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already dark, however still blue ‐血鎖絶ち斬れ不退の純青‐  作者: 浮城燈往
エピソード3 魔女の鳥籠
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*第8章* 8‐1 再会

「ユキちゃん!」

 顔と声に弾けんばかりの喜色を湛えて、【魔女】は息子を呼んだ。

「久しぶり、なの。……大きくなったね」

 つい先ほどの、張り詰めた、小突けば砕けそうな危うさはない。子どもの前で情けない姿を見せたくない、という親心なのか。それとも、純粋に、ただひたすらに。子どもと会えたことが嬉しくて、安堵したのか。

 一見すると幼子の、かわいらしいとさえ思える顔に満面の笑みを浮かべ、短い両腕をぱっと広げて、一歩近づこうとする。

「来ないで!」

 鋭い声が部屋を斬り裂いた。

 誇示するように軽く、銃を振ってみせる。その表情は険しい。淡々と、飽くまで敵を見るような眼差し……その実、動揺も、郷愁も、隠しきれていない。

 【魔女】は足を止めたものの、笑みを絶やさず、時幸を見守っている。彼の内情などお見通しと言わんばかりの、余裕のある態度だった。

 時幸自身、見透かされているのは判っている。たかが銃弾を怖れる相手でもないということも、近寄ろうと思えば近づいてこれる相手だということも。これほどまでに焦り惑うのは初めての経験だった。エージェントとしての心得を忘れるな、冷徹になれ、と自分に言い聞かせはするものの、それでも私情を押し殺しきれない。

「時幸くん!」

 早梛もまた、時幸の動揺は感じ取っていた。

「……ご無事ですか、早梛さん」

 彼女の声を聞いたことで、多少は考える余地ができた。頷いた彼女の顔は幾分か落ち着いていて、この状況に緊張はしていても、恐怖は感じていないのが窺える。

 銃口の位置は動かさず、室内を一瞥した。小里川志緒は……手遅れか。リスクを冒して救出したとしても、あと数日も生きられないだろう。逆に、まだ生かしていることに一抹の疑念が擡げた。……いや、いまはいい。それよりも。何としてでも、早梛を連れてこの場を離脱しなくてはならない。

