついでに、侵入した他の《ディヴィジョン》も溶解して沈黙する。
「目標撃退、残り18、17、16、15……」
そして、やっと。遂に。
「……最後の個体、沈黙! 討伐完了!」
今度こそ、壁の上にいる全員が歓声を上げた。泣きだし、同僚に抱えられる者もいる。
琴羽も、きつく寄せられていた眉を緩め、珍しく微笑んだ。
その様子を見て、少年は。
「……よか」
疲れたように笑った。
反転。
空が上に、壁の感覚はなく、人の顔が逆側に回っている。
視界が明滅し、点滅し、やがて暗転。
「時幸くん!」
最後に聞こえたのは、彼を呼ぶ少女の声だった。