8‐6 生きるということ
一瞬の浮遊感。次いで、叩きつけるような速度と重力の実感。
右眼と頭の焦げるような頭痛も相まって、くらくらとした眩暈と吐き気が、少年の意識を攪拌する。
「うっ‼」
幸いにも、大した距離ではなかった。床についた両膝と左手の平がびりびりと痺れ、腕と肢全体に衝撃が伝わるも、折れた感触はない。だが、既に負傷していた右手は……。
……不思議と、痛くない。
未だにじんじんと痛む眼と頭も、柔らかく温かなものに、庇われている。他人の汗と洗剤の臭いが、息と一緒に鼻腔に満ちた。
痛みと、衝撃に備えて瞑っていた眼を、おそるおそる開く。開いたのに、何も見えない。黒が息づいている。
「……いっ……たぁ~……」
背中と首の中間あたりに回されていた腕が、そっと解かれた。それに合わせて、身を起こす。
床に転がった早梛が、目の前にいた。
時幸の右腕は、その胸元に押さえつけられている。布地に、その奥のヒトの体温に、包まれるように、ぎゅっと、繋がれている。
つまり。見方によっては、時幸が早梛を組み敷いている構図で。
「……さ、な……さん?」
状況を確認して数秒間、固まった。ようやく我に返ると、
「うわわわわわわわわ⁉」
と、慌てて腕を引いた。それでも、その感触がしばらくは忘れられそうにない。
「え、えっ……ちょ、ま、え? ご、ごごごごご」
下心とエージェントとしての心得と紳士としての自律と思春期の拗らせが相まって、気持ちが纏まらない。
「ちょっと、待って……あたまいたい」
苦し気に頭を振る彼女の姿に、浮かれた気分が脇に追いやられる。
「大丈夫ですか⁉」
「うん。ちょっと横に、させて……あと……重い」
よく見ると、密着しているせいか、他にもいろいろ触れている。太腿とか。
「す、すすす、すみません」
「……あんま、おっきい声、ださないで……」
寝た格好のまま起き上がらない……というより、起き上がれない彼女の傍らに、膝をついた。そのときに、気づいた。彼女の額を覆う、剥がれかけた冷却シート。
触れようとして、早梛が、薄目を開ける。とっさに、差し出しかけた腕を引っ込めた。
「……へいき?」
ニュアンスから、自己申告ではなく、時幸を案じているのがわかった。目を瞬き、そして、歪めた。どうしようもない切なさをぶつけるように。
「なんで……」
つい、捨て鉢のような言葉が漏れた。
「なんで、庇ったんですか。こんな、俺を……」
自らの生に意味を見出せない、十五年間に虚無を抱いてしまったが故の、ひどい突き放し。身を挺してくれた早梛の気持ちを踏み躙るような、自虐。
今度は早梛が目を瞬いた。かなり消耗しているのだろう、その所作はひどく、ゆっくりとしていた。
そんなに消耗してまで。だが。……なお。
彼女は、ふ、と、柔らかく、笑みを浮かべた。
「だって……時幸くん、怪我してるし」
まるで当然だといわんばかりに。そうするのが人の道だと、自明の理だと、胸を張るように。
数か月前――たったそれだけなのに、随分と昔のように感じる――壁外任務でも、彼女に庇われた。あのときはまだ相棒ではなくて、お互いのことすらほとんど知らなくて。でも、早梛は、それでもとっさに、庇うという選択をした。
自分だって無茶をして。痛みに顔を顰めて。
それでも笑う。へらへら笑う。
小さな身体で、いつも時幸を守ろうとする。
彼女はとても――きれいだ。
おもむろに。そっと、腕を持ち上げた。拒もうと思えば拒めるほどに、鈍く弱々しい動きだった。だが、いや、だから避けなかった。
早梛は、時幸の顏に触れた。輪郭を確かめるように、顎を。それから、なぞるように頬へ。そして、目尻に。
「……痛い?」
気遣う言葉で、まだ瞳の色が変わっていることに気づく。
確かに痛みはある。眼球を構成している細胞の一つひとつに【魔女】の思惑が込められているような嫌悪感も。だが、それ以上に辛かったのは、早梛に見られていること。彼女に、怯えられることに、怯えている。
そんな時幸の怪訝など意に介さない、といわんばかりに、早梛は涙袋の辺りを撫でている。猛獣に手を伸ばす、というより、壊れものを砕かないような慎重さで。
「……」