「ほら、そんな怖い顔しないで。ちゃんとお母さんよ」

 八歳の時幸を置き去りにした彼女は、十代半ばの見た目だった。

 それから七年。外見が逆転していた。それでもさすがに、見間違えるはずがない。

「……お久しぶりです。せっかくですが、これでお暇させていただきます」

 【魔女】は一瞬、目を見開いた。それから、まるで拗ねた子どもがそうするように、頬を膨らませる。

「なーんなの、もうっ。上品な男の子に育ってくれたのは嬉しいけど、他人行儀なのら。もっと昔みたいに甘えてもいいのに」

 上目遣いで、少年の方を窺う。

 本心を窺わせない、ふざけたような口調も、はぐらかすような態度も昔のままだ。……甘えにこい、と言いつつ、自分の方が息子に頼っているような心もとなさも。

「存じ上げませんね、そんな記憶は」

「ユキちゃん」

「そのふざけた呼び方も止めてください。いまさら昔みたいになれると本気で思っているんですか」

 睨みつける。母親を……その顔の中央に鎮座する、彼への裏切りの跡を。消せるはずのない過去を。

「……ユキちゃん」

「止めろと言っているのが判らないんですか」

「聞いて」

「嫌だ。あなたに振り回されるのは、もう」

「落ち着いて。あなたはまだ『見えていない』だけ。きっとこれから、わかるわ。わたしがどうして」

「黙って!」

 怒鳴っているのは時幸の方だ。銃を持っているのは時幸の方だ。なのに……追い詰められているのもまた、彼の方だった。

 湖麻由は、呆れたような、諦めたような溜息を一つ、零した。

 それから、口を開く。聞き分けのない子どもに諭すように、静かに、されど、震わす声で。

「聞いて。……ユキちゃんは、わたしのものじゃない」

「なっ」

 あまりのことに、一瞬取り落としかけた銃を、我に返って握り直す。

「なに、言っ」

「言葉通りの意味なの。あなたの母親はわたし。あなたは紛れもなくわたしの血を受け継いだ、わたしが産んだ子ども。でも、あなたがわたしに従う理由はない」

 ある意味で、待ち望んだ言葉だった。時幸は自由なのだと、自由に生きていいのだと、許すはずの福音になる、はずだった。

 だが、状況が最悪だった。ただでさえ追い詰められていた時幸に、追い打ちをかけた。

「そんな……」

 見ていられない。柔な少年の心はもう、ズタボロだ。

「いまさら……なに、勝手なことを。あなたはいつもそうだ。いつも、勝手な都合で俺を振り回して。勝手な都合で傷つけて。勝手な、自分の都合ばっかりで……俺の手を放す」

 整った顔をくしゃくしゃに歪めて、少年は、いまにも泣き出しそうな、悲痛な声を絞り出した。

「もうたくさんだ、あなたのっ、顏は、もう、見たくない!」

「時幸くん、やめ」

 とっさに早梛は、制止しようとした。たとえ透過するとわかっていても。時幸に、母親を撃たせるわけにはいかない。

 だが、届かなかった。

 静かだった室内に轟音が生まれ、マズルフラッシュの花が咲いた。

 ――少年の、手元で。


「……ぃやああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼」


 絶叫。

 幼児の声帯を余すことなく震わせた、絹を斬り裂くような鋭い悲鳴が上がる。

 鮮やかなあかい炎も、同じくらい鮮烈な血のいろも、それを惜しげもなく散らす繊細な手も。早梛の目には、いやにゆっくりに見えた。

「ユキちゃん⁉ ユキちゃん‼」

 彼を呼ぶ他人の声に、我に返る。

「時幸くんっ」

 弾かれたように駆けだした。暴発した銃を取り落とし、歯を食いしばりながら流血した手を押さえる彼の元へ。

 それまで動かなかった脚が、嘘のように軽い。【魔女】を追い越しかけたとき、右手が翻った。どうしてそうしようと思ったのか、早梛自身にもわからない。ただ、その距離、そのタイミングで、そうすべきだと、とっさに身体が判断した。

 追い抜きざま、琴羽から託されたそれを、【魔女】目がけて放っていた。

 【魔女】は避けなかった。どんな攻撃だろうと、透かせば無効化できると、慢心していた。それよりもいまは、早く息子の傍に行きたかった。

 果たして、彼女はまともに攻撃を喰らった。

 早梛は膝をついた時幸に抱きつき、庇うと同時に視界を塞ぐと、自らもきつく目を瞑った。勢いそのままに横転し、ごろごろと廊下を転がる。瞼が閉じていても判るほどの光の奔流が、管制室から爆発した。

「……ぅう……ぐうぅ……」

 時幸が、無事な方の手で早梛を掻き抱いた。激痛と緊迫で加減のできない、荒々しい手つきで彼女を捕まえる。そのまま、肘の辺りを床に打ちつけた。耳障りな金属音が廊下を削り、二人の身体は部屋から引き離されていく。

 早梛と合流したらすぐに離脱できるよう、予めリールを仕掛けておいたようだ。手際の良さに感嘆しつつも、怪我が気になってしょうがない。

「時幸くん、しっかり」

 充分な距離がとれたところで、ぱっと離れた。

「っ触らない、で……猛毒です」

 負傷した腕を抱え込み、時幸は蹲った。はぁはぁと荒い息を繰り返す。

 救急セットの中から清潔なタオルを取り出すと、患部に押し当てた。

「うがぁ……」

 余裕のないせいで、自分でも手加減できない圧迫の痛み。

 無傷なはずの早梛の方が、顔を蒼褪めさせ、狼狽えている。どう見ても大丈夫とは思えない。一応すべての指がくっついてはいるものの、幾つかの指の股が裂け、辛うじて皮が繋がっているだけの部分もある。いくら時幸が丈夫で、痛みに耐える訓練も受けているとはいえ、銃が暴発して無事などありえない。

