9‐2 現夜を継ぐ者
「……はぁ」
聞き分けのない子どもに手を焼くように、湖麻由は溜息を零す。
次にその小さな紅い唇が動いたとき、短くも確固とした文字列が呟かれた。
ひどく、懐かしい響きが、世界に紡がれた。
「時幸」
不意に名前を呼ばれ、ぎくっ、と身構える。
【魔女】という超常の存在に警戒したのではなく……彼女が息子を、呼んだから。普段のふざけた愛称ではなく、正式名で呼ばれたとき、そうなるよう、自然と躾けられている。
「よしなさい、時幸」
湖麻由は目を細めた。
無言で、自傷を強いたであろう仁藤への批判と、従った息子への叱責を、一つしかない眼差しに込める。
愛する子ども、自分も愛してほしい、嫌われることはしたくない。それでも、命の危険があることをしでかしたときにはきつく叱る。嫌われようとも、道を踏み外さぬよう監督する。まさしく親の威厳でもって、湖麻由は時幸を諭した。
「……なにを、いまさら」
目を逸らし、言い放つ。突き放すというより、逃れるように。
そもそも時幸に一番危害を加えてきたのは、その元凶はすべて湖麻由だ。彼女が施術しなければ、普通の母親であったのならば……時幸を産んだりしなければ、こんな不幸を被る必要なんて、なかったのに。
母親への恨みつらみは積もるほどあった。だが幼い頃に刷り込まれた、記憶というより深層心理に刻まれた条件付けが、時幸に否応もない強制力を与える。
ただ銃を下ろすというだけでなく、湖麻由に逆らえない、逆らったらいけないという……。
「やくそく……」
か細い声に、揺れる心が引き戻される。
半分だけ振り向くと、床に横たわったままの彼の相棒が、それでも光を失わない瞳で時幸を見ていた。
「大丈夫」
安堵させるように、語りかける。
「忘れていません。俺は生きて、あなたとここから出ます」
そして、湖麻由に向き直った。
「――俺は、あなたの思い通りにはならない」
「それは違うの」
湖麻由は、だが、肩を竦めた。
「違う、とは、何に対して?」
「わたしに思惑なんてない。そこのお嬢さんの言ったとおり、要の望んだ世界も、わたしの望む世界も、本質は同じだもの。そこに個人の余地なんか、ないのら」
縛られているというのにゆったりと、湖麻由は天井を見上げた。
「これはただ、わたしに与えられた役割なの。湖麻由として生まれて、富良賀になって、そして真っ当な人間でもなくなった、いろんな意味でね……『わたし』の、持って生まれた、存在意義なの」
「存在意義?」
「なの。あなたも。……さっき言ったように、ユキちゃんはわたしのものじゃない。誰かのものでもない。ユキちゃん自身のものでさえない。皆、この世界の駒の一つなの。よりよい未来へ向かうための、布石の一つ。だから、いずれ判るときが来る。わたしが何であんなことをしたのか、なんでこんなことをするのか。どうして……あなたが生まれたのか」
「知りませんよ、そんなことは」
またしてもさばさばとした返事が出たことに、時幸自身も若干驚いていた。
あれだけ欲しがった答えがすぐそこにあるというのに、いまはそれが、ひどく、どうでもいい。先ほどの湖麻由の発言の意図が判ったこともあってか、心情は凪いでいて、ほっとしている気持ちもあって、それが自分でも判っててなんかちょっと、嫌で。蓋をするように、対応は冴え冴えとしていて。
「はぁ……」
その態度に、湖麻由はますます肩を落とす。
「それは、いいんだけど……うん、お母さん、誰かの思いどおりにならないユキちゃん好きよ。でもね……誰かに逆らうために、自分で自分を傷つけるような子に、育ってほしくはなかった」
「あなたに言われる筋合いはありません」
「そうかもしれないの。……現夜一期に預けたのは、間違いだったかもしれない」
その一言に、交渉の目的を思い出す。
「師匠の死の真相を、知っているというのは本当ですか?」
ごくり、と、固唾を呑んで尋ねた。
「どんなことでもいい、教えてください」