正直に痛い、と言えば、彼女を心配させてしまう。着地の衝撃を一身に背負って、傷ついている彼女に、これ以上負担をかけたくなかった。
痛くないと嘘を吐くことも、できなかった。強がりだと易々と見破られるのが判りきっていた、というのもあるが……白状してしまうと、この穏やかな時間が終わるのを、惜しんだ。
だが、そうゆっくりもしていられない。
――探られている。
閃光弾から回復したらしい。もっとも、時幸達の現在地を視てすぐさま追ってくる様子もない。
目的はやはり、あの広大な空間だろう。二人の目的地でもある、地下中枢。
とはいえ、この建物は天井が高く、入り組んでいる。直線距離でも幾ばくかは時間が掛かるはずだ。早梛の回復を待つ程度の余裕はある……あってほしい。
不意に、早梛が顔を歪めた。堪えるように目を眇め、きつく瞑る。唇が、何かを訴えたがっているようにわなわなと震え、引き結ばれる。
「早梛さんっ」
呼びかけると同時に、瞳が見開かれる。鮮烈な濃藍から、澄んだ大粒の涙が溢れ出した。
「……時幸くん」
蒼褪めた顔で、ゆっくり呼吸しながら、慎重に言葉を探している気配があった。
「私ね、あなたに……こんな顔をさせる人のこと、やっぱり許せないよ」
弱々しくもきっぱりとした言葉が、胸に刺さる。棘になって、ちくちくと痛んだ。その痛みに、痛みを感じている自分自身に戸惑うように、時幸は目を瞬く。
早梛の大きな瞳に、映る彼の顏は、なるほど確かにひどく無様なものだった。家に帰りたいのに帰るのが怖いような、そもそも帰り道がわからないような、ひどく心許なく、痛々しいこどもの顏。
それを見て、早梛は目を閉じる。胸が一度、深く沈んだ。
「けど、」
時幸に触れたままの、その手を今度は、自身の額に宛がった。
開いたときにはまた清冽な眼差しで、時幸をまっすぐ見据えている。
「……悪い人だとも、思えない。ほんとに世界中の人を洗脳する、心づもりなのかは知らないけど。でも、少なくとも私のこと、助けてくれたのはほんとだもん」
ずっと引っかかっていた。でも訊く機会のない……本音では、訊くのを恐れていた。
「それは、あの人が……?」
「うん。憶えてないけど、たぶん、ね」
ぬるくなって、粘着力も落ちたそれを、無理やり貼り直した。
「……確かに、悪いこと、たくさんしたかもしれない。人を殺して、大勢悲しませて……でも、私は。私は、だけど。……嫌いにはなれないの」
手当てしてくれた彼女、そして、時幸を利用することに迷いや後ろめたさのある彼女を、憎むことはできない、と。
「それは……」
人を人とは思わない湖麻由でも、戯れに慈しみを向けることはあった。一度見逃した相手を追い詰めて、結局殺すこともあったし、そのまま放っておくこともあった。今回のそれも、たまたま早梛を、そのときの気分で救っただけだ。
そう言い聞かせることで、時幸は自らの中に生じた芽から目を背けようとした。安堵という、凡そ認めてはいけない芽……早梛が無事だったという安堵では、なく……。
「あなたも、同じじゃない、かな」
投げかけられた言葉に、顔を上げた。
「え……」
「時幸くんは、」
「嫌いでも好きでもある、んじゃないかな……お母さんのことが」
不意に響いた言葉に、大きく揺さぶられる。
実際、建物は小刻みに揺れてはいるが、それすら感じないほどに、心がひどく騒めいていた。
「嫌いでも……好き、でも、ある……? 俺が……あの人を」
「うん」
早梛は一度、視線を左に向け、斜に傾け、それからゆっくり、時幸に戻した。
「許せないって気持ちを、捨てろとはいわない。それはあなただけの、大事な感情だから。でも……それで、好きだった気持ちまで、無理に圧し潰す必要は、きっとないよ」
母に愛された八年間。それを以てしてもあの裏切りを無かったことには、できない。
けれども、確かに八年間、母から愛情を注がれた。その事実は消えない。
だからどちらも、我慢する必要はないのだと、早梛は言う。
「誰に何言われたって、好きなままでいいと思う。だって、お母さんだもん。いきなり嫌いになんて、なれないでしょ。その気持ちを嘘だなんて言える人は、この世のどこにも、あの世にだって、いない。……あなた自身であっても、きっと」