「……っ」

 それでも、無理やりに動かすと、人差し指がどうにか曲がった。すべての指が使えなくなることを想定していたが、思いがけない僥倖だ。

「……もう、へいきです」

 安心させようと、片目だけで見返した。それが却ってよくなかったらしい。

 いきなり、早梛は身を乗り出してきた。とっさのことで、動けなかった。

 そっと。頬に触れられた。縋るように、確かめるように。

 目の前に。吐息のかかりそうなほど、近くに。闇藍の瞳が、潤んでいる。

「時幸くん……無理してるでしょ。しないでって、お願いしたのに」

「いえ……」

 緊張、興奮、動揺、罪悪感などが入り混じり、息が荒くなる。

「ほんとに、大、丈夫です、から……目が開かないのは、多分、閃光弾のせいです」

「え?」

 早梛は少し、目を見開いた。眼筋の動きがくっきりわかるほど、距離が近い。

「ちゃんと塞がってた、はずなんですけど……やっぱりこっち、あの人の眼と繋がってるみたいです。開けようとしても、何も見えません」

「そんな……」

「そんな顔しないでください。そのうち回復しますから。……その前に。あの人の眼が利くようになる前に、移動しないと」

 左手で荷物の中から新しい銃と包帯を取り出すと、制止を振り切り、巻きつけて固定する。何か言いたげに眉根を上げた彼女に、先回りして告げた。

「言いたいことはわかります。ですが、早梛さんこそ、どうして言いつけを破ったんです? 言いましたよね、けして一人で会いにいかないようにって。どうして勝手なことをしたんです⁉」

「……」

 痛いところを突いたせいか、早梛は視線を泳がせた。

「……ごめんなさい。悲鳴が聞こえて、無視できなかった」

 彼女らしい理由に、嘆息した。

「ごめん。私のせいで、言いつけ守んなかったせいで、あんなことに、なっちゃって……ほんとうに、ごめんなさい」

 負傷したこともそうだが、時幸がある意味待ち望んでいた再会をあんな形にしてしまったと悔やんでもいるのだろう。背負わなくていい責任まで背負って涙ぐんでいる姿を見ると、叱る方が申し訳なくなってくる。されど、今回は事態が事態だ。口を開きかけたとき、

『そう責めてやるな、ユキ』

「「⁉」」

 不意に端末から聞こえた声に、二人の視線がとっさにそちらを向く。

『独断じゃない。指示されてたんだ』

「……仁藤、総帥ですか」

 通信の相手が総帥秘書だったからか、時幸の声は諦めで渋くなっていた。

『いいや。常務部部長……だよな?』

「!」

 早梛が目を見開いた。それだけで、事実なのだと察する。

「はぁ⁉ なぜ寺坂さんが」

『梅島主任から聞いてないのか?』

「……基地には寄らずに来ましたから」

『えぇ……ユキ、おまえさぁ……』

「だって……」

 きまり悪げに目を伏せた時幸に、音声だけの相手は深々と溜息を吐く。

『……わかったよ。おまえの気持ちはよくわかる。そこらへんは後でフォローしとくから。で、まあ、つまりは、神橋さんだけの判断じゃない。せっかく心配してもらってるんだから、おまえも安心させてやれ』

『ごめん、それは僕の仕込みだ』

 声が増えた。

『はあ、やっぱり総帥だったんですね……研究部部長とどっちかなって思ってたんですけど』

「? どういうことです」

「それはっ……」

 通信に合流した仁藤に、早梛は問いかける。時幸が制止しようとしたが、少し遅かったようだ。

『うん……湖麻由にとっては、息子に攻撃されるより、彼が怪我したり、自傷する方が動揺すると思ってさ。万一に備えて、予め暴発するよう銃に細工したんだ。まあ、火薬の量も少なめだし、トッキーも事前に判ってたから大した負傷じゃなかっただろ? 事前に鎮痛剤も飲んでたはずだし』

「……ええ」

 時幸は、早梛から目を逸らして頷いた。

「なっ……」

 案の定、早梛は興奮と怒りでふるふると震えている。

『あー、一旦落ち着け』

「お、お……落ち着けるわけないでしょ! こんな、こんな……」

 暴発すると判っていたということは、無傷で済まないのも織り込み済みだったということだ。何も言わずにまた無茶をした時幸に対する悲嘆は、そのまま命じた仁藤への怒りへと転じた。

『気持ちはわかるけど、いまは我慢して。いまは、でいいから』

 続岩の窘める声に、依然として任務続行中であること、敵地であることを思い返す。

『うんうん、お互い危険な策を命じて、お互い了承したんだから。寺坂が何のために何言ったのかは本人に訊くよ。けど、今回の一件の責任はすべて僕が持つと決めてある。後でいくらでも罵ってくれて構わないから、帰ってくるまでは堪えてくれ』