「知ってどうするの?」
今度は湖麻由の口から、突き放すような、冷めた声が漏れ出でた。
「あなたは一期に届かない。一期を出し抜いた相手に、敵うべくもない」
自分でもわかっているでしょう? とでも言うかのように、湖麻由は瞳を揺らす。
もちろん判っている。理解りきっている。
現に、湖麻由にも……時幸に害意を持たない、ある意味で一番「易しい」はずの相手にさえ、身を切らなければ対処できない。
「……それでも」
敵うとか、敵わないとかじゃない。
【魔女の息子】とか、《機関》とかじゃない。
「時幸」は、どうでありたいのか。
「俺は……悔いの残らない方を、選びます」
早梛を救う。たとえ自分が死んでも。
湖麻由を止める。たとえ自分の生まれた意味に逆らっても。
あなたが俺に何を期待しようが、世界が俺にどんな役を押し付けようが、俺がそれを文句も言わずに演じる必要なんかない。
一期のようになりたい。
一期の望んだように生きたい。
やっとわかった。
復讐相手に辿り着きたいのは――
――一期の人生を累ね歩いた先だから。
憎いとか、目的が欲しいとかじゃない。
一期が最期まで追っていたものを見つけ、果たせなかった願いを完遂させたい。
――時幸が「そうしたい」から!
「……なんのために、一期になりたいの」
今度は突き放すというより、単純に答えを促すように、湖麻由は尋ねた。
「一期になって、何がしたいの」
子どもに将来の夢を告げられた親が、そうするように。
「俺は……」
時幸は、「現夜時幸」だ。
現夜であることを、辞めたくない。死んでも辞めない。
「……俺は」
だから。
「……世界を、救うために」
救いたいから、救う。
たとえ、救ってくれと世界が言わなくても。
ヒーローなんて柄じゃない、といいつつも、ヒーローを演じた人のように。ヒーローになるつもりなんてなくても、潔く、最後まで自分を辞めなかった、あの人がそうしたように。
あの人がやり遂げようとしたことを、引き継いで。それがあの人が生きた、証になるから。
まったく荒唐無稽な、青臭い、青すぎる夢だ。具体的に何をするのか、いまやっていることの正当性を持たせるにしても足りない。だがいまの時幸は、それを、誇っていた。
その答えに。
無邪気な男の子の絵空事を聞かされて。
湖麻由は……彼の母親は。
――笑った。
確かに、笑ったのだった。
小馬鹿にしたのではない。
微笑ましく思ったのとも、違う。
まるで、孤軍奮闘の戦場で、援軍の王子が助けに来てくれたときのように。
心の底から、息子のまっさらな善性を、慶んだ。
その顔を見て、時幸は。
期待されていることが、嬉しくて……ひどく、嫌だった。
「前言撤回なの。現夜一期に預けてよかった」
その一言が聞けて良かったと、歓喜と安堵の溜息を吐く。
「……なぜ、師匠を選んだんですか?」
時幸の言葉一つでここまで機嫌がよくなるとは意外だった。訊きたいことは他に山ほどあったのに、つい咄嗟に、その質問が口を吐いた。
「男の子は、男の人が育てるものだから。わたしの都合でユキちゃんにはお父さんを用意してあげられなかったわけだし」
湖麻由もまた、時幸の問いに応える義理などないにもかかわらず、率直な言葉を述べた。嘘を吐く必要も隠し立てする理由もない問だったというのもあるだろう。
「それに……わたしの手元に置いたままじゃ、ユキちゃんは『選べない』と思ったの。お母さんの元ではきっと、『こういうこと』しかできないように育ってしまう」
そう言って、縛られたままの姿で、辛うじて自由になる手を開いた。
「それは……?」
握り込まれた、ピンポン玉ほどの大きさの機械と、湖麻由の顏を見比べる。
「そこの坊やに嵌っていたものなの。わけあって、片方とっちゃったけど」