震える。時幸の身体を、芯から揺るがしている。早梛の言葉が、ではない。いままで向き合ってこなかった、蓋をして押さえつけていたものが、溢れ出してきそうだった。
「うっ……」
こんなときだというのに。泣きそうだった。
誕生日を祝われた。――利用されていたのがわかった。
風邪をひいて看病された。――断りもなく身体を弄られた。
愛してる、と抱きしめられた。――唐突に、手を放された。
あの女は【魔女】だ。実験動物にされたのは自分の意志じゃなかったとしても、嬉々として人を殺めたのは本人の意志だ。身も心も化け物に成り下がった。実の息子でさえ陥れた。
化け物の息子は化け物だ。化け物なんだから、人権なんてない。息子なんだから、責任はおまえがとるべきだ。おまえの母親は、恨まれて当然のことをした。
――おまえは。母親を、憎む権利がある。憎むべきだ。
散々投げつけられた言葉の中、一言でよかった。誰かに、言って欲しかった。
――お母さんのこと、好きなままでいていいよ、と。
先ほど、早梛が湖麻由を許せない、と断じたとき、心が粟立ったのは。それまでも散々、母を悪し様に言われる度、母が自分にした仕打ちに誰かが憤る度、心の中に蟠ったのは。
母を庇いたかったから。あんなことをされてもなお。
その気持ちを認めたくなくて、そう感じている自分が嫌で、滅裂な思考で、自分を否定した。母に銃を向け、その実自分を傷つける仁藤の案に、安易に賛同した。二度も裏切られて、それでも、自分が母に縋るのは……愛している人から、愛されたかったから。
「……間違ってたら、ごめん。でも、その気持ちがあなたの中にあるんだったら、否定するのも見て見ぬふりするのも、そっちの方が辛いと思う。無理に『いい子』を辞める必要は、これからだってきっとない。……それがあなたの、『したくない』理由を上回らない限りは」
琴羽達《機関》の人間が聞いていたら、間違いなく糾弾されるようなことを、早梛ははっきりと言い切った。押しつけがましさすら感じるような堂々とした言葉が、頼るものを失ってふらつくいまの時幸には、ひどく心地好い。
「復讐だって」
だんだん調子が戻ってきたのか、依然として蒼白い顔で、だが早梛は、微笑んだ。
「何にもならなくたって『でもやる』ならやればいいよ。誰にだって止める権利はない。私の復讐もね。だって……『そうしないと気が済まない』っていう、立派な理由があるから」
何も手に入らなくても。故人のためにも、自身のためにすらならなくても。それでも価値があると、早梛は、同じく復讐を志す少女は、宣った。
「それと……ごめん」
「? なんで謝るんです」
「前に……幸せになるべき、だなんて、無責任なこと言って」
濡れているように潤んだ、紺黒の瞳が、迷いに揺れる。
「気が変わったわけじゃないの。あなたには幸福に生きる権利がある……生きてほしい。でもそれは、時幸くんに、逆に余計な辛さを背負わせちゃったから。重く受け止めないでほしいの」
「……重く?」
こんな俺が。易々と幸せになって、いいんだろうか。
早梛は、噛んで含めるように、痛みで手放しそうになる意識を傾けるには自然とそうするしかない話し方で、時幸に語りかける。
「お母さんのことで悩むのも、復讐のことで苦しむのも、将来に怯えるのも……悩んで苦しんで、怯えるのを止めないのも、止めなくて辛いのも」
ふは、と、息を吐き出した。見るからに苦しそうなのに、それでも明るく朗らかに、笑って。
「生きてるから」
――生きろ、ユキ。
悲痛に、それでもきっぱりと明朗に告げた師の顏と、重複した。
「……生きることは、辛いこと、ですか」
「うん。何が自分の幸せか、なんて、生まれてきた意味なんて、生きて生きて、とことん生きた先にしか見当たんないよ。どれだけ辛くても。その辛さを捨てないのが、人間だって、私は思う」
相反する感情に悩む。生産性のない行為と激情の差に苛立つ。元からないはずの尊厳を取り上げられることを厭う。すべて、時幸が人形ではなく人間だから。生かされているのではなく生きているから。生きているから、苦しい。
ようやくわかった。あのときの師の言葉は、自由を謳った言祝ぎであり――
――自由の苛酷を課した、激励でもあったと。
