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*第三章*

 時幸がどこかに――おそらく、彼の言っていた研究者だろう――電話を掛けてから数分後。自然公園の出口で待っていた二人を、《機関》の車が迎えに来た。運転してきたのは、先ほどの古坂と、早梛に転ばされた部下のうちの一人だった。

 表向きは平静を装ってはいたが、二人とも怒っているのは明白だった。

 そんなことは噯にも出さず、お互いに事務的な会話を交わす。時幸は自分より年齢も、おそらくは立場も上の二人を相手にしても堂々と接し、早梛の持ち去った角の所在や、今後の早梛の処遇などについててきぱきと話を進めていく。

 話が終わり、時幸が後部座席を開けて早梛を促す。いまさら逃げる理由も気もなかったので大人しく乗り込む。刀は抱いたままだ。

「ああ、そうだ」

 シートベルトを締めたところで、運転席に乗り込んだ古坂が、後ろ手でアイマスクを差し出した。

「《機関》の所在地は秘匿されていますので、窮屈とは思いますが装着ください」

 受け取りはしたものの、アイマスクを見て顔を顰める。付けること自体に抵抗はない。だが、それは思わず躊躇してしまう代物だった。

「新品なので衛生面に問題ありません」

 古坂が急かすように付け足す。どうやら、装着しない限り発進しないらしい。

 早梛は手に持った、特撮ヒーローの目元がプリントされたアイマスクを見つめる。百円ショップで売っているような、コミック絵のプリントされたものよりかはましかもしれないが、よりにもよってどうしてこれを差し出されたのだろう。救いを求めるように、隣に座る時幸を見る。……なぜか物欲しそうな顔をしていた。

 気のせいだろう、と思い、観念してアイマスクを装着する。ゴムを耳に引っ掛けるタイプなので、髪を持ち上げずに済んだ。

 エンジン音が響き、車が走りだした。低調なクラッシックが車内に流れる。聞こえる音によって場所を特定されないためだろう。

 不意に、この状況に不安を覚える。目隠しをされ、大して知らない人々に知らない場所に連れていかれるのだから、緊張しない方がおかしいのかもしれないが。右手に持った刀をぎゅ、と握る。

「……主任はかなりお怒りの様子なので、覚悟しておいたほうがいいですよ」

 微かにハンドルを繰る音をさせながら、古坂が言った。

「まあ、そうでしょうね」

 空いた左手に、他人の体温が触れる。触れられたときには少しびくりとしたが、すぐに慣れた。初めて触れた時幸の手は冷たく、すべすべしていた。

 時幸の言い方が気に障ったのか、古坂はわざとらしい溜息を一つ吐く。

「簡単に言いますけれどね、ユキ。きみはこの数日で《機関》の規定に反することをいくつも行っているんですよ。いくらきみの協力で我々が助かっているとはいえ、さすがに見過ごせません。仮にもエージェントを目指すのであれば、きみはもう少し自覚を持つべきだ。でないときみは、いつか研究部のおもちゃでしかなくなる」

「わかってます」

 きゅ、と、軽くではあるが、早梛に触れる手に力が籠る。

「師匠が俺の立場と権利のためにいくつも危ない橋を渡ってくれたことも、師匠が死んだ後も夏来さん達が変わらず『協定』を守り続けていてくれるありがたさも。けれど、俺が目指しているのは《機関》に貢献することじゃない。俺は飽くまで俺の目的のために上を目指しているに過ぎない。エージェントになるのは、そのための手段でしかないんです」

「わかっていますよ、きみの気持ちは。しかしね、あんなかたちで前部長が亡くなって、悔しい思いをしているのは特務部の誰だって同じです。でも、だからこそ、前部長が遺した教えを全うしなくてはならない。きみは若すぎる」

「それはどこまで本心なんですか」

 早梛には何も理解できない話だった。けれども、時幸の言葉に熱が籠っているのは感じられた。早梛に対して冷静に、細やかに対応をしていたときとは大違いだ。

「別に、《機関》にこだわる理由は俺にはありません。ただ、いままで築いてきたものと、師匠のコネが使いやすいというだけで。俺をエージェントにしたくないというのなら、高跳びして《赤の帝国》なり《薪の塔(グレーテル)》なりに身売りしますよ」

 古坂は再び、溜息を吐いた。

「わかってますか。その場合、きみが何を取引材料にしても、《機関》で受けていたような待遇をけして受けられないということを」

「ええ。けれど、エージェントになれない、するつもりがないというのなら、《機関》に留まっているよりましでしょう」

「誰もきみをエージェントとして認めない、とは言っていません。言葉どおりの意味ですよ。きみは世間も身の程も知らなさすぎるガキだ」

 それきり、古坂は口を利かなかった。時幸も何も言い返さなかった。子ども扱いされて拗ねている、というのもあるだろうが……手に合わさった体温は早梛に、心が壊れんばかりの悲痛を訴えているように思えて、ならなかった。

 二人が何を話していて、どうしてこれほど――表面上はお互いに静かとはいえ――感情的になっているのかわからない。それに《赤の帝国》や《薪の塔》といった、聞き覚えのない単語も出てきた。どうして、まだ十代の少年でしかない時幸の協力で「助かっている」のか、彼が「研究部のおもちゃ」とはどういうことか。早梛の中で、疑問と仮説が幾つも浮かび上がる。いや、それについても気になるが……。

 この二人が、共通して抱いている感情がある。怒りと悔しさ。そしてそれは、現夜一期の死に起因している。そこまではわかったが、いかんせんいまは情報が少なすぎる。

 早く目的地に着けばいい。早梛の求める答えはそこにある。


 鈍いエンジン音の響きが僅かに変化する。トンネル、或いは屋内駐車場に入ったらしい。 不意に停車。数秒後にまた発進。そしてすぐにまた停止した。エンジン音とクラシックが止む。着いたのだろうか。アイマスクをしたまま首を巡らせると、

「早梛さん」

 名前を呼ばれて飛び上がる。

 最後に時幸の声を聞いたのは昔のことではないはずなのに、車中がずっと無言だったせいか、突然のことについ驚いてしまった。

「到着したら、俺は待ち受けている女性に半殺しにされますが、然るべきペナルティなので気にしなくて大丈夫です」

「へ?」

「ただ、驚かれるとは思うので、先に言わせていただきました」

「え、いや、ちょっと」

 古坂の溜息が聞こえる。そこで気がついた。

 車は停止したままだ。だが、動いている。浮遊感と、身体の芯が下に引っ張られるような感覚。ゆっくりと、車ごと降下している。

 十九年前の《ディヴィジョン》襲来において、奴らが真っ先に現れたのは地表、次いで空、最後に地下だった。事実、当時地下にいた人々の被害は地上にいた者のそれをかなり下回ったという。いまでこそ地下から都市に侵入する《ディヴィジョン》は増加したが、それでも壁の隙や天空から都市に侵入する個体に比べると少数であり、故に政府の主要施設や国営の避難シェルターなどはもっぱら地下に設置されている。

 《機関》の施設もまた、奴らの侵入しにくい地下に在ったとしても何らおかしくない。いや、むしろ、いままで《機関》の施設が都市に暮らしている人々に全く認知されなかったことを鑑みれば、地下にない方がおかしいだろう。

 ガタン、という大きな音がして、降下が止んだ。ドアが開錠する音。

「もう外してもよろしいですよ」

 古坂の低い声が響く。

 おそるおそる、アイマスクを外す。隣で時幸がシートベルトを外し、車外へと出た。車を回り込み、早梛の側のドアを開ける。シートベルトを外し、促されるままに外に出る。

 一瞬、眩しさに目が眩む。地下とは思えないほど光に満ちた空間だった。高い天井から煌々と人工灯の光が降り注ぎ、壁と床に反射する。車の正面に飾り気のない扉が一つある。

 同じく下車した古坂が、扉横のパネルの前に立つ。静かなモーター音とともに、扉が開く。

 扉の向こうは対照的に黒い空間だった。暗いのではなく、黒檀のように艶のある黒。

 さらに広い場所だった。部屋というより、講堂、或いは体育館を思い起こさせる。壁には幾つものケーブルが蔦のように這い、天井は高いのと暗いのとでよく見えない。どこからか、ゴウンゴウンという、何かの装置が駆動するような、腹に響く音が聞こえる。一定間隔で床に嵌め込まれたパネルから、朧月のように明るいけれど曖昧な光が零れ出て足元を照らしている。正面に巨大な扉があった。金曜日の宵頃にテレビで放送される数年前のSF映画に出てきそうな、円形で中央が窄んだ扉だ。

 その扉の前を陣取るようにして、一つの人影が待っていた。

 細身のシルエットから、女性だということが判る。上下揃いのスーツを着こなし、背筋をまっすぐ伸ばし、こちらを見つめている。遠目からでも、きれいな人だということは窺えた。だが……それ以上に、彼女が放つ並々でないプレッシャーが、辺りの空気を重々しく支配している。

 と、向かって右方向で動くものがあった。そちらに目を向けて初めて、扉は一つではないのに気がついた。円く切り取られた空間から、白衣の一団が現れ、歩いてくる。

 時幸は彼らと二言三言言葉を交わすと、こちらを示した。

「早梛さん、刀を」

「え、あ、うん」

 おそるおそる、研究者に刀を預ける。軽くなった腕の中に、不意に不安が沸き起こる。

「では、お預かりしました。検査が終わりましたらお返しします」

「よろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げる。

 研究者が去ると、時幸は唾を飲み込み、正面の扉へと歩きだした。早梛も後へ続こうとして、傍らに立った古坂の部下に阻まれる。ぎょ、として見上げると、大の大人が露骨に怯えているような、なんとも渋い顔をしていた。

 時幸と女性の距離は縮まっている。3メートル、2メートル、1メートルまで来たところで、

 何の前振りもなく、女性が蹴りを放った。

「時幸くん⁉」

 しかしこれは予想していたらしい。時幸は身を翻して右に避ける。しかし間髪入れず打ち込まれた鉄拳が、横っ面に炸裂する。耐えきれずたたらを踏んだところに足払いを掛けられ、バランスを崩したところでハイヒールが鳩尾に深々と突き刺さる。時幸の喉からくぐもった唸りが漏れた。

 とっさに駆けだそうとした早梛は、しかし腕を掴まれて急停止を余儀なくされる。

「放して! 止めないと」

「いいから! きみまで巻き込まれるぞ!」

 緊迫した物言いにびくつき、足が止まる。

 なおも女性の攻勢は留まることを知らない。爪先で背中を蹴り上げた。時幸の身体が跳ね上げられ、吐き出された唾液が宙に飛び散る。それでも一切の容赦をせず、はたき飛ばず。少年の身体は吹っ飛び、床に叩きつけられて数回バウンドした。

 女性の動きが一瞬止まり、早梛は息を吐く。が、その呼吸が止まる。まさしく息を飲み、中途に止まった酸素が喉で暴れ回った。

 肩を怒らせた女性の手には、拳銃が握られていた。床を蹴り、一跳びで力なく横たわった時幸に馬乗りになり、腹に銃口を押し当てた。

「――駄目‼」

 今度こそ駆けだそうとした早梛を、古坂の部下が渾身の力で引き戻す。

「放して! 時幸くんが、時幸くんが殺され」


 ターン、と。

 銃声が木霊する。


「命令違反!」

 空気そのものに突き刺さるような声だった。

「及び、未許可情報の不当閲覧! 機密情報の破却、独断行動、武器の不許可持ち出し、警告無視、同行拒否!」

 一つ言う度、広すぎるほど広い空間に銃声が響く。

「暴行、逃亡、指名手配者の逃走幇助!」

 一際強い音が響き、女性はやっと動きを止める。荒い息で立ち上がりざま、ぐったりした少年の胸倉を掴んで引きずり起こした。

 息遣いの音が聞こえた。胸が自発的に上下している。時幸は……生きている。

「時幸くん!」

 安堵と驚愕の混じった悲鳴を上げる。

 女性は乱暴に手を離すと、ふらふらと、それでも自力で立ち上がった時幸を睨みつけ、

「~~~~~~やっぱ殴ってやるぅ!」

 顔のど真ん中に右ストレートを叩き込んだ。

 その途端、ぱっと腕が放された。一目散に少年の元に駆け寄ると、女性との間に壁を作るように立ち塞がった。

「やめてください!」

 喉の奥から絞り出すようにして叫んだ。こんな大声を出したのはいつぶりだろうか。

「時幸くんが何をしたっていうんですか。彼が何かしたとしたら、それは私のせいです。悪いのは私です、私を殴ってください!」

 早梛の声は裏返っていた。興奮で息が上がっている。

 殴られたのも、殴ったのも早梛ではない。彼女ではない、はずなのに。

 頭に血が上っている。顔が火照っている。目が潤んでいる。

 ひしひしと、自分がしてしまったことを思い返す。

 目の前の女性が怖い。けれど、時幸がこれ以上傷つくのは嫌だ。

 肩を震わせる早梛の、心を静めたのは。

「大丈夫です」

 背後からの声だった。

「え」

 振り返ると、取り出したハンカチで鼻を抑える時幸がいた。案外、というか、けっこう元気そうだ。拍子抜けして、いままでの威勢はどこへやら、実に間抜けな顔で少年と、目を瞑って息を整える女性とを見比べる。

