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*第四章*

 ローテーブルの上には先ほど開封したばかりのペットボトルの紅茶とチョコレート。勧められて一口ずつ口にした後は減っていない。最後に食事をしてから既に七時間以上経過しているにもかかわらず、食欲がない。

 壁際での任務の後、入れ違いに《メイジャー》らしい数人がそのまま守衛に入り、早梛はハッチの中の救護室に半ば押し込められた。早梛の怪我は軽い打撲と捻挫くらいで、一番ひどい手の甲も骨は折れていなかった。

 救護室に入るまでも、入った後も、早梛は気が気でなかった。医療班の女性に付き添われて直通する地下鉄に乗り、この部屋に通されてからもずっと塞ぎ込んだままだ。零室のあった棟とは違い、壁が硝子張りではなくのっぺりした白色なのも余計閉塞感を湧き起こさせた。

 一緒に来た女性は部屋から出ないように告げた後どこかに行ってしまった。時幸の居場所を尋ねるも「判らない」としか言われなかった。

 コンコン、と、不意にノックの音が響いた。反射的に顔を上げる。

 入ってきたのは琴羽だった。

「時幸くんは、」

「問題ない。向こうで治療を受けている」

 被せ気味に言うと、向かいのソファに腰を下ろす。

「……あの、」

「ん?」

 一瞬で居住まいを正し、頭を下げる。

「ごめんなさい! 私のせいで、時幸くんを危険な目に遭わせてしまって!」

「うん? 気にすることじゃないさ。むしろ護衛対象を危険に晒したあいつのミスだ」

 だから顔を上げなさい、と手をひらひらさせる。

「っ、でも」

 顔を上げるが、表情は優れない。

「時幸くん、私を庇って、ぶつけて、噛みつかれて……血があんなに出て」

「仮免とはいえ、あいつはエージェントとしての訓練を受けているし、先輩にしごかれて身体もできてる。あんなのは傷の内に入らない」

 琴羽は脚を組み、背凭れに身を預けた。

「海外でのミッションではもっと危険な橋を渡ったこともあるし、先輩の難易度の高い任務に同行したこともある。文字どおり死ぬような目に遭ったことも一度や二度じゃない。あれしきでくたばるほど柔に育てちゃいない」

「……あれが、大したことないって言うんですか」

「そうだ」

 本当に大したことのないように言ってのける。

「……あんな怪我を、いつも負ってるんですか」

「あいつは半人前だからな」

「そんな状況に、身を置かなくちゃいけないんですか」

 早梛の中に芽生えた感情は、あっという間に大きく育つ。

「なんで、そこまでしなくちゃならないんですか」

 思わずテーブルに手をついて立ち上がっていた。

「彼は……まだ、十五歳なんですよ」

 早梛は涙ぐんでいた。年下の少年が傷を受けた事実に。それを小事に過ぎないと一蹴する琴羽への怒りに。……怪我を負わせてしまった、自身の不甲斐なさに。

 数秒間、両者とも無言。

「そうだ」

 やがて琴羽が口を開く。

「あいつは『アラヤ』を継ぐ者だから」

 目を細め、早梛を見据える。

「そうしないと、あいつは自分の価値を失う」

 早梛は口元をわなわなと震わせる。色白の頬があっという間に赤くなる。

 しかし、次の言葉を発する前に、

「やーん、マコが若い子いじめてるー」

 ノックもせずに入ってきたのは、白衣に身を包んだ女だった。

 琴羽が雷にでも当たったような顔で硬直する。

「スズ……!」

「三十代怖ーい、こんなおばさんにはなりたくないわー」

 肩口で切り揃えた髪は染めたと思しき麦わら色。早梛ほどではないが小柄で、ちょこちょこと寄ってきてテーブルの上のチョコレートを無造作に掴んで頬張る。

 ようやく呪縛から解かれた琴羽が、

「誰がおばさんだ!」

 と怒鳴る。

「私はまだ三十じゃない! ってか、大して年変わらないだろ、おまえも!」

「わたくしはちゃーんとアンチエイジングしてますから」

 横手でペットボトルも掴み、がぶ飲みする。開封済みだが、気にしないのだろうか。

「っていうか、なんでおまえがここにいるんだ。ユキはどうした」

「治療はとっくに終わったわよ。麻酔が効いていまは寝てるわ」

 なぜかその場でくるっと回転する。

「骨や内臓に損傷はなかったから、あの子なら明日には良くなってるわ。思わぬ収穫もあったしね~」

 回りながら紅茶をラッパ飲みする。その様子に、早梛は先ほどの「電車椅子男」と同じものを感じ取った。

「でも、しばらく寝かせてあげて。この一か月くらい、試験だのなんだので寝れてなかったみたいだから」

「ああ。……で? 話はそれだけか?」

「ううん」

 空になったペットボトルを「ごちそうさま」とテーブルに置く。

「検証結果が出たから、持ち主に報告しようと思って。この部屋にいるって聞いてね」

 琴羽は目を瞬かせた。

「もう出たのか?」

「ええ。それでね、とんでもないことが判明したのよ。クラスⅤ~Ⅳまでは通常で、《ボーダー》もクリア。Ⅱ、そしてなんとⅠにも有効だったのよ。あなたならわかるわよね?」

 そこで琴羽の目の色が変わった。いままでふざけているようだった女も一転、真剣な表情になる。

「……確かなのか」

「ええ。阻害効果、干渉効果共に認められた。しかも、刀身への付与効果も確認された」

「まさか……」

「考えられるのは、Ⅰか、それとも【魔女】か」

 琴羽が腕を組み、親指の爪を噛む。

「ありえん。日本に来ていたら各所から報告が上がるはず」

「それは特務部に任せるわ。確かなのはレア中のレアってことよ。うちでもっと研究できないかしら」

「それは勘弁してやれ。代わりにあいつの血の染みたやつができただろ」

「ああ、だからユキくんが最初に気づいたのね」

「あのー」

 先ほどから置いてけぼりだった早梛が、おずおずと手を上げる。

「さっきから何の話をしてるんですか? それに【魔女】って」

 二人が同時に振り向いた。白衣の女は初めて早梛の存在に気がついたようだった。

「あー、もしかしてあなたが?」

 ぱっと笑うと、早梛の隣に腰を下ろす。

「あの刀の持ち主ね? いやいや、大変だったわね⁉ うー、でも、すごいわあ。あ、刀は後で返すから、もう少し待ってて。いやー、これがほんとなら大発見よ。総帥に報告しないと」

 そこで琴羽が咳払いをした。

「ああ、ごめんごめん、興奮してつい、ね……わたくしは夏来鈴芽(すずめ)。《機関(ここ)》の研究者で、ユキくんの主治医でもあるわ。そこの堅物と違って優しいお姉さんだから、緊張しなくて大丈夫よ」

「いちいち喧嘩を売らないと気が済まないのか?」

 琴羽が面白くなさそうな顔でねめつける。夏来が来てから、彼女の雰囲気が変わったように思われる。鋭いのはそのままだが、氷のナイフが猫の爪になったような。

「あの、時幸くんは」

「大丈夫よー、男の子だもの。あ、あなたも怪我してるじゃない。大丈夫なの、これ」

 早梛の手に巻いてあった包帯に気がつき、声をかける。

「私は大丈夫です。医療班の人が良くしてくれましたから」

「そっか、よかった。女の子だもんね。おまけにかわいい」

「それで、あの……」

 押し気味の夏来に辟易しながら、言葉を紡ぐ。

「【魔女】って、なんなんですか? 《ディヴィジョン》とどう関わりがあるんですか」

 琴羽が口を開くが、一瞬遅かった。

「【魔女】っていうのは、二十三年前の八か国合同研究の際に生み出された実験体の名称よ。そして《ディヴィジョン》を作り出した者であり、いまもこの世界のどこかで新たに生産している存在でもある。いくら《ディヴィジョン》を駆逐しても、彼女達がいる限り《ディヴィジョン》もまたいなくなることはないわ」

「スズ……!」

 琴羽の殺気立った声に、夏来はあっけらかんと答える。

「あれ、まずかった?」

「……まあ、もはや無関係とはいえないが……あの刀のことがあればなおさら」

「そうよね! わたくし悪くないわよね!」

「少しは反省しろ!」

 はあ、と溜息を吐く。

「まったく、おまえが研究部部長とか、悪夢にしか思えないな」

「まあいいじゃない。《マイナー》とはいえ民間人にも公開されている情報なんだし」

 二十三年前、東ティモールで発見された、後に【魔女原細胞】と呼ばれることになる未知の物質を研究するため、日本を含む八か国で研究機関が発足。日本の《REIMEI》を含め、どの組織も時期に差はあれ、生物への移植実験、及び人体実験へと移行した。【魔女原細胞】は性質上、特に女性に適合すると見られたため、国内外の身寄りのない少女や、政治家の妾腹の娘など、死んでも誰も気にしない、或いは闇に葬られてほしい女性を、表向きは死んだことにして収容、監禁。非人道的な実験を生き残った実験体が【魔女】と呼ばれるようになった。

