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already dark, however still blue ‐血鎖絶ち斬れ不退の純青‐  作者: 浮城燈往
エピソード3 魔女の鳥籠
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8‐3 脆く崩れ落ちる

 一秒ごとに、足場がおぼつかなくなる。

 眼前の、細いパイプと金属板を組み合わせただけの非常階段が、まだ壁と完全に乖離していないのがむしろ不自然なほど、施設の崩壊はもはや肌で感じ取れるところまできていた。

 たとえ、メリサによってこの施設が粉々になったとしても、核となる洗脳装置の破壊、ないし鹵獲を確認しない限り、ここを去るわけにはいかない。首尾よく破壊できたとしても、その時点で猶予が果たして残されているだろうか。この階段を含めた出口までの経路が、埋まっていないという保証もない。……時幸に埋め込まれた爆弾の、タイムリミットが先に来るかもしれない。

 幸いというか、目の前の階段から踏み外さないように神経を尖らせることで、その後の不安をあまり考えずに済んでいる。

「……メリサは、もう建物の外なのかな」

 J・Rでもって、時幸と早梛はお互いの身体と、階段上の手摺の端を結わえてある。これまたぐわんぐわんといつ外れてもおかしくないが、他に場所がないので仕方がない。

「確かめる暇はありません。でも、師匠が捕まえるまでは各国を渡り歩いた犯罪者です。意外と逞しく生き延びるかもしれません」

「そっか。そうだよね……でも、どうだろう」

 微細する頼りない壁に手をつきながら、息を吐く。

「自分の相棒が、あんなにされたって知ったら」

 先行して降りる時幸は、一瞬女と交わした会話を思い出し、顔を背けた。進行方向に向けて……早梛とは反対側に。

「任務の前に、少し話したんですが……彼女には、そもそも人間らしい行動理由が乏しいように見受けられました」

「え?」

「……志緒の方は、少なくともメリサを洗脳対象からは除外できるよう働きかけていました。執着しているのは確かです。ですが、メリサの方は、その……どうでもいい、と」

「……は」

 ぶるぶるという震えが、壁から手に伝播する。

「小里川志緒という一個人の生き死にについて、憤ることも悲しむこともない。ただ、途方には暮れるだろう、と。……あとは特に、何も言っていませんでした」

「……いざそうなってみたら、が想像できなかった、のかな」

「さあ。……けど」

 半ば独り言のように呟いた。

「似てるかもしれません。俺に」

「……え」

 早梛に顔を見せないまま、時幸は吐き出す。

「……幼い頃の俺は、あの人の言いなりでした。『いい子』にしていれば褒められたし、褒められるのは嬉しかったから、もっと『いい子』になろうと、それだけを考えていました。そしたら……捨てられました。俺は、『都合の』『いい子』でしかなかったんです」

「それは……」

 先ほどの、血反吐を吐くような湖麻由の激白を知っていたが故に、その言葉には賛同し難かった。しかし、いま遮るのは憚られ、結局早梛は、口を濁した。

「子ども心にいろいろ考えはしました。何か悪いことしたかな、それでこんな目に遭うのかなって。《機関》に来たばかりの頃は……その、いろいろ、ありましたから。ますますよくないことばっかり、考えがちでした」

 いろいろ、の内容を省略して、少し、黙り込む。

「……そのうち、師匠の修業が始まって。没頭したり、いろんな考え方を、新しく知ってくうちに……全く考えなくなったわけじゃないんですけど、なんていうか、あまり考えないようには、一応自分の中で、悩まない程度には割り切れてた、はずだったんです」

 それこそ、「いい子」なら到底しないようないたずらも伝授されましたし、と、目を眇める。

「……でも。できてませんでした。あれだけ自分は母親に捨てられたんじゃない、捨てたんだ、いまさら何を言われたって戻るもんかって、息巻いてたくせに……俺の心の中には、いつだってあの人がいて。きっと訳があったんだって、自分の手元に置いておけない理由があったんだって……いつか時が来たら、なんてこと、考えてた。それが怖かった。来なければいいと思ってた。でも……やっぱり、どこかで期待してました」

 口の端を歪める。親からの愛情なんてものを期待していた自分の愚かさを、嗤う。

 不健康な、黒い笑み。……こんな醜いもの、早梛には見せられない。

「……だから、動揺した。あの人に『わたしのものじゃない』と言われて。相変わらず身勝手なところに怒ったり、あの人はそういう人だったって、いまは呆れたりとか、いろいろ考えてますけど……あの瞬間は、ほんとに、ただただ、途方に暮れちゃいました」


 ――ある意味で「有償」な【第一魔女】の愛情は、ゆきにとって心地がいい。あいつに対して見返りを求めているという明確な動機がある。そのためにゆきは生かされている。生きることを母親から求められている。


 寺坂の言うとおり、時幸は心の底ではどこか、安堵していたのだろう。生き方を決められていること。生かされる保証があること。それが「まだ母親に愛されている」という、彼が無意識に寄りかかっていた支えだったのかもしれない。

 だが。いざ再会して。手放されて。まるで、もう一度捨てられたみたいに、絶望して。

 ――どうすればいいのか、わからない。

 予想外の言葉を掛けられて、この十五年の指針が、不意になくなったように思えた。

「でも……」

「そうですね」

 時幸は、足を止める。

「いまの俺には、新しい目的がある。誰に選ばされたわけでもない、俺が自分で決めた、目的が」

 繋がれている早梛の足も、従って止まった。

 復讐。恩師を奪った仇を討つ。それが時幸の、生きる理由。

「……それだけを目指して、この三年間、生きてきたつもりです。それだけじゃない。……師匠に拾われて、《機関》に来た七年前から……俺の日々は、このためにあったんだって」