「殺気があったら、俺は最初の一撃で死んでました。骨は折れてませんし、撃ったのも空砲ですから。……痛いのとはまた別ですが」

「ええ……」

 女性は、乱れた髪に挿さっていた簪を抜くと、手櫛でさっと整えてから挿し直し、早梛に向き直る。

「もちろん、きみにも後でペナルティは与える。だがいまはそのバカの言い分を聞こう。バカはバカさゆえにバカをしでかした、故に罰する。本来ならそれこそ一回くらい殺したいところだが、もう一人のバカが『殺すなら肋骨二、三本摘出してからにしてよね~』とかほざいたから嫌。あいつの言いなりになるのは気に入らないしな」

「……問題ありません。琴羽さんは厳しいですが公平な女性です。事前の約束どおり、こちらから連絡を取った場合以外では監視も追跡もしないでいてくれました」

「はっ」

 女性は鼻で息を吐いた。

「これで終わったと思うなよ。直属の上司としての罰は与えたが、しでかしたことの後始末は自分で行ってもらうからな」

「わかっています。データは一定時間後に自動復元されるようにしておきましたし、【四位眷属】の欠片についても犬養(いぬかい)さんが回収に向かってくれています。もちろん、ここまで連れてきた彼女のことも、俺が最後まで責任を持ちます。任せて――もらえますよね」

 呆れたように肩を落とす。

「構わんさ。また取り上げて同じことになるのは嫌だからな。だが、古坂達をすっ転ばしたことについては後で別にペナルティがあるからな。私の部下だったら、おまえみたいな半人前に転ばされた時点で鍛え直しだが、あいつらは江川(えがわ)の部下だ。処罰の内容は奴にも相談して決める」

「はい」

 そこでやっと、女性は早梛に向き直った。

「挨拶が遅れたな。きみのことは知っているよ、神橋早梛。私は梅島(うめじま)琴羽。特務部監督主任にして零室室長、そこのバカの上司だ。先ほどは身内間の見苦しいところを見せたな。だが、こいつにはまだ問い糺さなくてはならないことがある。悪いが、少し時間をもらおうか」

 そう言って、琴羽は横目で時幸を見る。

 時幸は頬を掻き、当てっぱなしだったハンカチを外す。出血したのか、赤いものがついていたそれをさっとしまう。

「お約束どおり、俺の権限でお話しできることはお話ししますので、先に部屋で待っていてもらえませんか。案内は……」

「もう来てる」

 琴羽は顎をしゃくった。同時に、正面の扉が仰々しい音とともに開き始める。扉の向こうにいた人物が一礼し、「こちらへ」と早梛を促す。躊躇いつつも扉を潜る。振り向くと、時幸が手を振った。機械音とともに、扉が閉まった。


「……さて」

 早梛の姿が見えなくなると琴羽は再びただならない威圧感を放って時幸を射すくめる。

「遺言は守ってやらんから好きに喚け」

 と言いつつ、先ほどまでの怒りは感じられない。いや、琴羽はいつも冷静だ。先ほどだって、怒りはもちろんあっただろうが、銃は弾が抜いてあったし、蹴りも拳も時幸の身体に数日癒えぬようなダメージは与えていない。飽くまで冷徹に、琴羽は時幸を必要最低限だけ痛めつけていたにすぎない。

 それを時幸が甘んじて受ける義務はない。罰であろうと痛いことは回避していい。それが昔からの、時幸と琴羽、そして一期のルールだ。それを踏まえた上で、琴羽は時幸の退路を塞いだ。さすが、現特務部部長、九岡真澄(ますみ)と並び、あの現夜一期直々に鍛えられた実力者である。主任は伊達ではない。

「先輩が手塩にかけたおまえが、凡ミスばかりか命令違反、ハッキングに古坂すっ転ばしとはね。哀しいよ」

 琴羽の声音には、しっとりした響きがあった。哀しいのはほんとのことだろう。

 時幸はプライベートな会話では打ち解けた面も見せはするが、任務や命令に対しては生真面目といっていいほど誠実で、勤勉、忠実だった。幼少期から教育に携わってきた琴羽から見ても優等生、昔のままの表現を用いるのならば、いわゆる「良い子」だった。そんな時幸がこれほど大それたことをしでかしたのだから、その落胆はエリザベートと結婚するとルドルフ2世に告げられた皇太后ゾフィーに匹敵するほどだろう。理由が知りたくなるのは当然のことだ。

「……なぜか、と問われますと……はっきり言って、自分でもよく、わかっていません」

「この期に及んでふざけたことを抜かすね、おまえ」

「ただ、」

 ふ、と琴羽の表情が変わる。

「初めて会ったときに、思ったんです。これで『終わり』にしたくないって。あのとき見逃していなかったとしても、或いは素直に命令に従っていても、あの人との関係はそれで打ち止めになってしまうと感じていました。それがとっても、嫌だったんです」

 空を仰ぐ。高すぎて天井は見えず、闇が蓄積しているだけだ。それでも少しだけ、清々しい気分だった。

「俺が自分で見つけて、もっと話してみたかったんです。他の誰かに委ねたくない、渡したくないって、思ったんです」

 自分でも何を言っているのかわからなくて、照れ隠しに、息を吐き出しながら笑う。

「おかしいですよね、こんなこと……」

 しかし、振り向いて見た琴羽の顔は、少しも笑っていなかった。怒ってもいないし、失望しているようでもない。

 目と口をぽかんと開き、有体にいえば、埴輪みたいな顔をしている。彼女との付き合いはけして短くはないが、初めて見るそんな表情に、時幸の方が引いていた。

「……一周回ってやっぱむかつく」

「へ?」

「ユキのくせに!」

 そう言っていきなり、頬を抓られる。

「いたたたたたた」

「ふんっ」

 琴羽はぷいっと顔を背けると、力任せに手を放した。

「いた―――っ、なにするんですか!」

「知るか、ガキ」

 琴羽は腕を組み、ぺっと吐き捨てるように言った。

「もういいっ、処罰については追って知らせる。そんなに会いたいなら会いに行ってやればいいだろ。ほら、さっさと行けよ」

 そして、半ば足蹴にするようにして時幸を追い立てた。


「……まさかこんなことになるとはな」

 肩を竦める。

「古坂、聞いたか? あれだけ軽率なことをしでかした動機が、『他の誰にも渡したくなかったから』だそうだ」

「ええ。……今回の彼の行動は、後々《機関》に戻るつもりなら随分不可解な点が多かったのですが、一応納得はできました」

「少し前まで子どもだと思ってたのに、男の子の成長は早いっすね」

 その場に残された古坂と部下は、渋い顔を見合わせた。

 《機関》の最要注意人物が離反するかという最悪の事態が、まさか「そんな理由」で引き起こされかかったとは思いもよらなかった。

「なに、まだまだ手のかかるガキであることに変わりないさ」

 琴羽は懐から煙草を取り出し、火を点けた。紫煙が緩く空を漂う。

「本人も無自覚のようだしな。ま、けど、斜め上ではあったが、最悪の予想が当たらなくてよかったよ。あいつに関しては可能な限り『人並み』に扱ってやりたいからな。それが先輩……あいつの師匠との、()()()()()()()だからな」

「現夜、一期……」

 かつて自分達の上官であった男の名を呟く。

「……あれからもう、三年ですか」

「ああ。そして今日まで、何の進展もなし、だ。だが……」

 琴羽はゆっくり、煙を吐き出す。

「いい加減、埒が明かないと思ってな」

 そしてにっこり、朗らかな笑みを浮かべて見せた。

 扉の向こうはまた広い空間だった。そのあまりの広さにしばし茫然とする。

 ただっ広く真っ白いその空間は、幾つもの部屋に区切られていた。早梛達のいる通路を挟んで左右に、八畳ほどの部屋が等間隔でずっと奥まで連なっている。どこの部屋も壁が硝子張りで、ブラインドが下がっている部屋もあるが、殆どの部屋の内部で、人工灯の下、大体数人から十数人が詰めかけていて、慌ただしく作業しているのが窺えた。逆に部屋の内から早梛を覗き見る者もいて、晒されているようで落ち着かない。

 そんな早梛に構わず、先導する女は無言で歩を進める。気がついた早梛が慌てて後を追う。

「あの、えっと……」

新堂(しんどう)侑生(ゆい)です」

 ずっと無言だった女が固い口調で短く答えた。

「あの、新堂さん。どうしてここは」

「地下だと気が滅入る、という者もいますので、開放的なつくりとなっています」

「ああ、そうなんだ」

「《機関》の本部はここ東日本一区に置かれていますが、本拠地だけでもかなりの広範囲に広がっており、地上にも施設が建てられています。さらに一部の地下施設の中には都市の外まで伸びているものもあります。探索任務、そして危険な実験のために」

「危険な実験?」

「研究棟はここからはかなり離れています。機密情報を外部の人間の目に触れさせるわけにはいきませんから」

「なるほど、わかりました。けど、」

 と、左右を見回す。

「ここも、外部の人間に公開したらまずいんじゃないんですか」

「ここから無事に出られるとでも」

 足を止める。

「冗談です」

 全くそうは聞こえなかったが。

 ここは《機関》の内部、そして早梛はいま丸腰、ということを思い出した。国内における《ディヴィジョン》討伐についての武器と情報の独占により、政府にさえ強い姿勢を貫ける《機関》だ。本拠地で起きた事件の一つや二つ、簡単に揉み消せることだろう。

 いざとなったら目の前の女性を人質にとることも視野に入れなくてはならない。そこまで考えて、女性を観察する。一見身が薄く頼りなさげだが、身体の軸がまっすぐ定まり、歩いていても少しもぶれることがない。武術的な身体運びというより、経験がそうさせるタイプの動き方だ。もしかしたら戦い慣れしているのかもしれない。

「この棟は特務部の中でも端に位置します。ここで得られる情報は雑多な上に誤報も多い。問題ないかと」

「へえ」

「とはいえ部外者を招き入れること自体稀なのですが。……あれが、余計なことさえしなければ」

「……へ」

 前を行く新堂は振り向かない。だからいま彼女がどのような表情をしているのか、早梛には窺い知るすべがない。

「あなたを案内した古坂は特務部七室に所属します。本来違反者の追跡、拘束の担当ではない。とはいえ、上層部も現在人手不足ではありますし、何より油断していたのでしょう。あれに関しては従順だと思っていましたので。いえ、むしろあれ自身のためにも従順であってほしかった」