「どうしてそう呼ばれるようになったのかって言うと、常人には持ちえない特異能力が発現したっていうのもあるんだけど、何より、彼女達が【眷属】を生み出せたことが挙げられるのよ」

「【眷属】……《ディヴィジョン》」

「そう。なんで《分かたれたもの(ディヴィジョン)》って呼ばれるようになったのかというと……お餅、想像してみて。お正月に食べる」

「? はい」

「あれ、手で千切れるでしょ。伸びて、最後は離れる。あれと同じ感じね」

 夏来は一つのものを二つに割るジェスチャーをする。

「【一位眷属】は、【魔女】の肉体から生まれたのよ。しかも、分離した【魔女】にダメージはない。これを応用すれば、例えば手術のリスクなしに癌細胞だけ排出する、なんてことが可能かもしれなかった。だから人の道に悖ると知りつつも、研究者達は止まれなかった。いずれすべてが解明されれば、人類は一歩次のステージへ進めると信じてね。けど、それにはいくつかの問題があった」

 夏来はぴ、と指を立てた。

「【魔女原細胞】は有限であり、なおかつ適合する個体は限られていた。【魔女原細胞】は一度人体を介すると【魔女細胞】という別の細胞に変わる。これには【魔女原細胞】のように【魔女】そのものを作り出す効果はないの。それに、【魔女原細胞】にしろ【魔女細胞】にしろ、適合できるのは女性に限られていたわ。男性は【魔女】になれない。これは実験結果が少なすぎて確たることは言えないけど、理論上、男性に投与すれば破滅する。動物実験でも、雄の個体に投与した場合は皆一律の反応を示したわ。雌・女性であっても、大半の実験体は拒絶反応を起こし、その過程で死亡、発狂する個体が続出したらしいの。強いストレスを与えることで適合率を上げることができたみたいだけど、それでも全部の個体が成功したわけじゃなかった」

 夏来は肩を竦めた。

「……打ち切りにする流れも出ていた。けれどももう、研究者達は後戻りできない段階に来ていた。当初の目的も忘れて狂気じみた情熱が彼らを後押ししたわ。けれど、そのときはまだ、こんな事態になるなんて誰も予想していなかった」

 実験体は外界とは隔離されており、なおかつ薬で管理されていた。人間の実験体が生み出す【眷属】がマウスやモルモットのそれよりかなり大きかったこと、意識があることは危険視されてはいた。けれど、そこまで重要視されてはいなかった。というのも、夏来が述べたように、研究室で生まれる【眷属】の大半は病魔に侵された、弱った細胞で構成されていたため、生まれたときから死に体で、実際すぐ死滅したものばかりだったのだ。

 さらに、この頃、実験体は既に研究者の支配を離れつつあり、そのことを隠していた。わざと弱者のふりを、管理されているふりを装って、【眷属】も故意に小さく弱いものばかり生み出した。

「……だから事が起こったとき、人類は完全に後手に回った」

 研究が開始されてから四年後。

 《A・R事件》――アメリカの研究施設で起こってしまった、未曽有の大惨事。そしてその混乱に乗じて、アメリカだけでなく八か国すべてでほぼ同時に実験体の反乱が起きた。 【魔女】が持つ特異能力の一つにテレパシーがあり、アメリカの実験体の一人が世界中の同じ境遇の女に共鳴を促したのだ。

 出現した【一位眷属】はそれまで研究者の見たことのない規模の大きさであり、しかも【一位眷属】は【二位眷属】を、【二位眷属】は【三位眷属】を増やすことができた。それまで研究室では、《ディヴィジョン》はクラスⅠのみで、【魔女】が増やさない限り増えないものだと思われていたためこれは大きな衝撃だった。研究所内部には実験体の他は研究者しかいなかったが故に、人間を減らすことによって同胞を増やす、という性質に気づかなかった、というのもあるだろうが。

 脱走した【魔女】は研究者に復讐するだけに飽き足らず、憎悪の限りを無関係な大多数の人類にぶつけた。或いは超常的な力で逆に支配しようとした。対抗策を知っている研究者達の殆どは【魔女】によって殺されるか、研究所の崩壊に巻き込まれて圧死しているか、或いは最初期の【二位眷属】として暴れ回っているかであり、ほとんど生き残ってはいなかった。

「半年で終戦するなんて、しかもあんな幕引きになるとは誰も考えちゃいなかった」

「【紅鹿事変】……」

「ええ。【魔女】の暴走を止めたのは同じ【魔女】だった。……いや、『彼女』は、その他大勢の一人と括るには、あまりにも異質だったわ」

 一瞬、琴羽と夏来の目線が交わる。

「……【第一魔女】。すべての一型の《ディヴィジョン》の祖にして、かつて日本の、《REIMEI》の実験体の一人だった女性」

「日本人、だったんですか……」

「ええ。第一、というのは【事変】後に生存が確認された最初の【魔女】ということね。彼女はあまりにも異様だった。発現した能力の性質も、【眷属】の規模も、思想もね。彼女もまた、日本の研究者にいたぶられ、弄ばれていた過去があったわ。《REIMEI》脱走時に行った所業を見ても、並々ならない憎悪を抱いているのは確かね」

「人類を助けたつもりはないだろうな。【魔女】は人間なんて虫けらみたいに扱うし、むしろ【魔女】同士で派閥を作り、対立していたからな。そもそも体内の因子が対立すれば殺し殺される関係にあるんだし、それがなくても元は人間である以上、好き嫌いはある。戦時中、人類そっちのけの【魔女】同士での派閥争いによる衝突なんて珍しくなかったらしい。それどころか、いまでも大っぴらに小競り合いしてるしな」

「実験体から解放された時点でお友達でも何でもないってことね。連帯しないおかげで、人類にも付け入る隙があるわけだけど」

 【第一魔女】は自らが生み出した【一位眷属】によって【紅鹿事変】を起こし、自分を含め八人の【魔女】を選び出した。【魔女】に発現する八つの性質をそれぞれが一つずつ持ち、そして故意か偶然か、かつて【魔女】研究を行っていた八つの国、一国につき一人ずつ。そして他の【魔女】と彼女達の【眷属】を全滅させた。現在地球上にいる【眷属】はすべて、この八人を太源としている。

「そして、その大本となった【魔女】の性質を受け継いでいる。《ディヴィジョン》の区分は、『元を辿ればどの【魔女】から分かたれたか』で決定されているってわけ」

「はあ……」

「っと、ここまでが前置きね。……でも、長い話で疲れたでしょ。少し休んでちょうだいな」

「ありがとうございます……」

 深呼吸。軽く肩を回し、首を回す。今日は驚きっぱなしだ。

 夏来は息を吐き、テーブルの上を見た。空のペットボトルしかない。

「マコ、お水」

「自分で汲んでこい。ここ、おまえの方が詳しいだろ」

「確かに職場に近いけどー、ぎりぎり医療班の管轄でしょー」

「知るか」

「あの」

 ふと、思い出したことがあった。

「時幸くんの、師匠……十九年前、《ディヴィジョン》が起こした建物の崩壊で恋人を亡くした、って聞いたんですけど……」

 早梛の言わんとしていることを汲んで、琴羽は合点する。

「先輩は《REIMEI》の一員だったんだ。一応、な。研究者ではなく、研究内容が外部に漏れないよう監視したり、外部からの侵入を撃退したりする役割に就いていた。いまの《機関》特務部の原型はあの人が作ったんだ。私もスズも《機関》ができた後のことしか知らないが」

「そうなんですね……」

「十九年前のあの日、仕事中の先輩に会いに来て、崩落に巻き込まれた。同じような亡くなり方をする人が大勢いたから、悲しむ暇もなく対応に追われた。いや、あの人は逆に、心に傷を負ったときほど仕事に打ち込む質だったから、自分を追い詰めて追い詰めて、狂ったように働き続けた」

「わたくしもマコもそのときのことは知らないけど、似たような状態になったときのことを憶えてるわ。あれはほんとうに……酷かった。自分の心と向き追うのを避けるために忙しくしていたというのかしら。敢えて危険な任務ばかり引き受けたり、何日も寝ずに激務をこなしたり、自分を追い込んで……とても成果を上げてはいたけれど、称賛できるものではなかった。心配で、痛々しくて……見ていられなかったわ」

「あの人のことを英雄なんて呼ぶ人がいるけど、私はそうは思わない。確かに尊敬しているし、恩を感じている。けど、あの人はそんな大それた存在じゃない。大事なものを守るために必死で、守れなかったことを悔やんで、足掻いて、ぶつかって、欲望に執着して、掴み取って離さない。ただの一人の――人間だ」

 琴羽の目が空を見据える。懐かしむように優しく満ち足りた、されど切なさの滲む眼差し。

 もう戻らない人を思い返す人にしかできない、置いていかれた人の顔。

「……そうね。仕事熱心ではあったけど、《REIMEI》にも《機関》にも忠実ではけしてなかったわ。ときどきとんでもない行動に出て、わたくし達を大いに驚かせた。けど、それを差し引いても大勢が信頼していたし、尊敬していた。だからわたくしも、彼が亡くなったいまも()()()()()()()を守っているわけだし」