 そう言われてしまえば、抑えるより他ない。卑怯な大人への不満に拳を握りしめつつも、早梛は押し黙った。

 一瞬だけ、静寂が場を支配する。

『……』

 次の指示を出そうと、仁藤が口を開きかけた気配がした、そのとき。

 不意に、身体の芯を揺らす衝撃が奔った。

「わわっ」

「危ないっ」

 思わずよろめいた早梛を、時幸が支えた。腕一本ではうまく支えきれず、少女の身体は少年の胸に沈み込む。

「ぷはっ、ありがと」

「い、いえ」

 彼女の小ささを再確認し、無事であることに密かに安堵する。大丈夫、早梛は、何もされていない。と、胸を撫で下ろしかけたとき、前髪から覗く冷却シートの存在に気づいた。

「早梛さん、これ……」

『おい、どうした⁉』

 遮られた。こちらの状況が判らないせいか、続岩の声は緊迫している。

「……地震?」

「いえ。揺れ方が違う。これは……ああ」

 何かを察したように、時幸は唇を噛んだ。

「……多分、メリサですね」

「え……あっ」

 そういえば、同伴しているはずの彼女のことを、その場の全員がすっかり忘れていた。曲がりにも国際問題に発展しかねないテロリストの存在を忘却するほどに、【魔女】のインパクトは大きかった。

「志緒が隠していたドローンがまだあったんでしょう。“青海波”と一体化しているこの塔に、どうやって干渉しているのかは不明ですが」

「認証装置は?」

「それは大丈夫。既に解除しました」

「良かった……!」

 と、端末から、レトロゲームのシューティングに似たヒュンヒュンという音が鳴り響いた。

「⁉」

 何の合図かと目を白黒させる早梛から顔を背ける。

 思っていた以上に爆弾のタイムリミットは短かった。早梛との合流が済んだ時点で、急いで基地まで戻らなければ間に合わないほどの時間しか与えられていない。

 つまりは。はじめから、時幸に母親と話す猶予など、なかった。

 まあそんなところだろうと諦めてはいた。《機関》の意図も判らないでもない。……それでも、やりきれない悲しさと寂しさが、胸中を占める。

『……うん』

 指示を出した張本人が、通信の向こうで短く頷いた。

『メリサがこの塔を壊してくれるのなら、僕らとしても都合がいい。そうでなくても、これ以上そこに留まり続けるのは三つの意味で危険だ。目標はすべて達成した。すぐに離脱しろ』

「それはできません」

 時幸は断言した。それができない、理由がある。

 いまになって、基地に寄らなかったことを後悔する。車があれば、帰りの時間を省略できたのに。

『ユキ、おまえ』

 窘めかけた続岩を遮る。

「いいえ。あの人と俺の問題は関係ありません。この塔の建設理由が判明したからです」

 端末を弄り、先ほど得た情報を表示する。

「この塔の真の目的、それは大規模洗脳装置としての役割です」

「『『洗脳⁉』』」

「ええ。今回、小里川志緒は電波を送り込むことで各組織を混乱させましたが、本来の使用方法は脳波を送り込み、外部の人間を操作すること。事前に塔内部にいる人間には効果がないため、メリサを避難させたかったのでしょう。彼女を回収後、自身で使おうとした可能性があります。理論自体は既に組み込み済みで、おそらくこの地下空間が動力中枢です」

 こつん、と、指で押して、地図の一部に印をつけた。

「ただ、この塔を本来の目的で使うには、二つの問題をクリアしなくてはなりません。一つ目に、電波や他の波に比べると、脳波というのは漠然としています。理論的には全世界を範囲として洗脳を行えますが、無差別に発信しても、分散したり、各人で異なる反応を行なったりして、狙ったとおりの相手に、狙ったとおりの効果をもたらすとは限らない。そのため、この塔のシステムには『条件付け』が設定されています」

「条件付け?」

「ええ。特定の条件を満たす相手になら、確実に脳波が作用する」

『それは……いや、いい。そのことについてはいまは後回しだ。二つ目は?』

「はい。二つ目に、起動には莫大なエネルギーが必要ということです」

 地図の各所を指で弾きながら、説明する。

「小里川志緒は《同盟》から受け取った、七型によって保存されていたエネルギーを用いて昨日の電波を飛ばしました。ただ、アリシアが貯え続けたエネルギーを用いたとしても、十か国とそれぞれの結社に飛ばすのが精一杯だった」