「……もちろん、辛いことばっかじゃない。幸せって、何か大きくて漠然としたもので測りがちだけどさ、原っぱの四つ葉のクローバーみたいに、日々に紛れてるささやかなものの積み重ねでもあると、私は思うんだ。それこそ、この任務が終わって今夜はあったかいお風呂に入って、ふかふかの布団で寝る、なんてのでもいいし」
「可愛らしい例えですね」
そこで早梛は、顔を綻ばせた。つぅ、と、汗が垂れる。
「そうだ、次のご飯は一緒に食べよう」
「な、なんです。藪から棒に」
「だって、まっずい携帯食料しか食べてないんだもん」
拗ねたような顔で、上目遣いで見てくる。
「この任務が終わったら、あなたにとっておいしいと思えるものを食べて、あったかいお風呂に入って汗を流して、ふかふかの布団で明日の昼まで寝よう」
「悪くないですね」
「あ、もちろん、一緒なのはご飯までだからね」
「あ、あたりまえです!」
赤くなる時幸を見て、早梛の顏がまろやかになる。花を慈しむように、言葉を選びながら、伝えたい言葉を紡いでいく。
「……時幸くんには、幸せになる権利がある。その幸せが、お母さんの役に立つってことなのか、復讐を成し遂げるってことなのか、それ以外なのか。無理に答えを出さなくてもいいと思うし、迷いながら両方やっても、やらなくてもいいとも思う。いままで大変だったんだから、少しくらい我儘になってもいいくらい」
「我儘に、ですか」
「うん。それに、家族関係で悩むなんて、すっごく思春期の男の子っぽいじゃん。だから、悩んでも、別にみっともないとは思わないし、私でよければ話くらいは聞くよ」
「……なら」
少し、意地の悪い思考が擡げた。師匠譲りのいたずら心、それを垣間見せられるほどには余裕が戻ってきた自分に、知らず笑みが零れる。
「もし、俺が」
昏い笑み。先ほどの、自分から出た汚濁を飲み干そうと隠した笑みではなくて。
寂しくて、助けてほしくて、思わず晒した、淡さの中に溢れんばかりの激情を押し込めた貌。
「俺が、『いい子』に戻ると言ったら……あなたは、どう思いますか」
何かの弾みで、湖麻由に賛同しても。母の意に従うことを是として、結果、大勢が傷つく羽目になったら。
「私は……裏切られた、なんて、思わないよ」
早梛は目を伏せた。しょうがないな、といわんばかりに、息を吐き出した。
「でもそれが、正しくないと思ったら、止めるよ。止めるし、叱る」
「そうですか」
彼女らしい答えに満足しつつも、だが、期待していない様子で、時幸は目線を左下に流した。
「なら、逆に……俺が、あの人の言いなりになるのは嫌だってごねて、それが叶わなかったときには、どうしますか」
「そのときは、もちろんあなたの味方になる。親離れなんて、皆やってることだもん。あなただけが我慢しなくちゃならないなんてこと、ない。だから、誰を巻き込むことになったとしても、全力であなたの心と身体を守ってみせる」
全世界が束になっても敵わない相手を敵に回すことになっても。それが時幸の『したくない』ことなら、必ず阻止すると、小さな彼の相棒は言った。
「……あなたに、できますか」
「できるか、じゃないよ。それは私の役目でしょ」
「はい?」
横たわったまま、胸を張る。
「悩むのは若者の特権だよ。責任をとるのは、大人のすること。私は時幸くんより、三つも上なんだから」
そう言って、やはり彼女は、へらへらと笑った。
釣られて時幸も笑ってしまった。笑えた。たった三歳差で大人ぶる彼女が可笑しくて。自分が【魔女の息子】である機能を発揮したとしても、変わらず「時幸」として扱ってくれると述べてくれたのが、嬉しかった。
何より。琴羽達が、言いたくても言えなかったであろうことを、早梛だけはくれたのが、とても、温かかった。
「……さきほど」
「ん」
こんなときだというのに何も……理念も、価値観も、時幸への接し方も変わらない彼女への信頼で、時幸の胸は優しく満ち溢れている。
「悠さんや笹倉さんのためにも、何としてでもこの任務を成功させるとおっしゃっていましたね。その気持ちに、変わりはありませんか。……救う人口は、ぐっと多くなりましたけど」
彼女は束の間、瞬きして。
やがて、ふっと、目を細めた。時幸のしたいこと、好きなことを、少し引き出せたことを誇るように。それが自身の夢と違わぬことを、喜ぶように。