「……そうだな」

「ええ」

 琴羽は肩を竦め、早梛を見遣る。

「急にこんなこと言いだしてもきみにはわからないだろうが、まあ、つまり、すごい人だったんだよ、現夜一期という人は。こんな世の中で、人類を救うためとか大層な大義を掲げた連中相手に、それでもなお、一人の()()()()()を保障させた。あの人でないとできない方法で」

 さて、と夏来が手を叩く。

「昔話はこのへんで。悪いけど、この先の仮眠室へ行って、ユキくんを起こしてきてくれないかしら。彼の意見も聞いてみたくて。わたくしとマコは第六会議室にいます。道はユキくんが知っているわ」

 白く、目線の高さにその部屋の用途が記され、「使用中」の札が掛かっただけであとは何の飾り気もない扉を、早梛は躊躇いがちにノックした。返事はない。扉を叩いたそのままの手で、そっとノブを繰る。

 ベッドに収まっている人物は熟睡しているのか、早梛が部屋に入ってきたことに気がついていないようである。起こさないように忍び足で、傍らに寄る。

 清潔そうなシーツに包まり、時幸が眠っていた。右側を下にした状態でやや身体を丸めている。幸せそうな吐息が、彼自身の手に掛かる。

 立って見下ろすのも気が引けて、早梛は膝をついて顔を覗き込んだ。薬が効いていることもあってか、起きる気配はない。少し意外だ。てっきり、寝込みを襲われたらすぐに反応して枕の下に隠していたベレッタを引き抜くのかと思っていた。

 睫毛がかなり長いなあ、などとどうでもいいことを考える。夏来が言っていたように、怪我の具合はもういいようである。顔色はよく、すっかり弛緩した表情だ。と、時幸が僅かに身じろぎした。ふふ、と口元から、声が漏れた。

「ん、時幸くん?」

 眠っているとはわかっているが、とっさに呼びかけてしまった。なんだかおかしな気持ちだ。起きているときは口調と大人びた態度のせいでつい引きずられてしまいがちで、そんな彼を少し怖いとさえ、思っていた。しかし、いま目の前にいる彼は、意外なほど幼かった。早梛よりも年下だということは知っていたが、もしかしたら時幸は、過去や《機関》の一員としての責任などを背負っているせいで気を張っているだけで、本来はまだ未成熟な少年なのかもしれない。もぞもぞ動く彼を、かわいいなあ、なんて思って、思わず口元が綻ぶ。

 時幸は口をもごもごさせて、何やらむにゃむにゃと言っていたが、やがて――一つの、意味のある言葉を紡ぎ出した。


「……おかあさん」


「え、」

 思わず目を瞠った。時幸の閉ざされた瞼を視、端麗な顔に薄ら浮かぶ微笑みの意味を探る。聞き間違いではない。

 どっと、肩の力が抜けた気がした。驚愕した半面、心のどこかでほっとしてもいた。現夜時幸。早梛の目の前に現れた、《機関》の一員。エージェントの端くれで、研究者達の「所有物」。彼には謎が多かった。初めて会ったときから心の奥に引っ掛かりを感じていた。言葉では説明できない幾つもの嫌な予感がいまも蟠り続けているのに、その理由がまだ何一つ明かされていない。

 それが不気味であり、怖くもあり、されど昂揚してもいた。この人を利用すれば、或いは早梛の刃は仇に届くのではないか。そういった気持ちも含めて、惹きつけられていた。常夜灯に集まる蛾のように。

 ところがどうだろう。目の前で眠り続ける彼は、幸福な夢を見るひとりの少年だった。

 安堵していた。時幸も人の子であること。家族がいること。母親の夢を見て、こんなに優しい顔をすることに。

 そう思う早梛自身の眼差しも傍から見れば優しげだが、もちろん彼女自身は気づかぬまま、時幸のさらさらとした前髪を撫でる。そのまま、白い頬に触れる。滑らかで僅かに冷たくて柔らかい。と、時幸の目元が僅かに歪んだ。「んっ」と声が漏れ、目が開けられる。

 覚醒のコンマ一秒前に、早梛は手を引っ込めていた。

「早梛、さん……」

 目をぱちぱちさせながら、時幸は身体を起こす。その顔を見ることができない。

「おはよう、ございます……」

 茫とした様子で軽く微笑みながら、時幸は時刻錯誤な言葉を投げかける。

「……はよっ」

「? どうかしましたか」

「べ、べつに」

 寝起きのせいか、薬が残っているのか、どこか弱々しい時幸を、せくしーとか、やばいとか何考えてるの私、とか脳内で自分を殴りつけているのに忙しい早梛は直視できずにいた。