「何の話ですか」

「失礼。私事でした」

 新堂は半分だけ振り向いた。能面のような表情だ。眉下で切り揃えられた前髪、糸のように細い目。顔立ちも相まって、何を考えているのか見当がつかない。

「《機関》の施設はあちこちに伸びているため、出入り口も複数ございます。先ほどの出入り口は、零室に最も近いという理由で使用されました」

「零室?」

「ここです」

 いつの間にか通路の端に来ていた。突き当り、向かって右側の部屋を示される。

「しばしお待ちください。エアコンは自由に利用して構いません」

「はい。……ありがとうございます」

 おずおずと様子を見る。部屋の中は無人だった。向かいの部屋はどうやら物置らしい。

 部屋に入ろうとすると、新堂が留まってじっと見つめていることに気がつく。

「あの、何か」

「……《調律の彼女》になりたいのですか」

 唐突に問いかけられる。

 そしてその答えを聞くより先に次の言を吐かれた。

「やめておきなさい。失うものは多々あっても、得るものは何もない」

 言うだけ言うと、新堂はさっさと通路を戻っていった。

 早梛はしばし呆気にとられていた。引っかかりを覚えたが、とりあえず硝子の扉を開け、足を踏み入れる。

 デスクと椅子が三組、歪な三角形を作るように並んでいる。うち一組は明らかに使われていない。デスクにも椅子にも付箋だらけの紙束や、よれよれの上着が乱雑に積み上げられている。もう一組は片付いてはいたが、前時代的な固定電話が一つと数冊のファイルが置いてあるだけで、やはり長らく使用者がいないか、いてもあまり使われていないようであった。

 残り一組はよく整頓され、またよく手入れされているのが窺えた。中央に畳まれた状態のノートパソコンが置かれていて、その後ろのブックエンドにはファイルやノートが並び、筆筒には無個性な、それでいて使い込まれたペンや定規がきっちり収まっている。その横に一つ、写真立てがあった。いまの時代にプリントされた写真というのも珍しく、目に留まったそれを、ふと持ち上げる。

 なんてことはない。ただの記念写真のようだ。写っているのは三人。

 向かって右端の人物は男性で、カメラというよりも一緒に写っている二人に向けて笑いかけている。二十代前半ほどだろうか。快活な、茶目っ気のある笑みだ。

 左にいるのは同年代の女性で、男性に負けないくらい明るい笑みを投げかけている。二人は、中央にいる人物の肩を抱くようにして腕を組んでいる。まるで、真ん中の人を抱きしめるように。

 心の底から楽しそうな二人に挟まれてはにかんでいるのは、控えめに言っても美しい人だった。両脇の二人も整った顔立ちだとは思うが、それでもなお彼は目を引く。白くきめ細かい肌。艶やかな黒髪。困ったような表情を浮かべる、深く濃い、円い瞳。モデルや芸能人のように華のある美形ではないが、そこにいるだけで心安らぐような、そんな落ち着いた雰囲気を持つ人だった。

 見覚えのある顔立ちをした、会ったことのないはずの人。早梛の目は彼に釘づけになった。

 ふと顔を上げ、小さく歓声を上げる。

 一方の壁、隣室とは反対側がホログラムスクリーンになっており、そこには所狭しとばかりにデジタルフォトが並んでいた。思わず駆け寄って眺める。

 二十歳の時幸が写っているものは少なく、左にいた女性の写るものはさらに少なかった。二人が写っているものにはほぼ、右側の男性も同伴していた。

 青年は、一枚を除きどの写真でも申し訳なさそうな表情をしていた。笑っていてもどこか遠慮をしている。唯一、夏場だろう、右側の男性がホースで勢いよく水を撒いている写真でだけは、それまでの寂しさの一切ない、心からの笑みを浮かべているようだった。ずぶ濡れになって笑い合う二人は楽しそうで、見るからに仲の良い友人同士のようだった。

 右側の男性が写るものは多くあったが、一緒に写っている人物は多種多様だった。柔道着を纏った集団。エンジニアらしき初老の男。研究者と思しき白衣の一団。多くの子どもを連れた夫婦。そのすべてと良好な関係を築いているのは明白だった。男性は屈託なく笑っていた。そういった写真にはもう、左の女性は写ってはいなかった。

 早梛の目が、ある一つの写真の上で止まる。木刀を担いで勝ち誇った笑みを浮かべる男性。その足元で、ぶすくれた表情を浮かべる小さな男の子。整った顔立ち。艶のある黒髪。深く、大きな円い瞳。

 いまよりも六歳ほど幼い時幸の姿だった。

 見回すと、幼い時幸はあちこちの写真に登場していた。若く、現在の険しさのない、新入社員のように初々しい琴羽と写っているもの。研究者の集団に抱えられ、泣きべそをかいているもの(注射でもされたのかな?)。背の高い、静かな眼差しをした女性の横で、ピースサインを向けているもの。特撮ヒーローらしき決めポーズを、写真に写る全員(殆どが成人男性)で真似ているもの。愛らしさに頬が綻ぶと同時に、胸の中に暗いものが立ち込めていた。

 琴羽と背の高い女性が並び、二人の真ん中であどけなく笑う時幸。その隣の写真では、同じ女性二人と、男性と……やはり困ったような顔で、青年が笑っていた。

 飾られた写真のうちどれにも、青年と時幸がともに写っているものはない。まるで、同じ時代には存在できないように。まさか、と思いかぶりを振る。写真の中で若返ることはあっても、年をとる、などということはありえない。

 気になることはもう一つあった。どの写真でも大抵、時幸は「大人」と写っている。同年代の子どもがいる写真もあるが、そういった写真には、その子の親らしき人物もいた。時幸だけが、倍以上の年齢の大人達の集団に紛れ込んでいる。それが、かなり歪に思われた。手元の写真を見る。仲の良い友人同士が肩を並べているようなこの写真と、いかにもエージェントや研究者といった集団の中心にいる幼児の対比。不自然に思えてならなかった。

「あなたは、何者なの……」

 ほぼ中央にある、一際鮮やかな写真を見る。

 真新しい制服に身を包んだ時幸と、傍らにしゃんと立つ琴羽。高校入学時の写真らしい。周りの写真のような笑みはもう浮かべておらず、高校入学で緊張していることを差し引いても険しい目つきをしていることは明白だった。まるで何かに挑むように。或いは、何かを奪われた直後のように。その顔は、心なしか、青年の薄暗い笑みに近づいているようだった。

 僅かにノブの軋む音がした。

 振り向くと、いましがた見ていた写真の人物が全く同じ格好で入室したところだった。

「すみません、遅くなりました」

 抱えていた資料の束を手前の机の端に置くと、写真立てがないことに気づいたのだろう。早梛に駆け寄り、手元を覗き込む。右側の人物を指し示す。

「師匠です」

「師匠って……あなたの?」

「ええ。現夜一期。《機関》創立メンバーの一人であり、初代特務部部長。琴羽さんは直接指導した後輩だったので、一緒に写る写真が多いですね」

 壁一面の写真を振り仰ぐ。

「面倒見が良かったので特務部からは慕われていました。立場上、研究部や政府とも付き合いがありましたし。性格は……まあ、少しだけ、難ありの人でしたけれど」

「へえ」

 改めて、写真を見比べる。《機関》の重鎮、凄腕のエージェント、人類の守護者。仰々しい肩書の数々と、いたずら小僧のように笑う人物とは、正直ちょっと結びつかない。

「俺の知っているあの人はいつも笑顔でしたけれど……恋人と親友が亡くなられた頃は、荒れていたそうです」

「もしかして……この二人」

「察しがいいですね」

 そう言って、時幸は左端の女性を示す。

「師匠の恋人は、十九年前に亡くなりました」

「十九ってことは……《ディヴィジョン》との戦争が始まった頃ね。……その人も、殺されて?」

「いえ」

 かぶりを振る。

「十九年前、ちょうど()()()()()()()()()()《ディヴィジョン》()()()()()()()の瓦礫の下敷きになって」

「……え?」

 さらりと、とても重要なことを口走った。

「ま、待って」

 身を翻した時幸の後を追う。

「それってつまり、《ディヴィジョン》は《機関》の施設で、人間の手で作られたって、認めたってことでいいのよね! そうなんでしょ、やっぱり」

「いいえ」

 向こうの部屋の人が、ふとこちらを見たのが窺えた。

「《ディヴィジョン》を作ったのは《機関》ではありません。正確に言うと、人間が作ったものではありません。……ですが、人に原因があるのも間違いではありません。《ディヴィジョン》がいかにして生まれたかについては、日本では《REIMEI》……《機関》の前身となった組織と関わりがあります」

 椅子を引いて、早梛に勧める。

「《REIMEI》? 日本では?」

「はい。ですから、奴らの弱点が初めからある程度判っていたんです」

 半ば被せるように早口で言う。

「《ディヴィジョン》と一括りに纏めてはいますが、奴らは八つの種類(タイプ)と五つの階級(クラス)に分けることができ、同時に、タイプごとに対立する性質を持っています。相反するタイプの、より上位の因子によって《ディヴィジョン》は完全に滅することができます。個体ごとに千差万別の《ディヴィジョン》ですが、この法則は絶対に共通します」

「……つまり、《ディヴィジョン》には生来の共喰いの性質がある?」

「ええ。《機関》から《マイナー》に支給される武器には、それぞれの《ディヴィジョン》から抽出した素材が用いられています。だから、一口に《マイナー》や《調律の彼女》といっても、すべての《ディヴィジョン》に対抗できるわけではなく、相性によって得手不得手がある」

「待って」

 同時に幾つもの疑問が沸き起こり、早梛はとっさに待ったをかけた。一旦頭の中で情報を整理し、一番気になった疑問を口にする。

「じゃあ、生身で奴らに対抗できる《調律の彼女》は、どうなの」

 先ほどの戦闘を思い返す。支給されていた武器を使っていた男性と違い、《調律の彼女》は自身の血液や唾液など、身体そのものを使って《ディヴィジョン》にダメージを与えることができた。それは、つまり。

「《調律の彼女》っていうのは……調整手術っていうのは……《ディヴィジョン》の細胞を、人間の身体に取り込むっていうこと、なの」

 時幸は、黙って首肯する。

「非人道的と思われるかもしれません。しかし、そうせざるを得ないわけがあるんです」

「人類が奴らに全く対抗できなくて、たくさんの人が死んで、いまでも狭い壁の中に追い立てられて怯えて暮らしてるから?」

 早梛の口調は責めるというより、諦めているようだった。

「いいえ」

 しかし、時幸は首を振った。

「彼女達は、手術しなければ助からなかったから、です」

「……え」

「人間が《ディヴィジョン》の細胞に侵された場合、まず助かりません。死ぬか、眷属化するか、二つに一つです。しかし一つだけ……女性の場合は、侵食した因子よりも上位の対立因子を少量移植することで、効果を打ち消し、生き永らえることが可能なんです。先ほど言ったように、《ディヴィジョン》には対立する構造があります。それは裏返せば、まだ《ディヴィジョン》に何の作用も受けていない人には《ディヴィジョン》の細胞は猛毒になる、ということでもあります」

「じゃあ、私が、《調律の彼女》になれないのは……《ディヴィジョン》から、攻撃を受けてないから?」

 時幸は黙って頷いた。

「《調律の彼女》とは、既に《ディヴィジョン》による影響を受け、かつ手遅れでない女性に対立因子を移植することで中和させた人々のことです。その副産物として、自分や家族を傷つけた《ディヴィジョン》とは正反対の性質を受け継ぎ、対抗できる体質に変わります。しかしそれは、被害者に戦いを強要させ、自分や自分と同じ目に遭った人々からは嫌悪される道を歩ませることでもある。手術内容や素性が伏せられているのはこのためです。いまでも、改造人間という事実だけで《調律の彼女》を快く思わない人々は数多くいますから。《調律の彼女》という呼称は総帥がつけたものです」

「総帥って……《機関》の?」

「ええ。元《REIMEI》の研究者であり、《機関》の創立者です。優秀な医師でもありましたから、《ディヴィジョン》に殺されるしかない人々をどうにか治したいと思っていたそうです。その試みはうまくいきました。ただ、女性のみ……男性はどうあっても成功しませんでした。条件を満たす女性であっても、手術の成功率は七割ほど、成功しても身体が万全とは限りません。しかも、そういった方は大抵、襲われた直後であるため、本人やご家族の承認が術後になりやすく、そのことでも問題が絶えない。個体が少ない以上《調律の彼女》が戦うのは義務。社会的印象も良いとはいえません」