『けど、そんなことは関係ない』

 仁藤が呟いた。

『大事なのは……いま、その塔に、富良賀湖麻由がいる、ということだ』

 ただならない雰囲気を察し、早梛は通信画面と、時幸の顔を見比べる。

「ええ。確証はありませんし、具体的に何をさせたいのかもわかりません。ですが……」

『うん、わかってる。湖麻由は……そのために、ドロシーを殺したかもしれない』

「え?」

 ここでどうして、【第二魔女】の話になるのだろう。時幸と、声音だけだが仁藤は、ただならない緊張感を纏っていた。

『早梛嬢。ドロシーの心臓は、湖麻由の瞳と同じく【魔女原細胞】より発生した超常器官なんだ。機能は……無限増幅装置』

「はい。一を百に、百を億に変える、無尽蔵のエネルギー機関。ドロシーは心臓と、二型の“同調”の権能によって、全人類を対象にテレパシーを送ろうとしていたんです」

「なんの、ために?」

『心中』

 仁藤が、静かな、感情の籠っていない声で言った。

「ドロシーの目的は、人類絶滅。そのために彼女は、来るべきときに共鳴装置としての役割を果たす【眷属】を全世界に派遣して準備を整えていました。そのときまで自己保存するよう命じて」

 以前、沢村から聞いたことがある。【魔女】の中でもドロシーは人類をとりわけ憎んでおり、力による支配や眷属化ではなく、直接的な絶滅を企てていたと。

 クラスⅠは完成した個体だ。故に強大な存在だが、できることが少ない。今出川の話を聞いたとき、そう思った。

 だが、主の命令を自己解釈すれば、増殖し、自分の意志で人々に危害を加えることができる。コンセプトに従うだけの単純な生き物ではない。むしろ、その強さに見合った狡猾さを持ち合わせている。改めて、戦慄を覚えた。

『ただ、全世界を覆うまでに、さすがに十五年かかったから、その間に人類も、彼女の目論見を突き止め、討伐の準備を進めることができたんだ。それが【カンザスの墓標作戦】だよ』

「え、それって……人類の連合軍を出し抜いて…………」

 敢えて主語は口に出さなかった。彼女のことを何と呼ぶべきか、早梛は迷っていた。

 実を言うと、時幸が「あの人」呼ばわりすることに仄かに抵抗を抱いてもいた。だが、実際に本人に会ってみると、むしろ口にすることでその繋がりを確定させてしまうことこそ、阻まれた。

『そうだ。複数の【魔女】がドロシーの心臓を奪い合い、最終的に【第一魔女】……富良賀湖麻由が、彼女を殺した』

 仁藤の口調は重々しかった。“紅鹿事変”以後初となる【魔女】との全面対決。《機関》も参加した、と先ほど聞いた。つまり……失ったのだ。彼は部下を、生き残る見込みのない戦いに、大勢送り込んだ。

『……つまり……ドロシーの心臓、エネルギー増幅装置が手に渡ったってことですね』

 押し黙った仁藤に代わるように、それまで黙っていた続岩が呟く。

「……ええ。あの人は、それをこの塔で使おうとしている」

 時幸が、吐き捨てるには重い言葉を口に出した。

「! 全世界に向けての洗脳を?」

「ええ。おそらくは」

『……【カンザスの墓標作戦】の後、世界中に散らばっていたドロシーの【眷属】は各個撃破され、数を減らしつつある。大元が死んだせいか、かつてのように自己保存に執着しなくなったしな。奴らを使って全人類を対象にするのは不可能だ。だが』

「あの人には関係ありませんよ、そんなこと。もとより他の【魔女】の【眷属】は支配できませんし。けど、この塔の条件付き機能を使えば、ほぼ全人類を影響下における」

 壁が、床が、天井が、小刻みに揺れている。

「たとえば、『ある特定の存在に、恐怖を抱いている』といったような。そして人類には、十八年前から、共通のトラウマが存在します」

「っ‼」

『……“鹿の子”か』

「ええ」

 一型‐クラスⅠ‐β。“紅鹿事変”を起こし、人類にどうあっても覆せない敗北を刻みつけた、伝説の《ディヴィジョン》。世界各地で目撃されており、また、ニュースや教育現場でも頻繁に取り上げられている。