「かっ……身体の具合はもういいの?」

「はい、ご迷惑をおかけしました」

 そう答えたときには早くも、普段の気丈な時幸に切り替わっているようだった。

「あの、その、夏来さんがね、第六会議室に来てほしいって」

「わかりました。支度するので、少しむこうを向いていてください」

 言われるまでもない。顔を見ることができないのだ。ありがたく反対側の壁を向かせてもらう。

「……」

「……」

 しばらくの間、お互いに無言。

 ただ、衣擦れの音がさらさらと聞こえる。

 それが余計に扇情的で、小柄な身体をさらに縮こまらせる。

「……すみません」

「え?」

 とっさに振り返りかけて、少年の肌が視界を掠め、慌てて前を向く。一瞬のことだったが、肩に巻かれた包帯に心が痛んだ。

「怖い思いをさせてしまって。俺のミスです。本当に、申し訳ない」

「なんで、あなたが謝るの」

 ふるふると首を振る。

「私こそ、足手まといにならないつもりだったのに、思いきり迷惑かけて、怪我までさせちゃって……本当に、ごめんなさい」

「早梛さんは悪くありません」

 静かに、しかしきっぱりと告げる。

「俺があなたを、守らないといけなかったのに」

「……守ってくれたよ」

 少しだけ顔を上げる。

「庇ってくれた。手を引いて走ってくれた。とっさに突き飛ばしてくれた。あなたがいなかったら私、いまここにこうしていないよ」

「……俺だって」

 時幸の手が止まる。

「早梛さんに、守られました」

「え?」

「壁にぶつかったとき、頭を庇ってくださいました」

「ああ、あれね。……とっさに身体が動いたの」

「大丈夫でしたか」

「もうへいき。……時幸くんの方が、大変だし」

「こんなのかすり傷ですよ」

「……無茶しないでね」

「無理ですね」

 早梛は肩を竦めた。

「……大変だね。エージェントって」

 先ほどの琴羽との会話を思い出し、苦い気持ちが蘇る。

「俺は……俺には、力がありません。それがとても、歯痒いんです」

 時幸もまた、肩を落とす。

「身を削ることでしか守ることさえできない。けれどそれは、身を削りさえすれば守ることだけはできるともいえます。ただそれは、俺の目指すものとは少し違っています」

「そんなこと!」

 今度こそ、早梛は振り返っていた。

 もう着替えは済んだようだ。清潔な白いシャツ姿。素材がいいからか、飾り気のないシャツでも見栄えがする。

 その襟首を掴みかからん勢いで、早梛は時幸に迫った。両者の距離は10センチにも満たない。少し潤んだ瞳が、目の前にある。はっとするほどに可憐で、鮮烈な深青の瞳。

 しばし、見つめ合う。頬が紅潮する。心拍数が上昇していく。

「……身を削って守ってもらっても、嬉しくないよ。時幸くんだけに身を削らせるわけにもいかない」

 あなたにだって大切な人がいるんでしょう、と、心の中で付け加える。

「……もう少し、スマートにできればよかったんですけど」

 時幸は自嘲する。

 交差点のときも、先ほどのミッションも。

 早梛は、真っ先に《ディヴィジョン》に立ち向かっていく。まるで自分から飛び込むように。《調律の彼女》でもない、生身の身体で。小さなその身一つで。

 けして無謀なわけではないだろう。しかし一方、勇敢とも違っている。

 怖くないわけがないのだ。家族を殺されて。自分よりも大きな、多くの敵と対峙して。死の恐怖と隣り合わせで。だからあのとき、とっさにあんな言葉が出たのだ。

 けれども彼女は、だからこそ真っ向からぶつかっていく。先に立ち向かわなければやられてしまうから。窮鼠が猫を噛むように。

 早梛は――強い。

 そしてそれ故に――脆い。

 誰も頼らないで生きてきたから。失うものが何もないから。

 限界まで研がれた一振りの刀のように、鋭く、それでいて、ともすれば折れてしまいそうな危うさがある。

 そこまで考えて、ふと思い出した。鋼は俗に黒鉄とも呼ばれるが、正に名刀といわれる刀は、本当は青いのだ。煌く彼女の色も――青。

 まじまじと見つめる。手を掴んで、引き寄せる。

「と、時幸くん……」

 予期せぬ急接近に、先ほどの威勢はどうしたのか、早梛は目を白黒させている。

「もう二度と、あんな目には遭わせません。約束します」

「い、いや、あ、その」

 琴羽に言われての言葉だと、護衛対象としての言葉だとわかってはいても、どぎまぎしてしまう。

「いや、だから、守ってくれたし。ってゆうか、自分の身も守れなかった私の落ち度だし」

「そんなことありません」

 空気が変質する。空調は弄っていないはずなのに、部屋の温度が二、三度下がったように思われる。早梛も察知し、身を強張らせる。

「……あれは早梛さんのせいじゃありませんから」


()()()()()()()、そうですね?」


 静かに頷く。

「……あの場で、早梛さんには落とされる理由がない。考えられるのは、俺や琴羽さんに責任を追及し、不利な立場に追い込むこと。或いは……。いえ、いずれにしろ」

 時幸の顔が陰る。あの表情だ。

 零室で最後に見た写真と同じ、覚悟を決めた昏い顔。

「こんな大それたことをして、ただで済むはずがない。必ず見つけ出して、問い質します。……それについても、琴羽さんに相談しないとですね。行きましょう」

 そして、打って変わって朗らかな雰囲気で、

「今度こそ、俺がしっかり守ります。というより……守らせてください」

 少しはにかみながら、宣言した。

 誠実なその態度に、早梛はとっさに答えることができない。

 ただ、断るのは違うように思われた。

 快諾するのも、正解ではない気がする。

 なので、率直ないまの気持ちを言葉にした。

「――ありがと」

 そう歩くことなく、目的の部屋に辿り着いた。「第六会議室」とプレートの掛かった扉をノックする。返事はない。が、中から話し声が聞こえる。どうやらいつもどおり、くだらないことで喧嘩をしているらしい。先ほどより大きく扉を叩く。返事はない。埒が明かないのでそのまま入室。

「失礼します」

 早梛を通し、ノブを持ち替えて閉め、一礼。入室の礼儀を一通りこなし、着席の許可が下りるまで待機する。予想どおり、夏来と琴羽が言い争いをしていた。

「だーかーら、ケーキに入れる薄力粉は予め篩っておくのが正しいの! レシピにも『泡が消えないうちに手早く』って書いてあるでしょ!」

「篩いながら入れたほうが効率的だ。空気を含ませて出来上がりをふっくらさせるしな」

「もうっ、料理しないくせにもっともらしく言うの止めなさいよ」

「おまえには言われたくない! あれは調理どころか実験だろうが」

 ……思っていた以上にくだらない話だった。多分いま言い争っている二人でさえ、後から思い返して馬鹿らしくなる類の話だ。

「あ、きたきた、待ってたわ」

 先に夏来が気づき、椅子を勧める。

 着席すると、机の中央に置いてあった包みを解く。

 出てきたのは黒塗りの鞘に納められた日本刀だった。

「おまたせ。これは返すわね。異常がないか確かめてちょうだい」

「あ、はい」

 おずおずといった様子で、早梛は愛刀を受け取る。鞘から取り出されたそれは美しい輝きを放った。立ち上がり、時幸達から少し距離をとると、一、二度振ってみる。

「問題ない、と思います」

「そう。よかったわ。で、返すにあたって、一つ約束してほしいことがあるの」

「はい?」

 夏来の喉が鳴る。琴羽も深刻そうな顔をしている。

「その刀で……人を傷つけないで」

「?」

 あたりまえのことを言われ、早梛は戸惑う。

「いままで斬られた人がいないのはよかったわ。これからもそうしてちょうだい。絶対に、何があっても、人間を斬りつけたりしないで。でないと……大変なことになるかもしれない」

「え? え?」

「約束して」

「! はい」

 早梛は頷き、刀を鞘に戻す。再び机の上に置くと、ちらりと見てから着席する。

 夏来はふう、と息を吐くと、「マコ、お茶」と手を振った。琴羽がペットボトルに入った緑茶を無造作に前に置く。

「その刀、調べてみて判ったんだけどね」

 一口お茶を飲み、「冷えてないわね、これ」と悪態をついてからキャップを元に戻し、夏来はようやく説明を始める。

「結論から言うと、五型の因子が発現していたのよ」

「五型……」

「やはり、そうでしたか」

「ええ。それもかなり上位の、ね」

 ちらりと腕時計を見る。

「聞いた話だと、その《ディヴィジョン》、あなたと同じくらいの大きさで、喋ったのよね?」

「はい。確かに、人の言葉でした」

 夏来は溜息を吐いた。

「はっきり言わせてもらうけど……五型には、人語を話す個体は存在しないわ。どのランクであってもね」

 早梛は耳を疑った。

「え……でも、確かに話したんです。聞いたんです」

「疑ってるわけじゃないわ。でも、事実なのよ。人と同じ大きさの個体はいるけど、言語機能を有しているのは三型と六型に限られる。例外はないわ」

「例外はないって……なんで、断言できるんですか」

 動揺を抑えることのできない声音で、早梛が尋ねる。

「これまでに確認されている人語を話す《ディヴィジョン》には二種類あって、下位の個体を増やす際に人間を直接利用するパターンと、もともと言語機能を有している【一位眷属】のパターンがあるの。五型は前者のような増え方はしない。後者も違うわ。先ほど話したように、《ディヴィジョン》は【魔女】が作り出したもの。逆にいえば、【魔女】の限界を超えたものは作り出せない。人間大かつ知能も人並みかそれ以上の個体を作り出せる【魔女】は【第三魔女】だけよ」

 【一位眷属】は【魔女】の肉体から分かたれてすぐ膨張し、生体機能などを生成、維持しなければ成立できない。だから多くは人よりも大きな個体になる。唯一、“改変”の性質を持つ【第三魔女】だけは、従来の法則に従わない【眷属】を作り出すことができる。

「言葉を話した時点で、あなたの家族を襲った相手は《ディヴィジョン》じゃないわ」

「……調査結果が間違ってたってことは?」

「ないわね。その刀、斬りつけた対象の位階と性質がそのまま転写されていた。五型の“反転”の性質がね。それは斬りつけた相手に干渉するだけでなく、刃自身に及んでいるわ。覚えがない? その刀、いつから使ってる? いままで何体の《ディヴィジョン》を斬ってきたの? なのに……刃こぼれ一つしたことがないんじゃない?」

 弾かれたように顔を上げる。その反応に満足したのか、夏来は続けた。

「研究室内で0.5ナノグラムほど削って調べたんだけど、数分後、削り出した部分がひとりでに動き出して復元したわ。これほど強い効果を持つものは五型の中でもかなり高い位階に位置するものだけよ」

 さらに、被せるように伝える。

「《調律の彼女》でもない。彼女達は細胞を利用して《ディヴィジョン》に干渉することはできても、存在そのものが【魔女細胞】でできているわけではないから、因子による能力で殺傷することはできない。遠隔操作で人の皮膚を裏返すことなんてできっこないのよ」

 椅子に座ったまま、早梛はへたり込んだ。

「どうぞ」

「……ありがとう」

 時幸がキャップを開けたお茶を手渡す。素直に受け取り、ぐいっと呷る。

 早梛が落ち着いたところで、夏来は話を再開する。

「ここまで聞いて、あなたはどう思う?」

 早梛の仇は五型。そして【眷属】でも《調律の彼女》でもない。他に【魔女細胞】を持つ者……それは、つまり。

「……【魔女】」

「と、いいたいところだけどねえ」

 琴羽の前に置かれていたファイルを引き寄せて中から一枚の写真を取り出す。

 写っているのは若い女だった。二十歳そこそこに見える。黒髪だが彫りの深い顔立ちは日本人のそれではない。御伽噺から抜け出したお姫様のようにあどけなく美しいが、どこか疲れた表情を浮かべている。

 早梛の横から覗き込んだ時幸が説明する。

「ウッラ=ルイースヒェン=グレーフェンベルク。【第五魔女】。ドイツの【魔女】ですよね。俺の知っている彼女の姿とは異なっていますが」

「ええ。これは彼女がまだ実験体だったときの写真よ。現在の姿とは大きく異なるでしょうね」

 早梛の顔に浮かぶ緊張と戸惑いを見て、夏来は言葉を切る。

 写真の人物は、早梛の仇……に、かなり似ている。けれど、違う。別人だ。

「さらに混乱させることを言うけど……これは四年前、アメリカで撮影された写真よ」

 二枚目の写真を見て、静かに目を見開く。

 一枚目よりもかなり画質が悪いが、一人の少女が写っているのが見てとれた。年の頃は十歳前後。褪せた髪色は冴えた青紫。やはり御伽の国から来たように美しいが、それはグリムで言えばヴィルヘルムよりヤーコブ依りの笑みを浮かべている。

 信じられなくて、二つの写真を見比べる。写真に写っている二人はかなり似通っている……どころか、同一人物としか思えない。顔立ちだけでない。写真からでも滲み出る独特の癖というか、雰囲気が全く同じだ。