 椅子の背を倒し、空を見遣る。

「ストリングス。調律の彼女。音楽のために調整された弦楽器のように。せめて、兵器や兵士といった印象を与えたくなかったのだと言っていました」

「そう……」

 早梛もまた、空を仰ぐ。頭の中で、解消された疑問と、新しく生まれた疑問を整理する。

「……《ディヴィジョン》には、ランクがあるのね」

「はい。タイプごとに異なりますが、最大で五つ。数字が若くなるほど上位です」

「RPGとかのレベルだと、数字が大きくなるほど強いイメージがあるけど」

「《ディヴィジョン》については、太源に近づくほど強大になりますから」

「太源……」

 早梛は身を起こした。

「……太源ということは、奴らの大元はクラスⅠではない、のね。《ディヴィジョン》、分かたれたもの、【眷属】……奴らにはさらに()の存在がいる」

 時幸は、無言で椅子から身を起こす。

「その上の存在と、《REIMEI》に関りがある。違う?」

「……そのとおりです」

 一つ、深い息を吐いた。

「……《ディヴィジョン》は八つのタイプの必ずどれかに属している。形質や性能にどれほど違いがあろうとも、同一因子を持つものは同型として扱われます。その分類の仕方というのが、」

 そこで電話が鳴った。端末ではない。奥の机にある固定電話だ。

「失礼」

 時幸が立ち上がり、受話器を取る。早梛もすぐ傍らに立ち、耳を寄せた。

『罰則が決まった。本日1730(ひとななさんまる)より東方領域S25~V08、外壁守衛及び撃破、ノルマ1000体、種別の指定なし』

 琴羽の淡々とした声が告げる。

「は?」

 対する時幸は、目を瞬かせた。

「待ってください。外壁守衛って《メイジャー》……常務部の仕事じゃないですか。なんで俺が」

『おまえも知ってのとおり、現在この都市を中心に精鋭の大半が海外に出向していてな、いろいろと人事が大変なんだ。九岡の苦労も汲んでやれ。訓練は一通り受けたはずだろ』

「ええ。ですが、随分前のことですし、実戦は初めてです」

『関係ない。そもそも特務部っていうのは、非常事態に穴を埋めるのが仕事なんだ。常務部が滞りなく通常どおり機能しているなら我々に仕事はない。だが、いまは常じゃない。隠密調査だの交渉事だの、おまえが思い描いているような特務部の任務っていうのは、緊急の場合を除いて、ある程度余裕のあるときに行えるものなんだよ。しかも、壁の方でも何かきな臭くなってるらしい』

「えっ」

『どうやら、海から厄介なのが迫ってるらしい。詳しいことはわからんが、そいつに人手を取られてるせいで、他の箇所の守りが薄くなってる。今回、おまえにはそれを補填してもらう。厄介なのが片付くまで付いててもらいたいところだが、おまえは正職員じゃないし、まだ学生だ。故に、1000体撃破した時点で後続の部隊に交代していいとのことだ。撃破のアシスタントと討伐数のカウントは特務部の通信班に頼んである。何も心配することはない。二時間もあれば終わる簡単な任務だ』

「そこまで言うのなら……ですが」

『なんだ、まだあるのか』

「いえ、……今日の残りは多分それで埋まってしまいますよね」

『ああ。……なんだ、そのことか。わかった、代われ』

 一旦受話器から耳を離して振り向いた時幸は、早梛が思いのほか近かったので少し驚いた。

「あの、琴羽さんからお話があるそうです」

「罰則が決まったのよね?」

「ええ」

「聞いてたけど、壁の外で《ディヴィジョン》の討伐に当たるのよね」

「はい。ですので、今日は多分戻ってこれないかと」

 苦い顔をする時幸から受話器を受け取る。

「はい、代わりました」

『私だ。きみには悪いが、ユキにはこれから千葉に行ってもらうことになった。なので、どこまで話したかは後で報告してもらうが、今日はもう帰ってもらわないといけなくてな』

「そのことなんですが、」

 と、遮る。

「その任務、私も同行してもいいでしょうか」

「はい?」

『ほう』

 傍で聞いていた時幸が素っ頓狂な声を上げた。

「一人で行くよりも二人で行ったほうが安全だし、早く済むでしょう? 私、彼から聞きたいこと、まだたくさんあるんです。それに、時幸くんが罰を受けるのは、もともとは私のせいですから、同じ罰を私も受けるべきかと。先ほど、私にも後でペナルティがあると仰っていましたし、ちょうどいいのでは」

『そうか』

「いえ、早梛さんは関係ありません。これは俺の問題です」

 受話器を手で覆い、視線だけを動かして彼を見る。

「言ったでしょ、人質にするって。なら、一緒に行動してもらわないと。それに、ここに来た時点でもう、後には引けない。だったら、私も何か行動したい。足手まといだと思ったら捨ててくれて構わない。こう見えて、腕には自信があるんだよ」

「それは、存じていますが……」

 時幸は下唇を噛んだ。

『いいんじゃないか』

「琴羽さん⁉」

『《メイジャー》の任務は《マイナー》のそれとは大きく異なるが、討伐自体はシューティングがメインでそれほど危険はない。通信班のアシストがあれば初心者でもいけるだろう』

「で、ですが、早梛さんは《機関》ではないんですよ。民間人を戦闘に巻き込むのは、」

『いや、彼女の言うとおりだ。既に秘密の一端に迫り、もはや部外者として捨ておくわけにはいかないだろう。故にユキ、おまえが守り、また監視しろ』

 どうやら会話は筒抜けだったようだ。

『討伐数は二人で2500に変更。支度ができ次第、移動を開始するように』

 電話が切れた。

 時幸は一つ息を吐くと、「無理はなさらないでくださいね」と言って、困ったように笑った。その表情は、写真の青年に、ぞくりとするほど似通っていた。

 部屋を出て、元来た廊下を進む。先ほどは気がつかなかったが、どの部屋にもホログラムスクリーンがあり、零室と同じように、所狭しとばかりに写真が飾られていた。

 デジタルを投影する思い出は色褪せない。されどその瞬きは淡く、一抹の寂しさを感じさせるものだった。

 廊下を端まで進み、扉を潜って先ほどの暗く大きな空間にまでやってきた。

 先ほどは気づかなかったが、白衣の一団が出てきた方とは反対側にはエレベーターが設置されていた。時幸が壁に設置された電子盤に何か打ち込むと、少しして一番手前の昇降機がするすると降りてきた。せいぜい二、三人しか乗れなさそうな狭い昇降機だった。

 二人が乗り込むと、静かな音とともに下降する。

「……狭いね」

 二人きりであることを意識し、早梛は視線を床に彷徨わせる。

 先ほどの部屋でも二人だったが、壁が硝子張りで開放感があり、あまり実感しなかった。こんなに狭い空間に一緒にいるというのは、そんな必要もないのに、どうしてか照れてしまう。

「大きいと何かと不便なんです。特務部のエージェントは、任務ごとに目的地が異なることが多いですから」

「いざというとき、避難できないね」

「この施設自体がシェルターでもありますからね。逃げるより立て籠もるのに向いた構造をしています。それでも、襲撃の可能性はゼロではありませんが。実際、総帥の研究室が襲撃を受けたこともありますし。……まあ、そのときは、相手が相手でしたから」

「総帥……は、研究者なんだよね」

「ええ。《REIMEI》の最高指導者だった方の遺族だったこと、自身も高い地位にあったこと、何より《REIMEI》壊滅の混乱期に、現総帥より高い地位にいた人が死亡、或いは行方不明だったことなどからリーダーに抜擢されたそうです。もっとも、いまでは誰もが認める指導者ですけれどね」

「へえ。少し意外。科学者って、自分が高い位置で指示を出すより、お偉いさんに依頼されて研究してるイメージあったから。ううん、それが悪いってわけじゃないんだけど」

「……《REIMEI》では、非人道的な研究を行っていました。また、世界各国にライバルとなる組織も多かった。まあ、それは《機関》も同じですが。それ故、情報漏洩を防ぐために、一定以上の地位にいる人間しか特別な研究棟には入れなかったそうです」

 時幸の声音は、心なしか一度ほど冷たく感じられた。

 と、ポーンという音が響き、エレベーターが停止。

 扉の外の景色を見た早梛は、思わず感嘆の声を上げた。

「地下鉄だ……!」

 そこはプラットホームだった。六畳ほどのコンクリートの島の両脇を、黒く艶めく線路が囲んでいる。

 早梛は辺りを見回した。他には誰もいない。

「駅も車体も、ルートもすべて《機関》専用です」

「へえ、贅沢」

 十九年前より、地上での移動は安全とはいえなくなった。都市を囲む壁が築かれてからも、時折空より飛来した《ディヴィジョン》が人を襲う事件は後を絶たないし、そうなれば何の前触れもなく隔離壁が起動される。つい先ほども、交差点に進入した《ディヴィジョン》のせいで多くの車が大破し、それより多くの車が渋滞に巻き込まれていた。

 電車も同様、線路を横切るように隔離壁が起動すれば当然、停車してダイヤが乱れる。必然、移動手段では隔離壁の影響を受けず、襲われる頻度も少ない地下鉄が好まれてはいる。だが、地下は地下で政府や《機関》の主要施設、国営の避難シェルターなどが大部分を占め、地下鉄として利用できる空間は限られている。故に、早梛の知る地下鉄の車両や駅はいつも混雑している。利用客はもちろん、いつ《ディヴィジョン》が侵入してきてもいいように普段から地下に引き籠っている浮浪者が後を絶たないからだ。

 故に、人っ子一人いない地下鉄というのは新鮮で、少し恐ろしく、同時にわくわくする光景だった。

「ちょうど直通のがありますね」

 掲示板を確認した時幸が独り言ちる。聞いているのかいないのか、はしゃいでいる早梛を見て穏やかに笑う。

 程なくして、闇を切る光とともに電車がやってきた。一両しかない電車の、扉が一斉に開かれると同時に乗り込む。と、先客が駆け寄ってきた。正確には、滑り寄ってきた。

「よっ」

 白衣を着崩し、茶髪を逆立てた男だった。それだけならまだわかるが……椅子に乗ったまま電車に乗るのは、《機関》では普通のことなのだろうか?

「研究部の方には、その……個性的な方が多いんです」

 頭を抑えながら、時幸が説明する。自身の常識が通用することに、早梛は少し安堵した。

「別に隠すことかそれ? 性格と性癖と味覚と人間関係に問題がある社会不適合者の吹き溜まりで、非人道的で【眷属】を解剖するのが大好きなヘンタイ集団でーすって、ばらしてもよくね」

「……こういうことを平然と仰る人々です」

 電車に乗っていたのはその男性のみだった。どうやら運転は遠隔操作らしい。

 発車する前に早梛を手近な席に座らせ、その隣に腰を下ろした時幸は、まさしく「ごみを見るような」目で男性を見た。男性は、電車が出発したことで乗っているキャスター付きの椅子があっちへいったりこっちへいったりしているのに身を任せ、「きゃー」と楽しそうな悲鳴を上げている。

「それで、何か御用ですか」

 手すりに捕まり、やっと止まった男性は息を整える。

「部長から伝言。ミッション追加、《フィフスボーダー》の生きた欠片を持ち帰ること、だそうだ」

「仰っていることの意味がわかりかねます」

 溜息を吐いた。

「数限りない《ディヴィジョン》の相手をしつつ、《フィフスボーダー》を探し出して細胞を死滅させることなく採取するとなると、任務遂行のハードルは格段に跳ね上がります。俺も早梛さんも、壁外討伐の実体験は皆無ですし」

「オレはいわれたことを伝えただけだぜー。ってか、そもそもこれ、おまえが持ち込んだ案件だからなー」

「なるほど……そういうことですか」

 もう一度、今度はより深く深く、息を吐く。

「《フィフスボーダー》って?」

 何の変哲もない灰色の壁が行き過ぎる光景に飽きたのか、早梛が尋ねる。

「フィフスは五型。先ほど言った《ディヴィジョン》の区分の一つです。ボーダーはクラスⅢの別称。他の《ディヴィジョン》の対立因子を用いなくても、人の開発した武器のみで倒せるか否かのライン、という意味です」