「そうだね。……うん、助けよう。何が目的かは判らないけど、それは、きっと正しくないよ」
相変わらず青い、あおい理想だ。
いまはそれが、とても、心地好い。
*
――生きるのをさぼるな。死んで楽になろうとするな。
十一のとき、任務でヘマして爆弾を抱え込まざるをえなくなり、そのまま生きたままズタズタになって、それでも死にきれなかったことがあった。
なんでこんな苦しい思いをしてまで、生きなくちゃいけないんだ。
死ぬのだって何回やっても慣れなくて、とても怖かったけれど。
そのときは、たとえ蘇生できなかったとしても、「死ねばこの痛みはなくなる」というのが、ひどく魅力的に思えた。
いっそ死なせてくれ、と乞う時幸を、一期はだが、許してくれなかった。
「死んでも蘇生できるからいいや、なんて、考えんな。それは最後の手段にとっておけ。辛いときこそ、死んでたまるか、って思え」
普通の人間は死んだら終わりだから、生きている限り足掻くのだと、生きることにしがみつくのだと、師は言った。
「辛いのは自分だけだなんて思い上がるな。確かに珍しい傷だけど、もっとひどい状態から生還した奴だっていんだよ。甘えんな、逃げんじゃねーよ。痛くても辛くても、くそみてーな人生でも生きる価値のない世界でも、だ。じゃなきゃ……じゃなきゃ、必死こいて生き延びようとしてる奴らがバカみてーじゃねえか」
師匠の言っていることはめちゃくちゃだ。元より生きることがしんどいことなら、生き足掻くことこそみっともないだろう。というか、時幸の人生が、客観的に見てもくそみたいなら、そんな人生を歩むことを強いる一期はやはり鬼だ。
そもそも、生きることにさぼるもさぼらないもあるのだろうか。
「あるよ」
……マジですか。
「生きるってのはただ息を吸って吐くことじゃねーんだよ。不味くても飯を食って寝れば死ぬことはねーよ。けどな、生命活動が続いても、それは生きるとは言わない。食わなくちゃならないなら、よりうまいものを。そうやって料理は進化したんだ。同じ寝るなら床で寝落ちするより風呂入ってさっぱりしてから、洗濯したパジャマ着てふかふかの布団がいいだろ。よっぽど疲れてるとか、身体に異常があるとか、譲れない拘りがあるならともかく、楽だからって理由で床で寝るか? 少し頑張れば布団に入れる環境で、敢えて床を選ぶのか、おまえは。もしそうだっていうなら破門だ」
心の底から軽蔑する、といった眼差しで、一期はそこら辺のフローリングに目を向けた。
「たとえ一時はよくても、床で寝れば身体はギシギシになるし、歯磨きしてないと虫歯になるし、着替えないと不潔だろ。面倒だからってさぼったら、後で困るんだよ、そういうふうに世界は回ってるんだ」
まるでおれが世界の代弁者だ、と言わんばかりに、一期は言ってのけた。
「いうなれば、より快適な生活を求めたっていうのは、より生きようと頑張った証ともいえる。そしてそれは人間の証でもある。野生動物の生きたいと、人間の生きたいは違うからな。おれが品位に拘るのもそこだ。畜生には品がないからな」
だから、時幸に敬語を話させるよう躾けたわけか。妙にすとんと、腑に落ちた。
「だけど、品があったところで、俺の人生は何も変わらないじゃないですか。きっと、これからも。どれだけ取り繕っても、人間らしく振る舞っても……結局俺は、俺の身体は、人間じゃないんですから」
【魔女細胞】によってもたらされたすべてが地上から消えでもしない限り、時幸が人間として扱われることはない。ならば生きるために頑張ったところで、無駄ではないか。上品に振る舞おうと努力しても、踏み躙られるなら。痛みに耐えて生き延びたとしても、どうせ身体を切り刻まれるなら。
「雀をおやつ感覚で食う地域はあっても、進んで翡翠を食べようとは思わないだろ? 品があることには意味がある。生きることにだって意味はあるよ。いまは実感できなくても、おまえが一生懸命なのは無駄にならない。だから生きろ。生きることを諦めるな」
一期は笑みを消し、常時纏っている軽々しい雰囲気を消して、弟子を見た。