「……若返ってる?」

「ええ。おそらくいまは、もっと若い姿をしているでしょうね」

 数度瞬きする。

「先ほど、【一位眷属】がどのようにして生まれるか話したわよね。お餅みたいに【魔女】の身体から分かれて、瞬く間に膨らんで、表向きは一個の生物として独立する。それでも【魔女】の分身というか、端末なんだけれどね。で、分かたれた元の【魔女】の方はというと……これもお餅の話なんだけど、千切ったら小さくなるわよね? お餅なら中もお餅だから問題ないけど、【魔女】の場合、千切れれば内臓が零れるし、血もいっぱい出る。このままじゃ命が危ない。そうなったとき、生体機能を維持するにはどうすればいい? 小さくなった内臓でも生きていけるようにするには?」

「それで、若返るっていうんですか」

「そう。大きさはそのままで完成した状態……つまり、肉体を小さくすることでね。けど若い頃の姿にそのまま戻るわけじゃない」

 改めて写真を見返す。髪色が異なるのは実験体時代に受けた投薬やストレスの影響だろう。それでも、二枚の写真に写るのは同じ人物だと断言できる。

 同時に、早梛の仇とは異なる人物だということも。

「それでね、【魔女】は一度【眷属】を作ると、もう見た目が年を取ることはなくなるのよ。そして以後、【一位眷属】を作る度にどんどん肉体が小さく、さらに若い見た目に変化していく。これは不可逆よ。それでいてテロメアは若返らないから、臓器や筋肉は衰えていく。四年前、同じ場所で【第一魔女】と【第三魔女】の姿も確認されたけど、彼女達もまた幼い姿をしていたらしいわ」

「つまり……」

 早梛は一度深呼吸した。脳が情報量についていけなさそうになっている。

「【第五魔女】は二年前、少なくともこの写真に写る十歳くらいか、もしかしたらもっと若々しい姿をしていた。十代前半に見えた私の仇とは別人で間違いない……ということですね」

「ええ。もっとも、写真を見てもらえば判ることだけどね」

 夏来は腕を組んで椅子に寄り掛かった。

「それに、本当に【魔女】なら、わざわざ能力で人間を殺す必要がない。命令を下した【一位眷属】を日本に派遣すれば済む話だもの。わざわざ【魔女】自身が動くのはリスクが高すぎる。【魔女】の動向には世界中が注目しているんだもの。特にドイツは《薪の塔》の本拠地に近いし、《魔女狩り》の密偵や《翅の靴》の諜報員も数多くいるから、自国の【魔女】のことについて常に最新の情報を追っている。《機関》が最も【第一魔女】に詳しいようにね。もしウッラが日本に来ていたのだとしたら、何らかの形で《機関》にも伝わっているはずよ」

「なら、あの女は……私の家族を殺したのは、何だっていうんですか」

 途方に暮れてしまった。【魔女細胞】を持ちながら、《ディヴィジョン》ではない。《調律の彼女》でもない。そして【魔女】でもない。

 夏来と琴羽も、そのことを察したのだろう。

「ユキ。おまえはどう思う」

「はい」

 それまで会話に参加してこなかった時幸が、口を開く。

「【魔女】から生まれた、【眷属】ではないものでしょうね」

 早梛は傍らの少年を、驚きの目で見た。

「【魔女】は……《ディヴィジョン》以外にも、何かを生み出すことがあるの」

「ええ。出産という形で」

 一瞬、空気が固まった。

「っあ」

 早梛の喉から、驚きとも感嘆ともつかない声が漏れる。

 心臓が早鐘を打つ。

 娘であれば、似通った別人であることにも納得がいく。

「最初からわかってたのか、ユキ」

「確証はありませんでした。殺傷方法やドイツ語で話したことから五型であることはある程度予想できていましたが、上位の《ディヴィジョン》に殺されたにしては、遺体の眷属化がないのは疑問でした。そこから導き出しての消去法です」

「ふむ。……しかし、厄介なことになったな」

 早梛は興奮を抑えきれず、故に戸惑いの眼差しで時幸と琴羽を見比べた。

「どういうこと?」

「……【第五魔女】が出産したという記録はある。時期も丁度、十五年前とされる。ただ、【第五魔女】の娘は、長らく行方知れずだったんだ」

「そうね。わたくしもそう聞いているわ。あの頃はいろいろあったから、よく憶えてる。【魔女】からどこかの組織に連絡があり、それを《翅の靴》が傍受した。内容は『私が産んだ子どもを返せ』」

「誘拐されたってことですか?」

「どうだかな……」

 琴羽は親指の爪を噛む。

「……そもそも、利用するために産ませて、引き離した可能性が高い」

「⁉」

 早梛は驚愕の目で三人を見回した。

「……【魔女】が人間の男性との間に子どもが作れるということは、【魔女】研究のわりと初期で確認されているんだ。生まれてきた子どもは全員女で、母親の性質を受け継いでいる」

「その濃度は【一位眷属】を凌駕するわ。母親に次ぐ力の行使が確認されている。母親と違うのは、【眷属】を生み出すことはないってことね。故に人間と同じように成長し、見た目が若返ることもない。ただ、生まれつき【魔女細胞】を宿しているためか、母親とは異なる、さらに進んだ能力がある」

「ただ、【魔女】になると、そうでなかった頃と比べて妊娠の可能性が大幅に下がる。だからデータは思いのほか少ない。いまだに謎が多い存在なんだ。しかもそういった【魔女の娘】も、【紅鹿事変】で母親共々全滅した。現在生き残っている【魔女】の誰に子どもがいるのかは把握できていない」

「あの、」

 おそるおそる手を上げる。

「それってつまり、子どもを産んだのって、【魔女】になった後ってことですよね。あれ、でも、だとすると……」

「……多分、きみが想像しているとおりだ」

 琴羽が言いづらそうに、告げる。

「【魔女の娘】は、開戦前から研究室内で生まれていた。……研究者による強姦によって」

「‼」

 耳の奥で、鼓動の音が跳ね上がる。

「実験体の多くは施設の中で輪姦されていたわ。先ほど言った非人道的な実験の過程としてね。強姦は心身共に強いストレスがかかる、出産した場合のデータもとれる。誰の子かも判らないし、化け物が産んだ子に愛情もない。《REIMEI》でも、対照実験の一環で免除された個体以外は、どの年齢層の実験体にも行われていた。……そうやって【魔女の娘】のデータを集めた研究者の多くは、十九年前の開戦時、反旗を翻した実験体に虐殺されたわ。因果応報ね」

 夏来にとっても話していて気持ちのいい話ではなかったらしい。椅子に仰け反り、深々と溜息を吐いた。

「【第五魔女】は研究所を脱走し、【紅鹿事変】が起こった後、一時的に囚われていたらしい。【魔女】は本当に恐ろしいが、真に恐ろしいのは人間かもな。いや、或いは【魔女】同士の派閥争いの結果売られたのかもしれないが。……どうあれ、【魔女】は孕まされ、生まれた娘は引き離された。本人はその後逃げ出したらしいが、娘の行方はようとして知れないままだった」

「……仮に引き離されなかったら引き離されなかったで、【魔女】の駒になっていたでしょうね。組織にしろ母親にしろ、誰かの都合や打算で生まれ、生まれたときから実験動物。或いは利用しやすいように育てられ、自由も意志もなく他人のために力を振るう。この世に愛情の結果生まれてきた【魔女】の子どもなんて、果たしているのかしら」

 退廃的な目つきで、夏来は空を見つめる。

 早梛は、何も言えなかった。

 ふと、疑問が首をもたげる。

「あの、いいでしょうか」

 先んじて時幸が手を上げた。

「とりあえずのところ【第五魔女】の娘だと仮定して、どうして早梛さんのご家族が狙われたのでしょう」

「そう、問題はそこだ」

 早梛もそれがずっと疑問だった。判らないが故に、悔しかった。

「どうして、何の目的で、日本のとある家庭を狙う? 母親から引き離された後、どこかの組織に属していたとして、命令だとしたら、その組織は何を考えている? そして……」

 早梛は自身の膝の上、組んだ手を見つめる。

「どうして私だけ、見逃されたのか」

「……それについては、わたくし、思い当たることがあるわ」

 夏来が、ぴ、と手を上げる。

「その刀の性質よ」

「え?」

 夏来は卓上の刀を指さした。

「《ディヴィジョン》にはそれぞれ種別があるって話はしたわよね。その区分は八つで、それぞれ一から八までの番号が振られている。そして、数字が十になる組み合わせ同士が対立関係にある。この区分にはそれぞれの性質も関係しているの。例えば“融合”の性質を持つ二型の因子は“分離”の性質を持つ八型の因子と対立する、というふうにね」

 そう言って、こちらに目を向ける。

 早梛は刀を見、夏来の顔を見、ふと気づく。

「一型には対立する因子がない……」

「あ、あ~」

「そっち先に気づくか」

 大人組がずっこける。

「え、ええ。そう。一型には弱点がないの。因子固有の能力も厄介だけど、これが一番の問題ね。【第一魔女】はやろうと思えば再び【紅鹿事変】を起こすことも、逆に人間を絶滅させることもできる。そうしないのには訳があるんでしょうけど、彼女の目的は不明だわ。いろいろなことも含めてね。……そして、彼女と彼女の【眷属】を滅ぼさない限り、人類の勝利はない。なのに滅ぼす手段がない。同時に、他の【魔女】にとっても、【第一魔女】は異質であり、脅威なの」