 拒否したかった実験や献血も。自分と母親、関わる人々への心無い罵倒や非難も。

 それらを甘んじて受動することを良しとはしなかった、容赦ない師の鍛錬も。

 エージェントとしての雑用も。気の進まない任務も。

 すべて、目的のために必要な下準備だったのだと、堪えられた。

 果たして仇討ちのために必要なのか、と思わないこともなかったが、それでも、その遠回りすら、手応えがあった。

 でも、と、小さく逆接を洩らした。

「……いまはそれも……なんだか、ぐらついてます」

 揺れの中で、少年の声が、果てしなく小さい。聞き取れないほどに、されど、痛々しいほど、胸に迫る。

 同じく復讐を志す早梛の前で口に出すことは憚られた。だが早梛も、同じく復讐者であるが故に、判ってしまった。時幸自身が目を背けることのできない、どうしようもない闇に。

 人生の指針に定めるには――復讐は、あまりにも、不健全だ。

 仇を討っても、殺された人間は戻ってはこない。

 殺された人間に報いることもできない。

 失うばかりの人生で、さらに失うだけで、何も手に入りはしない。……いままで人を、《ディヴィジョン》に変化してしまった手遅れの者ではない、純粋な人を殺したことのない時幸の経歴と高潔に、消えない傷を残す以外は。

 強いられたものであったなら、まだ言い訳もできるだろう。

 だが時幸には、それができない。

 故に――この復讐は、時幸の一存で、辞められる。


 生きろ、と告げた一期が死ぬことで生まれた、生きるための方針。

 師の死を利用している罪悪感をそれでも堪えて、自分を削ぎ落し鋭く保ってきた時幸の心が。研ぎ過ぎた刀のように脆い時幸の内面が。

 生まれてからの十五年間を、よりにもよって実の母親から突き放されたように感じたせいで。

 復讐という、母親の関与しなかったはずの指針さえ、鈍らせている。

「もしも、俺が……復讐に絶望したら。この三年間は、いや、わけもわからず積み上げた七年間は、いったい何になるっていうんでしょうね。ははっ、そもそも、生まれた意味さえ、さっきのアレでいまではもう判りません」

 たとえ首尾よく仇を見つけ出し、満足のいく形で決着をつけたとして。

 その後の未来を、時幸は想像できない。

 復讐を終えた後、他にやりたいことが思い浮かばない。エージェントを続ける動機を、見出せない。そのくせ、搾取され続ける未来はいともたやすく想像できる。

「それは…………嫌だなぁ」

 顔を背けたまま、彼の表情は早梛からは見えない。窺わせてくれない。けれども。

 その、たった数歩しか離れていない場所にいる彼が、まるで、硝子の壁の向こうにいるように……遠い。

 それが嫌で。何が何だかわからないけど、でも、とにかく嫌で。

 隔たりを埋めるように。

 カツン、と、ローファーの底が金属板に反射する音が響いた。

「……時幸、くん」

 気づいて、我に返る。

 なんて女々しい。こんなこと、こんな場所で言われても、早梛を困らせるだけだと、少し考えれば判ったのに。早梛は優しいから、何か言葉を掛けないと、と思うだろう。でも、救われるとも思ってない。救ってほしいわけでも……ないわけでも、ない。矛盾した。ますます自己嫌悪に苛まれる。いっそ呆れてほしい。こんな自分、失望されても仕方ない。彼女の前で、みっともないところなんて、晒したくなかった。

 なんでもないです。忘れてください。いまからでも告げよう。恥の上塗りになるが、これ以上彼女を、悩ませたくない。

 一歩一歩、近づく彼女を、仰ぎかけた。

「早梛さ……うっ」

 突然、右眼に再び痛みが奔る。堪えきれず、顔を押さえてその場に蹲った。

「時幸くん⁉」

 早梛は降りるというより半ば落ちるように階段を駆け下りた。同じ段に降り立つ。伸ばさなくても手を触れられる、距離に。

 瞑ったはずの眼に、映像が投射されている。ここではない景色。先ほどまでいた廊下、別の階段、広くて物が雑多に積まれた部屋……淡く碧に濁った視界が、瞼の奥で、知らないはずの場所を高速で映し出していく。

 次々に切り替わる画面と、それを処理しようと回転する脳、おぼつかない非常階段の揺れも加わって、吐き戻しそうになるほど気持ちが悪い。一瞬、視界が点滅する。

 壊れたテレビのように移り変わる場面の中、ここからは見えないはずの早梛の背中と、蹲る己自身が視えた気がした。なおも、眼球は施設内部を飛び回り続けている。

 と、制限速度を超過した車が急ブレーキを踏んだような衝撃とともに、ある画像が脳裏に刻みつけられる。

 広い、それまで見たどの部屋よりも広大で、天井の高い空間。円形状にコンソールが設置され、剥き出しの導線が床と壁を蔦のように這う。中央には半透明の柱、というより何かの容れ物だろうか、甕覗色の液体の満ちたその向こうに、何かが浮かんでいる――。

「……うっ」

 その何かに向けて、時幸の眼は近づいていく。激突する、まさにその瞬間、視界が両方とも真っ暗に染まった。

 同時に、建物が大きく傾いだ。不吉な甲高い音ともに、手摺がコンクリートの壁から引き離される。

 なすすべもなく、縺れ合うように、二人は転げ落ちた。


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