「生への執着っていうのは、生物、生命の基本中の基本だろ。それすら怠けてたら、生きてる間のこと何もかも妥協して、そのうち何も感じなくなるぞ。死ぬよりも、どんな痛みよりも、その方が怖いと、おまえは思わないのか」
死んだら蘇生するという事実があるからといって、安易に死を選んでいたら、将来的に時幸は自分の命の価値を軽んじるようになる。それは肉体の死だけに限らず、尊厳や人格も含まれる。どんな非人道的な実験や差別も受け入れるようになってしまえば、それはもはや、生きているとはいえないから。
そのときの一期は、いつにもましてただならない様相だった。悪いことをしたから叱るとか、よくない倫理観を矯正するとか、そういう類ではなく。
時幸が、誰かの道を辿るのを、必死に防ごうとしている、きらいがあった。
まさに生きるか死ぬかでそれどころじゃないときと、治療……いや、結局あのときは蘇生したのだったか、どちらにせよ、回復して、ある程度余裕をもって聞けたときと、記憶がごちゃ混ぜになっているが。あの言葉は、いまでもよく、憶えている。
――だから生きろ。どんなに生き苦しくても。
愛する人に先立たれ。あまつさえ、自死なんてされて。
悔やんで、狂うほどに嘆いて、自分の死に場所を探して彷徨って、放心して。それでも生きるのをやめなかった一期の言葉だったから、その重みを無視できなかった。
*
――ユキ、人間嫌いか?
同じ会話の中だったか、別の日だったか。
――別に。
漠然としたその問いに、確かそんな、適当な言葉を返した。
本心だった。人間を嫌ってはいない。殺されようと、詰られようと、撤回はしない。
だって、時幸が虐げられるのと、人類の総意が悪意か否かは、まったくかかわりのないことなのだ。
この世界を嫌ってはいない。人類を責めてはいない。時幸を傷つける人ばかりに、会ってきたわけじゃない。時幸を傷つけるばかりの人に、会ったこともない。
皆、必死に生きてる。
たとえすべてが終わるとしても、その刹那まで、構わず足掻き、睨みつけ、叫び続ける。
世界の醜さも、残酷さも、愚かしさも見てきた。
清らかさも、温かさも、生き汚いまでの潔さも見てきた。
どちらもまだ知り尽くしてはいないけれど、それでも両方を見て。
結局彼は、世界はきれいと、優しいもので溢れていると、判じたのだ。
甘い考えかもしれない。子ども特有の理想論だと言われれば、否定できない。
それでも時幸は人の善意を信じているし、それが報われる未来を信じている。
いまでも、まだ、青く。
この世界には、守る価値がある。
その中に、時幸は、いられないけども。
「そうか。それはよかった」
それを聞いて、一期はほっとしたように笑った。
時幸の疎外感や、思い出したくもない世界の醜さを引き出しておいて、それを察しているだろうに、平然と笑ってみせた。
「何が……ですか」
ついつっけんどんに言いかけて、とってつけたように教育の成果を付け足した。
「だって、つまりおまえが人類に肩入れするのは、おまえ自身の意志だから」
幼い時幸にはその真意がわからず、しばしば目を泳がせる。ようやく見つけた理由は、だが、ひどく不愉快なものだった。
つまりは、時幸が縛りつけられて身体を弄られるのも、血を抜かれるのも、時幸が好きでやっていることだ、とでも、こじつけるつもりなのだろうか。だとすれば、ひどく無責任な話だ。これが大人のやり口か、と、乏しい語彙で罵りかけた、だが。
「だったら……この戦争が終わったとき、おまえには全世界に対して支払いを求める権利がある、ってことだろ?」
「は?」
高らかに告げられた言葉に、思考が追いつかない。
「おまえが終戦まで与えたものは、つまりおまえの真心だ」
先ほどまでの楽しげな様子はそのままに、一期は眼光に鋭さを増した。
「真心には真心で返すのが人の道だ。どの宗教でもそれは変わらない。人類が人類であるために、その事実から目を背けてはいけない。いまは後回しにされてるけど、いずれ戦争が終われば、【魔女】を生み出した八つの国の政府と研究機関は糾弾される。そのとき、おまえの取り立てを踏み倒せる奴はこの世界のどこにだっていないさ」
終戦、などという、到底叶えられないはずの……叶えるためには、それこそ時幸の死体を何百何千と積み上げなければならないであろうものを、一期は見据えている。そのことに呆れはあったが、それ以上の畏怖を、このとき少年は師に感じていた。