 夏来はふう、と息を吐き出した。

「一型には対立する因子がない。一方で、一型の因子は、それ以外の【魔女】の因子すべてを侵害できるのよ」

「え? チートじゃん」

 思わず率直な意見が漏れた。

「そう、チートなのよ。だから他の【魔女】全員から警戒されているわ。向こうにこっちの攻撃は効かないのに、あっちの血の一滴でも入れば即消滅。一位以下の【眷属】がいないのもここら辺が関わってるのかしらね」

「えっと、じゃあ、【第一魔女】の細胞を加工した武器とかあれば最強では?」

「無理ね。十九年前の施設崩壊の際にそれまで採取したサンプルほとんど駄目になって、長野と岐阜は立入不可領域になっちゃったし、十六年前の襲撃で残ってた分もぜーんぶ燃えたわ。……もっとも、あの襲撃の目的は、データとサンプルの破棄じゃなかったけどね。とにかく【第一魔女】の細胞は前所長の遺産の試験官一本分、それも七年前使っちゃって、ほとんど残ってないのよ」

 そういえば、時幸もそんなことを言っていた。以前《機関》が襲撃を受け、総帥の研究室が被害を受けた、と。あれは【第一魔女】によるものだったのか。となると目的は、やはり復讐だろうか。いや、それなら【紅鹿事変】の二年も後になって、というのは引っかかる。

「それに、そんなことしなくてもいまはいいしね」

 考え込んでいた早梛は、夏来が漏らした言葉に気づかなかった。不安げにこちらを盗み見る時幸の視線にも。

「で、いま話したいのはそうじゃないの」

 夏来の打った手がぱん、と音を放ち、早梛は我に返って顔を上げた。

「八つ因子があって、一つペアがないのよ。つまり……」

「えっと」

 じれったくなったのか、夏来が答えを言ってしまう。

「五型は、五型同士で対立するの!」

「――ああ!」

 そうだ。足して十になる組み合わせ。五型は同じ祖から生まれた者同士が対立関係にある。

「さっきもちょっと話したけど、五型の性質は“反転”。裏返ったものをもう一度裏返せば、元に戻るでしょ。これが五型の性質。五型の【眷属】は数も多いけど、その分共喰いも激しいの」

「早梛さん、先ほどの《ボーダー》を思い出してみてください」

 時幸の言葉にはっとなる。あの《ボーダー》は皮膚が裏返り、傷がない状態に変わった。

「自己反転……修復の一環です。もしきれいな皮膚の状態で、五型の因子を撃ち込んだらどうなると思いますか?」

「! 傷ついた状態になる」

 時幸が嬉しそうに頷いた。

 しかし早梛は、ある事実に気づき、顔を曇らせる。

「じゃあ、あの【魔女の娘】は……自分の血の付いた刀で斬られるのが嫌だったから、私を殺さなかった……ってこと?」

「……確証は持てないわ。体外に出たとはいえ、自分の血で反転するのかって疑問もある。けど、既に自己修復が完了している状態なら、斬られることで傷が開く可能性もある。まだまだ判らないこともあるしね」

「そうだな」

 琴羽がこつこつと机を叩く。

「【第五魔女】の娘については、今回のことで初めて表舞台に出てきた。だが、他の【魔女】の所在や娘の有無は判明していない。それを加味すれば【魔女】同士の、そして人間と奴らとの勢力図は大きく変わる。父親が誰かによっては、組織間のパワーバランスまで崩しかねない。【第五魔女】の娘が既に事を起こせる年齢だとすると、それより先に出産したとされる【魔女】の娘達は既に他組織の中枢にいるかもしれない。総帥が戻られたら早急に話し合う必要があるな」

「戻られたら? 留守なんですか」

 早梛の一言に、三人はなぜか押し黙る。

「あ、あの、訊いちゃいけないことでしたか……?」

「いや、そういうわけではないんだ。ただ、ちょっとな」

 琴羽は深く溜息を吐くと、クイ、と顎で時幸を促す。

「いまは本部を離れ、マカオにいらっしゃるんです」

「マカオ……」

 早梛の表情がたちまち強張る。

 時幸は目を伏せた。ただでさえ濃い目の色に靄が淀む。

「はい。三型の【一位眷属】によって人間が支配されている地域です。三型のクラスⅠは他のそれと比べて知能が高く、クラスⅡ以下の統率力に優れていることが挙げられます」

「ええ。しかも、マカオに巣食っているのは【第三魔女】の直属。現地の組織の要請を受けて、【魔女】研究の専門家である総帥自ら現地に赴いているわけだけど、それでも長丁場になるでしょうね」

「だが、あそこを人類側に奪還できれば大きな要所となる。総帥もそれをわかっているから、特務部の選りすぐりを同行させたわけだしな」

「はい。ただ、その隙を突いて事を起こそうとしている輩がいる様子です」

「ほう?」

 時幸が、壁上であったことを告げる。

「突き落とされた……?」

 琴羽が確認するように早梛を見る。静かに頷いた。

「はい。下に注目してたら、背中に衝撃を感じて。何か、いえ、誰かに押されたように思いました」

「当時、壁上には《メイジャー》の方が多くいました。けど、映像は通信班の皆さんが確認しているはずです」

 琴羽はすぐさま時計を確認する。

「録画が残ってるはずだ。倉木がまだいるといいんだが」

 そう言って立ち上がると、部屋を出かけて、振り返る。

「サナ、でいいか」

「は、はい!」

 急に視線を向けられ、かしこまる。

「まだ訊き足りないこともあるだろう。話を聞いてさらに出てきた疑問もあるはずだ。だが、今日はもう誰も答えられそうにない。ここは地下で判りづらいかもしれないが、もう夜も遅い。帰るか、それとも……」

 一瞬、目を伏せ、また上げる。

「差し支えなければ泊ってもかまわない。事情が事情とはいえ、長時間拘束して、危険な目に遭わせもした。その埋め合わせ分くらいは優遇しよう。着替えや生活用品は寮の売店で揃えるといい。私のカードを貸そう。帰るというのなら送迎するが」

「あ、あの、では、泊まらせてください」

 ここで帰ったら、おそらく話の続きはできないだろう。《機関》としても多くを知った早梛を監視もなしで解放するとは思えない。なら、食らいついて離さない。離すもんか。

 早梛はまだ、一番知りたいことを知れていないし、一番欲しいものを手に入れていないのだから。

「そうか。ではこれを」

 そういって、手のひらに収まる大きさのカードを押しつける。電子ウォレットの類だろう。

 部屋を出ていった琴羽を見送って、夏来も立ち上がる。

「わたくしもそろそろ仕事に戻らないと。でも、その前に」

 そう言って、こちらに向き直る。

「その刀で《ディヴィジョン》を斬ってもいい。むしろどんどん駆除してくれて構わない。【魔女の娘】が憎いなら、刃を向けてもいい。ご家族を狙った理由は判らないけど、仕留め損なったとあれば、再び接触する可能性は高いものね。あなたにはそれをする資格があるし、わたくしにそれを止める資格はない。けどね、しつこいようだけど、無関係の人を襲ってはダメ。遊びや脅しのつもりで向けてもいけない。……特に、男性にはね」

 言い方に引っかかりを感じ、早梛は首を傾げる。

 それを察したのか、夏来は真顔のまま、静かに語りだす。

「先ほども言ったとおり、【魔女細胞】は男性には適合しない。移植することも、持って生まれることもできない。【魔女】も、その娘も、そして《調律の彼女》も、男性の子孫を残すことはできないのよ」

「!」

「《調律の彼女》と普通の女性が大きく異なるのはこの一点ね。いまはまだどの国でも問題になってはいないけど、今後《ディヴィジョン》による被害が増え続けると男女比が課題になる可能性があるわ」

 ふう、と息を吐く。

「それでも、【魔女】や【魔女の娘】の細胞を男性に移植することは、どの国でも禁忌になっている。間違いなく破滅するからよ。それも最悪のカタチでね。それは【魔女】にとっても同じ。【魔女細胞】を宿す女性は妊娠しづらく、妊娠しても女子しか出産できない。人間に限らず、雌雄を持つ生き物であればこれに例外はないわ。後天的に【魔女細胞】を移植して生き残ったのも、研究室で生まれたのも、在野の【魔女】が産むのも、一例を除いてすべて女」