『……その建物を覆ってる“青海波”も大概だけど、“鹿の子”は高さだけならすべての《ディヴィジョン》の中で最大だ。それに、物理的な破壊も凄まじかった。この世で最も人類を殺した《ディヴィジョン》として、この先記録が塗り替わることはないだろう。ドロシーの件といい、彼女は勝利を掻っ攫うのが好きみたいだ。おかげで人類は、一度も勝てたためしがないのに、生き残ってしまっている。いや……故意に生かされてきた。彼女の掌の上で』

 通信越しでも判るほどに、仁藤の声は悔しさと緊張に強張っていた。

『……つまりは、そういうことだ。“鹿の子”を生み出したのは富良賀湖麻由であり、ドロシーの心臓も、いまは彼女の手中にある。もし、その塔の中枢を押さえられたら……』

『人類全域に、好き勝手に命令ができる、と』

 重々しい沈黙が、場を占める。

「……既にメリサが破壊工作を行なっています。しかし、完全倒壊までにはまだ間がある。その隙に中枢の装置なりを奪われて逃げられるかもしれない」

『……わかった。作戦は続行だ』

 仁藤も結局、それを命じた。

『事情が事情だからね。リミットを超過しても離反したとは見做さないことにするよ。でも、爆弾の解除操作はその塔内部へは行えないから、時間がないことには変わりない。湖麻由より先に、一刻も早く中枢に辿り着き、完膚なきまでに破壊しろ。その塔の構造、理論、一欠片だろうと渡してはいけない』

「……爆弾⁉」

「いまはそれはいいです」

 時幸が早梛を遮った。

『とはいえ、その建物は現状“青海波”と一体化している。トッキーの細胞でないと破壊はできない』

「問題ありません」

『なくない』

 仁藤はふう、と溜息を吐く。

『“青海波”の、一型の討伐はこれが史上初なんだ。否応なしに全世界に注目されることになる。君の血液を使えば、君の特殊性があっという間に広まってしまうじゃないか。そうなれば当初の作戦目的がおじゃんになるってこと、わかってるの?』

「ですがっ」

『君も一昨日くらいに採血して、まだ本調子じゃないだろ。さっきの無茶で危ういっていうのに、敵地で失神でもされたら困る』

「ですが……」

『多いな、「ですが」が。僕が君のお父さんの嫌いだった数少ない点がその口癖だ。……まあいい。ちゃんと考えてあるから、それを使ってくれ』

「はい?」

『熱田から渡されてるはずだ』

「!」

 察して、時幸は舌打ちした。

「……初めから、こうなる想定だったんですか」

『いや。さすがにそこまでは期待してなかったよ。……まさか洗脳装置とは思わなかったけどさ。あの要の作ったものだから、どうせよからぬものだとは思ってたよ。……うん。そうだね。僕は誰かに、要の負の遺産を継承してほしくなかった』

 半ば独り言じみた、ぶつぶつとした声音に、耳を聳てる。

『“青海波”ごと滅ぼせるのなら、確かにまたとない好機だと思いはしたさ。でも、敢えて彼女の機嫌を損ねて、結果早梛嬢を失うくらいなら、僕の私情なんて至極どうでもいいものだよ』

「……」

『意外かい? でも、できれば若者に死んでほしくないっていうのも、確かに僕の本音だ』

 仁藤の声音は淡々としていた。だが、通信越しでも、微妙な変化は、感じ取れた。

 この人もまた、縛られている。

 仁藤要の実弟という、血の鎖に。

 《機関》の長という、(しがらみ)に。

 自分ではどうしようもないものに、雁字搦めにされて、今日ここまで、そしてこれからも、生きていく。

 時幸だからこそ、そのままならなさと、どうにかしたいと足掻く気持ちは、ひしひしと共感できた。

「……わかりました」

 荷物の中からジュラルミンケースを取り出し、指示通りに解錠する。

 幾重ものセキュリティの奥から現れたのは、拍子抜けするほど心もとないものだった。

 一振りの、刀、というには短すぎる、包丁のような刃物。刀身に触れないようにそっと、鞘から引き抜く。思っていた以上に細い。切ることより、刺す方が使い勝手がいいだろう。