「たしか、最も強いのがクラスⅠだったっけ」

「ええ。階級=強さとは限りませんが、大体は。クラスⅣまでは、ある程度の火力のある武器で数打てば、対立因子を用いずとも活動を停止させることが可能です。クラスⅡより上は対立因子を用いない限りまず倒せません。その境目となるのがボーダーです。対立因子を用いるのが確実ですが、細胞が傷んでしまうので研究や武器開発に生かすのが難しくなります。そもそもクラスⅡ以上の対立因子自体が貴重ですし。しかし、火力だけでごり押しするのは厳しい。欠片でいいというのなら、切り取った後で対立因子を撃ち込めばいいのでしょうけれど」

 手頃な個体がいるといいのですが、とぼやく。

「気を落とすなって。《メイジャー》の武器庫に、うちの新作置いといたからさ!」

 男性はにっかりと笑う。

「新世代モデルのドリルだろ、ウォータージェットだろ、カノンと、あと、おすすめはなんてったってビームだぜ、ビーム。いいねえ、ロマンだ、男の子は好きだろ、ビーム。なんかさ、敵だけじゃなくハートを撃ち抜く響きがしねえか?」

「拘束具のラインナップは?」

 途端に男性は肩を落とし、椅子ごと電車の隅に滑り寄った。

「おまえ、そればっかじゃねーか、つまんねー!」

「ビームは熱で細胞を死滅させるので却下です。生きた細胞を採取するのが目的なら、拘束するのは肝要だと思うのですが」

「オレ専門外だからわかんねー」

 ぐるぐると回転しながら、再び二人に近づいていく。

「お嬢ちゃんはどうだ? 自転式モーニングスターに興味ないか? エッジは? おたくの主任みたいにパイルバンカーのがいいか?」

「いえ、私は……」

「早梛さんは刀剣型が向いているかと」

「なあんだ、そうなのか」

 振り仰ぎ、つー、と滑って再び離れていく。

「……早梛さんには狙撃に集中していただく予定ですが、到着したら一応、近接武器も確認しましょう」

 駅が近づき、電車のスピードが徐々に落ちていく。やがて完全に停車すると、風船から空気が抜けるような音とともに扉が開いた。

 男性は折り返しで戻るらしい。車内に彼を残し、駅に降り立つと、端に在ったエレベーターで上へ上がる。上へ、上へ、上へ。体感的に地上を越え、なおも上がっていく。

 鈍い音とともに扉が開く。目の前に階段があり、それを登るとハッチがあった。それも開けて上へ出る。早梛は再び歓声を上げた。上げずにはいられなかった。

 どこまでも開けた景色がそこに在った。

 戦時中に生まれ、物心つく年齢のときには既に、景色の最果てには壁が聳えていた。不可欠というよりも、それがあたりまえで、疑問すら抱かなかった。しかし、彼女の視界にいま、限界はない。すべてを外と隔てていたものは、彼女の足元にある。

 空には傾きかけた太陽。手前にもう一つの壁があり、その向こう、地には延々と続く荒野。かつて人が住んでいた名残の廃墟と、人が立ち入らなくなったからであろう、こんもりと茂った木々の群れ。それらが綯い交ぜになった風景は静謐で、溜息が出るほどに美しい。

「壁の上なんだ……」

 しばらく呆然と、見るもの感じるものすべてを受け入れていた。しかし、感動も長くは続かなかった。

 森に、廃墟に、草原に、海からも。蠢くものに気がついた。

 甲虫のように光を反射する外殻を持つもの。発光する瞳を持つもの。流動する身体を持つもの。発達した顎を持つもの。家一軒よりも大きいもの。

 大きさも形も様々な、そして無数の《ディヴィジョン》が、壁を目指して進んでいた。

「……圧巻だね、いろんな意味で」

「大半の《ディヴィジョン》の目的は人間を殺すこと。故に、都市を目指すのは必然なんです」

「それが、奴らの本能なの?」

「いいえ。奴らは」

 時幸は一旦、息を継いだ。

「そういうふうに、できているからです」

「? それって、本能とどう違うの?」

「そもそも奴らは生体ではあっても生物ではないので、本能はありません。奴らは……《ディヴィジョン》は、人間を襲うようにプログラムされているんです。奴らは端末に過ぎません。奴らは、【魔女】の一部なんです」

「おーい!」

 と、そこで、風を切って呼びかける声に遮られた。

 振り向くと、猛スピードで近づいてくるものがある。……乗り物?

 壁の上を、スクーターに似た二輪車が走っている。《メイジャー》だろう、壁上には他にも疎らに人がおり、砲台のスコープを覗き込んでは目盛りを弄ったり、或いは物資を運んだり、砲音の響く中指示を飛ばしたりしているが、その間を器用に縫って進んでくる。

 二人の手前で止まると、明るい髪色の、快活そうな女性が降りて微笑む。

「お久しぶりです。渡瀬(わたらせ)さん」

「やー、お正月以来かな」

 渡瀬と呼ばれた女性は、手櫛で髪を整えつつ、早梛に気づき、挨拶した。

「主任から話は聞いてるよ。私は渡瀬アレッサンドラ。《機関》常務部一課第三隊隊長、なんていう肩書をもらってるよ。因みに対三型の《調律の彼女》でもある」

「日本では最も多いタイプの《調律の彼女》ですね。先ほどの戦闘でご一緒した方もそうでした」

「なぜかというと、日本を襲撃する《ディヴィジョン》は三型が最も多いから。まあ三型は世界で一番多い《ディヴィジョン》の型なんだけどね。いま見えてるのも大半が三型だよ」

 と言って、渡瀬は下方を指した。

「次いで八型、五型かな。後は日本ではまずお目にかかれないね。ありがたいことだけど、七型が少ないのは痛手かな」

「《ディヴィジョン》によって生息する地域が違うんですか?」

「というより、発生場所の違いかな。三型は中国で生まれるから、日本にはもろ影響が来るんだ。九州なんて特にそうでね。合併計画について最も賛成されている地域だけど、なかなか進まないみたい。まあ、それはさておき、今回の任務について説明するね。まずこれを見て」

 渡瀬はさっと端末を取り出す。東日本一区の地図が、立体で表示される。

 南方一帯を覆うように、大きな一体の《ディヴィジョン》が纏わりついている。おそらく、早梛がこれまで見たどの《ディヴィジョン》よりも大きい。体長もそうだが、何より横幅が長く、緩やかだが不均衡な曲線を描く外壁を縁取るようにして広範囲を占拠している。

「三型‐クラスⅡ、種名“霹靂”。クラスⅡだけあって厄介だ。海からくるこいつが引っ付いてるせいで、二十四時間つきっきりで対応に追われてる。一応、交代で休ませてはいるが、消耗が激しい」

「二位なんて大物が……ぞっとする話ですね」

「ああ、おかげで夜も眠れないよ」

 不安とも多忙ともとれるそんなことを呟き、地図を回転させる。

「そのせいで、他のところの守りが手薄になっているんだ。今回きみ達には、東側の撃退に協力してほしい。小物ばかりだけど殺到してる」

「了解しました」

「頼むよぉ」

 手を振って去っていく。気丈そうだったが、別れの声には疲れが滲んでいた。

「……さて」

 時幸は身を翻し、早梛を案内する。出たときとは別のハッチを開け、中に滑り込む。

 刀剣、銃器、暗器、防具、用途も判らないあらゆる道具。それらが所狭しとばかりに陳列していた。先ほどのスクーターも数台あり、しかもすべて形が少しずつ異なっている。

 時幸は手慣れた様子で歩き回り、救助用ロープのように束ねられた綱が壁にかかっている場所の前に来た。小さく舌打ちする。

「外れですね」

「そうなの?」

 刃物を品定めしていた早梛は顔を上げる。

「ええ。いくつもある武器庫の中でも、ここの品揃えは最低です。贅沢は言いませんが、せめて有刺ネットパルスか、追尾式アンカー付アクリルウィップは欲しいところです」

 といわれても早梛にはよくわからない。拘束具マニアなのかしら、と首を傾げる。

「展開型のトラップを設置済みのポイントに誘導する方がよさそうですね。クラスⅢといえば大抵3~5メートル程度ですし、ここの装備では心もとなすぎる」

「大きさは、一定?」

「個体差もありますが、大体は。世界各地で報告されているクラスⅠの目撃情報の多くが体長10メートルを超えることからも明らかなように、殆どの《ディヴィジョン》は階級が上がるにつれて体長も大きくなります。なので、大きさを見ればどの程度の強さなのか判断がつきます。それでいて、自重による潰滅や敏捷性の低下といった物理法則の影響を受けません。常識の範囲外にある存在なんです」

 そこまで聞いて、早梛はふと、あることを思い出した。

「たしか、最も大きな《ディヴィジョン》は、50メートルを超えるんじゃなかった?」

「……ええ」

 時幸は拘束具から目線を外し、早梛の方をちらりと見た。

「一型‐クラスⅠの個体は、まさに規格外の存在と言えます」

 ごくりと息を飲む。早梛とて聞いたことはある。人類の転機にして、破滅の象徴。人類が《ディヴィジョン》に事実上敗北したという歴史を刻んだ存在。

「これまでに確認されている一型の《ディヴィジョン》は四体。そのすべてが大きさ50メートル以上。【紅鹿事変】を引き起こした個体も、その内の一つです」

「一型?」

「ええ。世界で最も稀少な《ディヴィジョン》のタイプです。というより、その四体しか存在しない」

「えっ」

「一型は強大です。大きさもそうですが、共通する性質そのものが異質かつ凶悪であり、人類には対抗する術がいまだ見つかっていません。現在建設されている壁はすべて、規格外の《ディヴィジョン》が襲ってくるときのことを想定していないんです。はっきり言って、それ以外の《ディヴィジョン》すべてをひっくるめた以上の脅威ともいえます。そして、その特性と引き換えにするかのように、ここ数年増えることなく個体数を保ち続けています。一型にはクラスⅡ以下の個体が存在しないんです」

「一型は、それ以外の《ディヴィジョン》とは根本的に違うってこと?」

「ええ。下等種を作らないのは、その必要がないからでしょう。設計の段階で機能を削ぎ落したのか……。まあ、俺にはもう、一切の関わりのないことです」

「え?」

「え、ああ。いえ、なんでもありません。一型なんてまず襲っては来ませんし、来たら諦めるしかありません。ので、いま考えることでもないでしょう」

「ん?」

 何か、引っかかりを感じる言い方だ。

「それ以外のタイプでも、クラスⅠの中には大きさと能力が比例しない個体もいるんです。三型だと、人間とそう変わらない大きさなのにとてつもなく危険な個体も確認されています」

 頭の中に浮かんでいた疑問が一瞬、消えかかる。弾かれたように顔を上げた。

「……やっぱり、あいつは強大な《ディヴィジョン》なのね」

「わかりません」

 時幸は息を吐き、また深く吸った。

「それを確かめるために、《フィフスボーダー》が必要なんです」

 そう言って、刀剣のうちひと振りを無造作に差し出した。反射的に受け取る。

 早梛がいつも帯刀し、いまは研究者に預けている刀とほぼ同じ長さだが、圧倒的に軽い。試しに振ってみる。小気味のいい音がして、刀身がきらきらと輝いた。

「研究部独自開発の新素材ブレードです。必要ないかもしれないですが、何があるか判らないので、一応持っておいてください」

 そういって時幸は、自身の武器も幾つか見繕う。手にした得物の感触を確かめながら、その背中を見つめる。

 一型について語っていたとき、違和感を覚えた。説明に矛盾があるのではない。時幸が、一型と他の個体を、明確に区分しているように話していたからだ。確かに、話を聞く限り、一型はその他の《ディヴィジョン》とは多くの点で異なっている。しかしそれとは別に、時幸が意識しているように思えてならなかった。そして、おそらく早梛がそのことを感じ取ったことに気づき、慌てて話の方向をずらした。