 言い切ると、卓上のペットボトルを取り、残っていたお茶をすべて飲み干した。

「その刀に付着している【魔女の娘】の血が男性の体内に入ったら、取り返しのつかないことになる。ないとは思うけど、その刀を、脅しで人に向けたこと……ないわよね?」

「……あ」

 言われて、記憶を辿る。

「そういえば、この間」

「‼」

 夏来の目の色が変わる。

「時幸くんに……でも、触れはしませんでした」

 途端に脱力し、椅子に凭れ掛かる。

「なあんだ、ユキくんか~」

「なんだとはお言葉ですね」

「でも実際そうでしょ。むしろ迫られてきゅんときちゃったんじゃない?」

「っ……ひ、人をマゾヒストみたいに言わないでください」

「?」

 赤くなって顔を背ける時幸に、早梛はきょとんとした顔を向ける。

 と、そこでドアがノックされた。

「ちわっす。ってか仕事終わりに主任に呼ばれて~、帰るついでに寮に案内しろってさ。ま、いいけど~」

 入ってきたのは、一言目から妙に喋る女だった。

「わたくしももう行かなくては。では、ごきげんよう」

 入れ替わりに白衣を翻し、夏来が部屋を出ていく。

「それじゃあ、行きましょうか」

 立ち上がった時幸を、女が制する。

「待った。ユキ。もしかして女子寮までついてくるつもり?」

「ええ。早梛さんの警護がいまの俺の仕事です」

「おいおい勘弁してよ~。女子寮は男子禁制! 敷地内に一歩でも入った時点で《調律の彼女》含めた全員で袋叩きにするかんなっ」

「ですが、」

「おい、ユキはここか?」

 開きっぱなしの扉から、まだ十代と思しき若者が顔を出す。

「あ、いた。スペイン語のできる奴がいまいなくてさ、悪いけど来てくれるか」

「ええ……」

 困ったようにちらと早梛と若者を見比べる時幸。

「行ってあげて。私は大丈夫だから」

「早梛さん。ですが」

「任務じゃないし、危険もないよ。刀も戻ってきたしね」

 扉の所で、若者が「早く、早く」とやきもきしている。

「……わかりました。早梛さんをお願いします」

「りょ。さ、いこー」

 女に連れられ、部屋を出る。

「時幸くん、スペイン語話せるのね」

「ええ、まあ」

「今度聞かせてね」

 言ってから、随分無責任なことを言ってしまったと思った。自分達がこれからどうなるか、まるでわからないというのに。

 しかし時幸は、照れたように、少し嬉しそうに微笑みながら、「はい」と答えた。

「それじゃ、また明日」

「おやすみなさい」

 地下鉄に乗って、女子寮に案内される。女子寮は地上に建つマンションであり、数時間ぶりに地上に出た早梛はしばし開放感を味わった。一階の売店で食事と着替えを買い、用意された部屋に向かう。

 内側から施錠されていることを確認し、早梛はベッドにダイブした。

 今日はもう、ただひたすらに、疲れた。

 一頻りシーツの清潔さとマットの柔らかさに溺れた後、買ってきた食品を開封して無言で食べきる。食べ終わると今度は埃っぽさが気になりだし、浴場に向かうことにした。

 置いていくのは気が引けて、刀を持ってきたが、途中、誰ともすれ違うことはなかった。

 浴場もそれは同じで、そういった時間帯なのかは知らないが、利用者は早梛一人だけだった。さすがに中にまで持っていくのは躊躇われ、また自分一人だったので、脱衣所に刀を置いて浴室に入る。

 ちょっとした旅館温泉並みの広さがある。前温泉に入ったのはいつだっただろう。家族で旅行に行ったのが最後の気がする。

 幾つか並んだシャワーの前の椅子の一つに座り、髪を洗う。長いので少し時間がかかるが、早梛はこの髪を密かに自慢に思っている。念入りに手入れを終えると、次は身体を洗う。一日中動いたし、戦いもしたから、随分と汚れている。

 ゆっくりと湯船に浸かる。広々とした湯船を独り占めするのは、なかなか気持ちが好かった。

「……はぁ」

 そこで初めて、安堵の溜息が漏れる。《機関》に連れて来られてから約六時間。ようやく落ち着くことができた。

「ん、んん?」

 いまさらになって怪我や身体の節々が痛みだした。いままで気を張っていて、今日一日で思いもよらないことが目まぐるしく起きたこともあり、アドレナリンが分泌されていて気がつかなかったのだろう。身体が弛緩したことで脳内麻薬の効果が切れ、思っていたよりも戦闘で痛めていたことを自覚した。湯が染みて包帯が重く感じる。

「んー」

 凝った肩を揉み、腕を軽く回す。痛む箇所を一つひとつ入念にマッサージし、どうにか和らげようとする。

 今日一日で、何回も驚いて、二回も《ディヴィジョン》と戦って、人とも戦って、殺されるんじゃないかとか、実際死にそうな目にも遭った。様々なことが判明もした。《ディヴィジョン》のこと、仇の情報、自分の愛刀のこと。同時に、判っていないこともまだ多い。《機関》のこと、他国の組織や【魔女】の勢力図、そして、時幸のこと。

「あれは結局、何だったんだろう……」

 時幸が自身の腕を斬りつけたブレードには、《ディヴィジョン》を軽く傷つけただけで倒すだけの力が備わっていた。刀剣や銃弾に血をつけて《ディヴィジョン》を倒すのは《調律の彼女》にも備わっている力だ。しかし《調律の彼女》の血は対立する因子を持っている《ディヴィジョン》にしか効果がない。

 ――もしかして、ご家族を殺した相手の血を受けてから、そのような力が備わったのではありませんか。

 ――それは勘弁してやれ。代わりにあいつの血の染みたやつができただろ。

 ――ああ、だからユキくんが最初に気づいたのね。

 《調律の彼女》の持つ武器は、塗りつけた血が乾けばただの武器に戻る。《ディヴィジョン》を殺めることができるのは飽くまで彼女達の細胞なのだ。しかし、早梛の武器は仇を斬りつけて以来、その力が刃自体に宿り続けている。そして、琴羽と夏来が言っていた武器が今日のミッションで早梛が用いたブレードのことだとしたら、おそらく、時幸の血にも同様の効果があることになる。

 それに、《フィフスボーダー》の最期。噛まれた時幸ではなく、噛みついた《フィフスボーダー》の方が死んだ。おそらくは時幸の血を飲んだが故に。五型の《ディヴィジョン》を即死させられるのは五型の因子のみ。しかし、時幸の血を受けた刀で早梛が斬った個体がたまたますべて五型であった、とは考えにくい。

 彼はいったい何者? どうして、どんな経緯で《機関》に所属することになった? 現夜一期とはどういった関係なのか?

「おっ、空いてんじゃん。ラッキー☆」

 勢いよく扉が開き、現れた人物は、一目散に湯船に飛び込んだ。

 豪快な水しぶきが上がり、油断していた早梛はもろに被ってしまう。

「ぷはぁ」

 ばしゃばしゃと水滴を落とす。

「やだ、人がいたの⁉ ごめんなさい‼ ……って、あれ? あなた、もしかして、さなちゃん?」

 目の前の、せいぜい二十歳そこそこの若い女に会ったことはないはずだ。

 しかし、声に聞き覚えがある。

「……生天目さん、でしたっけ」

「やっぱり! さなちゃんだー‼」

 言うと、女……生天目はずずいと距離を詰める。思わず後退る。

「かっわいい! カメラで見てたけど本物もやっぱりかわいい! わー、わかーい。肌きれーい。ちょっと、二人とも早く早く、さなちゃんがいるよー!」

 そこで初めて、生天目が一人ではないことに気がつく。

 生天目が開け放したままの扉から、さらに二人の女性が入ってきた。

 一人は小柄な女で、胴に巻いたタオル越しでも判るくらい痩せている。感情に薄い表情で、大人げなく浴槽に飛び込んだ生天目を白い目で見ている。

 もう一人はいろいろな意味で対照的な女性だった。すらりと背が高く、起伏に富んだ体つきをしており、おっとりとした顔立ちは優しげだ。その顔には見覚えがある。

 零室で見た写真に、琴羽と、幼い時幸とともに写っていた人物だ。他の写真では、一期や時幸に瓜二つの青年とも写っていた。

「毬弥さん、お行儀が悪いです」

「右に同じ」

 背の高い女性が窘める。背の低い方も賛同した。

 予想していたとおり、二人とも聞き覚えのある声だ。

「こんにちは、神橋さん。松本です。……本当に、愛らしい方ですね」

「鳥海ですー」

「でしょでしょ、背もちっちゃくてお人形さんみたい! 髪もまっすぐできれーな黒髪だし。うち、くせ毛だから羨ましいよ。肌も真っ白で、柔らかくてきもちいい。あ、けっこうあるね」

 頬を両手で包み込むように撫でていた生天目が、どこを見ているのかに気づき、早梛は瞬く間に赤面し、首まで湯に浸かった。

「おやめなさい」

 笙香も湯に入り、二人のすぐ脇に寄った。

「まったく、初対面だというのに。可哀想に、怯えてるじゃありませんか」

「えー、うち、怖くないよ。とって食べたりしないよ。食べちゃいたいくらいかわいいけどさ」

 鳥海はマイペースに、ゆったり湯に浸かっている。

「ま、今日はお疲れ様。大変だったね、いろいろとさ。あ、ちゃーんと、下手人の証拠は鑑識に回したから! 明日には犯人特定できて、御縄についてるはずだから、安心して」

「すみません。わたし達がついていたにもかかわらず、このような事態になってしまって」

「あ、いえ。このとおり私は無事ですし、謝らないでください」

「お怪我は、もう大丈夫ですか」

「はい、私は。……時幸くんが、守ってくれたから」

「くう。ユキッペも大活躍だったね」

「ええ」

 笙香はゆるりと笑うが、ふと、眉を寄せた。

「けど、ユキさんも……止むにやまれぬ事態とはいえ、かなり危なかったですね」

「うん。ってか、あれ、研究部の部長が余計な条件追加しなければ負うことなかったリスクだよね。何考えてるのかな、あの人」

「研究部の人間は露骨でーすねー。貴重には思っていても大事にはしていないというかー」

「主任達は主任達で、人間扱いしてほしかったら人一倍努力しろ! ってかんじだし」

「問題は、ユキさんがその環境を当然のものと受け止めている点ですね」

「! やっぱり、あなた方もそう思いますか」

 早梛は思わず身を乗り出した。

「時幸くんって……時幸くんて、なんていうか、無茶しすぎですよね」

 守るためなら平然と身を削る、といった先刻の様子を思い出す。

 時幸のことは依然として判らないし、異質だとも思うが、怖いとも気味悪いとも思えない。それは今日一日共に過ごしてみて、彼がその体質に見合うほどには完成されていない、という印象を持ったせいだろう。