精巧に作られた義眼だった。志緒はこの塔の「地球上のあらゆる場所に脳波を飛ばす」機能を解析することで、逆に周囲の脳波を、微細だが受信していることに気がついた。その微かな、そのままでは拡散してしまう情報を一点に集中し、加工して視覚的に映写することで、この塔の内部に監視カメラの類が一切仕掛けられていなくても、この眼を通して何もかも見渡すことができたのだ。さらに、《機関》や政府の動向さえ探ることができたのである。
いまは湖麻由によって抜き取られているが、視神経と連動していたそれは、まさに身体の一部として自在に使いこなすことができた。
「……そんなもの、どうするつもりです?」
「明白。義眼は一対。片方が見聞きした情報は、連動するもう片方の義眼を所有する者にも共有が可能となる」
呟き、にしてははっきりと響いた。
“青海波”という架空の熱帯魚の内で、さらに希薄にゆらゆらと、游ぐ幽霊魚が一尾。
透き通るように影の薄い女が、薄闇の中から現れた。実際には入り口から入ってきたのだろうが、いまのいままで、まったく気配が感じられなかった。それほどまでに、時幸は女の存在を忘れていた。
「誰?」
まして、彼女の存在など知らない湖麻由にとっては、水面に投げられた石のように急な登場だったことだろう。殺伐としていたとはいえ、それでも彼女にとっては久方ぶりの親子の会話だった。それに割って入られた苛立ちを込め、刺すように容赦のない眼差しで闖入者を射竦める。
機嫌を損ねられたから殺す、とでも言いたげの動機の軽い、されど紛れもない殺気を受けながらも、やはりメリサは、自分の生死さえどうでもよさげな表情で、部屋全体を視界に収めていた。
「推定。志緒の脳神経と中枢装置を同調させ、情報を取捨・入手する目論見」
「……なの」
初めから質問の答えを期待していなかったからか、指摘されたことの肯定を優先すべきと判じたのか、メリサの無感動さを察して早々と見切りをつけたのか。いずれにしろ、湖麻由は肩を竦めて自らの目的を語った。
「わたしは要の計画の片方は知ってるけど、もう片方は故意に遮断されてるの」
「……片方?」
「半分、と言い換えてもいい。目的は判ってるけど、そのためにやらなきゃいけないことが二つあるはず。『あの男』はそれぞれが持つ情報を故意に分割することで、中立を気取っていた。……まあ、あいつはあいつなりに、ままならないことがあるのかもしれないのら」
「あの男?」
「……」
湖麻由は目を伏せた。その表情の変化に気づき、時幸はいささか揺らぐ。
故意に情報を伏せている、というよりも、個人的な感情で話したくない。時幸には知らないでいてほしい、知るような機会が来てほしくない。そんな忌避感と嫌悪感の滲んだ顔だった。
そんな、やめてほしい。
【魔女】という得体の知れない存在にとっくの昔になっていたにもかかわらず、例えば息子の眼を手術する前夜にそうであったように、たまに人間らしい葛藤や不安を面に表すのは。何もしていないのに、こちらがいたたまれない気持ちになる。
「……『あの男』の関与していないこの塔の中枢になら、わたしの求める情報があるかもしれない。でもわたしは、脳を物理的に弄ることはできても、人の頭の内容までは探れないから」
先ほどまでならある程度聞き流せた言葉でも、いまでは、情報を隠されたから、というよりも、純粋に「あの男」と関わる機会を減らせるから、というニュアンスが見え隠れしていた。
「脳を取ってミネットに解析してもらうつもりだったけど、手間が省けたのら。彼女に借りを作るのは気が進まなかったし」
訊きたいことは山ほどあったものの、粗方湖麻由は答えから逃げるだろう。いまの状況は時幸が作り出したものとはいえ、実質、彼の優位は何一つない。
湖麻由は当然、時幸の不死性を把握している。湖麻由から移植された角膜を撃ち抜こうとも、再生されることも。彼自身を人質にとったとしても、実質湖麻由に失うものはない。そして人質に価値がなければ……湖麻由は、いつでも拘束を抜けられる。
ただ、それを阻止できる切り札はある。
死ねばいい。
