7‐5 悔悟
『いい加減にしろ。もう待てない』
苛立った青年の声に、湖麻由は振り返った。
「あら」
通信状況を表す波が、ウィンドウに浮かんでいる。そういえば中断したまま、
「すっかり忘れてたの」
『……~~っ』
声は聞こえないが、やりきれなさが伝わってきた。
勇気を振り絞って話しかけようとしていた早梛は、出鼻を挫かれ、呆然とする。
「あの子はどうしたの?」
『離脱した。後で命令違反として、コーラとイチジクを混ぜて飲ませる予定だ』
「ふふっ」
「……?」
響きからなんとなくドイツ語かな、とは思うものの、早梛には話の内容までは理解できない。
『……話の内容まで忘れてるつもりか』
「そんなことはないの。ちゃんと憶えてるのら」
【魔女】はスカートをぽんぽんと叩き、身を整えた。
「……それで? 新情報とはなんなのら?」
『……あの人が、俺達に遺した最後の依頼について。日本での極秘作戦のことだ』
「そう。それは確かに、わたしは知らない」
『……いまそこに誰がいる?』
「わたしと、あと二人」
『あなただけが聞くことはできるか?』
「一人はともかく、もう一人を移動させるには時間が掛かる。“青海波”の中だから、うまく選別もできないのら」
『そうか……後日改めて通信は可能?』
「今日中にはここを放棄する予定なの。他にも理由があるから、一所に留まるつもりはない。悔しいけど、テロリストの坊やよりも先にここを見つけていれば、こんな目立つことをする必要もなかった。どちらにしろ、あなた達とこれ以上慣れ合うつもりはない。ウッラと仲良くするつもりはないけど、余計な衝突は避けたいから」
『そうか。……《機関》にも一応記録されてるだろうけど……』
「さすがに二度目の潜伏は骨が折れるのら」
『そうか、なら……詳しいことは、××に訊くといい』
湖麻由が、ぴくり、と肩を揺らした。
「……わたしに×はいない」
『言葉が悪かった。イチゴの××に、だ』
相変わらず内容は判らない。だが……イチゴ。唯一聞き取れたその単語に、とっさに端末の録音装置を起動させた。ここで早梛が死んだとしても、記録が残るように。
「……ああ。……素直に話すとは思えないの。会いたくもないし。他に知っていそうな人は?」
『さあ。いや……もしかしたら、アベリツェフなら』
「似たり寄ったりなのら。……でも、まだましなの。他に情報は?」
『いや……』
本当にネタ切れなのか、それとも、出し渋っているのか。湖麻由は肩を竦めた。
「……悪いけど、それだけじゃ取引になんてならないのら」
『そんなっ……』
「じゃあ一つだけ教えてあげる。二年以内に×××が起こるわ」
『……⁉ 確かなのかっ』
相手の声に、焦るような響きが混じった。
「ええ。どの××が、かは内緒だけど」
それで通話は終わってしまった。
と。不意に、湖麻由が振り返った。とっさに身構える。
「――わたしだって」
そこで、初めて見せる顔をした。
唇を噛み締め、片方しかない眼で床を睨みつける。
自分の無力を嘆く、一人の人間のように。
「……できれば、自分の子どもには自分の人生を歩んでほしいと、願っていた。わたしみたいに振り回されることのない、わたしの都合も、他の誰かの都合も関係ない、幸福な生涯を」
胸を打たれた。目の前の人物には、先ほどまでの不気味さも、軽蔑も感じない。
見た目通りの、非力な少女の顔で。
精神通りの、人生に疲れた女の貌で。
「いまだってそう思っている。その気持ちに嘘はない。あの子の生き方を制限するつもりはない。でも……あの子じゃないといけないから。他の誰でもない、誰にでもできない」
本当は言いたくない、認めたくないのに。絞り出すようにして、口に出した。
「なんでわたしが、わたしの子がって、思いもしたわ。いっそ全部放り出してしまおうかって思ったこともあった。けどやっぱり、それはできない、してはいけないの。わたし達が諦めたところで関係がない。地の果てまで行っても、どこにも逃げる場所なんてない」
得体の知れない、触れられない、隔絶したはずの人物の。
剥き出しの、ほんとうの感情が、このときばかりは、垣間見えたように思われた。
だがそれは、すぐに掻き消されて、再び仮面の奥へと沈んでしまう。
「……眼を与えたのも、わたしの元で育てなかったのも、あなたにはわからない理由があってのことなの。そしてわたしは、それを教える気はないわ。赤の他人に」
話し過ぎた、と恥じている様子だった。これ以上の干渉を拒むためか、最後の一言には、どうしようもない断絶が込められていた。
それが、彼女だけでなく。早梛と時幸の間にも線を引くようで。
悲しいとか、腹立たしいとか。何よりも。
悔しくて、食い下がらずにはいられない。
「それ、って……」
「もう話は終わりなのら。わたし忙しいから」
ふい、と、顔を背けようとする。
「待って」
思わず、早梛は踏み出しかけた。
【魔女】はきっと睨みつけ、聞き分けのない他人の子どもを叱るように、吐き捨てた。
「……これ以上邪魔する気なら、わたしも容赦しないけど」
空気が重くなる。彼女の【眷属】が主の感情に呼応しているかのように。実際、湖麻由は苛立っていた。それまでの、どうでもいい、目の前の小娘など生死を含めてどうなろうと構わない、という様子をかなぐり捨てた。
【魔女】としての権能を振りかざし、早梛に明確な敵意を向けていた。
やろうと思えばそれこそ、あっさりと殺されるだろう、という予感はある。怖いとも思うし、死にたくないとも思って、謝りたくなる。
けど、目を逸らせない。逸らしたくない。
逃げてたまるか、という意地がある。時幸と相棒でいるために、この人との対峙は避けて通れないという、確固たる意志が芯のように、彼女をいまこの場に立たせている。
その一方で……触れられたくない、近寄らないで、と、むしろ湖麻由の方が怯えているようにも、思われた。
そっとしておきたい、と、早梛自身の希望も含めた逡巡が過る。同時に、それ以上に。
放っておけない、という、目の前の相手に対する……自分を殺すかもしれない相手に対して、ある種の心配のような気持ちが芽生えていた。
一触即発。ほんの僅かな弾みで、少女の命は花のように摘み取られる。そんな、凍えたプレッシャーに。
罅を入れたのは、同じく凍てついた声だった。
「動かないで」
同時に、撃鉄を起こす、微かな音。
「早梛さんに、近づかないでください」
冬湖のように揺らぐことのない瞳と銃口を、自らの母親に向けて。
時幸が、そこにいた。