「早梛さん」

 そんなことを考えているうちに、いつの間にか支度を終えた少年はヘッドギアを差し出した。早梛が受け取ったことを確認し、自分も装着する。

「ねえ、時幸くん」

「すみません。いまは集中してください。任務開始まで十分もありません」

 有無を言わさぬ物言いに、黙ってヘッドギアを装着する。ゴーグルと一体になっていて、耳と顎に緩衝素材で包まれた機械が当たる。防具というより通信用のようだ。

 支度ができた二人は再び、壁上に上がる。

「そういえば」

 早梛は足元に目を遣った。

「この壁って、何でできてるの?」

「……」

 普段あまり考えたこともなかった。ただ高いだけで充分侵入を阻んでいると思うが、《ディヴィジョン》の中には壁を登ったり突き崩したりできそうな個体も当然存在する。そういった個体がなぜか壁に近寄りたがらないからこそ、壁内への侵入は最低限に抑えられているらしいのだが。

 踏みしめているものに目を凝らす。黒に近い灰色かと思ったが、近くで見ると、様々な色が混ざり合っている。深青、臙脂色、桃色、緑、黒、紫、幾つもの複雑な色が絡み合い、マーブル状に塗り固められている……。

「えっ」

 その正体に気がついた瞬間、総毛立った。

「こここ、これって」

「ええ……《ディヴィジョン》の死骸を、磨り潰して液化させて固めたものが、壁の主成分です。因みに、どこの国のどの都市でも同じです」

「な、なん、くぁwせdrftgyふじこlp」

 驚きに勝る嫌悪感が全身を駆け巡り、とっさに飛びのこうとしたが当然、逃げ場なんてあるはずもない。

「……原理としては畑の鴉除けと同じですね。目玉のおもちゃや鏡片より、(どうぞく)の死骸を吊るした方が圧倒的に近寄らない。少なくとも鴉並みの知能を持つ個体には効果があります」

「な、なああ、そ、な、なん」

「それに、複数種類の《ディヴィジョン》をブレンドすることにより、化学反応によって様々な成分が滲み出ているようですし。対立因子を直に撃ち込んだときほどではありませんが、奴らにとって有害な、ね。下位個体は壁の周囲100メートル圏内に入っただけで動作に不具合を来すそうです。結果、壁まで迫ることのできる《ディヴィジョン》は選別され、辿り着いたとしても成分の効果と《メイジャー》による迎撃に遭う。一般の方々が思っているよりずっと、侵入は阻めているんです」

 それでも一月に一度以上の頻度で、奴らは壁内に侵入してくる。ということは、それだけ都市に殺到し、守りの隙を掻い潜る《ディヴィジョン》が多いということなのだろう。《ディヴィジョン》討伐は壁際の守衛こそがメインであり、《メイジャー》という名称の一因でもあるのだろうが、改めて、彼らの現状を知った。

「《ディヴィジョン》の死骸が重要な資源である、もう一つの理由です。奴らを倒す鉾になり、或いは奴らから守る盾にもなる。レジスタンス時代には倒した死骸をそのまま積み上げてバリケード代わりにしていたそうです。簡易的に防衛できる手段として、世界中で同じことが行われました。いまでも、都市に入れない人々の暮らす地域では行われています。もっとも、適切な処置を行わなかった場合の《ディヴィジョン》の死骸がどうなるかは、先ほど説明したとおりです。壁として加工しなかった場合、有害な成分は人体にも影響を引き起こす場合もあります」

 幾分か落ち着いたものの、それでもやはり気分が好くない。見たところ骨も皮も血も臓物も一緒くたに粉砕して積み上げているようだ。気のせいかもしれないが、奥の方に眼球らしきものも見える。死体の上に立つのは我慢できる早梛も、死体を弄って加工したものの上に立つのは、たとえそれが人間のものでなくても落ち着かなかった。

「……大丈夫ですか?」

「……もう大丈夫。続けて」

「はい。……壁に近づく《ディヴィジョン》の中には、壁の成分をものともしないほど耐久性が高い個体も存在します。今回襲撃してきたクラスⅡも、おそらくは。そういった個体の防衛策として、壁には意図的にエアポケットが設けられている箇所があります。付いてきてください」

 言って、慣れた様子で歩きだす。程なくして、時幸は足を止めた。

 そこでは、地平線までの途中にあるもう一つの壁が途中で枝分かれしていた。分かたれた壁は歪曲し、内側に大きく入り組んで、こちら側の壁と合流している。少し向こうも同じ構造になっていて、狭い部屋のように区切られている。目前の壁には開閉式の大きな扉。

「一枚目の壁を越えた《ディヴィジョン》は、よほど跳躍力に優れた個体でない限り、ここに落ちます。落ちたところで各個撃破します。研究用に確保するときにも用います」

「へえ。よくできてる」

「目当ての《フィフスボーダー》が来たらここにおびき寄せます。拘束後、俺が降下して直に採取するので、早梛さんには周囲の掃除をお願いします」

「う、うん」

 言ってから、急に不安な気持ちが押し寄せてきた。勢いとはいえ自分で決めたことだし、いまさら何を言ってももう変えようがないのだが、改めて、2500体という途方もない《ディヴィジョン》を狩ることと、その中から一体を誘導し、白兵戦で仕留めるということが、どれほど難易度の高いことなのか、少ない経験をもとに脳内シミュレーションする。

『……あ、あー。テステス、マイクテスー』

 と、ヘッドギアに内蔵されたイヤホンから女性の声が流れだした。

『聞こえてたら右手をあげてー』

 言われるまま、右手を上げる。横を向くと、時幸も同じようにしていた。

『オーケイ、感度良好。くっじゅーてるみーゆあねいむ?』

 どうやら、どこからか撮影されているらしい。女性は満足げに質問を投げかける。

「現夜時幸です。まさかあなたが今回のご担当とはね。生天目(なばため)さん」

『そうだよー、嬉しいっしょ』

「ええ。百人力です」

 どうやら時幸と、声からして年若い女性は知り合いらしい。

『え、あー、かみはし? かみきょう?』

「カンバシです。神橋早梛」

『あ、そう読むのね。失礼。かわいい名前だね!』

 弾けるように答える声は、そのままのテンションで自己紹介する。

『えー、今回オペレーターを務めますのはっ、特務部通信班五室、生天目毬弥(まりや)と』

『同じく五室―、鳥海(とりうみ)いりすですー』

 別の声が流れ出す。平坦な声音だ。

『同じく五室、松本(まつもと)笙香(しょうか)。今回はチーフを務めさせていただきます』

 三人目は落ち着いた、上品な雰囲気を持っていた。

「笙香さん? まさかあなたまで来てくださるとは」

『ユキさんは《メイジャー》の任務は初めてですからね。直接口には出されませんが、主任もあなたを大切に思われていますよ』

『そうそう! しょーかちゃん、大人気なんだからね! それを主任直々にご指名してくれたんだから。特別待遇出血大サービスだぜぃ、ひゃっほう! こりゃもう、やるっきゃないっしょ! いけいけだぜ☆』

『まー、ぼちぼちいきましょー』

『うん、じゃあ説明するよ。まもなく開始時刻なんだけど、任務が始まったら方角とタイプと数をアナウンスするから、対応する砲台から弾を撃ってね! 照準とカウントはコンピューターとうちらでするから、だいたいの方向に撃てばおっけい!』

「ご説明します」

 時幸はそう言って、設置された固定砲台の一つに手を置いた。

「これが対三型の砲台。三型が向かってきたときに発射してください。横のレバーを引けば弾が出ます。反動で吹き飛ばされないように、ここに踵をしっかりつけて、そう。横にあるのが対五型、その隣が対八型です。それ以外のタイプは俺の方で対処します。落ち着いてやれば何も問題はありません」

『そうそう。うっかり間違えてもモウマンタイ♪ 殆どはクラスⅤの雑魚だし、砲弾撃っただけで吹っ飛ぶからさぁ』

 ばーん、と、面白そうに笑う声が鼓膜をくすぐる。真剣な任務だというのに、いまいち緊張感のない物言いに、早梛の心はざわめき、落ち着くことができないでいる。

『さてさて、そろそろ時間だけど。しょーかちゃんには総合アナウンスと《フィフスボーダー》について注意してもらうにして、今回の専属オペを決めよっか! うちらはどっちでもいいけど』

「鳥海さんでお願いします」

 間髪入れずに響く時幸の声。その横顔は、心なしか緊迫していた。

『おっけー、よろしくね、さなちゃん☆』

 ぶつり、という音がして、一旦通信が途絶えた。そして再び『てすてすー』という声が聞こえ始める。

「……鳥海さんは戦闘になると人が変わるので、初心者の方が組むのはおすすめできません。生天目さんはふざけているように思えるかもしれませんが、任務にはまじめな人です。笙香さんは、俺の……師匠、の、相棒だったオペレーターの後輩で、ベテランです。信頼のおける方です」

 時幸の頬を、汗が一筋流れ落ちる。

「……その、あまり、無理はしないでください」

 ふと、時幸が消え入りそうな、それでいてはっきり聞こえる声で告げた。

「本来なら、あなたが俺のペナルティに付き合う必要なんて、どこにもないんですから」

 早梛は目を瞬かせ……思わず、噴き出した。壁上に立って以来、初めて肩の力を抜くことができた。

 自分の方こそいっぱいいっぱいなのに、必死に弱さを隠し、守ろうとしている。それが滑稽で、いじらしくて、なんだかかわいかった。

「いまさら何言ってるの」

 ゴーグルを引き下げ、前方を見据える。

『あーゆぅれいでぃ?』

「――いつでも!」

『『『スタート』』』

 遠く荒野から、或いはさらにその向こうから。壁を目指して、人類を目指して迫りくる……大群。

『二時の方向、三型、およそ200』

 対三型の砲台をそちらに向け、レバーを引く。虹のようにも見える軌跡が噴き出し、視界の端でぱっと弾けた。ゴーグルに映し出される無数の信号が明滅し、右端の数字が急激に上昇する。

『迎撃確認! 179体ロスト。やったあ!』

 時幸が請け負ったとおり、任務開始直後、生天目はそれまでのはしゃいだ口調は崩すことなく、されどきっちりと、正確なアナウンスを繰り返している。

『撃破数、両名合わせ900体突破。残り約1600体』

『十二時の方向、130! ……とりあえず五、撃って!』

 本当に、次から次へと迫ってくる。少し目を離しただけで、あっという間に壁までの距離を詰められる。

 隣を見ると、早梛以上に消耗した時幸の姿があった。円く穏やかな眼も、いまはきつく細められている。撃っている間まじまじと窺う余裕はなかったが、それでも飛び交う弾の数、所作の頻度、生天目のアナウンスと笙香の告げた合計数の差から、早梛の倍近く砲撃している様子ではあった。

 それでも、目が合うと何事もなかったかのように微笑んだ。微笑み返す気にはなれなかった。余裕がなかったせいでもあるが、明らかに負担の多い時幸に気を遣わせているのが嫌だった。彼ではなく、自分が。

 素人である早梛が後れを取ることはわかっていた。足手まといになるようなら捨て置けといったのは自分だ。だったら、面と向かって役立たずと言ってくれればいいのに。その方が何倍もいい。そこまで考えて、ふぅ、と息を吐く。自分は何を思い上がっていたんだろう。こうして肩を並べたとしても、時幸にとって早梛は「監視対象が助っ人に入った」程度に過ぎないのだ。彼とは、立っている場所が違い過ぎる。

『こないねー』

『ええ。なかなか《フィフスボーダー》はやってきませんね』

 通信機に、生天目と笙香の会話が流れ込む。

『サードも来てないよね、今日。そんな稀でもないのにさー。このままじゃ任務終わっちゃうよぉ』

『来ない日もあるでしょう。研究部部長も、そううまくいくとは思っていないはずですよ』

『うち、あの人嫌いだなー。ユキっぺの扱いが露骨なとことか。今回のアレも、たまたま必要な素材があって、ユキっぺを怪我させるいい口実にもなるから両得しようとしたとしか思えんのよね。よりよいデータをとれればいいや、みたいな?』

『そこまでひどくはないと思いますが。あれでもユキさんの主治医ですし』

『そこが逆に不穏よねー。まあ、他に胡散臭い人なんていっぱいいるけど。……あ、いまのオフレコね』

『あっ、十一時の方向、三型、200! 装甲の厚い個体がいます。警戒してください』

 指定された方角に砲弾を撃ち込む。地面に着弾したそれは大げさな音を立てて炸裂し、周囲を抉って土煙を巻き起こす。その向こうから……甲虫の鎧にも似た背中の《ディヴィジョン》がのそりと出現する。