長くない生涯の間で、時幸は自分がどんな死に方をすればどういう状況になるのか、ある程度把握している。敢えて痛みと損傷を伴う死に方をして、蘇生時に故意に暴走を引き起こす。その可能性を示唆すれば、湖麻由の行動を幾ばくかは制限できるかもしれない。
だが……やはり、それは交渉の材料にはなりえない。時幸はその選択を選べない。選べないことを、湖麻由は知っている。
暴走すれば、コアを破壊し、湖麻由の目論見を破壊することはできるだろう。余波で塔が粉々になったとしても、時幸だけは生き残る。
だから、できないのだ。早梛の無事が保障されない限り。
そして、たとえ意識がない暴走状態でも、そして、元から植物人間だった、さらに延命装置から外したいま、徐々に死にかけているとはいえ、時幸が「人を殺せるか」という問題を、無視するわけにはいかない。
それに……湖麻由の行おうとしていることを、本当に阻止すべきか、という考えが首を擡げた。
仁藤からの指令は「湖麻由が全人類を洗脳することのないよう、中枢装置の入手を阻止せよ」というものだ。湖麻由には洗脳を行う気がないことが判ったいま、どのように行動すべきか。
仁藤要の目的が何なのか《機関》が把握していないのなら、コアを奪取して持ち帰るという選択肢はあるだろう。だが、湖麻由が要の計画の全貌を知らないままでいさせるのが、果たして正しいのだろうか。
仁藤要の目的を時幸が知らない以上――大規模洗脳装置など作るくらいだから、大概碌でもないものなのだろうが――それを誰に明かすのが正しいのかも判断できない。仁藤要が既に死んでいることを鑑みれば、計画を引き継いだ何者かがいるはずで、それは要の身内である仁藤周や、生前交流のあった《機関》の幹部や研究者である可能性も否めない。
結果として、時幸はメリサの出方を窺うしかない。
不意に、メリサがゆっくりと両腕を持ち上げ、時幸は身構える。掴んだままの糸が、僅かに揺れた。
拘束服の飾り気のない袖に包まれた己が両腕を掲げて見比べた。それから、胴、同じく武骨な拘束具に覆われた胸や、臍を見渡すと……巨大なビスクドールめいた顔が、人間味を帯びる。
眉尻を下げ、光の少ない瞳を細めた。困るが半分、がっかりが半分、といったところだろうか。一世一代の舞台に、衣装が間に合わなかったことを残念がるように。この女も、このような顔をするのか、と、時幸は自身のプロファイリングが誤っていたことを自覚する。いや、そもそも、ここに来た時点で、時幸の想像していたメリサの人物像とは異なっていた。
右手は下げ、左手を上げる。床に散らばった彼女の相棒――もはや残骸と言ってもいい状態だが――を素通りし、その傍に佇む幼女、その、真上を指さした。
「はちな、なろーくぅ、ごーぉよー……」
呟き始めた言葉が、どの言語にも馴染みがなくて、一瞬、何かの暗号かと思った。独特のニュアンスを持つがカウントダウンであることを察して、自らの間の抜けようを恥じるとともに、咄嗟に跳び退く。
「ん、さんにぃーに、いー……ちぃー」
す、と、天井に向けられていた指が、振り下ろされた。
「ステイルメイト・アイム・オートマトン」
同時に、世界が捻れた。
一斉に壁が、床が、震えとともに内側に織り込まれるように崩れ、天井が落ちた。
湖麻由を。
この場でただ一つのクイーンを。
駒に過ぎない女を、囲むようにして。
細かい一つひとつのブロックごとに分かれた天井は、まるで砂の山のように流動的に崩れ落ちる。
こうなるように予め手配していたのだろう。この塔の崩落を仕組んだときから。“籠の中の鳥”を操り、どこをどう、どの順番で分解させるのか、どのタイミングで追い詰めるのか。
それこそチェスの譜面のように完璧に。狂いなく。
だが。
「“青海波”」
蝶の羽ばたきより軽やかな声で、僕を呼んだ。それだけだった。