「いずれ仁藤せんせ……総帥とか、まあお偉いさんに話して、正式な書面を交わしとけ」
おそらく一期は、金銭とか権利とか、そういったもの以外の話も含んでいたのだと思う。時幸を傷つけ、搾取したことの責任を、その謝罪を、全世界に求める腹積もりだったのだろう。そして、もし時幸が「嫌い」と言ったとしても、他に理由をつけて人類が逃げられない道理をでっち上げたのだろう。
「したいように生きてきたツケは、いつかきっと回ってくる」
そう言って、ニッと笑った。
「だったら逆に、したくないように生きてきた分、褒美があってもいいはずだよな、ユキ」
「別に……」
人権や自由が惜しくないわけではないが、そういう俗世的な話になるとは思っていなくって。なんとなく汚い話のような気がして、時幸はちょっとだけ拗ねた。
「師匠の方こそ、どうなんですか」
「ん、おれか?」
「好きなんですか、人間」
彼のことは知っていたから、時幸同様気のない返事を返すと思っていた。だが、予想は外れた。
「前はどうでもよかったけど、いまは好きになろうと努力してる」
「? なぜ」
「たとえばさ、」
一期はどこか、遠くを見ていた。
「人類の中に嫌いな奴が一人いるからって人類全体を滅ぼそうとする奴って、どう思うよ。みっともないとおれは思う。人類じゃなくてもいい。土地でも国家でも民族でも。そのコミュニティのたまたま一人に嫌な目に遭わされたからって、それはそいつらの関係であって、他の連中はまったく関りのない話だろ。そうやって考えるとさ、人を嫌うって、すごくめんどくさいんだよ、手続きが」
「手続き……」
ますます俗っぽい話になってきた、と、時幸はさらに苦い顔をした。
「そう。だからさ、好きになる方がてっとりばやいんだよ。それに建設的だ」
「?」
「嫌いな奴はどうなってもいいじゃん。好きな奴はさ、土地、畑や店、家族やダチ、そいつが生きていくために必要なものごと守らないとだろ? 別にこの土地に住まう連中がどうなろうと知ったこっちゃないが、たった一人を救うために土地全部を守る。そうすれば大勢助かるし、おれも守りたい奴を守れたわけだから良しってわけだ。そいつが無事な限りおれはそこを守り続けるわけだから、他の連中もそいつを守ってくれる。いいことづくめだ。いいことがずっと連鎖していく」
言っていることとは裏腹に、師匠の瞳には、影が滲んでいた。
「それでさ、たとえばおれが守んなきゃならないこととは別件でそいつが死んで……だからいままで守ってきたものを急に守らなくなる、なんて、やっぱりみっともねーだろ。嫌いな奴ごと根絶やしにするよりかっこわりーよ。なにより、そいつが死んだとしても、そいつが守りたかったものは残るんだ。だったら守り続けるだろ。守らなかったら、他の連中に恨まれるだけじゃない。そいつが好きだった自分を捨てることになるんだ。そいつが好きだった事実さえ、ゼロになっちまう」
つまりは、そうなのだ。
一期が本当に守りたかった者は、すべて取り零してしまった。
けれども、彼らが守りたかったものは、守らなければいけない。
守らなければ、菊織日聖の死が無駄になってしまうから。家族を殺したくなかったから自殺を選んだのに、その家族が殺されれば、日聖が死んだという事実を、割り切ることが、できなくなるから。
人類に恩や愛着がなくても。それでも、月暦ミカは、人類の味方である一期を愛したから。彼女がいない、という理由で「彼女が愛した一期」を辞めれば、彼女はもう、どこにもいなくなってしまうから。
まるで、仮面のヒーローみたいだ。自分の悲哀は隠し、飽くまでかっこいい部分しか見せない。そういう者を、演じてみせる。
「師匠、かっこいい」
だからこそ時幸は。仮面の下を垣間見ても、相応しい賛辞を贈った。
「やめろ、照れるだろ。……まあ、いろいろ言いはしたけどさ、おれはおれの都合で人類を守ってるってことだ。あいつみてーに『別に人類を嫌ってはいない、だが爆弾の方が好き、故に人を吹っ飛ばす』なんてのにはなりたくないしな」
はにかんだ表情も、やはり、仮面だった。