 言動には落ち着きがあり、急に慣れない環境に連れてこられた早梛を気遣って、リードしようとしていた。が、その様子は必死に背伸びしている少年に見えなくもなかった。戦闘で無茶し、怪我をした様子を見て、守らなくては、しっかりしなくては、とむしろ早梛の方が思ってしまったのだ。

 だというのに、彼の周囲は彼を粗末に扱っているというか、もう少し労わってもいいのではないか、というような態度ばかりとっている。時幸自身、それを平然と思い、強がりかもしれないが、あれほど出血した傷さえ大したことないと言ってのける。それがますます、放っておけない印象を与えもした。

「……時幸くんとは、長い付き合いなんですか」

 思い切って聞いてみた。時幸が三人のうち彼女だけ名前で呼ぶことといい、幼い頃の彼と一緒に写真に写っていたことといい、旧知の仲であるはずだ。何か知っているかもしれない。

「うん、しょーかちゃんはね。前部長がユキッペを連れてきたときからだから……」

「七年ですね」

 笙香はこちらをちらりと見遣った。

「うんうん、前部長は人格者だったね。性格はともかく、仕事はパーフェクト超人で、人望もあった」

「あの人はすごすぎですー。戦士としても交渉人としても桁違いですー」

「ええ。現夜さんは世界中を飛び回る敏腕エージェントだったんです。各国の政府や組織、ときには非合法団体とさえ交渉を行うこともありました。一般的には《ディヴィジョン》を相手どって都市防衛に尽力した人として有名ですが、彼の本領は対人交渉だったんですよ」

「しょーかちゃん、何度か一緒に仕事したことあるのよね」

「ええ。何度かご一緒させていただいたこともありますが、本当にすごい人でした。優秀で、豪快で、明るくて、奔放で」

 昔を思い返しているのか、笙香は嬉しそうに語りだす。

「そんな彼をサポートできるのは、やりがいがあって、嬉しい仕事でした。けど、同時にわたしでは力不足な部分がどうしても見えてきてしまって。やはり、彼の相棒はあの人しかいません」

 白い湯気が、高い天井に登っていく。

菊織(くくり)さんは、本当に素敵なオペレーターでした。優秀なだけでなく、エージェント一人ひとりのやり方に寄り添い、任務や状況に応じて一瞬で的確な判断ができた。特に現夜さんにとってはかけがえのない人でした。お二人は、相棒であると同時に、幼い頃からの無二の親友だったんです」

「でた。笙香の先輩自慢」

「こほん、本当にすばらしい人だったんですよ。公私共に。誰にでも優しい、あたたかな人でした。いつも穏やかに笑っていて、もめ事があるとやんわりと仲裁して、けど気が弱いわけではなくて、こうと決めたら貫く強さもあって。いつも自分より他人を優先して、ご家族思いで」

 早梛は、零室で初めて見た写真を思い返した。

「その人、零室の写真に写ってた人ですか」

「ええ。菊織さんのお写真は通信室より零室の方にたくさんありますね。お二人は、他の人には見せないような表情もお互いには見せていました。そんなときのお二人は本当にいきいきしていて、見ているこっちが微笑ましくなりました」

 ぱちゃり。笙香の顔から垂れた水滴が、湯船に落ちて跳ねた。

「だから、彼が亡くなったときの、現夜さんの絶望は計り知れませんでした」

「え……」

 笙香の顔は穏やかで、されども悲痛さを隠しきれていなかった。

 時幸の言葉を思い返す。そういえば、恋人と、親友も亡くした、と言っていた気がする。

「開戦と同時に最愛の人を失った現夜さんは、狂ったように働き始めました。昼夜を問わず《ディヴィジョン》と戦い、生き残った人間を纏め上げ、危険を冒して情報と物資を持ち帰り……それは人類の為というより、自分自身を削りきって、死に場所を求めるような、まるで自傷のような行為でした。そんな中でも菊織さんがいたから、立ち直ることができたんだと思います。少しずつ笑うことが増えて、周囲を思いやる余裕が出てきて、自分を大切にするようになって。以前とは違い、前向きに、いきいきと仕事をするようになりました。……けれど、そんな矢先に、こんどは菊織さんを失って」

 声が萎んでいく。

「菊織さんは、誰にでも優しい、日だまりのような人だったから……救えなかったことを、誰もが悔やんだ。特に、現夜さんの悲しみと後悔は誰よりも深かったと思います。無二の親友さえも失った、友の苦しみに気づけなかったと、今度こそ壊れてしまいそうだった」

 笙香は俯き、よろよろと首を振った。そう語る彼女自身、彼の優しさに触れ、その死を悼んでいるのだろう。

「……でも、ユキさんが来て、弟子としてあの子を育てるうちに、またいきいきとしだして。自分を責めるのではなく、菊織さんとの思い出を大事にして、生きていこうとしていました。彼自身が亡くなるまで、そうであったのだと思います」

 顔を上げ、弱々しく微笑む。

 ()()()()()()。その言葉が、泉に投げ入れた石のように重く沈んでいった。風呂に入っているというのに、背中にさぁ、と寒いものが行き過ぎる。

 ほとんどの写真の中、始終よそよそしさを浮かべていた青年。まるで世界中のあらゆるものに対し謝っているような顔ばかりした、美しい人。そんな、誰にでも好かれる親友を失い、自棄になり、狂ったように成果を挙げたという、写真では常に屈託ない笑みを浮かべていたはずの男性。

「ああもうっ、しんみりしない!」

 空気に耐え切れなくなったのか、生天目が腕を振る。水しぶきが起きて早梛を叩いた。

「ちょ、毬弥さん」

「もっと楽しい話しよ! ねえねえさなちゃん」

 ぐっと身を寄せる。

「ぶっちゃけユキッペのことどう思うよ?」

「は?」

 思わず、間が抜けてしまった。

「……そうですね……私にできることは少ないかもしれないですけど、彼だけに辛い思いをさせたくないなあって」

「やや、そうじゃなくてね」

 生天目が手を大仰に振ってみせる。また水面がばちゃばちゃいった。

「だってさ、今日一日ずっと一緒にいたわけじゃん? なんか進展あったのかなー、てさ」

「?」

 ますますわけがわからない。

「進展って……今日会ったばかりですよ?」

「だからね、時間なんてあんま関係ないと思うのよ。ってか……え? そういうパターン?」

「? ? ?」

「あっちゃあ、そっか、そうなのか~。これじゃユキッペ苦労するわ~。ってか、あの子だって初めてじゃないの? どうなの? やばいよ、あの子絶対奥手だもん。シャイボーイで紳士すぎて手も握れないパターンだもん。これは前途多難だわー」

「さっきから何の話をしてるんですか?」

 生天目は一人で何を盛り上がっているのだろう。

「つまりね、あの子だって男の子なわけじゃん。いや、あの子こそが()()()なわけよ。男の子じゃないと困るっていうか……いや、逆にそうだからこそ、現在のこの状況があるわけで」

「? わけがわかりません。時幸くんが男の子だと、都合の悪いことでもあるんですか」

「つまりですね、あなたがそれだけ魅力的な女の子である、ということですよ」

 笙香が口を挿む。

「? あの、全然話が見えないんですけど」

 なぜ時幸の話題から早梛の話になるのか、本人には全く理解できなかった。

 しかし笙香は、いたずらっぽく笑うだけで答えてはくれない。

「にしても、あの子がねえ。この間まで木刀片手に走り回ってる坊やだったのに」

「ええ。本当に。いつの間にか大人になっていくんですね」

 慈しむような眼差し。先ほど、一期や彼の相棒について語っていたときと同じようなあたたかさを感じた。

 釈然とはしなかったが、そろそろのぼせそうなほど温まりはしたので、お先に部屋に下がらせてもらう。

 愛刀をすぐ抜けるよう袋から取り出した状態で、ベッドの傍らに置く。

 すぐに倒れ込みたい衝動を堪え、まず屈伸する。肩をゆっくり回し、腰を揉み解す。

 横たわると眠気に抵抗する間は少しもなく、ただただ早梛は墜ちていった。



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