拉げ波打っていた天井が、その形のまま浮き上がる。水槽に浮かんだ葉物のように、揺蕩うように。同時に、均衡を失ったジェンガのように倒れ込まんとしていた壁も、処理の追いつかない3Dモデルのようにモザイク状に罅割れかけた床も、リモコンの一時停止ボタンを押したかのように、ぴたりとそのまま固まった。
おそらくは渾身の一槌を、こともなげに防いでみせた。
たわいない、という態度を隠しもしない嘲笑を口元に貼りつけて、【魔女】は振り仰ぐ。
しかし、ここで。
この一局で。
予期せぬ事態が、盤面を席巻する。
光、光、光。空気を塗り替える鮮やかな炎。
鳳仙花のように弾ける衝撃。
一拍遅れて、耳を打つ破裂音と、生々しい悲鳴。
「……ぁああああああああああああああああああぅっ‼」
時幸に仕込まれた安全装置が、よりにもよって、この土壇場で、文字通り炸裂した。
「ゆ、ユキちゃん⁉」
「ぐううぅ……っ」
歯を食いしばってそれ以上無様を晒さないようにするが、身体は思うようにいかない。身を引き裂かれる痛みは肩だけでなく腕全体に痺れるように伝播し、ただでさえ焼けるようなひりつきにぎりぎり持ち堪えていた手元が緩んで糸を張っていられなくなる。筋肉の弛みもそうだが、視界はくるくる回って金の星が瞬いているし、ごくごく小規模とはいえ至近距離での爆破音に耳の中がうわんうわんと嘆いて意識の散漫も甚だしい。
しゅるりと湖麻由が、剥けた。
撓んだワイヤーには羽織っていたカーディガンと、ソックスだけが残されている。“透過”の対象を選別し直し、時幸の血液の染みついた衣服だけを、空蝉のごとく脱ぎ捨てた。
「ユキちゃん、ユキちゃん‼」
完全に拘束を抜け、よせばいいのに傷の増えた息子に一目散に向かいかける。
だらけて散らばったワイヤーを跨ぎかけた彼女から逃れるというよりも、早梛を庇うために後退しつつ、時幸は鍛えられた動体視力と冷静な思考でメリサを見た。相変わらず半身には洒落にならない痛みが奔っているが、傷の治りを早める訓練同様、痛みに耐える訓練も受けている。
はっきりいって意外だった。メリサがこの場に現れたこと。塔の倒壊を目論んだこともだが、そんな大それたことをして、さらにタイミングをコントロールできるのであれば、避難せずにわざわざ埋没の危険のある地下へと現れたことが不可解だ。
志緒がメリサの避難を意図してこの塔に呼び寄せた以上、彼の指示ではないだろう。であればメリサは、彼女自身の意志で来たことになる。生き残ることよりも優先して、やらなくてはいけないことを果たすために。
そこにどうしても譲れない拘りを、短い間とはいえ付き合って、判明したメリサの人格にはなかった揺らぎを、「執着」を感じ取っていた。
拘束が緩んだこと、その隙に“透過”の設定を変更して逃れたこと、そして予期せぬ時幸の爆発によって、この場を支配していたはずの湖麻由の意識はさすがに持っていかれていた。
その隙に、メリサは単騎駒を進める。
ポーンを動かすように、一歩一歩、てくてくぽんぽん。
まるで、おしゃれして、澄ました顔で川縁を散歩でもするかのように。
若々しい乙女が、初めての逢引きに胸弾ませるように。
悍ましい悪寒を感じながらも、時幸には距離的に、何もできない。
メリサは緩んだ“フェイルノート”を易々と掻い潜り、つい先ほどまで湖麻由のいた空白に足を踏み入れた。床に転がった、もはや生きているのか死んでいるのかさえ定かではない、男の頭部を見下ろした。
それで、察した。彼女の棋譜が、狙っていたのは、湖麻由ではなく……。
【魔女】が、背後の動きに気づき、振り返った。だが、遅かった。
女の非力でも、渾身の力で落とされれば、拘束用に重く作られている靴底なら。
そして壊し方さえ知っていれば人の頭部は、いともたやすく潰せるものだ。
「チェックメイト・ユア・オートマトン」
かわいらしい呟きと、
振り下ろされた脚の残酷さが、
ひどく、ちぐはぐだった。
入念に、懇切丁寧に、執念すら感じるほど徹底的に……そう見えたのは、時幸の錯覚だろうか。
重々しい一撃が――頭蓋を打ち砕いた。