『もう一発!』

『三時の方向、ユキさん!』

 間髪入れずに新手が攻め立てる。

『十二時、八型300、一時、三型100、十時600!』『十時、いえ、一時の方が速い! 撃ってください!』『三時から高速接近する八型、300以上!』『一時ロスト、いえ、そのまま十時に。ユキさん、三時に!』『十時、残党が来る、もう一回!』『……いました、二時、3キロ、予測五分で到達!』『武器用意して!』

「了解、五分後に開門して、ください!」

 砲弾と通信の合間を千切れるようにして響く時幸の声にもさすがに余裕がない。早梛にはとっくにない。十時を片付けたと確認する間も惜しく対八型の砲弾に飛びつく。しかし撃つ方向をど忘れしてしまい、とりあえず数の多い方向に向ける。

『そっちはいいから二時に、二時に三撃って!』

 慌てて隣の砲台に戻る。今度は方向感覚が失われるが、目視で確認してすぐ判った。

 遥か、というほど遠くもない場所に、幾多の敵が蠢いている。さらにその少し奥に、周囲より二回りほど大きい影が揺らめいていた。……あれが《フィフスボーダー》。

 抜き身の刀を持ったまま、渾身の力でレバーを引く。砲弾がその巨体の手前に着弾し、派手に炸裂する。周囲にいた群れが少しだけ削られるが、そんなことお構いなしとばかりに悠々と、しかしものすごい速度で迫り来ている。

 砲弾を潜り抜けて迫る敵、敵、敵。脚が千切れ飛び、翅が捥げ、頭が吹き飛んでもなお向かってくる。

『《ボーダー》到達、開門します!』

 地を震わす駆動音。外側に面した巨大な扉が横開きに開いていく。僅かにできた隙間から《ディヴィジョン》が殺到する。エアポケットはあっという間に《ディヴィジョン》に埋め尽くされる。他の《ディヴィジョン》の上によじ登ってなおも入ろうとしてくる。それらを踏みつけるようにして、遂に《フィフスボーダー》が入場した。

 近くで見ると、思ったよりも大きくはない。せいぜい5メートル、早梛達のいる場所からかなり下に頭頂部が見える。蕾のようにきゅ、と絞られた形の、幾何学的な三角形が寄り集まったような頭部と胴体に、イヌ科の動物のような短い毛に覆われた足が三対ほど付いている。全体的に白く、身体のあちこちがところどころマゼンタっぽい色をしている。自然物の柔らかさと人工物の整然性。それらが半々集まり、ぎりぎりの均衡を保っている。なまじ調和しているように見えるからこそ、却ってグロテスク。

「もう外はいいから、砲台を全部下に!」

 すぐ近くで声がした。《メイジャー》だろう。

『閉門します、援護を』

 《フィフスボーダー》を招き入れた扉が再び重厚な音を立てて駆動する。なおも入り込もうと、密集した他の《ディヴィジョン》が必死に抵抗し、扉に張り付いては押し戻そうとする。

 斜め下に狙いを定めた砲台から弾が発射される。避けることなく多くの《ディヴィジョン》が吹っ飛んでいく。近くに着弾したせいか、風圧と砂煙が早梛の顔を叩き、堪えきれずに眼を瞑る。撃ったのはほぼ真下。

 衝撃は背後からやってきた。

 足元の感覚が消失した。

『右ィ! 三型! 撃て撃て撃て撃て撃ちまくれええええええええええええ!』

 よもや、《メイジャー》としての最初の任務がこのようになるとは想像していなかった。

『左前! よっく狙えよこの××××がっ。はは、いいぞいいぞ、クズ虫どもが面白いようにくたばりやがる!』

 努めて淡白に、冷静さを欠かさないように、指示された方角に砲弾を叩き込む。

 辺り構わず聞こえる砲弾と、それに負けないようにがなり立てる怒声。それに勝る、耳元で喚き散らす女の罵声。集中力を保つのさえぎりぎりに思われた。

 師匠の方針で、わけあって幼い頃は海外暮らしだった時幸にまっとうな日本語を覚えさせようということになった際、言葉遣いだけでなく話す内容や立ち振る舞いまで上品になるよう教え込まれた。作法はもちろん、楽器の扱いや乗馬など、将来はエージェントとしても役に立つ上流階級のたしなみも一通りこなさせられた。その甲斐あってか、彼の幼少期の悪癖は取り除かれ、様々なものを引き換えにして、時幸は丁寧語で話す大人しい少年に育った。

 だからか、()()のように感情を丸出しにして罵りとスラングを連発するような輩とは、はっきり言って相性が悪い。今回のように通信班との連携が不可欠なミッションにおいて、宛がわれたオペレーターと噛み合わないというのは致命的欠陥だった。

『真正面から来てるぜえええええええ! 聞こえてんのか? 撃てやゴルァ!』

 誤解されがちだが、鳥海は無能ではない。追跡や調査のミッションでは、いつもどおりの熱の籠らない、されど安定した心理状態でナビゲートしてくれる。今回はたまたま討伐系のミッションで、うまく嵌らなかっただけだ。今回の唐突なミッション、それも慣れない《メイジャー》の任務に、ただでさえ多忙な特務部の通信士、顔見知りの三人を手配してもらえた、むしろありがたいことだ。しかも笙香までいる。

『十二時の方向、ロスト。お見事です』

 松本笙香。特務、常務合わせた通信士の中でも最古参の一人。彼女の確かな技能と判断力によって多くのエージェントが首の皮一枚繋がって生還してきた。その敏腕ゆえ、琴羽も彼女に全幅の信頼を寄せており、危険なミッションを行う際にも何度か彼女を指名している。一期の極秘任務さえ、幾度か担当したことがある。それほどまでに信頼されていた。一期にも……彼専属の通信士だった男にも。

 時幸自身、幼少期から公私共に付き合いがあるため、彼女のことは全幅的に信頼している。

『……いました、二時、3キロ、予測五分で到達!』

『おいでなすったか××め! やや左に対三だ!』

 空門に弾をそれぞれ込め、対三型の砲台の向きを調節し、

「了解、五分後に開門して、ください!」

 言うと同時に、渾身の力で三つのレバーを引いた。対象を異にする三種の弾がそれぞれの方向に撃ち出され、弾ける。砲撃の合間にてきぱきと準備を進める。肉解体用の刃物の鞘を外し、降下用の先端に金具の付いた強化ワイヤーの輪に腕を通す。特殊弾を込めた拳銃をホルスターに収める。

『《ボーダー》到達、開門します!』

 遂に奴が、壁まで辿り着いた。重々しい音を立てて扉が開くのも待ちきれず、様々な形のクラスⅤが雪崩れ込む。扉の間隙が、クラスⅢが通れるほどの大きさになるまでに、誘導用の空間は雑多な《ディヴィジョン》に埋め尽くされる。まるで冬ごもり前に集く虫の群れを見ているような気分だ。様々な色の、形の、性質の《ディヴィジョン》が寄り集まって、折り重なって、踏み潰し合って、擦れる音や鳴き声が地獄のように響いている。

 白いオオカミのような《ディヴィジョン》が、わざとらしくゆっくり足を踏み入れながらエアポケットに侵入する。

『閉門します、援護を』

 笙香が告げると同時に扉が音を立てて閉まり始める。扉付近で閊えていた《ディヴィジョン》目がけて砲弾を撃ち込む。《ディヴィジョン》はどんどん削れていく。

 降下の前に《ボーダー》周囲の雑魚も一掃しなくてはならない。砲台の射角を大きく傾ける。

 と、視界の端を、青が掠めた。

「え……」

 ひらりと揺れる布地とポニーテール。茫然とした顔。彼女が視界から減っていく。視野の外に向かっていく。

「……――早梛さんっ⁉」

 ぎちりぎちりと音がして、挟まったままの《ディヴィジョン》を磨り潰しながら、扉が閉まった。

 すぐさま時幸は壁の端まで駆け寄った。

 早梛が落ちた? ――落ちた!

 見下ろす景色の中、早梛はどんどん遠ざかっていく。何が起こったのか、本人さえわからないという顔で。

 しかし、落下の途中で我に返ると、すぐさま身体を捻って態勢を整えた。持ったままの武器を突き出し、《ディヴィジョン》の群れに突っ込んでいく。

 時幸の見ている前で、早梛は……偶然にも、ブレードの先が《フィフスボーダー》の後部に突き刺さり、停止した。振り落とされそうになりながらも、離すまい、と懸命にしがみついている。

 とっさに後を追いかけようとした時幸を、

『ユキさん、十秒後にバインドします!』

 笙香の声が引き留める。

 そうだ。後先考えず突っ込んでも意味がない。幸い、他の《ディヴィジョン》よりも大きい《フィフスボーダー》の上に落ちたおかげで、周囲の雑魚は早梛に手出しできない状態だ。

 と、そのとき、エアポケット内部の壁から無数の楔が射出された。楔にはそれぞれ強化ワイヤーが接続されており、エアポケット内部を縦横無尽に飛び交い、反対側の壁や《ディヴィジョン》の肌に突き刺さり、巨大な蜘蛛の巣のように絡げとった。これで、図体の大きい《フィフスボーダー》はもちろん、周囲の雑魚の動きも大幅に制限させられた。

 降下装置のアンカーを《フィフスボーダー》に狙いを定めて打ち込む。早梛から2メートルほど離れた場所に無事突き刺さるのを確認し、時幸は壁を蹴って飛んだ。

 アンカーに繋がった強化ワイヤーを伝って《フィフスボーダー》の背に着地する。

「ご無事ですか」

「時幸くん」

 早梛は少年の顔を見ると、安堵したのか、僅かばかり口元を緩めた。

 駆け寄って「失礼」と腰を抱くようにする。早梛を回収して仕切り直し。そう思っていた。

「あ……」

 早梛が恐怖の声を上げた。つられてそちらを見ると……穴ぼこの奥の窄んだ眼が、二人を覗いていた。

 《フィフスボーダー》は首を回して、自身の背に人が乗っているのに気づくと……おそらく、多くの生き物が、自分が嫌悪するものが身体に付着した際に行うであろうことを行った。

 すなわち、振り落とそうと身体を前後左右と言わず揺すりまくった。

 当然、それに乗っている二人に伝わる振動は生半なものではない。

 行動が大幅に制限されているとはいえ、肉体を直に縫い付けているわけではない。当初の作戦であれば肉に楔を打ち込み、完全に動きを止められていたのだが、こうも隙間があっては動きようもあるというものだ。しかも、予期せぬ事態が重なった。

 振り落とそうとする《フィフスボーダー》の、背に巡らされた白い三角形の皮膚が……ぱたん、と裏返った。

 まるでオセロの駒のように。或いは折り紙のメッセージカードのように。

 裏返った皮膚はマゼンタ色の、傷一つない新しい皮膚に置き換わった。こいつの体色に斑があった理由を時幸は察する。こうして、受けた傷を無かったことにしている《ディヴィジョン》なのだ。

 では、いまこいつにとっての傷とは? ……決まっている。

 一度裏返った皮膚と隣接した三角形が連鎖的に裏返り、瞬く間に、ブレードとアンカーが突き刺さった部位が反転する。その拍子に刃物の先端がすっぽ抜け、結果……時幸と早梛は、二人揃って中空に投げ出された。

「‼」

 とっさに、早梛の頭を抱きかかえる。ワイヤーに繋いだままの腕が悲鳴を上げる。壁が迫る。

「……くぁ!」

 背中から打ちつけられ、時幸の身体は静止する。後頭部へのダメージが思っていたよりも少ない。柔らかな感触が衝撃を吸収していた。驚いて、腕の中の少女を見る。

 早梛はとっさに腕を伸ばし、時幸の頭を包んでいたのだ。少年の頭を打つはずだった衝撃を手の甲に受け、顔を歪ませている。

「あなた……」

 そのまま、自重に従ってゆっくりと落下する。《ディヴィジョン》の群れが近づいてくる。奴らに比べれば小さいためか、いまのところ接近に気づかれてはいないようだが、時間の問題だろう。