『気をつけろ。一級危険品だ。非常に稀少なものでもある』

 仁藤の声には緊張が滲んでいた。

『対一型特殊武装、通称“革命のエチュード”。僕は“10‐4”が良かったんだけど、なつきちに命名権とられちゃってさ。わかりやすいほうがいいって』

『どちらにしろショパンですね』

『そうそう、あの疾走感が好きでね。……にしても続岩にそんな知識があったとは』

『ユキにピアノを教えたのは誰だと思ってるんです、ったく……』

 秘書はどうやら、不貞腐れたようだ。

『便宜上、《機関》で独自開発した特殊素材ってことになってる。……それを使えば支部や政府、他組織に言い訳が立つんだ』

 仁藤はぼかしたが、その言い方で、早梛は瞬時にその正体に気がついた。それだけでなく、その後で含みのある間が空いたことで、さらに仁藤の魂胆も察し、どうしようもない嫌悪が腕を背を駆け巡る。

『“青海波”を含めた最強の四体を殺すために作られたものだ。適当な装置にでも刺せば間違いなく細胞崩壊を起こす。ただ、奴は巨体だ。全身に効果が現れる前に死滅する細胞を切り離さないとも限らない。事実、さっき君の血が落ちた場所が陥没してる。奴は施設と一体化しながら、その実いまでも自由にパージできるんだ。でもいまは、奴を倒すことじゃなくて、施設を使いものにならなくするのが目的だから、それはいい。ただ、使うときは、間違いなく施設の中枢を放棄さざるをえない状況にしてほしい』

「はい。……そういえば」

 ふと、小首を傾げた。

「気になってたんですけど。ここ、“青海波”の中なのに、血が飛び散った時点で体内に入ったってことにはなっていないんですね」

『空気とまで一体化したら、トッキーの唾液が混じった時点でお陀仏だからね。床や物に膜が掛かってるような状態だと思えばいい。……こっちが連絡してから形態を変えたのか、それとも初めから、トッキーを呼び込むのも目的の内だったのか……どっちだろうね』

 最後、独り言ちるように仁藤の言葉は窄んでいき、それきり黙り込んだ。

「これは私が預かるから」

 一見するとペティナイフのようなそれを、時幸の視線から隠すようにする。

「ですが……」

 案の定、少年は躊躇うように目を瞬かせた。

「元々前衛は私の役目でしょ? 今回は時幸くん頑張りすぎたってくらい頑張ったし、後は任せて。刃物の扱いなら私の方が手慣れてるし」

 なるべく力強い表情になるように、口元を引き上げる。笑みを浮かべるような気分には到底なれなかったが。正直、葛藤はある。嫌悪感や忌避感が湧かないといえば嘘になる。けれど、悟らせたくなかったし、不安も抱かせたくなかった。

 刃に触れないようにしつつ、軽く振ってみる。持ち上げて、照明に翳すようにした。とろりと艶めいた、怪しい蒼の煌き。……血液よりも濃い、時幸の細胞でできたもの。

 【一型眷属】を殺すために作られた武器。そのために――……。

 こんなものが存在すること自体嫌だったが、それでも。いまはここにこれがあることが救いだった。一型を討伐するための……延いては、富良賀湖麻由にも致命傷を与えられるものを。そんな役割を、時幸に担わせてなるものか。

 時幸も早梛の意図を察したのか、開きかけた口をひとまず閉じた。されど、依然として目を彷徨わせていた。

「大丈夫だよ」

 身体を屈め、視線を合わせるようにする。

 腹立たしいわけではないし、怖れているわけでもない。ただ、どうしようもない隔たりがある。それでも彼女は、富良賀湖麻由は、時幸にとっては母親なのだ。彼自身に傷つけさせるわけにはいかない。

 それはもちろんだが、早梛が湖麻由に危害を加えることや、或いはその逆も、時幸は恐れている。そのことを早梛は、彼の相棒は、弁えている。

「きっと全部、よくなる。時幸くんはいままでずっと頑張ってきたんだもん。そんなあなたが望まない結果になることなんてきっとない。そうじゃなきゃおかしい」

 早梛の、実に彼女らしい理想論。こんな緊迫した、余裕のない状況では、楽観的過ぎる、と呆れてしまうような言葉。しかし時幸には、彼女の言わんとすることが届いていた。

「……わかりました」

 頷き、見返した。

 深く青く、透き通ったつよい眼差し。

 気を引き締めた、されどいつも通りの、彼女の瞳。

「それの使いどころは、早梛さんにお任せします」

 自らの分身にも等しいそれを預ける。

「うん」

 緊張している様子も、誇らしげな様子もなく。

 ただ信頼が嬉しいと、それに応えんとする表情で、早梛は短く返事した。


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