『さすがに二人いっぺんに引き上げるのは無理です。ゲートを開けるので、突破……できそうですか?』

 壁の内側にある連絡用ゲートのことだ。高さ1.7メートルほどで、人間は通れるが、大半の《ディヴィジョン》は通れないようになっている。

「……やってみます」

 地面に足がついた。

「早梛さん」

 腕を解き、その代わり、手首を掴んで強引に引き寄せる。

「絶対に俺から離れないでください」

『ユキさん、まずい状況です。何体かワイヤーを伝って上ってきています』

 はっとして顔を上げる。幾つかのクラスⅤが、拘束用のワイヤーの隙間を掻い潜り、逆に足場にして上部に迫っている。

『掃射指示を出します。ゲートまで』

「いえ、間に合いません。十秒後にやってください」

『それはっ』

「俺達は平気です。上にいる人達を守ってください」

 言うなり、時幸はノーモーションで、繋がったままの降下用ワイヤーの先端のアンカーをぶん投げた。まっすぐ飛んだ錨は鈍い音を立てて、再び《フィフスボーダー》の巨体に突き刺さる。既にマゼンタに変わっている皮膚だったためか、アンカーは抜けずに固定された。

 それを確認するや否や、時幸は駆けだしていた。

 動きだしたことで周囲にいる《ディヴィジョン》が気づき、一斉に迫りくる。上から撃っているときとは大違いの迫力だ。一目散に噛みつこうとしてきた個体を、早梛が持ったままのブレードで弾き飛ばした。あの衝撃の中よく手放さなかったものだ。走りながらの不安定な体勢で、恐怖に目を瞑らずに的確に狙っている。

 感心しつつも、脇目もふらず駆け抜けることに集中する。ワイヤーに導かれるように、《フィフスボーダー》に接近する。

 そのまま、滑り込んだ、その巨体の下に。

 直後、頭上から乱雑な音、音、音が降り注ぐ。掃射が始まったのだ。エアポケット内の《ディヴィジョン》達に様々な種類の砲弾が撒き散らされる。落下する音、叩き落される音、潰れる音、抉られる音、不細工な悲鳴……殺戮のオーケストラが周囲を満たす。

 巨大な《フィフスボーダー》の身体が傘になり、二人は砲撃を免れていた。同時に、当初の目的を果たす絶好の機会に恵まれていた。

 時幸は腰に差したままの肉解体用・微細動ダガーを取り外し、頭上の皮膚に突き刺した。電源を入れると、ダガーは小刻みに震えだし、肉を斬り裂いていく。噴き出す血がかからないように顔を背ける。

 背中をぞくぞくとした感覚が行き過ぎる。わかっている。

 二人と同じように、《フィフスボーダー》の巨体を盾にしようと複数体の《ディヴィジョン》が潜り込んできていた。奴らは先客の姿を認めると、怒ったような唸り声を上げた。

 奴らはなんとかしなくてはならない。しかし、時幸の武器も早梛の武器も、複種類の《ディヴィジョン》に対抗できるスペックは持っていない。しかも時幸は作業中だ。中断しようにも肉に食い込んで抜けそうにない。

 とっさに幾つかの選択肢が脳内に浮かび、瞬く間に減っていく。あまり希望の持てそうな案はない。……だが、しかし。

 少女は狼狽えなかった。ブレードをまっすぐ構える。息が上がっているが、弱さを曝け出すことなく、むしろ威嚇するように鋭く息を吐く。先ほど打ちつけた甲が痛むのか、顔を顰めつつも、己が敵から視線を逸らさない。早梛にも理解できているはずだ。純粋な剣技だけではこの数は突破できない。だと、いうのに。

 無謀と思いつつも、身動きできない少年を庇うように、勝ち目のない勝負に挑もうとしている。

 そんな少女は、凛々しく、そして。

(早梛さん……)

 ……ほかに手はない。迷っている暇はない。

 時幸は早梛のブレードの刃を持った。そのままひったくった。

「えっ」

 一瞬遅れて早梛が気づき、驚愕の表情で振り返る。

 彼女が見たのは、自身の腕に鋭利な刃を奔らせる時幸の姿と、噴き出した赤色の線だった。

「はいっ」

 ブレードを差し出す。その刀身は当然、少年の血で濡れている。

「これを使ってください。倒さなくていいので、斬りつけるだけで大丈夫です」

「え、ええっ」

 鋭利な刃物で躊躇いなく切ったためか、傷口はきれいだ。出血量から見るに、それほど深い傷でもない。が、この状況下での唐突な自傷行為に意味があるとは思えない。

「いいから、振ってください!」

 痛みに顔を顰め、焦りを見せつつもダガーを手放さない。

 と、目の前の小さな人間が危害を加えないと思ったのか、周囲の虐殺に気が立ったのか、一体の《ディヴィジョン》が一目散に向かってくる。それに呼応するように、周囲の個体も堰を切ったように襲い来る。

 早梛は腹を決めた。的確に、真っ先に迫り来た個体に刃を振り落とす。

 ブレードの先が触れた瞬間、その箇所から《ディヴィジョン》は崩壊を始めた。

「え……」

 瞬く間に崩れ、液状になった個体。驚く間もなく左右からも迫られ、考えるより先に身体が動いていた。機械的に得物を回し、切っ先を右の個体へ。返す刀で袈裟切りに左を。両者とも、顔の真ん中を少し削られただけで地に倒れ伏す。

「え、えっ」

 困惑しながらも刃を振るう。襲い来る、いままで白兵戦で相手にしたことがない数の敵をもう怖いとは思わなかった。むしろ手に持つ、呪いの刀のように必死をばら撒く武器が恐ろしかった。

 早梛が周辺の《ディヴィジョン》を片付けるのと同時に、時幸も作業を完了させることができた。切り取った肉片をケースに入れ、懐にしまう。

『ユキさん、ユキさん!』

「二人とも、無事、です」

 深呼吸も兼ねて吐き出す。

『よかった。……まもなく掃射が止みます。移動の準備を』

「了解」

 《フィフスボーダー》の細胞は採取した。討伐数はとうに達しているだろう。

 早梛を振り返る。落ち着かなげにブレードと周囲を見比べている。

「もうここに留まる必要はありません。こちらに」

 呼びかけてやっと、我に返ったようだ。ぱっと顔を上げる。一瞬、目が潤み、口元が戦慄いた。

 すぐに理解した。腕から流れる血と、どのタイプの《ディヴィジョン》にも通用した攻撃の関連性を、早梛が疑問に思わないはずがない。その異様さに嫌厭するに決まっている。

 顔を背けかけた時幸に……早梛はむしろ、駆け寄った。

「⁉」

 さらに近づき、両頬をそっと手で包む。

「‼」

「……生きてる」

 少年の顔と、自分の胸元辺りを交互に見る。そして安堵の溜息を吐くと、すっと手を離した。

「あ、うぇ……」

 触れられた頬に触れる。少し名残惜しく思う自分がいた。

 触れた本人は何もなかったかのように息を整え、次の動作に移る準備を進めている。

 その所作は何気ないものであったが故に、時幸を動揺させていた。

『掃射止め。目標、残り一体』

 はっと我に返った。まだ任務は継続しているのだ。

 つまり《フィフスボーダー》を除く《ディヴィジョン》は全滅したらしい。時幸達がここから出れば、すぐに始末できるだろう。

『B‐Ⅴ‐2nd、配置完了』

『オラとっとと退けよ』

「……いわれなくてもそうします」

 《フィフスボーダー》が地に響くような咆哮を上げるのと、二人が巨体の陰から飛び出すのはほぼ同時だった。

 腹を裂かれ、銃弾の霰を浴びた《フィフスボーダー》は相当お冠のようで、ワイヤーの間で苛立たしげに身を捩っている。

『エラー! ゲート、開きません!』

「!」

 内壁の前には、《ディヴィジョン》の死体が積み上がっている。どこに出口があるのか判別がつかない。濃厚な血と生肉の臭いに顔を顰めつつも、どうにか内壁に近づき、死体の山に登って《フィフスボーダー》との距離を開けようとする。

 壁上から砲弾が投射された。対上位種用の強化弾だ。まっすぐ《フィフスボーダー》に向かっている。

 着弾。と同時に、《フィフスボーダー》が()()()()

「なっ……」

 背と顔のマゼンタだった箇所がぱたぱたと、再び裏返って白い皮膚に置き換わっていく。ところどころ傷ついている箇所はあれども、掃射を受けたマゼンタよりは明らかに健康な状態だ。そして、最悪なことに、その衝撃によって皮膚に触れていたものを悉く弾き飛ばしてしまった。

 行動を押さえつけていたワイヤーと、

 致命傷を与えるはずだった砲弾を。

 自由を手にした《フィフスボーダー》は頭上の人間を洞のように暗い目で見上げ、一際大きな唸り声を上げた。振動で死体の山が崩れ、二人は大きくバランスを崩す。しかも、弾き飛ばされた砲弾が、運悪くその傍に落下した。

「っ、まずい!」

 とっさに早梛を突き飛ばした。死体の山が大きく弾け、幾つもの骸とともに少年は宙を舞う。

 早梛は地面に打ちつけられた。先ほど痛めた手の甲をもう一度当ててしまい、顔を顰める。

「痛ったあ……」

『ユキさん!』

『ユキッペ!』

『ユキィ!』

 ずれたヘッドギアから漏れる悲鳴にはっと身を起こす。

 時幸は数メートル離れた場所に叩きつけられた。そこから僅か1、2メートルのところを、《フィフスボーダー》が苛立たしげにうろついている。血に飢えたオオカミめいた顔がぐるりと回り……力ない少年を見つけた。

「時幸くん!」

 早梛はすぐさま立ち上がったが、間に合わない。

 怒り狂った怪物は憎き人間目がけて一目散に迫る。

「逃げて!」

 早梛の叫びも空しく、皮膚と同じ三角の牙が、無防備な肩に容赦なく噛みついた。


「……うあああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 悲痛な叫びが壁上にまで響き渡る。

 柔な皮膚が食いちぎられ、鮮血が溢れ出す。

 一瞬、周囲の時間が停止するような錯覚。

 早梛には、地面がとても重く感じられた。刹那の後にその感触は消え去り、彼女は駆けていた。通信機の向こう側と、壁上の人々が、口々に何かを叫んでいる。

 なのに、止まったままだった。

 腹いせに噛みついた《フィフスボーダー》の、動きが。

 少年の肩を挟んだまま、牙も、顎も、顔も停止している。脚も胴も皮膚も、ぴくりとも動かない。

 不意に、背を覆っていた三角の皮膚が一枚剥がれ、地に落ちた。それを皮切りに、他の皮膚が次々零れ落ちていく。

 ぱきぱきと音を立てて、牙に亀裂が入る。それは瞬く間に顎、顔、首にまで広がり、そして……。


 早梛の見ている前で、無数の欠片になって砕け散った。


 硝子が割れるように四散し、周囲の血と肉を反射して映し出し、さらに細かく壊れて地面に着くまでに粒子状になって空に溶けていく。5メートルはあった身体が、一瞬で。あっけなく。

 早梛はその光景を茫然と見ていた。見ていることしかできなかった。

 優勢だった《フィフスボーダー》が、何の脈絡もなく敗北した。こちらの攻撃は無効にされるか間に合わないかで、むしろ攻めていたのはあちらだった。こちらは何にもしていない。何が起きたのか、理解できない。

「ううっ」

 呻き声で我に返る。

「――時幸くん!」

 深々と抉られた傷口から、血がどくどくと流れ出ている。駆け寄ろうとするが、《ディヴィジョン》の残骸が邪魔で思うように進めない。

 しゅるしゅるとワイヤーが下ろされ、救護服を着た集団が二人の周りに降り立った。

「時幸くん! 時幸くん!」

 一人が手を伸ばす早梛を強引に担ぎ上げ、ワイヤーに括りつける。巻き上げられ、上昇していく景色の中で徐々に少年の姿は遠ざかっていく。



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